「制限」
ワンフロアをぶち抜いた広い空間。壁際には窓が並んでいるはずなのに、外の光はほとんど入らない。
床は妙に平らで、靴底のきしみだけがやけに響く。部屋の中心には、畳数枚分はある白い紙が敷かれ、その上に黒々とした二文字——「幸福」。
そして、その紙の脇に袴姿の人間が立っていた。大きな筆を肩に担ぎ上げ、こちらを見ている。墨の匂いが濃い。鼻の奥がじんとする。
ケイは、反射で一歩引きかけて踏みとどまった。頭の中で、篁の言葉が回る。
(くたびれたサラリーマン。黒縁メガネ。お団子ヘア……)
目の前の男は、どう見てもそれじゃない——。
ケイは、喉の乾きを飲み込みながら口を開いた。
「……お前が、ここのトップか」
筆の男は、肩に担いだ筆を少し持ち上げる。重さなど感じていないみたいに軽い動きだった。そして、気味の悪い笑みを浮かべたまま首を振る。
「もちろん違うさ」
言い切る声が、やけに澄んでいる。まるで講堂で朗読でもしているみたいに。
「君たちが探している彼は、もっと退屈な顔をしている。ネクタイだって締めるし、ため息だってつく。……僕みたいに、こうして遊んではいられない」
ケイの横で、拓磨が一歩だけ前に出た。足音が響かないように、重心を落としている。怖がっているというより、距離と角度を測っている動きだった。
「“シナリオ”って言ったな」
余計な感情が混ざらない、質問だけの声。
筆の男は嬉しそうに目を細めた。
「そう。僕は幸運なんだ。こんな場に立てる。こんな役をもらえる。——君たちみたいな、旬の登場人物と出会える」
言葉の端々が、わざとらしいほど上機嫌だった。気持ち悪い。ケイの背中がぞわりとする。
ケイと拓磨は、じわりと戦闘態勢に入った。拓磨は、肩の力が抜けていた。抜けているのに、いつでも踏み込める形だけが出来ている。
筆の男も構えた。
肩に担いでいた筆を、ゆっくりと降ろす。柄を握る手が、すっと滑って持ち替わる。槍でも持つみたいに、筆先をこちらへ向けた。筆先から黒い滴が一つ落ち、床に小さな染みを作る。落ちたのは墨のはずなのに、染みの周りの空気が、わずかに歪んだ気がした。
「じゃあ、始めようか」
筆の男が一歩踏み出す。
「——っ」
ケイは息を吸うより先に動いていた。左手で額に乗せていたゴーグルを引き下ろし、レンズ越しに筆の男を捉える。
次いで右手——革と金属が組み合わさったグローブを、腰のポーチへ乱暴に突っ込む。
指先が、冷たいガラクタに触れた。
掴んで引き抜く。
ただの金属片のはずだったそれが、空気に触れた瞬間に形を変える。伸び、整い、刃の線が生まれる。柄ができ、鍔ができ、重心が“握れる位置”に落ち着く。ケイの手の中に、一本の刀が収まっていた。
——試行錯誤で覚えた。 何度も失敗して、指を擦りむいて、重さの感覚を身体に叩き込んで。ようやく“この形”なら出せる、と言えるようになった一振り。
ケイは迷いを削るように、刀を振り上げて踏み込む。
刃が空気を切り、袴の男の首筋へ真っ直ぐ走る——はずだった。
「ほら」
筆の男は、当たり前のように筆で刀を受けた。
ガン、と鈍い音。
金属と木がぶつかった音ではない。もっと詰まった、硬い芯を叩いた音だ。刀身が跳ね、手首が痺れる。受けられた。しかも、筆の穂先ではなく“柄”で。異様に固い。
(……筆が、硬すぎる)
ケイが歯を食いしばる間にも、筆の男は笑みを崩さず、こちらの手元を見ていた。刀ではなく、グローブのほうを。
「クラッキンググローブだね」
声がやけに落ち着いている。
戦闘の最中に、講義みたいに。
「またの名を“クラッカー”。超がつくほどのレア武器だ。長年、行方知らずだったはずだけど——君の手に渡ったんだね」
ケイは舌打ちする暇もなく、刀を引き戻して二太刀目を放つ。斬り上げからの返し。刃先が筆の男の肩口を狙う。
だが、筆が滑るように動いて受ける。受けるたびに、筆の柄が刀身に当たる位置が違う。角度が違う。重心の捌きが違う。硬いだけじゃない。“武器として”強い。
筆の男は、何度も刀をいなし受けながら話を続けた。
「クラッキンググローブは破壊と創造。……しかし、破壊するにも、創造するにも、対象の構造を“よく知っている”必要がある」
ケイの刀が弾かれ、足が半歩下がる。
「凡人なら、せいぜい簡単な破壊と簡単な創造しかできない。形だけの刃、形だけの盾。すぐ壊れて、すぐ限界が来る」
筆の男の目が、レンズ越しにケイを真っ直ぐ刺した。
「でも君が持つと、とてつもないものになりそうだ。」
ケイは話を聞きながら、呼吸を整えるふりをして距離を詰め直した。刀の握りを微調整し、足の向きを変える。
次の一手は——相手の筆の外側を狙う。
踏み込む。斬る。低い位置から、筆の根元を断つつもりで。
筆の男はそれを読んだように、すっと身体を引いた。
しかし、跳びかわした——その先でデジタルノイズがはしる。
「【水鏡突破】」
拓磨の声が背後から聞こえる
筆の男の着地するであろう床から“浮いた”形でデジタルのサメが現れた。輪郭が発光し、鱗の代わりに幾何学模様が走っている。口を開き、空気ごと噛み砕く勢いで筆の男へ飛び付いた。
サメの顎が閉じる——寸前。
筆の男が筆を一振りする。
筆先から大量の墨汁が飛び散る
鮫に触れた瞬間ジュゥ——と嫌な音。
熱なのか、酸なのか、理屈が分からない。ただ、デジタルのサメが“溶ける”。形が崩れ、ノイズが散り、最後は泡が弾けるみたいに消えた。
男は軽々着地する。
拓磨は顔色を変えない。ただ、目だけが細くなる。今ので分かったことを頭の中で整理している顔だった。
ケイはその一瞬の隙に、筆の男の懐へ踏み込む。刀の柄尻が腰骨に当たるほど近い距離。ここなら筆は振りにくい——はず。
ケイは筆の男の懐へ踏み込んだ。刀の柄尻が腰に当たる距離。ここまで近ければ、あの長い筆は振り回しにくい——そう思った瞬間、嫌な予感がした。
筆の男は下がらない。笑いも消えない。むしろ、近づいたケイを歓迎するように、筆を“突き”に変えた。
穂先がこちらへ滑ってくる。槍のように真っ直ぐ、迷いなく。
ケイは反射で刀を立てて受けた。だが受けたのは穂先ではなく、穂先から垂れた墨だった。
パチ、と飛んだ黒い雫が刀身に触れた瞬間、ジュゥ、と音がした。刃の表面が泡立つみたいに荒れ、金属の色が一瞬で濁る。
「……っ!」
ケイは噛み殺した声を漏らし、即座に刀を引いた。振り払うだけでは追いつかない。
刃の“形”が、もう崩れはじめている。
右手のグローブに力を込める。刀を握り直し、刀の輪郭を“盾”のように整える。
筆の突きを受けたが指がしびれるほどの威力だ。
突かれた盾の表面がドロッと溶け出した。
次の瞬間筆の男の蹴りが、腹へ向かって叩き込まれた。
鈍い衝撃が腹の底に落ち、息が詰まる。後方へ身体が浮き、飛ぶ。床がやけに遠く感じた。
「身体が追い付いてないよ」
筆の男が、淡々とした声で言った。言い方だけは優しいのに、内容は嘲笑だ。
ケイは転がりながらも態勢を整えようと歯を食いしばって踏ん張り、身体を捻る。ゴーグル越しに筆の軌道を追うが、追えるのは“次に来る”という予測だけで、間に合わない。
この時僕はなんとなくわかっていた。この男が本気を出していないことも
このまま2人がかりで戦っても絶対に勝てないことも
ただ自分の決めた選択が間違っていないと思いたいがために刀をおろした
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