プロローグ
甘い匂いは、いつだって記憶を連れてくる。
バターが溶ける音。
オーブンの中で膨らむ生地。
粉砂糖が、雪みたいにふわりと舞う瞬間。
一ヶ原小春は、そのすべてが好きだった。
人前で話すのは苦手。
教室では目立たない。
自分の意見を強く言えない。
でも――
キッチンに立つときだけは、怖くなかった。
◇
「どうして、そんなにお菓子が好きなの?」
昔、そう聞かれたことがある。
小春はすぐに答えられなかった。
でも本当は、ちゃんと理由がある。
まだ小学生だった頃。
大切な人が、深く落ち込んでいた日。
何もできなかった小春は、震える手でクッキーを焼いた。
形は不格好で、少し焦げてしまったけれど。
それを食べたその人は、少しだけ笑った。
「甘いね」
たった、それだけ。
でもその瞬間、小春は思った。
――甘さは、心を溶かせる。
それからだ。
お菓子作りが“好き”から“夢”に変わったのは。
◇
春。
桜が風に舞う朝。
小春は大きな校門の前に立っていた。
日本最高峰の製菓専門校――
《スイーツアカデミー》。
ここには全国から才能が集まる。
天才も、努力家も、プライドの塊みたいな人も。
そして、その頂点に立った者だけが挑める舞台。
世界大会――
World Pâtisserie Grand Prix。
テレビで見たことがある。
煌びやかなステージ。
緊張に満ちた空気。
完成したスイーツに、世界中の拍手が送られる瞬間。
小春は、その映像を何度も繰り返し見た。
(いつか、あそこに立ちたい)
それは無謀だと言われた。
「小春には無理だよ」
「そんなに目立つタイプじゃないし」
「もっと普通の進路のほうがいいんじゃない?」
わかってる。
自分が目立つ存在じゃないことくらい。
でも。
夢に、性格は関係ない。
◇
転校初日。
校舎に一歩足を踏み入れた瞬間、甘い香りが身体を包んだ。
バニラ。
チョコレート。
焼き立てのパイ生地。
胸が、ぎゅっとなる。
怖い。
でも、それ以上に――わくわくする。
(ここで、わたしは変わる)
静かで、目立たないままでもいい。
でも、心だけは誰より熱くありたい。
◇
同じ頃。
実習室の奥で、一人の青年が窓の外を見ていた。
ルイ。
無駄のない動き。
感情をほとんど見せない目。
「今年はどうだろうな」
ぽつりと呟く。
彼もまた、世界大会を見据えている一人だった。
甘い世界は、甘くない。
努力だけでは届かない場所。
才能だけでも足りない舞台。
そこへ向かおうとする者たちが、この学園に集う。
◇
そして、白衣を羽織る若き講師――龍星。
彼は静かに名簿を見つめる。
「一ヶ原……小春」
小さな転校生の名前。
「本物なら、伸ばしてやる」
その瞳には、厳しさと期待が宿っていた。
◇
出会いは、まだ始まっていない。
衝突も、涙も、恋も。
だけど確かに、運命は動き出している。
小さな苺のムースの中に、
大きな夢を閉じ込める少女。
クールな視線の奥に、
誰より熱い想いを隠す少年。
厳しく導く大人。
そして、世界。
甘さは、弱さじゃない。
優しさは、強さになる。
これは――
スイーツで世界を目指す少女の物語。
そして、夢と恋が溶けあう、青春のレシピ。
春風が、静かに吹いた。
物語は、ここから始まる。




