第2部 第1章 自供
午前六時。目覚ましが鳴る二秒前に目が覚めた。
こういう日が増えたのは、四十を過ぎてからだ。若い頃のような緊張感も、眠気も、もうあまり感じない。眠りは浅く、夢も単調で、時間の感覚だけが妙に正確になった。歳を取るというのは、こういうことかと、最近になってやっと納得できるようになった。
歯を磨き、髭を剃る。流し台のステンレスの冷たさに、まだ冬が残っていた。
コーヒーメーカーのスイッチを入れ、昨日の新聞をめくる。スポーツ欄を流し見て、社会面の端に目を留める。どこかの公園で猫の死骸が見つかったという記事。
誰かが何かを始めている。そんな気配を、俺はわりと信じる方だ。
出勤は地下鉄。七時台の車両は、思ったより静かだった。イヤホンをした学生と、スマホの画面を眺める会社員。どちらの目にも、朝というより“中断”の表情が浮かんでいた。眠りと仕事の間に挟まれた、何者でもない時間。俺はこの“曖昧さ”が好きだった。
署に着くと、まずは巡回の報告書に目を通す。自転車の窃盗、近隣トラブル、塀の落書き、ペットの失踪。いずれも重大性はないが、積み重なれば、それは“気配”になる。
「また、痴話げんかがひとつ」
若いのがそう言って書類を渡してきた。
最近の若者は“痴話”なんて言葉をまだ使うんだなと、少しだけ意外に思った。目を通すと、飲食店の駐車場で男が女に暴行したという通報。だいたいが、別れ話のもつれだ。殴った、責めた、泣かせた──それでもまた元に戻る。警察が介入しても、翌週にはまた寄り添っている。
愛情と暴力は似たような顔をして近づいてくる。そういう事例を、これまでいくつも見てきた。
「被害者は病院行き?」
「はい。軽傷ですが、頭を打ってるんで念のため検査を」
「加害者は?」
「現場で確保。酒は入ってなかったようです」
いつも通りだ。心の中でそう呟きながら、俺は書類をトレイに戻した。
事件の九割は人間関係だ。金と性、それに名誉が絡む。動機はどれも単純だが、背景は複雑になる。だから俺たちは、動機よりも構造を見る。どこから歪んでいたのか。どこで綻びが始まったのか。それを見極めるのが、俺の仕事だ。
俺の机の引き出しには、手帳がある。事件記録の抜粋と、個人的なメモ。重要なのは「順序」だ。感情は後でいくらでも脚色されるが、行動の順序はごまかせない。
朝の静けさの中、着信音が鳴った。内線ではない。個人携帯に署の代表番号が入るのは、めったにないことだった。
「……はい、遠藤です」
「◯◯区△△町、アパートで女性が倒れているとの通報。第一通報者は男性。現場、急行願います」
「了解」
俺はコートを羽織り、手帳を掴んで席を立った。
事件は、予告なしにやってくる。それも、たいてい平凡な朝を選んで。
現場は、駅から少し離れた住宅地の中にあった。細い路地に沿って並ぶ二階建てのアパート群。その一角、築10年ほどの建物──どこにでもある、学生用のワンルームだった。
現着は通報からおよそ十五分後。パトカーが一台、既に到着していた。青いビニールシートがアパートの前に設置され、警官が立ち入りを規制している。
俺が階段を上がると、二階の突き当たり、玄関前にスリッパが散らばっていた。
「遠藤さん、お疲れさまです」
制服の若い巡査が小声で挨拶する。
「中の状況は?」
「女性、刺創あり。既に搬送済みですが……心肺停止とのことです」
一瞬、息が止まるような静寂が流れる。
心肺停止──つまり、ほぼ死亡確定だ。
玄関の外には、第一通報者がいた。年齢は三十代半ば。ダウンジャケットにジーンズ姿、肩が妙に落ちている。手にはスマホ。目はどこか虚ろで、やや腫れていた。
「名前は?」
「藤沢 賢一。職業は予備校の講師とのこです。……被害者の予備校時代の担当だったとか」
巡査の言葉に、俺は視線を向ける。
藤沢──その表情は「元教え子を心配して駆けつけた」にしては、妙に沈んでいた。呼吸が浅く、口元はかすかに震えていた。
「藤沢さん、遠藤です。警察です。お話、少し伺ってよろしいですか」
男は、小さくうなずいた。
「……柚木さんとは、以前……予備校のときから知っていまして。ずっと……文系の担当をしてたんです。進学後も、たまに相談を受けたりして」
「今日ここに来た理由は?」
「昨夜、彼女へLINEが来て……“今日は会えない”とだけ。いつもと違う雰囲気で……」
「それで、心配になった?」
「ええ……朝になっても既読にならなくて……彼女、ちょっと精神的に不安定な時期もあったので。どうしても気になって……来たら、玄関の鍵がかかってなくて……声をかけても返事がなくて……」
そこで男の声が詰まった。
鼻をすすりながら、震える指でスマホを握り直す。
「……中を覗いたら、倒れてて。血が……床に……。すぐに……通報しました」
その様子は、確かに取り乱しているようにも見えたが、それが「罪悪感」か「悲しみ」かの判別はまだつかない。
俺はビニール手袋をつけ、室内を確認する。
──静かだった。
家具の少ないワンルーム。ベッド脇の床には血の跡。倒れ込むように崩れていた痕跡。キッチンの流しには布巾が二枚。スリッパの片方がベランダ側に投げ出されている。
乱雑さはない。争ったような形跡も見当たらない。
ただ、生活の輪郭に混ざるように“死”が置かれている。そんな空間だった。
「死因は刺創と見て間違いないか」
「はい。左胸。深い傷が一箇所。凶器は、現場の包丁で間違いないかと。」
なるほど。
視線を巡らせると、カラーボックスの上に香水の瓶があった。男物のブランド。蓋が外れている。
冷蔵庫には、半分だけ使われた卵パック。ガスコンロの上には小鍋。料理の途中だったのだろうか。まだ生活の手触りが残っている。日常の一部が、突然断ち切られた印象だった。
アパートの入り口はオートロックだった。インターホン経由で来訪者を迎え入れた可能性が高い。顔見知りだろう。
俺は藤沢のほうへもう一度向き直った。
「藤沢さん、あなたと彼女の関係は、どこまでだったんですか?」
男は目を逸らした。肩が微かに上下する。
「……恋人ではありません。……けれど、親密では、あったと思います。……私のほうは……生徒としてというか……」
その“言い方”に、何かが引っかかった。
「彼女のほうは、どうだったと思います?」
「……たぶん……他に、好きな人がいたんじゃないかと……。最近、距離を感じていて……」
藤沢の手には擦り傷があった。右の指に小さな切り傷。室内のどこかでつけたか、あるいは──
「お怪我ですか?」
「え……あ……。たぶん、玄関で転んだときに……記憶が曖昧で……」
視線が揺れている。呼吸も浅い。だが、証拠はまだ決定的でない。
俺はポケットから手帳を取り出し、現場の状況と藤沢の証言をメモしていく。
第一報からわずか一時間。
まだ、事件は“入口”にすぎない。
だが、この違和感──
なにかが、この部屋の空気に混ざっていた。
それが何かは、まだ分からない。
けれど、引っかかった“何か”は、確かにそこにあった。
翌日の午前八時過ぎ。いつもより少し早く署に入ったとき、ロビーの受付が妙に静かだった。数名の署員が集まり、小声でなにか相談している。
その中央に、一人の男がいた。
痩せた長身。黒のコートに、くたびれた鞄を抱えて立っている。
目立たない風貌だが、その立ち姿には妙な“空白”があった。沈黙が、身体ごと彼に染み込んでいるような静けさ。
「遠藤さん……犯人、です」
受付係が、少し困ったような顔で言った。
「自首してきました。付き添いの弁護士もいます」
「名前は?」
「遠野 湊。都内の私立大学・文芸学科の修士1年だそうです。昨日の殺人事件の件で──“自分がやった”と書いた文書を持ってきました」
「文書?」
署員は慎重にファイルを差し出す。A4で22枚。ページ番号も打ってある。
冒頭には、たった一行。
《──その夜、僕は彼女を刺した。》
以降、文章は小説のような口調で、被害者との関係性や事件当夜の描写が綴られていた。正直、読み進める前から頭が痛くなった。
「これが“供述”ってことか」
「……はい。ただし、本人は“話せません”。医師の診断書がこちらに」
渡された封筒には、「場面緘黙症」の診断書が入っていた。小児期からの既往歴、近年は症状が落ち着いていたが、強い精神的負荷で再発する可能性──。
俺はファイルを閉じ、受付の奥のベンチへ目を向けた。
遠野 湊。
彼は、微動だにせず、こちらを見ていた。
感情の色がない、というのが第一印象だった。
恐怖や後悔といった人間的な“にじみ”がない。
かといって放心しているわけでもない。
その目は、静かに、まっすぐ俺を見据えていた。
「遠野 湊さん」
俺が声をかけても、彼は一切反応しなかった。視線は逸らさず、眉も動かさず、ただ黙っている。
傍にいた弁護士が一歩前に出る。
「申し訳ありません。彼は現在、発語が困難な状態にあります。ですが、意志の表明として、先ほどの文書を提出させていただきました。内容はすべて本人の手によるものです」
「自分が“刺した”と、認めている?」
「ええ、文書の通りです。本人は否認しておりません。ただ……それ以上の口頭説明は、医師の見解からも、現時点では難しいかと」
俺は遠野の顔を再び見た。
やはり、何も動かない。
問いかけても、頷きすらしない。
それでも、目線だけは変わらなかった。
──やっかいなことになりそうだ。
この静けさは、沈黙じゃない。
防御だ。
俺は静かに息を吐いた。
たった一行の文と、黙り込んだ男。
こんなものだけで事件を読み解けるわけがない。
だが、現場は認めた。自首も成されている。
動機も、供述も、この22枚の文書の中にあるというのか。まるで、こちらが“読む”側にされているみたいだった。
俺はファイルを小脇に抱え、背を向けた。
「……じゃあ、とにかく読ませてもらうよ」
背後から、何の音も返ってこなかった。
ただその静寂だけが、妙に長く、耳に残った。
***
翌日の取調室は狭く、白く、無機質だった。
テーブルと椅子がひとつずつ。時計の音が響くほどの静けさ。
俺は椅子に腰を下ろし、斜向かいの遠野を見た。
彼は、先に座っていた。背筋を伸ばし、視線は俺に向けられている。
だが、その目は“目を合わせている”わけじゃない。あくまで正面を“見ている”だけだ。
「……遠野 湊さん」
名を呼ぶ。反応はない。
目も逸らさない。頷きもしない。ただ沈黙が返ってくる。
場面緘黙。
医師の言葉によれば、発語だけでなく、意思表示も難しくなる場合がある。
けれど、俺にはそれ以上の“壁”を感じた。
「昨日、手記を預かった。全部、読んだよ」
やはり、反応はない。
しかし、その瞳には、わずかに“光”が差したように見えた。
それは、安心……あるいは期待。
「俺も文学部出身だから興味深かったよ」
俺は書類ファイルを開き、1枚目を抜き出す。
《──その夜、僕は彼女を刺した。》
この一文。
誰に向けた言葉なのか。
なぜ、過去形で書かれているのか。
そして、“物語”としての呼吸が、この一行からすでに始まっていること。
「遠野さん、これは小説か?」
少しだけ、眉が動いた。
だが、頷きはしない。否定もない。
「君は……語らないことで、何かを“表している”つもりか?」
彼は何も言わない。
俺は背もたれに身を預け、口元に手を当てた。
この沈黙は、“話せない”のではなく、“話す必要がない”という構えにも見える。
彼は最初から、この部屋での会話を“成立させるつもりがない”。
まるで、すでにすべてが「書かれて」いて、それで完結していると言わんばかりだ。
──それなら。
「書かれていないことを、訊く」
その言葉に、遠野のまぶたが一度だけ、静かに下りた。
答えかどうかは分からない。ただ、それがこの場での“彼のやり方”なのだと、俺は受け取った。
「手記には、なぜ彼女を刺したのか──“理由”がはっきり書かれていない。『整合性』とか『構造』って言葉でぼかしてる。けれど、それじゃあ警察は納得しない。裁判も同じだ」
俺の声にも、彼は反応しない。だが、その無言は“拒絶”には思えなかった。
むしろ、観察。こちらの言葉を吟味し、“物語の筋”を確かめているような──そんな印象。
俺は、テーブルの上にメモ帳を開いた。手記を読んで書き出した“要点”の箇条書き。
* 被害者との過去の描写が詩的・観察的で、感情が薄い
* 犯行後の行動が冷静すぎる(血を布巾で拭く、椅子を直す)
* 事件当夜の出来事が、“前もって書かれていたような印象”
このリストを見せると、遠野はほんの一瞬だけ、喉仏を動かした。
そして、ごく微かに鼻から息を吐いた気配があった。
──笑ったのか?
いや、違う。ただ、彼にとって“予想通り”だったのかもしれない。
俺はメモを閉じ、立ち上がった。
「話さなくてもいい。だが、俺は読む。全部、読んで、お前が何を仕掛けたかを突き止める。……それだけは、覚えておけ」
その言葉にすら、遠野は何も返さなかった。
それでも俺は、彼が“どこかのページ”をめくるように、俺の言葉を胸の中でなぞっている気がしてならなかった。
取調室を出る直前、俺はもう一度だけ振り返った。
遠野 湊の視線は、相変わらずまっすぐこちらを向いていた。
その目の奥には、静かな“確信”が宿っていた。
──こいつは、事件を“構築している”。
それがこの時点での、俺の率直な印象だった。
***
遠野の手記を印刷した紙束は、原稿用紙換算で50枚を超えていた。
それを刑事課の片隅、窓のない捜査室で、俺と同僚の斎木は向かい合って読み進めていた。
「……まるで小説ですね、これ」
斎木が苦笑しながら言う。
「地の文ばっかりで、会話は少ないし。事件の話かと思ったら、“詩的な沈黙”とか“表現論”とか、よく分かんない話が延々続くし」
「読ませるつもりだったんだろうな」
俺は腕を組みながら返した。
「だが、読むのは編集者じゃない。俺たちだ」
手記の山を、ひとつひとつ項目に起こす作業に取りかかる。
目指すのは、真偽を確かめるための「事実の抽出」。
こいつが何を見たか、どこにいたか、誰と何を交わしたか。
手記は一見、感情の流れに沿って書かれているように見えるが、注意深く読み込めば、細かい事実の断片がちりばめられている。
「じゃあ、今のところ拾えた事実、リストアップしていきますね」
斎木がノートを開いて、読み上げていく。
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### 手記から読み取れる“事実”の一覧(暫定)
1. 被害者との関係:
・大学の文芸サークルで知り合う
・サークル活動の中で、作品の批評を交わす関係だった
・彼女に詩集を貸した/返却された際、付箋があった
・Slackでメッセージのやりとり(深夜、長文の返信)
・彼女が“まだ彼と連絡を取っている”と語る場面に同席している
2. 犯行当夜の行動:
・夜、被害者宅を訪問
・「話したい」と言ってドア越しに会話
・彼女は部屋には入れなかった
・会話中に彼女から拒絶の言葉を受ける
・玄関の隙間から中に入り、台所に向かう
・包丁の場所を把握していた
・犯行後、布巾で血を拭いた/椅子の位置を直した
・逃走時、誰にも声をかけられていない
3. 犯行後の様子:
・テレビのニュースで事件を確認
・誰にも相談していない
・自首は翌日、弁護士と同行
・提出した手記は、事件から2日以内に執筆
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「……多いですね」
斎木が眉をひそめた。「たった一人の供述で、ここまで時系列が埋まるとは」
「逆に言えば、これだけ“整った”ストーリーが、どこまで事実と一致するかがポイントだ」
俺はメモに赤線を引きながら言った。
「まず大学サークル。被害者との関係性。Slackの履歴が残ってるか。詩集の付箋。文芸誌。あと、包丁の位置を事前に知っていた件……これは部屋に上がったことがあるかどうかに関わる」
「彼女が『入れなかった』って言った時点で、部屋の構造を把握してたなら、侵入は初めてじゃないかもですね」
「サークルの飲み会をしたと書いてあったな。あと、逃走時に誰にも声をかけられていない──これは監視カメラと照らし合わせて確認だ」
斎木はペンを走らせながら言った。
「遠藤さん……正直、この手記読むと藤沢への犯行のつもりだったって感じに見えますよね。急にやめたと言う時点で、かなり怪しい」
俺は首を横に振った。
「まだ決めつけるな。俺たちの仕事は“裏を取る”ことだ。今は、事実かどうか。出てくる一つ一つを潰していくだけだ」
「了解です」
静かな空気が、部屋を満たす。
ふと、手記の最後のページをめくったとき、斎木が小さくつぶやいた。
「……それにしても、“自分の最後の作品になるかもしれない”なんて、言い回し、普通じゃないっすよね」
「“普通”じゃない人間が“普通の感情”で犯行をしたとは、限らないさ」
俺は手帳を閉じた。
「けどそれでも、やることは変わらない。読む。確かめる。すべての“書かれた事実”を一つずつ」
その日の夕方、俺たちは大学へ向かった。
──書かれた通りに、すべてが存在するなら。
それは本当に“手記”なのか。それとも、もうひとつの“脚本”なのか。
答えは、証言の中にある。