「本気の訓練」
訓練場の片隅。
冷えた鉄床の上に、ケイは崩れ落ちるようにうつ伏せで倒れていた。
金属の冷たさが体温を奪い、痛みすら鈍くなるほどに、全身の感覚が麻痺している。
「……ごほっ、ごほっ……っ」
喉奥から絞り出されるような咳が続く。
口元には鮮血がにじみ、吐き出すたび、赤が床を濡らした。
酸素を取り込もうと喘ぐ肺が焼ける。
肋骨のあたりに鈍い痛みが走るたび、視界が白く染まる。
目の端に、影が揺れた。
「0キル、162デス〜♪」
軽快な声とともに、御影がステップを踏みながら近づいてくる。
その手には何の武器もなく、ただ右手の指を一本、二本と立てて数を数える真似をしていた。
「うーん、最初より動きは良くなったけどぉ……決定打がぜ〜んぜん足りないんだよねっ」
御影は膝を軽く折り、ケイの顔のすぐそばまで屈み込む。
視線が合う。だが、そこにあるのは侮蔑でも憐れみでもない。
ただ、純粋な興味。
虫眼鏡を覗く研究者のような、冷たく無邪気な好奇心。
「殺意、感じないよぉ? 手加減してるのかな? それともさぁ、怖いの? 人を殺すのが」
くすくすと笑いながら、御影は言葉を続ける。
「せっかくいいスキルあるのに、なんでもっと使わないの?」
ケイは答えなかった。
声を出す余力もない。だが、それ以上に――答えたくない理由があった。
それでも、ゆっくりと顔を上げ、血の混じった吐息を漏らしながら、御影を睨む。
(……使えるわけないだろ。誰が傷つくかわからないのに。)
スキルは便利で、強力で――だが、制御が難しい。
自分の選んだ理想の未来を選択する能力。
人の未来すら変えてしまう万能な力。
だが、その“万能”が恐ろしかった。
(俺だけなら、多少暴発してもいい。けど……)
視界の隅に、訓練場の周囲に積まれた設備、電源機器、パイプライン、金属片が見える。
そこには、もし失敗したら“跳ね返り”で誰かが巻き込まれる可能性がある場所も含まれていた。
(もし暴走すれば、御影だけじゃない。誰かを――綾織さんやゆいまで、巻き添えにするかもしれない)
その恐れが、無意識にケイの中でスキルの“出力リミッター”として働いていた。
(限界まで力を使うことを、怖がってる……俺は)
ケイは、唇を噛んだ。
だが、御影はその迷いすらすべて見抜いているかのようだった。
「ねぇケイくん。自分が人を殺せる側の人間だって、まだ認めたくないんだよね?」
その声音はやさしく、まるで友人を励ますようだった。
「でも、それじゃあこの世界で死ぬよ?」
御影はゆっくりと立ち上がり、踵を鳴らして距離を取る。
「次で終わらせよっか。ケイくんが“覚悟”を決めてないって、もうわかったからさ」
その背中には、勝利を確信した者の余裕が滲んでいた。
冷たい空気が訓練場に満ちる。
血の味と鉄の匂い、痛みと恐怖と自己嫌悪――
そのすべてが、ケイの胸をゆっくりと締め付けていく。
(……どうする、ケイ)
握った拳には、まだわずかに熱が残っていた。
鉄と血の匂いが入り混じる訓練場の片隅で、ケイはゆっくりと身体を起こした。
全身が悲鳴を上げていた。関節はきしみ、肺は空気を吸うたびに焼けつくように痛む。
それでも――立ち上がった。
「……まだ終わっちゃいない」
震える足に力を込め、ぐらつく膝を押さえつけるように踏み締める。
ケイの視線が、すぐ近くの鉄材裁断機に手をつく。
鋭利な刃と油にまみれた古い機構。
だが、内部にはまだ動力コイルや精密なレール、圧縮機構が残っていた。
ケイはグローブ越しに鉄材の表面へ触れた。
触れた瞬間、視界に浮かぶのは構造図と材質の流れ。
内部に通る配線、歯車の回転数、部品の応力限界――
全てが、彼の頭の中に瞬時に描かれた。
「……イメージしろ……恐れるな…制御するんだ…。未来の選択じゃなく、スキルに任せるな、俺が考えるんだ最適解を……」
唇の端から血が伝い落ちるのも構わず、ケイは左手で外装を外し、右手で内部のコアを引き抜いた。
即座に手の中で部品を組み替え、力の伝達効率を最大化した斧状の大剣へと変換していく。
金属の軋みが響き、やがて形になったそれは、圧縮された動力ブースターを備えた斬撃特化武器だった。
「……よし……行ける……!」
両手で柄を握りしめ、床を蹴る。
跳躍。天井近くまで届くような高く鋭い飛翔。
照明の逆光を背負いながら、ケイは全身の重力を刃に乗せて、御影の頭上へ斬り下ろした。
「……はああああああああっ!!」
武器の重さが空気を引き裂き、圧倒的な風圧と殺気をまとって振り下ろされる。
だが――
御影は微動だにしなかった。
ただ、涼しげな笑顔を浮かべたまま、地に立ち尽くす。
そのまま、両腕を真上に掲げて――
「——ガチィィィィィン!!」
乾いた衝撃音。鉄が鉄を砕くような凄まじい音が、訓練場の空間全体を震わせた。
御影の両手が、ケイの振り下ろした大剣を素手で挟み込むように受け止めていた。
「なっ……!」
ケイが目を見開く。
武器は完全に止まり、刃先がわずかに御影の額に触れているにも関わらず、一滴の血も流れていなかった。
「……真剣白刃取りぃ♪」
御影は楽しげに口元を歪めた。
その瞬間、ケイの体勢が空中で崩れる。
支えを失い、重量の反動でバランスを失った彼の身体が、浮いたまま無防備に晒された。
「甘いんだよッ!!!」
御影が叫びと同時に、右足を軸にして回転し、ケイの腹部に強烈な回し蹴りを叩き込んだ。
「ぐっ……ぅわああっ!」
その衝撃は内臓に直接響き、ケイの身体は吹き飛ばされた。
訓練場の床を何度も転がり、最後には壁に叩きつけられて止まる。
音もなく、作り出した大剣がその場に転がり落ちる。
御影はそれを軽く拾い上げると、片手でひょいと掲げてみせた。
「うんうん、武器自体は悪くないよ。構造も完成度も高い。すごーい」
にこにこと笑いながら、それでもその瞳の奥は冷たいまま。
「でもね。どれだけ強力な武器でも、“当たらなきゃ意味ない”んだよー?」
ケイは血を吐きながら、床に伏して動けなかった。
世界が揺れる。視界がにじむ。
だが、御影のその言葉だけは――脳裏に、鋼のように突き刺さっていた。
ケイが床に沈むように倒れ込んだまま、訓練場に張り詰めた空気が静かに揺れる。
その様子を、少し離れた位置から見下ろしていた高宮が、静かに一歩前へと足を踏み出した。
靴音は小さいが、その一歩には重みがあった。
彼女の瞳は、まるで結果など最初から決まっていたかのように、冷えた静けさを宿していた。
「……ねぇ、どーする? 雫ちゃーん」
御影がくるりと振り向き、冗談めかした口調で声をかける。
だが、高宮は彼に視線を返さない。ただ、目の前で咳き込みながらうずくまるケイを見下ろすだけだった。
一瞬の沈黙。
そして、高宮は白衣のポケットから、瓶に入ったの回復薬を一つ取り出した。
淡い青に光る液体が中に揺れている。それを、弾くようにして転がした。
カラン——
軽い音を立てて、瓶はケイの足元で止まる。
「……もういい。御影、あとは君に任せる」
高宮はそう言い残し、踵を返した。
御影のほうには一度も目を向けないまま、無言でエレベーターへと歩き出す。
その背中は静かで、潔く、そしてどこか寂しげですらあった。
「ふーん、投げたねぇ……」
御影は、わずかに目を細めた。
静かに閉まるエレベーターのドア。
高宮が去ったのを確認すると、御影はゆっくりと首を回し、ケイのほうへ振り返る。
そこにはもう、軽薄な笑顔も、冗談めいた口調もなかった。
「——任されちゃった、か」
その声はどこか遠く、感情が抜け落ちていた。
「なら……」
足音ひとつ立てずに歩み寄る。
「……本気の殺し合い、始めようかっ」
声は穏やかでありながら、耳の奥に氷の破片を押し込まれるような冷たさを孕んでいた。
ケイの体温が、反射的に数度下がった気がした。
御影の目が、完全に変わっていた。
先ほどまでの軽やかな狂気ではない。
今、その双眸には明確な殺意が宿っていた。
「君が本気でやってくれないんだもん。しょうがないよね。僕だって——」
そして、そこまで言いかけた瞬間。
「——暇じゃねぇんだよ」
低く、鋭く、感情を切り落とすような一言が放たれた。
御影の表情が、ぴたりと止まる。
笑っていない。眉も、目尻も、口元すら微動だにしない。
たった今、舞台の幕が下りた。
そして、新たな幕が上がった。
“遊び”ではない。“試合”でもない。
これは、命を奪い合う本物の殺し合い。
その空気の違いを、ケイの本能が――震えるように、感じ取っていた。
ケイの背中を、じっとりと冷たい汗が伝っていた。呼吸は浅く、胸の奥で苦しげに波打っている。目の前に立つ御影の笑顔——それは、遊戯を楽しむ無邪気なもののようでありながら、その実、明確な殺意を孕んだ異質なものだった。
(殺される……このままだと、本当に)
内臓がひやりと凍るような恐怖が、喉奥までせり上がってくる。だが、足元に転がる小さな小瓶が、ほんのわずかな希望を示していた。
ケイは震える指先でそれをつかみ取り、一気に口へと流し込む。液体は微かに苦く、だが喉を通るとすぐに体内で熱に変わり、全身に広がっていく。
「……っ……!」
全身の痛みがみるみるうちに引いていくのを感じる。折れかけていた膝に力が戻り、ふらついていた視界がクリアに澄んでいく。
ケイは奥歯を食いしばりながら、ゆっくりと立ち上がった。拳を握る手にはまだ微かな震えが残っているが、それでも目には決意の光が戻っていた。
その姿を目にした御影は、ぱっと笑顔をさらに明るくした。
「あ、飲めた? じゃあ……よーい、ドン♪」
その声を合図に、御影の右手がこちらへと向けて広げられる。
「っ!」
直感が叫ぶ。危険だ、と。
本能が死を予感し無意識にスキルを使っていた。
反射的に体を右へとひねる。その直後、左側を鋭い風が切り裂いた。
「ガキョッ!」
重低音のような衝撃音と共に、すぐ背後の壁が爆ぜる。ケイは振り返り、その光景に息を呑んだ。
そこには、まるで機械で正確に切り取られたかのように、10cm四方の完璧な正方形の穴が空いていた。まるで「存在そのものが欠け落ちた」かのような、不自然な空洞。
「え……」
信じられないものを見たという表情のケイに対し、御影は小さな拍手をしながらと肩をすくめてみせた。
「すごーいっ! 絶対当てるつもりだったのにぃ」
御影が驚きと興奮が混ざった声で言った
「そのゴーグルじゃ、僕の攻撃は見えないだろうから、少しだけヒントをあげるね」
そして、手をひらひらと振りながら、さらりと続けた。
「僕のスキルは、“物質を消し飛ばす能力”。触れなくても、見えなくても関係ない。空間ごと、形ごと——ただ、無くす。それと……ランクは“S”。」
その言葉の意味を、ケイは頭の中でゆっくりと反芻する。
“物質を消し飛ばす”——それはつまり、防御が成立しない、一方的な削除。しかも、視認も予測もできない速度で放たれるのだとしたら——
「……っ」
背筋を走る戦慄。目の前の人物が“遊び”でやっているという事実が、さらに恐怖を深めていく。
御影は相変わらず笑顔を崩さぬまま、しかしその足取りは確実に距離を詰めてくる。
「さて……君は、どこまで避けられるかな?」
地獄のような訓練が、再び始まろうとしていた。
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