「普通を守るため」
会議室を出た廊下は、相変わらず明るかった。しかし、天井の照明は一定の間隔で並んでいるのに、どこか一灯だけ弱いせいで、影が帯のように床へ落ちている。壁の塗装は剥げ、床のワックスは踏まれすぎて鈍く光っていた。四人分の足音が、やけに大きく反響する。
ケイは先頭寄りを歩きながら、背中越しに聞こえるゆいの愚痴を黙って受け流していた。受け流しているつもりでも、耳には全部入ってくる。
「……なんで拓真が選ばれて、私が選ばれないわけ?」
ゆいは腕を組んだまま、納得できない顔で言い続けている。怒鳴るほどじゃない。でも、納得できなさが声の端にずっと残っている。
「おかしくない? 私のほうが絶対役に立つでしょ。強いの、私じゃん」
隣を歩く綾織が、困ったように笑って肩をすくめた。
「まぁまぁ、ゆいちゃん。決まったことだし。ほら、廊下って声響くから」
「響かせたい」
「やめなさいって」
拓真はそれを聞きながら、背中のリュックの肩紐を握り直す。顔は強張ったままで、視線が落ち着かない。自分が名前を呼ばれたこと自体が、まだ現実味を帯びていないようだった。
そのとき、後ろから足音が増えた。
軽くも重くもない、均一な歩幅。追いつくと同時に、低い声が混じる。
「……まだ言ってるのか」
高宮だった。いつの間にか同じ廊下にいて、会話の端を聞いていたらしい。ぶっきらぼうな言い方だが、咎めるというより事実確認のような口調だった。
ゆいが振り返る。
「言うに決まってるでしょ。納得してないし」
高宮は淡々と続けた。
「納得など関係ない。選ばれた理由は、使い道だ」
「使い道?」
ゆいが眉を寄せる。拓真がびくっとして、小さく高宮を見る。
高宮は拓真の横に並ぶでもなく、少し後ろから歩いたまま言った。まるで作戦書を読み上げるみたいに、温度のない声で。
「拓真は回復能力がある。いざって時の回復要員。死にかけを戻せる可能性があるやつは、人数以上の価値がある」
拓真が思わず自分の手を見る。指先がわずかに震えていた。
「ケイは?」
ゆいが食い気味に聞く。自分の話に戻したいのが見え見えだった。
高宮はケイの背中をちらりと見て、同じ調子で言う。
「ある意味吉田がいればこの作戦は必ず成功する。彼のスキルはこの作戦には不可欠だ。まぁ本人が腹をくくれなければ意味はないが。」
その言葉はとても重かった。おそらく自分がスキルを使わなければ成功しないのだと暗に言われたからだ。
ケイは返事をしなかった。ここのみんなを助けたい。その思いに嘘はなかった。
しかし、誰がどうなってもこの作戦を成功させようと決心しているかとゆうと全く自信がなかった。
喉の奥で短く息を吐き、歩幅だけを揃える。
高宮は次に綾織へ目を向けた。
「綾織は足止め用のトラップと補助。視界を切る、退路を作る、追跡を止める。派手じゃないが、隠密で失敗しないための道具だ」
綾織は「うん」と小さく頷いただけで、余計な言葉は挟まなかった。
自分の役割を理解している頷きだった。
ゆいがぷっと頬を膨らませる。
「……じゃあ私は?」
高宮は一瞬だけ黙った。ほんの一拍、言葉を選んだのか、それとも選ぶ必要すらないのか。
「篁も言っていただろ。前線には必要ない」
「はぁ?」
ゆいの声が低くなる。頬は膨らんだままなのに、目だけは鋭くなった。
綾織がすぐに割って入る。空気が刺さる前に、柔らかい言葉で包むように。
「ゆいちゃん、ゆいちゃん。ほら、怒ると余計に目立つって」
ゆいが「うるさい」と言いかけて、飲み込む。自分でも“目立つ”って言葉が刺さったのか、言い返す勢いが少しだけ鈍る。
綾織は歩きながら、ゆいの横顔を覗き込んだ。
「ゆいちゃんは強いから」
ゆいの視線がわずかに動く。
「強いから、ここを守ってほしいってことだよ。シェルターに戦力残すって篁さん言ってたでしょ? “守り”が崩れたら、帰る場所がなくなる」
ゆいは頬を膨らませたまま、数秒黙った。納得はしていない。でも、理解はしている。理解しているからこそ、余計に腹が立つ。
「……守るの、面倒くさい」
「面倒くさい役ほど、強い人にしか任せられないよ」
綾織がそう言うと、ゆいは小さく鼻を鳴らした。
「……帰ってきたら文句言う。篁に」
高宮が短く言う。
「……帰ってこれたらな」
その言い方は脅しでも何でもなく、ただ悲しそうだった。
現実的な言葉に拓真の肩が小さく跳ねる。ケイも喉の奥が少しだけ乾く。
綾織がすぐに空気を戻すように笑った。
「帰ってくるよ。帰ってきて、篁さんに文句言って?ちゃんとみんな揃って帰ってくるからね?」
ゆいは頬を膨らませたまま、前を向いた。
「……分かった。守る。守ればいいんでしょ」
「うん」
綾織はそれ以上押さなかった。高宮も言うべきことを言ったという顔で、歩く速度を変えない。
廊下の突き当たり、自室の並ぶ区画が近づく。生活の匂いが少しだけ濃くなる。人の気配が増え、遠くでドアの開閉音がした。
食堂に近づくと、鼻先に先に匂いが届いた。
油と香辛料が混じった、少しだけ焦げた甘い匂い。空腹を刺激するというより、胸の奥をふっと緩める匂いだった。緊張で固まっていた身体が、匂いだけで一段落ちる。
廊下の突き当たり、食堂の入口。そこに——
ダンがいた。
エプロンをつけ、頭にバンダナまで巻いている。妙に似合っているのが腹立たしい。手を大きく振りながら、こっちに向かって笑った。
「おつかれ! 今日はカレーだぞ!」
声がでかい。食堂の壁が軽く震えた気がした。中にいた数人がちらりとこちらを見る。
ゆいが間髪入れずに前へ出る。
「まずかったら承知しないぞ、ゴムパッチン」
言い方だけは本気の脅しみたいなのに、口角が少しだけ上がっている。
ダンの顔が瞬間で崩れた。
「ゴミパッチンって呼ぶなー!!」
「輪ゴムマン」
「どっちでも嫌だ!!」
「じゃあ何ならいいの」
「ダンだよ! 名前あるから!」
声を張り上げるダンに、ゆいは満足そうに鼻で笑った。頬の膨らみが、さっきまでの拗ねた膨らみと違って、ただの機嫌の良さに見えた。
その様子を見て、ケイは思わず笑ってしまう。
拓真も、耐えきれずに小さく吹き出した。綾織は肩を揺らして笑いながら、「はいはい」と手を叩いて落ち着かせる。
「ほらほら、入口で揉めないの。ご飯冷めちゃうよ」
食堂の中は、意外と明るかった。蛍光灯が古いせいで光の色は白っぽいのに、湯気と匂いで空気が柔らかく見える。金属のテーブルと椅子は傷だらけで、そこに置かれたスプーンと紙ナプキンが妙に現実的だった。
鍋の前では、ダンが得意げに蓋を開ける。
むわっと湯気が上がり、カレーの匂いが濃くなる。具は大きめで、じゃがいもがごろっと見えた。
「見ろよ。ちゃんと肉も入ってる。ほら」
ダンがしゃもじで掬うと、確かに肉片が見える。ゆいが目を細めて覗き込む。
「……本物?」
「本物の牛だよ! ちゃんとしたやつ!」
「ほんとに?」
「疑い深いな!」
ゆいは「ふーん」と言いながらも、すでに空腹の顔になっていた。怒ってるふりをして、こういうときだけ正直だ。
ケイたちはトレーを取り、列に並ぶ。拓真がキョロキョロしながら、声を落として言った。
「こういうの……久しぶりです」
「食堂?」
「……みんなで、っていうのが」
その言い方が、やけに刺さった。ケイも「久しぶり」どころじゃない。いつからだろう、誰かと飯の匂いを共有したのは。
席に着くと、ダンがそれぞれの皿を置いて回った。
「はい、カレー。おかわりは後で。ルーは足りる」
言いながら、ダンはケイの前で一瞬止まる。
「……あんたら、会議だったろ。きつい仕事なのか?顔、固いぜ」
ケイが言葉を探す前に、ゆいがスプーンを持ち上げた。
「固いのはお前の頭だ」
「はぁ!? 関係ねーだろ!」
「関係ある」
「ない!」
その言い合いを聞きながら、ケイはスプーンを握る。熱が指先に伝わる。湯気が鼻をくすぐる。
拓真が小さく「いただきます」と言って、恐る恐る一口食べた。
目が丸くなる。
「……うま」
思わず漏れた声が素直すぎて、ダンが「だろ!」と胸を張る。
ゆいも一口食べ、じっと黙る。
沈黙が一秒、二秒。
「……まずくはない」
「まずくはないってなんだよ!」
「褒めてる」
「もっと褒めろ!」
「調子に乗るな」
ダンがぶつぶつ言いながらも、嬉しそうなのが分かる。怒っているふりが下手だ。ゆいと同じで、こういうときだけ正直だ。
綾織がふっと息を吐く。
「こういう時間、必要だね」
その言葉に、テーブルの空気が少しだけ静かになる。
ケイはカレーを一口食べた。辛さは控えめで、甘さが先に来る。後から少しだけスパイスが追いかけてくる。驚くほど普通で、驚くほど安心する味だった。
——普通。
この世界で「普通」が、こんなに貴重だとは思わなかった。
ふと、ケイの頭に会議室の高宮の言葉がよぎる。
腹をくくれなければ意味はない。
スプーンを置く。胃の底が温まると、逆に現実が戻ってくる。
拓真が恐る恐る口を開いた。
「……明日、出るんですよね」
その一言で、また空気が少し硬くなる。
ゆいはカレーを食べながら、何でもないみたいに言った。
「出るのはあんたら。私はここ」
拗ねた言い方ではない。ただ、事実を言っただけだった。
綾織が頷く。
「うん。ゆいちゃんは守り。私たちは外」
ダンがスプーンを止める。
「……外?」
ケイが視線を上げると、ダンの顔からふざけた色が消えていた。エプロンのままなのに、急に“外”の顔になる。
「おい、どこまで行く」
綾織が言う前に、ゆいが口を開いた。
「言えない。篁案件」
ダンが舌打ちしかけて、やめる。
「……そうかよ」
その短い返事に、妙な重みがあった。食堂の匂いの中に、外の冷たい空気が一瞬混じった気がした。
ケイはスプーンを握り直す。
カレーは温かい。ここは安全だ。笑いもある。
それでも、明日は外に行く。
その落差が、今はやけに現実だった。
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