「空白」
朝が来た。
と言っても、眠れないまま時間が過ぎ、ただ空が明るくなっただけだ。
目を閉じることはできても、眠ることはできなかった。 まぶたの裏に浮かぶのは、さっきの通知。 あの迷惑メールが、なぜか視界の中に焼きついて、まるで呪いのように何度も繰り返される。
何も変わらない部屋。
でも、何もかもが“似て非なる”ものに見えて仕方がなかった。
──午前8時25分。 窓の外は、昨日の雨が嘘のように晴れていた。 地面はすでに乾いていて、水たまりもない。 空気はひんやりとしているのに、窓の外からの陽射しは眩しいほどに白かった。
焼きそばの麺は、まだ流しの奥にくっついたままだ。 まるで時間が止まったかのように昨日と同じだった。
(……バイト、9時からだったな……)
俺はゆっくりと立ち上がる。 身体は軽い。 でも、心は重い。 何かを踏みしめるたび、足元がズレているような不安感が続いている。
制服に着替える。 ロゴの入った白いシャツに、黒いパンツ。 制服の上から上着を着る。昨日と同じ手順で、リュックに財布とスマホを入れる。
そんな期待にも似た祈りを込めて、ドアを開けた。
エレベーターは、呼んで数秒で静かにやってきた。 中には誰もいない。 防犯カメラの赤いランプが点いているのが妙に目についた。 鏡に映る自分の顔――ひどく無表情で、寝不足のくせに、どこか張り詰めている。
1階のオートロックも問題なく開く。 センサーはちゃんと反応した。 ゴミ捨て場には、収集日なはずなのに、ゴミが一つもなかった。 カラスすらいない。 朝の街としては、異常なほど静まり返っている。
歩き出す。 足音だけが、アスファルトに規則正しく響く。
道を歩く。 いつもは通学中の高校生や、会社員、主婦、犬の散歩―― それらがいて当然の朝の風景。 それが、すっぽり抜け落ちていた。
(みんな寝てる? ……って、朝の8時に?)
それとも、何か大規模な避難でもあった? でもサイレンもないし、警察もいない。 スマホの通知も異常はない。 ニュースも、Twitterも、更新が止まったままだ。
「さすがにそれはないだろ……」
口に出して、少しでも現実感を取り戻そうとする。 でも、その声すら、周囲の空気に吸収されず、妙に“浮いて”感じた。 まるで、誰も聞くことを想定されていない声。
足は自然と速くなる。 視線は右へ左へと動き、少しでも人の影を探していた。
駅前の交差点。 信号は動いている。 赤になれば止まり、青になれば進める。 でも、信号を渡る人がいない。 車のエンジン音も、クラクションもない。 まるで映画のオープンセットに紛れ込んだような、薄っぺらい街。
コンビニの明かりは点いている。 看板もLEDも、室内の蛍光灯も。 雑誌棚には最新号が並んでいた。 ホットスナックのケースも稼働していて、肉まんが蒸されていた。
けれど、客はいない。 店員もいない。
(無人……?)
ドアは自動で開いた。 入ろうかと思ったが、足は止まった。 何かを踏み越えてしまいそうな気がした。
そして、カフェ――俺のバイト先。 駅前の小さな路面店。 二階建てのこぢんまりとした洋風の建物。
裏口のシャッターは半開き。 これはいつも通り。 俺たちスタッフが入るための隙間。
中に入ると、ロッカールームも厨房も、完璧に整っていた。
エプロンもかかっている。 タイムカードも差しっぱなし。 洗ったばかりのカップが、きちんと伏せて乾かされている。
誰かが出勤して、準備して、そのまま消えたかのように。
ゴミも落ちていない。 調味料も揃っている。
なのに――人の気配が、まったくない。
匂いも、温度も、音も、すべてが“停止”していた。
(……誰もいない)
あまりにも“整いすぎて”いた。 荒らされた形跡も、逃げた痕跡もない。 机の上の伝票すら、昨日の売上のままピタリと残っている。
ただ、人だけが、完璧に、綺麗に――“消えていた”。
ゾワリ、と背中に冷たいものが走った。
ここまでの一連の状況が、ようやく一つの結論へと俺を導いた。
(……やっぱり)
今、この瞬間、ようやく俺は確信した。
ここは、現実じゃない。
“夢の世界”。
いや、あまりにも意識がはっきりしすぎている
“再現された現実”――
けれど、ここには、“生きた人間”がいない。
人間どころか何の気配もない
「……ここは、どこだ…?」
この世界で、俺だけが異物なのか。 それとも、俺だけが本物なのか。
判断がつかないまま、俺は息を殺して、見慣れたハズのカフェに呆然と立ち尽くした。
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