表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/16

第1部 エピローグ

──その夜、僕は彼女を刺した。


包丁の柄は、不思議と温かかった。

冬の台所のはずだったが、手の中だけは別の季節にいるようだった。

湯気でも、火でもない。もっと根拠のない、体温のような熱があった。

音はしなかった。

包丁が肉に入る音は、案外静かだということを、僕はその夜、はじめて知った。

彼女の身体がよろめいて、床に崩れ落ちた。


そのとき、僕は泣いていた。


でも、それが悲しみだったかどうかは、今でも分からない。心臓の音がうるさくて、すべての時間が遠くなっていた。まるで、自分が映画の中にいるみたいだった。

この部屋も、彼女の姿も、何もかもがフィクションの中の風景のように思えた。

倒れた彼女の指が、まだ微かに動いていた。何かを掴もうとしているような、手放そうとしているような──

どちらでもなく、ただ何かを訴えるような震えだった。


……思い出していた。

さっきまでの、ほんの数分前の出来事を。

まるで遠い記憶のように、静かに再生していた。


そして、現実に戻ってきた。


換気扇の音が残っていた。

風が細く鳴っていた。

夜の街の隙間をすり抜けていくような音だった。その音が、部屋の奥にゆっくりと広がっていた。


僕は息を吸った。

喉の奥に引っかかる何かがあった。

それでも吸った。肺が思い出したように動いた。


床には、血が広がっていた。

思っていたよりも、ゆっくりだった。

冬の空気の中に、赤い色だけが生々しく浮かんでいた。


布巾を取った。

シンク脇に干してあった三枚組のうちの一枚。

いつかスーパーで買ったことのあるような、ごく普通の皿拭き用の布巾。

それで、血を拭いた。まるでスープでもこぼしたかのように。


ふと、椅子の脚が少しだけ傾いているのに気づいた。

彼女が座っていた椅子だ。

僕はそれをまっすぐに戻した。

なぜか、その動作がとても滑稽に思えた。


僕は落とした包丁を見下ろしながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。


吐き気はなかった。

恐怖もなかった。

ただ、すべての感覚が不規則に散らばっていて、拾い集められずにいた。


足音を出さないように、何も考えずに玄関に向かった。通った床には、自分の足跡が残っていたかもしれない。でも、それを確認する気力はなかった。


ドアノブに触れた指が冷たかった。

その冷たさで、ようやく自分が何をしたのかを思い出しそうになった。

でも、まだだった。

まだ、すべての言葉が遠かった。


ドアを開けると、外の空気が流れ込んできた。乾いていて、少しだけ煙草のにおいがした。誰かが階段を降りていく音が遠くに聞こえた。その人はこちらを振り返ることはなかった。


僕は、無言のまま階段を降りた。肩をすくめるような風が背中を押していた。


物語は、もう終わっていた。

けれど、まだ誰もそれに気づいていなかった。



──気づいたら、朝になっていた。

それに気づいたのは、カーテンの隙間から差し込んだ光の色が、夜の光とは明らかに違っていたからだ。時間を測っていたわけではない。時計も見ていなかった。ただ、空気の密度が変わったのを肌が知っていた。


ずっと部屋の隅にうずくまっていた。眠ったかどうかは分からない。目を閉じていた時間があったのは確かだが、それを“眠り”と呼べるものかは、判断がつかなかった。


手は冷たくなっていた。壁に背を預けていたはずが、気づけばフローリングにそのまま横たわっていた。肩の片方がじんと痺れていた。動かしづらかった。


カーテンを引いた。

窓の外には、人が歩いていた。犬を連れた女性。自転車に乗った男子学生。どこにでもある朝だった。それが、やけに現実離れして見えた。


テレビのリモコンに手を伸ばす。

何も考えずにボタンを押した。

朝の情報番組が流れていた。

天気予報、芸能ニュース、交通情報。画面の中の人たちは、いつも通りの声で喋っていた。


しばらくして、ローカルニュースに切り替わる。


《昨夜、◯◯区のアパートで女子大学生が刺され、死亡した事件で──》


その声が耳に届いた瞬間、身体がほんの少しだけ硬くなった。

別に驚いたわけではなかった。むしろ、ようやく来たか、という感覚に近かった。


映像が切り替わり、アパートの外観が映し出された。雨に濡れた地面、黄色い規制線、警察官の姿。どれも見慣れた風景なのに、どこか見知らぬもののようだった。


《遺体で発見されたのは、都内の大学に通う柚木遥さん(21)。知人の男性から通報があり……》


知人の男性、という言葉が宙に浮いた。

その“知人”が誰なのか、僕は知らなかった。

いや、知っていたのかもしれないが、もう関係のない話だった。


《現在のところ、交友関係のトラブルや交際相手との問題も含めて──》

《近隣住民の証言では「男の声を聞いた気がする」との話も──》


テレビの中では、何人かの“関係者”がインタビューされていた。

彼女のアパートの隣人。高校時代の同級生。彼女を知っているという人々が、まるで役を演じるように彼女のことを語っていた。

「明るい人だった」「誰にでも優しかった」「ちょっと影のある感じが素敵で」

──そんな彼女、僕は知らなかった。

僕が見ていたのは、もっと静かで、どこか宙を見ているような彼女だった。

小さな声で詩を読む彼女。料理中にくしゃみをする彼女。思い出そうとすると、その顔だけがぼやけた。輪郭が、どうしてもはっきりしなかった。


テレビでは、彼女の顔写真が表示されていた。

笑顔の、明るい、誰か。

たぶん、成人式か何かのときに撮られたものだろう。


その顔を見ても、何も浮かばなかった。


報道は淡々と進み、警察の捜査方針や、近隣の防犯カメラの情報についても語られていた。画面の中の司会者は、どこか申し訳なさそうな顔で言った。


「本当に、痛ましい事件ですね……」


その言葉が終わる頃には、もう次の話題に切り替わっていた。

高速道路の渋滞情報、スポーツ選手の引退、週末のイベント。


僕はテレビを消した。

画面が暗転し、部屋が静かになった。


そこには、何もなかった。

本当に、何も。


冷えた空気。

空になったマグカップ。

脱ぎっぱなしのセーター。

壁にぶつかったままのカバン。

昨日と同じ部屋。

だけど、何かが完全に違っていた。


音がしなかった。

時計の針の音さえも、妙に遠く感じた。


しばらくのあいだ、僕はそのまま椅子に座っていた。何かを考えているようで、実際には何も考えていなかった。あるいは、あまりにも多くのことが頭を流れすぎて、整理が追いつかなかった。


時間だけが、進んでいた。


──夜になってもなにも変わらなかった。

部屋の空気は重く、どこか湿っていた。時計の針はいつのまにか深夜を越え、壁にかかるカレンダーが一日めくれていることに気づく。けれど、それがどんな意味を持つのか、自分でもよく分からなかった。


テレビは消したままだった。

窓は閉めきられていた。

カップに注いだ水は、口をつけないままぬるくなっていた。


机に向かっても、何も書く気が起きなかった。便箋に手を伸ばしかけて、引っ込めた。キーボードのキーに触れたが、音を立てる前に手を止めた。


どう書くべきなのか。

誰に向けて書くべきなのか。

そもそも書く必要があるのか──


分からなかった。

ただ、それでも、書かなければならない気がした。


書くという行為は、僕にとって呼吸のようなものだった。

あるいは、沈黙に沈んでいく自分を、岸に引き戻すためのロープだった。

それを切らせてしまえば、もう二度と戻って来られない気がした。


僕はこれまで、いくつもの文章を書いてきた。誰にも読まれなかったものもある。

選に漏れ、破棄された原稿もある。それでも書き続けたのは、言葉には何かしらの力があると信じていたからだ。


小さな教室で、ノートに書いた告発が、世界を動かした。それは偶然だったのかもしれない。でも、僕にとっては奇跡だった。

言葉が、現実を変える。

そう信じるしかなかった。


でも、今は──

誰かを救うためではなく、誰かに届くためでもなく、「整える」ために書こうとしている。


ぐしゃぐしゃになった世界を、もう一度、形に戻すために。


自分が何をして、どう感じて、なぜそうなったのか。

それを、自分の言葉で再構築しなければならない。

でなければ、すべてがただの「犯罪」になってしまう。


罪は償わなければならない。

それが、どんな重さであれ。

法がどう裁こうと、社会がどう見るかとは別に。この手で起こした出来事の輪郭を、自分の言葉でなぞりきらなければならない。それが僕にとっての、唯一できる事だと思う。


僕は今、この手記を書いている。


形として残すこと。

そうすることでしか、僕は世界に触れられなかった。彼女に触れたように。


きっと、これが僕にとって最後の作品になるかもしれない……。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ