第1部 エピローグ
──その夜、僕は彼女を刺した。
包丁の柄は、不思議と温かかった。
冬の台所のはずだったが、手の中だけは別の季節にいるようだった。
湯気でも、火でもない。もっと根拠のない、体温のような熱があった。
音はしなかった。
包丁が肉に入る音は、案外静かだということを、僕はその夜、はじめて知った。
彼女の身体がよろめいて、床に崩れ落ちた。
そのとき、僕は泣いていた。
でも、それが悲しみだったかどうかは、今でも分からない。心臓の音がうるさくて、すべての時間が遠くなっていた。まるで、自分が映画の中にいるみたいだった。
この部屋も、彼女の姿も、何もかもがフィクションの中の風景のように思えた。
倒れた彼女の指が、まだ微かに動いていた。何かを掴もうとしているような、手放そうとしているような──
どちらでもなく、ただ何かを訴えるような震えだった。
……思い出していた。
さっきまでの、ほんの数分前の出来事を。
まるで遠い記憶のように、静かに再生していた。
そして、現実に戻ってきた。
換気扇の音が残っていた。
風が細く鳴っていた。
夜の街の隙間をすり抜けていくような音だった。その音が、部屋の奥にゆっくりと広がっていた。
僕は息を吸った。
喉の奥に引っかかる何かがあった。
それでも吸った。肺が思い出したように動いた。
床には、血が広がっていた。
思っていたよりも、ゆっくりだった。
冬の空気の中に、赤い色だけが生々しく浮かんでいた。
布巾を取った。
シンク脇に干してあった三枚組のうちの一枚。
いつかスーパーで買ったことのあるような、ごく普通の皿拭き用の布巾。
それで、血を拭いた。まるでスープでもこぼしたかのように。
ふと、椅子の脚が少しだけ傾いているのに気づいた。
彼女が座っていた椅子だ。
僕はそれをまっすぐに戻した。
なぜか、その動作がとても滑稽に思えた。
僕は落とした包丁を見下ろしながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
吐き気はなかった。
恐怖もなかった。
ただ、すべての感覚が不規則に散らばっていて、拾い集められずにいた。
足音を出さないように、何も考えずに玄関に向かった。通った床には、自分の足跡が残っていたかもしれない。でも、それを確認する気力はなかった。
ドアノブに触れた指が冷たかった。
その冷たさで、ようやく自分が何をしたのかを思い出しそうになった。
でも、まだだった。
まだ、すべての言葉が遠かった。
ドアを開けると、外の空気が流れ込んできた。乾いていて、少しだけ煙草のにおいがした。誰かが階段を降りていく音が遠くに聞こえた。その人はこちらを振り返ることはなかった。
僕は、無言のまま階段を降りた。肩をすくめるような風が背中を押していた。
物語は、もう終わっていた。
けれど、まだ誰もそれに気づいていなかった。
──気づいたら、朝になっていた。
それに気づいたのは、カーテンの隙間から差し込んだ光の色が、夜の光とは明らかに違っていたからだ。時間を測っていたわけではない。時計も見ていなかった。ただ、空気の密度が変わったのを肌が知っていた。
ずっと部屋の隅にうずくまっていた。眠ったかどうかは分からない。目を閉じていた時間があったのは確かだが、それを“眠り”と呼べるものかは、判断がつかなかった。
手は冷たくなっていた。壁に背を預けていたはずが、気づけばフローリングにそのまま横たわっていた。肩の片方がじんと痺れていた。動かしづらかった。
カーテンを引いた。
窓の外には、人が歩いていた。犬を連れた女性。自転車に乗った男子学生。どこにでもある朝だった。それが、やけに現実離れして見えた。
テレビのリモコンに手を伸ばす。
何も考えずにボタンを押した。
朝の情報番組が流れていた。
天気予報、芸能ニュース、交通情報。画面の中の人たちは、いつも通りの声で喋っていた。
しばらくして、ローカルニュースに切り替わる。
《昨夜、◯◯区のアパートで女子大学生が刺され、死亡した事件で──》
その声が耳に届いた瞬間、身体がほんの少しだけ硬くなった。
別に驚いたわけではなかった。むしろ、ようやく来たか、という感覚に近かった。
映像が切り替わり、アパートの外観が映し出された。雨に濡れた地面、黄色い規制線、警察官の姿。どれも見慣れた風景なのに、どこか見知らぬもののようだった。
《遺体で発見されたのは、都内の大学に通う柚木遥さん(21)。知人の男性から通報があり……》
知人の男性、という言葉が宙に浮いた。
その“知人”が誰なのか、僕は知らなかった。
いや、知っていたのかもしれないが、もう関係のない話だった。
《現在のところ、交友関係のトラブルや交際相手との問題も含めて──》
《近隣住民の証言では「男の声を聞いた気がする」との話も──》
テレビの中では、何人かの“関係者”がインタビューされていた。
彼女のアパートの隣人。高校時代の同級生。彼女を知っているという人々が、まるで役を演じるように彼女のことを語っていた。
「明るい人だった」「誰にでも優しかった」「ちょっと影のある感じが素敵で」
──そんな彼女、僕は知らなかった。
僕が見ていたのは、もっと静かで、どこか宙を見ているような彼女だった。
小さな声で詩を読む彼女。料理中にくしゃみをする彼女。思い出そうとすると、その顔だけがぼやけた。輪郭が、どうしてもはっきりしなかった。
テレビでは、彼女の顔写真が表示されていた。
笑顔の、明るい、誰か。
たぶん、成人式か何かのときに撮られたものだろう。
その顔を見ても、何も浮かばなかった。
報道は淡々と進み、警察の捜査方針や、近隣の防犯カメラの情報についても語られていた。画面の中の司会者は、どこか申し訳なさそうな顔で言った。
「本当に、痛ましい事件ですね……」
その言葉が終わる頃には、もう次の話題に切り替わっていた。
高速道路の渋滞情報、スポーツ選手の引退、週末のイベント。
僕はテレビを消した。
画面が暗転し、部屋が静かになった。
そこには、何もなかった。
本当に、何も。
冷えた空気。
空になったマグカップ。
脱ぎっぱなしのセーター。
壁にぶつかったままのカバン。
昨日と同じ部屋。
だけど、何かが完全に違っていた。
音がしなかった。
時計の針の音さえも、妙に遠く感じた。
しばらくのあいだ、僕はそのまま椅子に座っていた。何かを考えているようで、実際には何も考えていなかった。あるいは、あまりにも多くのことが頭を流れすぎて、整理が追いつかなかった。
時間だけが、進んでいた。
──夜になってもなにも変わらなかった。
部屋の空気は重く、どこか湿っていた。時計の針はいつのまにか深夜を越え、壁にかかるカレンダーが一日めくれていることに気づく。けれど、それがどんな意味を持つのか、自分でもよく分からなかった。
テレビは消したままだった。
窓は閉めきられていた。
カップに注いだ水は、口をつけないままぬるくなっていた。
机に向かっても、何も書く気が起きなかった。便箋に手を伸ばしかけて、引っ込めた。キーボードのキーに触れたが、音を立てる前に手を止めた。
どう書くべきなのか。
誰に向けて書くべきなのか。
そもそも書く必要があるのか──
分からなかった。
ただ、それでも、書かなければならない気がした。
書くという行為は、僕にとって呼吸のようなものだった。
あるいは、沈黙に沈んでいく自分を、岸に引き戻すためのロープだった。
それを切らせてしまえば、もう二度と戻って来られない気がした。
僕はこれまで、いくつもの文章を書いてきた。誰にも読まれなかったものもある。
選に漏れ、破棄された原稿もある。それでも書き続けたのは、言葉には何かしらの力があると信じていたからだ。
小さな教室で、ノートに書いた告発が、世界を動かした。それは偶然だったのかもしれない。でも、僕にとっては奇跡だった。
言葉が、現実を変える。
そう信じるしかなかった。
でも、今は──
誰かを救うためではなく、誰かに届くためでもなく、「整える」ために書こうとしている。
ぐしゃぐしゃになった世界を、もう一度、形に戻すために。
自分が何をして、どう感じて、なぜそうなったのか。
それを、自分の言葉で再構築しなければならない。
でなければ、すべてがただの「犯罪」になってしまう。
罪は償わなければならない。
それが、どんな重さであれ。
法がどう裁こうと、社会がどう見るかとは別に。この手で起こした出来事の輪郭を、自分の言葉でなぞりきらなければならない。それが僕にとっての、唯一できる事だと思う。
僕は今、この手記を書いている。
形として残すこと。
そうすることでしか、僕は世界に触れられなかった。彼女に触れたように。
きっと、これが僕にとって最後の作品になるかもしれない……。