「失うもの」
東京のスクランブル交差点。
信号の電子音が鳴っているはずなのに、耳に届くのは遅い。
巨大な広告の光だけがやけに白く、街の気配は薄い膜の向こうで揺れている。
湿ったアスファルトの匂いが喉の奥に貼りついた。
静まり返っていた。
横断歩道の白線がやけにくっきり浮かび、風に舞う紙くずの擦れる音だけが不自然に響く。
俺の腕の中には、ひとりの女がいた。
重さだけは確かで、体温の名残が腕に残っているのに、呼吸だけが返ってこない。
彼女の胸元には——正方形の穴が空いていた。
最初、目が状況を拒んだ。
見えているのに、理解が追いつかない。呼吸が、ひとつ遅れる。
角が、妙に整っている。
切り取られたみたいに四辺が真っ直ぐで、そこだけ“現実の手触り”が剥がれている。
その奥に、横断歩道の白線が見えた。
その間に——彼女を支えている俺の腕が見える。
抱きかかえているのに、腕が途中で区切られて、穴の縁に挟まれているみたいに。
「……なんだよ、それ」
声が掠れた。息を吸っても肺がうまく膨らまない。喉が乾いて、舌が張りつく。
彼女の顔を見る。
前髪が、きっちり真っ直ぐに揃っていた。乱れがない。こんな状況に似合わないくらい、丁寧に整っている。
長い睫毛が影を落として、閉じた瞼の線が静かすぎる。頬には、涙の跡が一本だけ残っていた。
涙の筋が乾ききらず、光を拾って細く鈍く光っている。
綺麗だった。
腹の奥が冷たくなる。
視界の端で、二人の男が近づいてくる。
足音があるはずなのに、地面に触れる感覚だけが遅れてくる。
そのうちの一人が、淡々と言った。
「君たち二人のスキルが、どうしても欲しかったんだ」
淡々としていて、それが余計に、腹の奥を煮え立たせた。
「……ふざけるな」
言い切れない。
俺は女を抱え直して、腕の力を込めた。穴の縁で、自分の腕が小刻みに揺れた。
「返せ」
声が震える。
「返せよ!!」
叫んだ瞬間、交差点の画面が一斉に白く明滅した。
広告も、信号も、空も、全部が一度だけ“フリーズ”する。
次の瞬間――俺は、ベッドの上で息を吸い込んでいた。
「……っ!」
汗が首筋を伝って落ちる。心臓だけがやけにうるさい。暗い部屋。自分の手。空っぽの腕。
「……夢、か」
そう呟いた瞬間、さっきまでの光景は崩れた。
場所も、声も、誰がいたのかも、引っかかりすら残らない。
思い出そうとしたところで、指の間から砂が落ちるみたいに逃げていく。
……なのに。
胸の奥にだけ、説明のつかない“欠け”が残っていた。
形も意味も分からない。ただ、何かが四角く抜け落ちたみたいな気持ち悪さ。
俺は額を押さえて、ため息を吐く。
「……気持ち悪い夢。」
言いながら、もう一度目を閉じた。
今の夢の中身は、もう本当に、思い出せなかった。
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