第2部 プロローグ
取調室の空気は乾いていた。
空調の音だけがかすかに耳に残る。向かい合って座る男は、はじめから終わりまで一言も発さなかった。
事件の翌朝、弁護士を伴って警察署に現れた彼は、まっすぐに受付へ進み、淡々と「自分がやった」と書かれた文書を提出した。それは、プリントアウトされたA4用紙にして22枚──手記だった。
医師の診断によれば、場面緘黙の既往歴があるとのことだった。
「小学生の頃に発症し、現在も強いストレス下では発語困難になる可能性がある」と。だが、俺にはそれ以上の“意図”があるように見えた。
目の前の男─遠野 湊─は、やせ型で長身だった。
髪は少し伸びており、眼鏡の奥にある目は、妙に焦点が合っていなかった。
身体の姿勢に不自然な緊張感はないが、言葉をかけても、一切、応じない。
俺は、まず彼の“書いたもの”に向き合う必要があった。
提出された手記は、タイトルも日付もなかった。冒頭には、ただ一行、こう記されていた。
《──その夜、僕は彼女を刺した。》
それ以降、彼の視点で語られる回想が続いていた。犯行当夜の情景、彼女との過去、サークルでの交流、彼の成長譚とも取れる記述。文章は整っていた。文体は一定しており、構造も論理も成立していた。
──妙に、整いすぎていた。
事件発生から提出まで、およそ二日。
そのわずかな時間で、ここまでの分量を、ここまで滑らかに書けるものか?
俺の直感は、「違和感」と言う言葉を持ってその書面を見ていた。彼の書いた“物語”には、どこか──作為の気配があった。
彼は話さない。
だから、こちらが読むしかない。
彼の動機も、過去も、犯行の内実も、すべてこの文章の中にあるということだ。
俺は手記を再びめくった。
「文学的だ」と誰かが評したその文章のなかに、事実と演出の境界線を探しながら。