「反復」
ケイは自分の部屋で目を覚ました。
「……あれ?」
見慣れた天井が、寝起きの視界にぼんやり浮かぶ。
少し黄ばんだ蛍光灯のカバー。角の黒ずみ。カバーの内側に溜まった細い埃。
夜の間に止めたはずの暖房が、微妙に効きすぎていて、空気が乾いている。喉がひりついた。
頭が重い。
寝起き特有のぼんやりした感覚の中で、何かを見ていた気がした。
(……夢、見てたような)
でも、内容は掴めない。強い光と、誰かの声。
それだけが、輪郭のない染みみたいに残っている。夢の記憶というより、夢の“温度”だけが皮膚に残っている感じだ。
枕元の時計を見る。
午前七時。
いつもと同じ時間だ。
身体を起こすと、腰のあたりが鈍く痛んだ。寝返りが少なかったのかもしれない。
床に落ちたスマホが目に入る。昨夜、寝る前に触っていた記憶はあるが、何を見ていたのかは思い出せない。画面を点けようとして、手が止まる。理由のない面倒くささがある。
起き上がって、カーテンを少しだけ開ける。
薄い朝日が差し込むと、部屋の散らかりが一気に現実味を帯びた。脱いだ服。充電ケーブル。机の上に積まれたレシート。使いかけのティッシュ箱。
キッチンへ行く。
シンクには、カップ焼きそばの容器が置きっぱなしになっていた。
麺は湯切りに失敗して水っぽく、すっかり冷えている。ソースの匂いも中途半端に残っていて、鼻の奥に引っかかった。
「……また、やった」
独り言が自然に出た。
昨夜、途中で食べる気が失せたのか。
それとも眠気に負けたのか。
理由は分からないが、こういうことはよくある。自分でも“よくある”と片づけてしまうくらいには。
蛇口をひねり、容器を洗う。
水が容器に当たる音が、やけに現実的だった。
夢の残り香みたいなものが、音と一緒に流されていく気がする。
歯を磨き、顔を洗い、着替える。
冷たい水が頬に当たって、ようやく目が覚める。
鏡に映る自分は、いつも通りだ。寝癖のついた髪。少しむくんだ顔。眠そうな目。
特別な何かが起きた痕跡なんて、どこにもない。
今日はカフェのバイトだ。
家を出て、駅まで歩く。
朝の空気は冷たく、すれ違う人たちはみんな急いでいる。
誰もが自分の生活を抱えて、生きている。
それが妙に安心でもあり、少しだけ虚しくもある。
バイト先に入ると、豆の香りとミルクの甘い匂いがした。
ガラス越しの朝日が店内に伸びて、カウンターの金属が白く光る。
更衣スペースでエプロンをつけ、髪を整え、表情を“仕事用”に切り替えた。
「いらっしゃいませ」
注文を取る。
ドリップする。
ミルクを温める。
カフェオレを出す。
流れは体に染みついていて、考えなくても手が動く。
スチームの音、カップが皿に触れる音、レジの電子音。
忙しさに追われているうちに、朝の曖昧な違和感は遠ざかっていった。
昼過ぎ、シフトを上がる。
外に出ると、空が少しだけ高く見えた。
帰り道、ふと「朝の夢って何だったっけ」と思いかける。だが、思い出せない。
思い出せないことに、いちいち引っかかるのも面倒で、それを放っておいた。
夜。
部屋に戻って、風呂に入って、布団に入る。
今日も同じ一日だった。
そう思いながら、けいは目を閉じた。
次に目を開けたとき、柔らかい感触が背中にあった。
布団じゃない。
ソファーだ。
身体が少し沈み込み、背中に布のざらつきが伝わる。
視界に入るのは、天井ではなく、低い照明。
暖色の光が、目に優しい代わりに、妙に現実感がない。
鼻先に、コーヒーとミルクの混ざった匂いが届く。
それは現実のカフェで嗅ぐ匂いと似ているのに、どこか違う。
焦げた匂いが、ほんの少し混じっている。
「……?」
身体を起こすと、目の前に少女がいた。
カフェラテを片手に、ゆっくりとカップを傾けている。
飲み方が落ち着いているせいか、時間の流れ方までゆっくりに見える。
こちらの動きに気づくと、少女は視線を上げて、微笑みかけた。
「おかえり」
その言葉に、一瞬だけ戸惑った。
理由は分からないのに、“知っている”ように胸が反応する。
反射的に返事をした。
「あ、ただいま」
言った瞬間、胸の奥がざわつく。
心臓が一拍遅れて強く打つ。
喉が乾く。
遅れて、記憶が押し寄せてきた。
壊れたカフェ。
銃声。
血の匂い。
あの銀色の錠剤。
そして、“夢の中で生きる”という感覚。
頭の中で、バラバラだったピースが音を立てて噛み合っていく。
現実で過ごした一日が、薄い紙みたいに遠ざかって、こっちの“続き”が一気に濃くなる。
「……あ」
思わず声が漏れる。
自分の声が、カフェの静けさに吸い込まれていく。
ゆいはそれを見て、どこか慣れた様子で言った。
笑うでもなく、からかうでもなく、落ち着かせるような声。
「最初はね。現実に戻ると、ほとんど夢の出来事は忘れるの」
カフェラテを一口飲む。
唇がカップに触れる小さな音まで、妙に鮮明に聞こえた。
「でも、戻る回数が増えると、だんだん残るようになるから。全部じゃなくても、“感触”とか、“感覚”とかね」
「……そう、なんだ」
けいはそう答えながら、周囲を見回した。
店内が、やけに整っている。
割れていたはずの窓も、崩れていたはずの椅子も、まるで最初から何もなかったみたいに元に戻っている。
床の傷まで薄くなっている気がする。
さっきまで確かに“壊れていた”という確信があるのに、証拠だけが消えている。
「ここ……」
声にすると、現実味がさらに削れていく。
「夢の中だから」
ゆいは当たり前のことのように言った。
「目を離すと、勝手に直る。この世界、そういうふうに出来てるの」
けいはその言葉で、ようやく思い出す。
確かに、前にも同じ説明をされた。
その時は「そんな馬鹿な」と思ったはずなのに、今は驚きより“納得”が先にくる。
「あぁ……」
納得と違和感が、同時に胸に落ちる。
現実ではあり得ない。
でも、ここでは“普通”だ。
ゆいはカップを置き、ケイを見る。
視線はまっすぐで、どこか優しい。
「慣れてくるよ」
そう言われて、けいは言葉を失った。
慣れる、という言葉が、慰めにも希望にも聞こえる一方で、
この場所が“当たり前”になることへの怖さも、確かに含んでいたから。
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