「知らない男知ってる男」
倉庫の扉を開けた瞬間、湿気を帯びた空気とともに古びた木の匂いが鼻をくすぐった。
「……あった!」
その声は、奥の棚を覗き込んでいたゆいからだった。埃を払いながら引っ張り出してきたのは、色とりどりの水風船と、お祭りで使われるお面の詰まった段ボール箱。
「やったぁ、ちゃんと残ってたんだ!」
ゆいは両手いっぱいにお面を抱え、うれしそうに笑顔を綻ばせる。
「こっちもあったよー!」
少し離れた棚を探っていた綾織が、手に提灯や風車、浴衣用の飾り紐などが入った袋を見つけて声を上げた。
「すごいね、想像以上にちゃんと揃ってる!」
二人は手分けして物資を運び、大きなリュックに詰めていく。
「このヨーヨー、ちゃんと膨らむかなぁ?」
「空気漏れてなきゃ大丈夫じゃない? あ、でもゴムは劣化してるかも……」
「うーん、帰ったらテストしよ! 子供たち絶対喜ぶよ!」
ゆいはそう言って、ぎゅうぎゅうにリュックを詰めた後、それを背負ってぴょんとスキップし始めた。
「ふふ……そんなに嬉しいの?」
「うんっ、だってさ、みんなが笑ってくれるの想像したら、それだけでワクワクしちゃって」
ゆいの表情はまるで子供のように輝いていて、綾織も思わずつられて笑みを浮かべる。
「夏祭りなんて、いつ以来だろ……」
「わたしはね、たしか小学校のころが最後かな。金魚すくいで1匹も取れなくて、おじさんが1匹おまけしてくれたの」
「なんか想像つくかも、ゆいちゃんらしい」
「えー、どういう意味それ!」
「ふふ、いい意味だよ。素直で、放っておけないって感じ」
そう話しながら、二人はゆっくりと倉庫を後にした。
わらいながらも複雑な表情をしているゆいに綾織が声をかける
「拓真君が心配?」
「んー、まぁちょっとね」
「心配ないよ。拓真君もきっとわかってるから。ゆいちゃんの優しさだってこと」
「かもね。じゃあ帰ったらヨーヨー投げつけて慰めてあげよっか」
「それはちょっと乱暴すぎない?」
ゆいと綾織は笑いながら、リュックを背負って帰路についた。
夕暮れ時。倉庫街の静けさに、風鈴のような風がかすかに響いていた。
倉庫を出て通りに出たゆいと綾織は、膨らんだリュックを背負って笑顔を交わしていた。夏祭りの準備が整ったことで、二人の顔には達成感と、ささやかな期待が浮かんでいた。
「ヨーヨー、ちゃんと使えるといいなぁ……」
「大丈夫だよ。きっとみんな、喜んでくれる」
そんな和やかな会話の中、ふと、ゆいの視界の端にひとりの男の姿が映り込んだ。黒いコート、顔立ちは鋭く、どこか懐かしいような、しかし思い出せないような雰囲気をまとっていた。
「……久しぶりだな」
その男の声は、静かで低く、しかし耳に残るような鋭さがあった。
ゆいの表情がわずかに強張る。声に反応して振り返りかけたが、すぐにその目を細め、顔をふいと背けて踵を返す。
「ナンパですか? よそでやってください。私たちは忙しいんで」
冷たく、感情を切り捨てるような声音。その言葉を聞いても、男は焦るでも怒るでもなく、むしろ懐かしむように目を細めて言った。
「ジン。ミナ。フォグマイヤー」
たった三つの名前。それだけで、空気が変わった。
ゆいの足が止まる。まるで時間が凍りついたかのように、動きが途絶えた。
静寂のなか、彼女の背中から伝わるのは、押し殺された動揺。僅かに震える肩。手のひらは握りしめられ、爪が皮膚に食い込んでいる。
記憶の底に沈んでいた名前。夢か幻か、曖昧な輪郭でしかなかったそれらが、今、現実の声によって呼び起こされた。
ゆいはゆっくりと振り返った。瞳は鋭く、しかし奥底にかすかな怯えが浮かぶ。
「……あんた、なにもん?」
その声は静かだが、明らかに警戒を帯びていた。
男は一歩、ゆいに近づきながら答える。表情には微かな笑み。そしてその瞳には、深い哀しみすら滲んでいた。
「君の知らない、君の過去を知っている男さ」
綾織が即座に前へ出ようとする。だがゆいはその動きを制し、自ら一歩前へと出た。目は逸らさない。逃げるつもりもない。
「久しぶりって……どういう意味? 私は、あんたに会ったことがあるの?」
そう尋ねるゆいの声には、怒りと恐怖が入り混じっていた。知らないはずの相手に、自分の過去を語られるという現実が、彼女の内側をゆっくりと締め付けていく。
男はゆいの問いに、すぐには答えなかった。ほんの一瞬だけ、目を伏せる。そして、再び顔を上げたときには、決意のような硬さがその声に宿っていた。
「会っただけじゃない」
沈黙。
「君から記憶を奪ったのは——この僕だ」
その瞬間、風景が一瞬だけ、静止したように感じられた。
周囲の空気が凍りつき、時間の流れすら止まったように思えるほどの緊迫感。
ゆいの顔から、すっと血の気が引いていくのがわかる。
その瞳に浮かぶのは、怒り、動揺、そして――恐怖に似たものだった。
だが、次の瞬間にはもう、ゆいの身体は風を切っていた。
反射ではない。確かな意思による動きだった。
男との距離を一気に詰めた、ゆいのいた場所には跳ね上がるように空中に浮かび上がるリュックサック。
低空姿勢から男の懐へ入り攻撃に転じる
そして――彼女の右手には、既に鋭利なカッターナイフの刃が展開されていた。
白銀の閃光が走る。
刃は風を裂き、男の首筋を正確に狙って迫る。
ほんの一撃、あと数センチ踏み込めば、動脈ごとその首を裂ける――そんな位置まで達していた。
――ピッ。
男の首にあたって血が数滴空中に舞う
だが、刃が届いたのは男の皮膚ほんの0.1ミリ程度。
彼は、まるでゆいの行動を予知していたかのように、無駄のない滑らかな動作で右手を伸ばした。
ガシッ――と刃を握り止める。素手で。
それでも男の手には迷いも躊躇もなかった。
指の腹で正確に刃を挟み、瞬時にゆいの手首を巻き取るように捻る。
ゆいの体勢が崩れ、そのまま彼の身体の軸に絡め取られるようにして――背後に押さえ込まれた。
「くっ……!」
ゆいが低く唸る。
両腕は固く後ろにねじられ、上半身は制圧されたまま動けない。
だが、それでも瞳の炎は消えない。むしろ、燃え上がっていた。
その様子に、男は微かに目を細めて言った。
「さすがだな。反応は速い。鋭い目と、殺気の質も良い」
その声は驚くほど穏やかで、押し殺したような慈しみすら感じさせた。
だが、続く言葉には別の色が混じっていた。
「でも……まだまだ思い出していないみたいだね。君は」
その一言が落ちた瞬間、周囲の空気がまた一変する。
殺気――それは綾織のものだった。
彼女は静かに、一歩前へと足を出し、両手を胸の前で打ち合わせる。
パン、という高い音が空気を割くと同時に、彼女の指先から赤い紐が現れる。
腕を大きく広げてぴんと張られた糸は、「四段梯子」――あやとりの陣形を構成している。
綾織の殺気は今まさにゆいを拘束している男の脳天を狙っていた。
その威圧に、一瞬でも遅れれば命を落とす。
それほどの鋭さを、あやとりという繊細な糸が秘めていた。
だが――
「動くな、綾織 紬!」
男の叫びは鋭く、明確だった。
ただの警告ではない。
彼女の名を、フルネームで、正確に呼んだ。
その瞬間――綾織の動きがぴたりと止まる。
彼女の目が見開かれる。呼吸が一瞬だけ、止まる。
「……名前を、どうして」
「もちろん、知っているさ。君たちのことも——全部」
男はふと肩の力を抜いたかと思うと、次の瞬間、軽く腰をひねってゆいの身体を放った。
その動きにはまったく無駄がなく、力任せではないのに、ゆいの身体は軽やかに宙を舞った。
まるで、最初からそうなるように計算されていたかのような、しなやかな投擲。
ゆいは空中に浮いた――背中から吹き飛ばされるような感覚。
景色が反転し、地面が迫る。
「……ゆいさん!」
綾織が地面を滑るように駆け込み、両腕を広げてゆいの身体を受け止めた。
ぐっと重みをかばいながらも、巧みに力を逃がし、倒れることなく踏みとどまる。
「大丈夫……!?」
「……っ、平気。ありがとう」
ゆいは短く息を吐いて答える。
だがその瞳には、悔しさと、わずかな恐怖が入り混じっていた。
完璧に動きを読まれ、力の差を見せつけられた。
自分の中で眠っていた何かを、引きずり出そうとする相手に対して――
そんな中、男は静かにポケットから何かを取り出し、地面にふわりと一枚の紙を落とした。
ひらひらと宙を舞ったその紙は、白地に幾本もの線が引かれた地図のようなものだった。
特定の場所を示すように、赤く丸印が描かれている。
「……過去を思い出したければ、そこへ来い」
男は背を向け、ゆっくりと歩き出す。
その足取りはまっすぐで、揺らぎがない。
まるで追いかけられることなど想定していないかのように、背中は堂々としていた。
「待てよっ!」
ゆいが叫び、地面を蹴る。
カッターナイフを逆手に持ち直し、再び駆け出そうとしたそのとき――
男が、ぴたりと足を止めた。
そして、無言のまま右の袖口を払うと、そこから銀色に鈍く光る刀身が、静かに引き抜かれた。
――シャッ
鞘すらないそれは、細身ながらも殺意を帯びた一閃の輝き。
その刃は斜め下に構えられ、わずかに陽の光を反射している。
「来るなよ。……切るぞ」
振り返ることなく放たれたその言葉には、静かな威圧と、決定的な隔絶の意思があった。
ゆいは止まることなく男への間を詰める
べちんっ!
乾いた音が空気を切り裂き、男の頬に何かが直撃した。
それは鋭さも重みもない、ただただ――不意打ちとしては完璧な一撃だった。
「……っ?」
男の表情がかすかに揺らいだ。
ゆっくりと振り返るように視線を動かす。
そこにいたのは――
学ランを着た少年。
金髪の髪はオールバックに撫でつけられ、横はすっきりと刈り込まれたツーブロック。
口元にはいたずらっぽい笑みを浮かべ、片手を正面に突き出し、もう一方の手でゴムをピンと引いている。
まるで拳銃を構えるガンマンのようなポーズだが、彼が握っているのは輪ゴム一本だった。
「女の子にそんな物騒なもん向けるなんてさ……それ、男のすることじゃねーんじゃねぇの?」
場の空気が、わずかにずれた。
その登場に、ゆいは思わず声を上げた。
「……だん!」
「助太刀するぜ、ゆい!」
ダンは勝ち誇ったようにニカッと笑った。
だが、ゆいは真顔で鋭く突っ込んだ。
「でもあんた、弱いじゃん」
その瞬間、だんの笑顔が凍りつく。
「ガーン! お、おれ弱くねぇし! ランクだって、ちゃんとCあるんだからな!」
必死の自己弁護。しかし自信満々だった態度はすっかり崩れ、肩はがっくりと落ちている。
にもかかわらず、彼は一歩も退かない。
手元の輪ゴムを握り直し、また引き絞る。
「いいか、輪ゴムってのはな……当てる場所次第じゃ、命を左右すんだぞ……!」
その間にも男の目は、じっとだんを観察していた。
さきほどまでの張りつめた空気が、わずかに緩み始めている。
男はしばらくだんを見据えていたが、やがて視線を逸らした。
銀色の刀身が光を受けてわずかに瞬くと、彼はそれを静かに鞘へ戻す。
カチリ、と収まる音が、あたりの空気を締めつけた。
そして踵を返し、ゆっくりと歩き始める。
その背中に、ゆいの声が投げかけられた。
「……あんた、私の敵だったの? みんなは……まだ、生きてるの?」
かすかに、男の足が止まる。
振り返ることはしなかった。
ただわずかに首を傾けるようにして、ぽつりと答えた。
「……俺はお前の敵だ。それだけは、確実に言える」
それきり、男は再び歩き出した。
足音だけが廃れた通路に響き、やがてそれも消える。
彼の姿は、夕闇の帳に溶け込むようにして見えなくなった。
しんと静まり返る。
空には、夕日が最後の赤を引きずりながら沈んでいく。
ぽつり、と足音を立てながら、だんがゆいのそばに近づいてくる。
彼の顔からは、さっきまでの陽気さが消えていた。
輪ゴムを巻いていた指先が、ゆるく震えているのが見える。
「……大丈夫かよ」
そう言いながら、だんは落ちていたゆいのカバンを拾い上げる。
少し迷ったようにそれを差し出し、照れ隠しのように言った。
「荷物……持ってやるよ」
ゆいはそれを一瞥し、そっぽを向くようにして返す。
「……別にいい。助けも求めてなかった」
だが、その声音にはどこか柔らかさがあった。
だんは一瞬きょとんとしたあと、肩をすくめて笑う。
「ははっ、そりゃそうか……」
ゆいはゆっくりと彼の手から荷物を受け取ると、ふっと目を伏せ、小さく呟いた。
「でも……ありがと」
その一言に、だんの動きが止まる。
「……おうっ!」
反射的に顔を逸らす。
耳まで赤くなっているのが、夕焼けに照らされてよくわかる。
そこに、綾織の柔らかな声が重なった。
「とりあえず……帰ろっか」
その声は、場の空気に優しく蓋をするようだった。
ゆいは紙を拾い少し眺めてからポケットに押し込んだ。
三人は静かに並び、ゆっくりと歩き出す。
遠ざかる足音と、淡い夕暮れの光だけが、廃れた通路を照らしていた。
ゆいは歩きながらも、何度も思い返していた。
あの男の声。言葉。
そして――白い紙切れ。
その上に引かれていた、見覚えのない地図のような線。
脳裏に焼き付いたまま、それらは決して離れなかった。
(……私は、本当は何を忘れてるの?)
夕日が完全に沈む頃、彼女の中には、ひとつの問いが根を張りはじめていた。
お知らせとお願い
毎日 昼12時と夜の20時の2話更新です。
続きが気になったらブックマークで追ってください。
感想・誤字報告も励みになります。
週1で『夢の住人 外伝』(短編)も投稿(毎週月曜)。




