「日常」
銀色の錠剤から、目が離せなかった。
缶の中で、あまりにも静かにそこにある。
動かない。光らない。匂いもしない。
それなのに、視線を逸らした瞬間に何かが決定してしまいそうで、瞬きすら惜しかった。
(……これを飲めば)
錠剤に手を伸ばしたその時――
「伏せて!!」
耳元で、空気を切り裂くような声が炸裂した。
次の瞬間、頭を鷲掴みにされ、視界が強引に下へ引き倒される。
意味を理解する暇もなかった。
ガシャァァン――!!
爆ぜるような音。
視界の端で、窓ガラスが内側へと崩れ落ちた。
破片が雨のように降り注ぎ、頬をかすめる。
反射的に喉から声が漏れた。
「うわぁっ……!」
床に転がり、体を丸める。
頭を守るように腕を重ね、必死に息を殺した。
次に来たのは、音。
ダダダダダ――!
耳を貫く連続音。
一発一発が、空気を殴りつけてくる。
(……撃ってる)
考えるより早く、本能が理解した。
これは、銃声だ。
しかも単発じゃない。
マシンガン――。
床を震わせる衝撃が、内臓にまで響く。
歯が勝手に鳴り、顎が震える。
外から流れ込んでくるのは、はっきりとした殺意だった。
曖昧さのない、向けられた感情。
狙いは、俺じゃない。
(……彼女だ)
彼女の影が動いた。
迷いなく、外へ飛び出していく。
俺は、動けなかった。
脚に力が入らない。
指先が冷え、床に張り付いたみたいに体が言うことをきかない。
聞きなれない銃声が叫び声を震える手で遮りただ、縮こまることしかできなかった。
どれくらいの時間が経ったのか分からない。
発砲音が、唐突に途切れた。
恐る恐る顔を上げ、店の外へ足を一歩踏み出す。
路上には、男たちが倒れていた。
血の匂い。
肉を裂いたような、鉄臭い空気。
身体は、鋭利な刃物で切り刻まれたように歪んでいる。
さっきまで生きていたはずの人間が、ただの“物”みたいに転がっていた。
吐き気を押し殺すように手で口を覆った。
少し先に、彼女の背中が見えた。
「……これが」
声をかけると、彼女は振り返りもせずに言った。
「この世界の日常」
その一言で、背中を冷たいものが這い上がる。
(……冗談だろ)
そう思った瞬間だった。
音も、気配もなかった。
最初からそこにいたみたいに、背後に“人”が現れた。
腕が、突然首に回される。
息が詰まり、視界が揺れた。
こめかみに、冷たい金属が押し当てられる。
――銃。
「動くな!!」
男の声は、明らかに震えていた。
「お前を……殺す! じゃなきゃ、こいつを殺す!」
腕も、呼吸も、すべてが不安定だった。
振り向けない。
それでも、雰囲気だけで分かる。
この男は、殺し慣れていない。
スーツはくたびれ、髪は乱れ、目は真っ赤だ。
どこにでもいそうな、普通のサラリーマン。
必死に、彼女を睨みつけている。
彼女は、無表情のまま近づいてきた。
一歩。
また一歩。
「撃てば」
淡々とした声。心臓が、喉まで跳ね上がる。
男の目に、涙が溜まった。銃口が、彼女へ向く。
それでも、彼女は止まらない。
むしろ、額に銃口が触れる距離まで近づき、ポケットに手を突っ込む。
その瞬間。
考える前に、体が動いた。
男の手首を掴み、全力で前に押す。
体勢が崩れ、二人とも地面に倒れ込んだ。
拳銃が弾かれ、アスファルトの上を転がっていく。
男は、地面に崩れ落ちたまま泣いていた。
肩をすぼめ、子供みたいに嗚咽を漏らしている。
さっきまで俺を羽交い絞めにしていた腕とは、同じものとは思えなかった。
「……できない。」
掠れた声。
「こんなこと……できるわけない……」
顔を伏せたまま、何度も首を振る。
「金が必要だっただけなんだ……子供が……病気で……」
言葉が途切れ、喉が鳴る。
「……人を殺すなんて……できない……」
俺は、何も言えなかった。
胸の奥が、じわじわと重くなる。
銃を突きつけられていた恐怖よりも、今のほうがきつい。
(……普通の人だ)
少なくとも、俺と変わらない。
追い詰められて、選択を間違えただけの人間だ。
彼女は、そんな男を見下ろしていた。
視線は冷たい。
怒っているわけでも、見下しているわけでもない。
まるで――壊れた道具を見るみたいな目。
彼女は、ゆっくりと一歩、男に近づいた。
靴底が地面を踏む音が、やけに大きく響く。
男はそれに気づいたのか、びくりと肩を跳ねさせた。
「……っ」
彼女の手が、腰のあたりに伸びる。
何かを取り出そうとしている――そう直感した。
「待て!」
思わず声が出た。
彼女の動きが、ぴたりと止まる。
「……なに」
振り返った視線が、俺を射抜く。
「殺す必要ないだろ」
喉が渇いて、言葉が擦れる。
「もう武器もない。抵抗もできない。
このまま放っておけば――」
「放っておけば?」
彼女は、静かに言葉を切り返した。
「“次”が来るだけ」
「でも……!」
俺は、男を見る。
地面に這いつくばり、肩を震わせているだけの人間。
刃物を持つ気配も、立ち上がる力もない。
「こいつは……」
言葉を選ぶ。
「敵じゃない」
彼女の目が、細くなった。
「敵じゃないなら、何?」
「……被害者だ」
一瞬、空気が張り詰めた。
「被害者?」
彼女は、短く息を吐く。
「ここに来た時点で、全員“加害者候補”」
「そんな理屈――」
「理屈じゃない。現実」
ぴしゃりと言い切られる。
「生き残るために、他人を踏み台にする。
それができないやつは、遅かれ早かれ死ぬ」
「……だからって、今ここで殺すのか」
「あたしを殺そうとしたやつはきっとまた殺しに来る。そうならないよう殺す」
彼女は、男から視線を逸らさない。
「それが一番、安全」
男が、起き上がり手と膝を強く地面につけがくりと頭を下げた。
「……頼む……」
かすれた声。
「もう……何もしない……」
その瞬間。
男の身体が、びくりと跳ねた。
「……?」
次の瞬間、がくがくと激しく震え始める。
「おい……?」
俺は一歩、近づきかけて止まった。
歯が噛み合わない音が、はっきりと聞こえる。
喉の奥から、ひゅう、と空気の抜ける異音。
「……っ、ぐ……」
男は胸を掴み、身体を丸め倒れこんだ。
「おい、大丈夫か……!」
俺はしゃがみ込み、男の顔を覗き込む。
目が――おかしい。
白目がちで、焦点が定まらない。
「どうしたんだよ……!」
言い終わる前に、男の震えが、唐突に止まった。
ぴたり、と。
糸が切れたみたいに、身体から力が抜ける。
「……」
数秒、沈黙。
俺は、息を詰めて男を見つめる。
「……なあ」
喉が鳴る。
「……嘘だろ……」
返事はない。
胸に手を当てても、鼓動は伝わってこなかった。
完全な静止。
彼女がゆっくりと近づいてきた。
一瞥して、短く言う。
「……死んだね」
その言葉が、地面に落ちる。
俺は、その場にしゃがみ込んだまま、動けなかった。
さっきまで、泣いていた人間。
命乞いをしていた声。
それが、もうない。
「……殺してない」
絞り出すように言った。
「俺たちは……殺してない……よな」
彼女は、少しだけ視線を落とした。
「結果は、同じ」
その一言が、胸に突き刺さる。
男は、動かなかった。
さっきまで上下していた胸が、完全に止まっている。
見開いたままの目は、もう何も映していない。
男の肩をつかみ強くゆする。
「……なあ」
自分の声が、やけに遠く聞こえた。
「……死んだ、のか」
答えは分かっているのに、口に出さずにはいられなかった。
「……さっきまで、生きてたんだぞ」
俺は、男の顔から目を離せない。
泣いていた。
必死だった。
それが、たった今――これだ。
「だから?」
彼女の声は、冷たい。
「ここでは、よくあること」
「……よく、あるって……」
喉が詰まる。
「こいつ、ただの人だった」
彼女は、ほんの少しだけ眉を動かした。
「“ただの人”が一番多い」
そう言って、ゆっくり息を吐く。
「で、そういう人から先に消える」
俺は拳を握った。
「……この人、震えてた」
「見てた」
「人を殺したこと、ない顔だった」
「それも、見てた」
淡々と返されるたびに、胸の奥が削られる。
「じゃあ、なんで……」
言葉が続かない。
彼女は、男の亡骸から目を離し、俺を見る。
「同情?」
「……分からない」
正直な答えだった。
「わかんないって……あのね、同情した瞬間にあんたは“狙われる側”になる、泣けば止まると思われ、家族の話をすれば時間を稼げると思われ、人質にすれば引き金を引けないと見抜かれて、迷った分だけ距離を詰められて、最後は“優しいやつから先に死ぬ”私は嫌とゆうほど――」
「……逃げろ。」
俺は無意識に彼女の声を遮るようにつぶやいた
自分の言ったことを反復し自分に言い聞かせるように叫んだ
「逃げろ!!」
声が裂けた。さっきまですくんで動けなかった身体が嘘のように立ち上がり、彼女の手を引き数メートル走ったその直後だった。
――――――――――――
ドンッ
――ではなかった。
空気が、一瞬で押し潰された。
ドゴォゥン……!!
低く、腹の底を叩く音。
衝撃が“音”として来る前に、身体が持ち上がる。
視界が白く弾け、次の瞬間、世界が裏返った。
爆心から叩き出された風が、背中を蹴り飛ばす。
肺が潰れ、息が抜ける暇もなく、体が宙に投げ出された。
「っ――!!」
声にならない音が喉で弾ける。
路上駐車されていた車が、紙箱みたいに跳ね上がり、
ガラスというガラスが、同時に鳴き声をあげて砕け散った。
破片が雨のように降る。
金属が擦れ、コンクリートが割れ、
街全体が一瞬だけ“生き物”みたいに痙攣した。
地面に叩きつけられる。
肺の空気が、無理やり外に押し出された。
視界が暗転し、コンクリートに背中から叩きつけられ耳鳴りだけが残る。
――死んだと思った。
しばらくして、ようやく息が戻る。
「……っ、は……っ……」
体を起こすと、世界が歪んで見えた。
焦げた臭い。
鉄と肉が混じった、鼻を刺す臭気。
さっきまで“人”だったものは、もう形を保っていなかった。
男がいた場所には、黒く焼けた痕と、散らばった残骸だけが残っている。
言葉が、出てこない。
足が、震える。
「……」
彼女は起き上がり、隣で立ち尽くしていた。
「……え、爆発した?」
俺の声は、自分でも驚くほどかすれていた。
ゆいは、すぐには答えなかった。
視線を落とし、焼け跡を見つめている。
「身体に仕込まれてたんだ。逃げ遅れたら、巻き添えだったね。」
「……そんな……」
言葉を探すが、続かない。
さっきまで、泣いていた男だ。
妻と子供の話をしていた。
理解が追い付いてきた手が、震えていた。
ゆいは、ゆっくりとこちらを見る。
「なんで分かった?」
爆発のことだ。
「……分からない」
正直に答える。
「ただ……勝手に身体が動いて、それに嫌な感じがした。」
「嫌な感じ?」
「説明できない。
でも……“ここにいたらダメだ”って」
彼女は、しばらく俺を見つめたあと、小さく息を吐いた。
「……そう」
少しだけ、口元が緩む。
「結果的に、助かった」
そして、はっきりと言った。
「ありがとう。あんたがいなかったら、私は死んでた」
その言葉が、胸に落ちる。
重く、熱を持って。
俺は、焼け跡から目を逸らし、空を見上げた。
青いままだ。
何もなかったみたいに。
(……ここは)
さっきまでの“日常”と、今の光景が、どうしても噛み合わない。
「……なぁ」
思わず、口を開いた。
「この世界……いつも、こんななのか?」
ゆいは、少し考えてから答えた。
「もっと酷い日もある」
少し笑みを含みながら言ったその言葉で、背筋が冷えた。
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