「覚悟」
目を開けた瞬間、天井の染みが真っ先に視界へ飛び込んできた。
黄ばんだ丸い斑点。湿気を吸ったみたいに輪郭がぼやけていて、どこか目玉に見える。二か月も行ったり来たりしているのに、こいつだけは毎回同じ顔でそこにいる。変わらない天井。変わらない染み。
息を吸う。静かな空気が肺の奥まで染み込む。
「……戻ってきたか」
呟いた声が、妙に耳の中で反響した。
ここが現実だと分かる。分かるだけでいい。現実に“帰ってきた”というより、現実に“点呼を取りに来た”みたいな感覚だった。
最初の頃は違った。夢の中が怖くて、逃げるために現実へ戻ってきていた。銃声も爆発も、死体の匂いも、全部が耐えられなくて、「一回落ち着こう」と自分に言い聞かせて薬を飲んだ。
でも今は、そこまでじゃない。
怖さは消えない。けれど、怖さだけで引き返すほどの距離でもなくなった。夢の中の二か月は、もう“特別な出来事”じゃなく“生活”になっている。
だから俺は、現実に戻ってくる。
安心のためというより――自分がまだここにいるか確かめるために。
スマホを手に取る。時刻は午前5時を少し回ったところだった。前回戻ってきたのは夢の時間で三日前。あの世界で三日過ごして、薬を飲んで、こうしてこっちの天井を見ている。
時間のズレは相変わらずだ。けれど、もう驚かない。驚かないこと自体が、少し気味が悪い。
カーテン越しの薄い光が部屋をぼんやり染めていた。街はまだ目を覚ましていない。車の音も、人の声もない。静まり返った空気が、現実の重さを教えてくる。
ここには銃声はない。殺される心配もない。寝ている間に窓を割られることもない。
安全だ。
安全だからこそ、戻ってこられる。危険から逃げるためじゃなく、“壊れてないふりができる場所”として。
俺は起き上がって、スマホの通知を眺めた。LINE、メール、ニュース。どれも静かだ。変わらない日常が、無言で並んでいる。
(……誰もいない)
その事実が、胸の奥をちくりと刺した。
慣れているはずなのに、慣れていない。孤独っていうのは、慣れた頃にもう一段深く刺してくる。俺が現実で何をしていようと、誰も気にしない。俺がいなくても世界は回る。
それが“普通”だと分かっているのに、夢の中の生活を覚えてしまったせいで、余計に痛い。
現実は、ただ静かに俺を透明にしていく。
夢は、危険で、うるさくて、理不尽で――それでも、俺の輪郭を太くする。
理由はくだらないのかもしれない。
ゆいにとって俺は、たいした存在じゃない。たぶん。多分。
ほとんどはコーヒーだ。カフェラテを作れと言う。泡がどうだ、ミルクがどうだ、砂糖は要らないとか、勝手な注文を並べる。
それだけ。
なのに、その「それだけ」が、現実のどんな言葉より俺に届く。
現実の「お疲れ」は流れで発生する。
向こうの「作れ」は、俺がそこにいるから発生する。
たったそれだけの違いが、俺には大きい。
誰かの都合の中に、自分の席が一つある。立派な理由じゃなくてもいい。役に立つのが小さなことでもいい。自分がそこにいることで、ほんの少しでも誰かの手間が変わる――その実感がほしいだけだ。
あの店の匂い。カップが触れ合う音。無表情のまま当然みたいに注文してくる声。
くだらない。けれど、くだらないから嘘がない。俺がいないと困るのは、せいぜい一杯のコーヒー分。なのに、それが“俺が必要”という形になる。
夜が近づくにつれて、眠気が来る。薬の眠気じゃない、普通の眠気。まぶたが重くなり、意識の底がゆっくり沈んでいく。
ラグの上に横になる。天井の染みが視界の端で揺れる。
この静けさが好きだと思う。現実の静けさは、危険がないという意味で優しい。
だけど、その優しさは、俺の輪郭を薄くする。
向こうは優しくない。雑で、乱暴で、容赦がない。だけど、俺の輪郭をはっきりさせる。
だから――
まぶたが落ちる直前、喉の奥から言葉が漏れた。
「……戻るか」
言ってしまってから、ほんの一瞬だけ意識が浮いた。
(戻る?)
ここが現実なのに。俺が戻ってきた場所なのに。ここが居場所じゃないように。
言葉の意味を考えるより先に、胸の奥で理解が起きる。
現実は確認の場所だ。点呼の場所だ。生きているかを確かめるための場所。
俺が“生きている感じ”を取り戻せるのは、向こうだ。理由がどうであれ、必要とされる場所だ。
「戻るか」
それは決意というより、暗示みたいな独り言だった。自分で自分に言い聞かせる、帰巣本能みたいなもの。
意識が沈む。部屋の冷たさが薄れていく。
現実の孤独の痛みが、遠ざかっていく。
代わりに、あの店の匂いと、「作れ」という雑な声が、近づいてくる。
そして俺は、自然に沈んでいった。
お知らせとお願い
毎日 昼12時と夜の20時の2話更新です。
続きが気になったらブックマークで追ってください。
感想・誤字報告も励みになります。
週1で『夢の住人 外伝』(短編)も投稿(毎週月曜)。




