「慎重な出発」
「……よし、行こうか」
ケイが静かにそう告げたのは、朝の光がカフェの窓をぼんやり照らし始めた頃だった。
ソファから立ち上がった彼の姿は、見た目にも痛々しかった。腕にはまだ包帯が巻かれ、服の下には打撲と擦過傷。歩くたびに微かに体を引きずる。だが、その目には確かな意思が宿っていた。
「本当に、大丈夫ですか?」
拓真が不安そうに声をかける。
「……見た目よりはマシだよ。薬が効いてる。たぶん、もうちょっとは動ける」
そう言ってケイは苦笑した。
昨夜、ケイの応急処置に奔走したのは拓真だった。慣れない手つきで包帯を巻き、薬箱を引っ張り出して、言葉少なに手を動かしていた。ぎこちないながらも真剣なその姿に、ケイも何度か助けられた。
ゆいはと言えば、静かに荷物の確認をしている。
「無理してたら、途中で捨てていくから」
皮肉めいたその言葉にも、どこか冗談めいた優しさが滲んでいた。
「……なるべく捨てられないようにするよ」
ケイは軽く笑い返すと、背負った荷物の紐をきゅっと締め直した。
三人は、ゆっくりとカフェをあとにした。
目指すは、地下B3階にあるという“白の広場”。綾織紬が属する、シェルターと呼ばれる避難所。
――ただの取引かもしれない。――あるいは、もっと深い場所に踏み込むことになるのかもしれない。
いずれにせよ、もう選んだ以上、あとは進むだけだった。
「慎重にね。どこで何が起きるか、わからないんだから」
ゆいの言葉に、ケイはひとつうなずいた。
「……わかってる。ちゃんと見極める」
数時間歩き郊外のショッピングモールについた
モールの前に立ち、ケイがぽつりと呟く。
「……ここか」
地上から見える建物は、どこにでもある郊外型のショッピングモールだった。色褪せた看板と割れたガラス、雑草が伸び放題の花壇。だ
が、地下にシェルターがあると考えると、確かに都合のいい構造ではある。
「なんか……普通のショッピングモールに見えるね」
拓真が辺りをきょろきょろと見回す。
三人は正面の自動ドアを手でこじ開け、中へと足を踏み入れた。
モールの一階は食品売り場だったらしく、レジカウンターや陳列棚が無造作に散乱している。破られたビニール包装、床に転がる空の缶、乾いた泥。
「……ここ、荒らされてる」
ゆいが小声で言う。
カフェではあまり意識していなかったが、改めて思う。夢の中では、誰かが食べたものを補充する「人」は存在しない。作る人間も、運ぶ人間もいない。人が集まるだけで物資は尽き、空間は劣化していく。
「……人が多く集まるほど、荒れていくのかもな」
ケイのつぶやきに、ゆいも無言でうなずいた。
そのとき――
「ケイさん! ゆいさん! 拓真さん!」
明るく澄んだ声が通路に響く。
振り返ると、モールの奥から綾織紬が手を振りながら駆けてきた。心から嬉しそうに笑っている。
「本当に来てくださったんですね!」
頬を紅潮させながら、彼女は立ち止まり、一人ずつに深くお辞儀をした。
「案内しますね。シェルターは地下三階です」
彼女に導かれて、三人は館内のエレベーターへと向かった。驚いたことに、それはまだ正常に動作していた。
ボタンを押すと、重たい音とともに扉が開く。
「ここ、地下が結構広くて……もともと倉庫スペースだったんですけど、改装したんです」
地下三階に到着したエレベーターの扉が開くと、そこは地上の荒廃とはまるで異なる空間だった。
畳の匂いがほのかに漂い、落ち着いた色調の照明が廊下を照らしていた。襖の代わりにスライドドアが並び、装飾や調度品には統一感がある。まるで旅館のようであり、同時にホテルのような機能性も備えていた。
「……ほんとに旅館だな、これ」
ケイがぽつりと呟く。
「この地下だけ、雰囲気が違う」
ゆいが目を細めた。警戒の色を隠さない。
「建物の構造を変えられる人がいて……その人が全部作ってくれたんです。……本当にすごい人で……」
綾織は誇らしげに話した。
その言葉に、ゆいはほんのわずかに眉をしかめた。
(……構造を変えられる、ってことは。いざという時、閉じ込められる可能性もある)
「その、彼の設計って……とても効率的なんです。監視とか、管理の面でも……死角がないようにできてて……」綾織は少し口ごもるように言った。
「まあ……ちょっと、ちょっと怖い人なんですけど。」
綾織は微笑みながらも、どこか怯えていた。
そのとき、ケイはふと気配を感じて振り返る。廊下の奥、消毒液のような匂いの漂う空間。その先に一人の男が立っていた。
茶色の制服に、無表情な顔。その視線がほんの一瞬、こちらを射抜いたように思えた――だが、すぐに背を向けて立ち去っていった。
「……誰?」
「え? ああ、うちの人です。警備の方……かな。たぶん」
綾織は笑ってごまかしたが、その表情にはどこか、説明しきれない“間”が残っていた。
言葉にはしなかったが、その懸念は確かにケイにも伝わっていた。彼は黙って前を見つめていたが、その歩みは止まらなかった。助けると決めた以上、立ち止まる理由はなかった。
「うわぁ……すっげえ……ホテルみたいっすね……!」
拓真はあっけらかんと口を開いた。警戒心のかけらもない。
綾織はくすっと笑った。
「部屋は全部で50部屋。現在は84人が生活しています。戦える人はそのうち8人ほど……でも、正直強くない人が多くて」
そう言いながら、自分の胸元を指差した。
「私もその中の一人なんですけど……糸を使った“あやとり”のスキルなんです。けど運動神経悪くて……あんまり役に立ってなくて……」
どこか恥ずかしそうに笑う彼女に、ゆいがちらりと視線を送った。
(戦えないのに、必死にここを支えてるんだ……)
言葉にはせずとも、その背中にはどこか同情にも似た感情が滲んでいた。
「私は、今のこの場所が好きです。……でも、みんながそうかは、わからないです」
綾織のその言葉に、ゆいがわずかに眉をひそめた。
「意見が分かれてるってこと?」
「あ……ごめんなさい、変なこと言いましたね」
綾織は笑顔を取り戻すが、言い直さなかった。
「こっちがリーダーの部屋です。」
綾織に案内された部屋の扉には「管理室」と記されたプレートがかかっていた。だが、ノックをしても中から返事はなかった。
「……あれ、まだ戻ってないみたいです」綾織は少し申し訳なさそうに笑った。「少し、待っててもらってもいいですか?」
ケイは軽くうなずき、三人は部屋の中へと通された。
部屋の中は予想外に簡素だった。カーテン越しの外の光が柔らかく広がり、壁際には書類棚、中央には大きな木製のテーブルと4脚の椅子。それだけだ。
ゆいは椅子に腰を下ろすと、小さく息を吐いた。「……さて。あたしたち、何に巻き込まれたんだろうね」
「まだ何も始まってませんよ」拓真は隅にあった水差しからコップに水を注ぎ、緊張を誤魔化すように口に運んだ。
ケイは黙って壁際に立ち、ゴーグルを外して手の中に握っていた。思考の奥で、いくつかのパターンを組み立てながら――それでも、助けると決めたことを揺らがせる気配はなかった。
ふと、扉の外で足音が止まった。重く、確かな足取り。誰かがゆっくりと近づいてくる。
コン、コン――
軽く、律儀なノック音のあと、扉が静かに開いた。
入ってきたのは一人の男だった。
40代後半ほど。背は高く、無駄な脂肪のない鋭利な輪郭。黒に近い灰色の髪を後ろへ撫でつけ、深く切れた目元は焦点が合っているのかも判別がつかない。その肌は日光に当たっていない白さを超えて、どこか青みを帯びた“無機質”な色だった。
男の装いは羽織袴を改良した現代風の黒装束。胸元と袖には、銀糸で刺繍された能面の模様が浮かび、腰には本物の能面が数個、音を立てずに揺れていた。
手袋の指先がぴたりと動き、男は口を開く。
「――初めまして。私は、篁 宗近。ここの、まとめ役だ」
その声は低く、能の謡を思わせるような緩やかで抑揚のある口調だった。句読点ひとつひとつを明確に刻むように、男は言葉を紡ぐ。
「突然、引き合わせて――すまなかった。君たちが、来てくれたことに――礼を言う」
三人は無言で、わずかに頷く。
「用件は――ひとつだ」
篁は椅子に座らず、立ったままテーブルの向こうから彼らを見下ろした。
「ある区域で――“低ランク狩り”を行っている一団がある。奴らは、この世界に迷い込んだ人間を――“働かせ”、生き延びるためだと――“殺し”をさせている」
「……迷い込んだ人間を?」ゆいが眉をひそめた。
「あぁ。適応できず、居場所を求める人間を――手足のように扱い、“狩る”ことで生かしている。そして我々のような避難所を見つけると――“物資提供”と称して脅しをかける」
宗近は一歩、机に近づいた。揺れる能面がわずかに擦れ合って、乾いた音を立てる。
「この“シェルター”は――武力で守れるほどの力を持っていない。84人のうち、戦えるのは――せいぜい8名。そしてその中に――真に“戦闘職”と呼べる者は、ごく僅かだ」
綾織が、うつむいたまま小さくうなずいた。
「だから――“討ってほしい”」
ケイは、言葉を挟まずに聞き続けた。宗近は続ける。
「討つ理由は、“正義”ではない。我々の――生存のためだ」
部屋の空気が一段、重く沈んだ。
「……殺し、ってことですか?」
拓真が、小さく問う。
「そうだ。だがこれは、取引だ。強制するつもりはない。ただ……助けると決めたのは――君たちの意志だったと、聞いている」
ケイは、少し視線を落とした。
沈黙。
やがて彼は、ゆっくりと顔を上げる。
その目には、ためらいがあった。だが、それでも後ろへ引くものではなかった。
「……やります」
「ケイ?」
ゆいは目を見開いたまま、まるで言葉を失ったように固まっていた。
拓真は、言葉が出ないようだった。
宗近は、小さく頷いた。
「詳細は――追って伝える。君たちに――感謝を」
そして、再び静寂が部屋を満たした。
次の戦いは、もう始まっていた。
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