第1部 第4章 冷たい構文
彼女は驚いた顔をしていた。
玄関ドアを開けたとき、その表情にすべてがあったのかもしれない。
ほんの一瞬の沈黙。そのあとに続いたのは、誰かに気を遣うような柔らかい声だった。
「どうしたの? 急に……」
僕は言葉を探していた。
いや、探しているふりをしていたのかもしれない。言いたいことは決まっていたはずなのに、それがどんな言葉だったか、急に思い出せなくなっていた。
「少し、話したくて……」
喉が乾いていた。声が細くなっていた。
彼女はドアを細めに開けたまま、僕を見ていた。入れてはくれなかった。
その立ち位置が、すべてを物語っていた。
「ごめんなさい、今日はちょっと……」
彼女は言葉を濁した。目は笑っていなかった。
僕は何かをつなぎとめようとして、話し続けた。
いくつかの過去を。サークルのことを。言葉のことを。けれど、彼女の顔には戸惑いと、少しの苛立ちが混ざっていった。彼女は扉をあけながらいった。
「……。私、先輩とは、そういう関係になるつもりじゃなかった。」
その言葉が落ちたとき、僕の中で何かが空白になった。冷たい水が頭から注がれたみたいだった。
「先輩の作品、すごいなって思ってた。話すのも楽しかった。でも、それだけ」
言葉が止まらなかったのは、彼女の方だった。この場を、きちんと終わらせようとしている口調だった。
「私……彼とちゃんと向き合うつもりです。うまく言えないけど……もう逃げないって。」
“彼”という言葉が出た瞬間、なぜか、あらかじめ知っていた気がした。その名前を、ここで聞くことになることを。でも、それでも、聞きたくなかった。
“彼”はまだこの部屋のどこかに痕跡を残しているのだろう。香り。物音。指の跡。それらがまだ、彼女の生活の中にいる。
「ごめんなさい」
彼女が最後にそう言って、部屋に戻ろうとした。
……彼女を好きになったのは、文章を書くのと同じだった。
最初は、ただ記録していただけだった。
言葉にしない仕草。声のトーン。瞬きの回数。手の置き方。
それらを並べていくうちに、そこに意味が宿るようになった。
詩のように。
物語のように。
僕は、彼女の中に“構造”を見出していた。
変化と伏線と、微細な展開。
物語を読むときと同じように、彼女という存在を理解しようとしていた。
そして、信じていた。
きっと彼女にも、それが届いていると。
声にしなくても、言葉は伝わる。
それが、僕の中の唯一の真実だった。
小学校の頃、教室の隅で声が出せなかった僕は、ノートに書いた。誰かを責めたわけじゃない。
ただ事実を綴った。
その言葉が、ある日、教室の空気を変えた。
世界が、動いた。
それは、僕にとっての奇跡だった。
それからずっと、僕は信じていた。
言葉には、世界を変える力があると。
誰かの心に届きさえすれば、現実の軌道も変えられると。
でも──彼女の言葉は、その信仰を一瞬で崩した。
「あなたとは、そういう関係になるつもりじゃなかった」
それも“物語の外から”届いた声だった。
僕の紡いできた文脈を、まるごと否定する言葉だった。
僕は、彼女と世界を変えたかった。“彼女のいる世界”を、僕の言葉で組み替えたかった。彼女が苦しんでいるなら、助けたかった。彼女が傷ついているなら、僕の手で直したかった。
でも、彼女は、それを望んでいなかった。
“物語”は、彼女にとって何の価値もなかった。彼女の現実に、僕の文章は一行も届いていなかった。
それが、すべてだった。
だったら──
僕は、どうすればよかった?
この手の中にある空白を、どう埋めればよかった?
今も胸の奥で冷たく震えているこの言葉にならない感情を、どこに置けばよかった?
どうすれば、続きを書けたのだろう?
彼女の背中を見たとき、僕の身体は自然に動いていた。まるで、言葉の続きを探すように。未完の文の句点を打つように。
玄関の隙間をすり抜けるようにして、僕は彼女の背を追った。
包丁の場所は知っていた。
台所の右手前。シンクのわずか奥、布巾の下にかくれていた。
そこに手を伸ばした。
その瞬間だけ、時間が妙に伸びた。
彼女の足音、呼吸、室内の灯りの色、あらゆるものが静かに“許可”を与えているようだった。
柄は、やはり少し温かかった。
冷たさがない、というより、指先に馴染む感触があった。
それはずっと前から、僕がこの動作を想像してきたことを証明するような、静かな同調だった。
彼女が声を出そうとしたのが分かった。
息を吸っただけで、まだ音にはなっていなかった。
僕は何も考えなかった。
というより、何も選ばなかった。
ただ、すべてが整っていた。
だから、ただ、そうしただけだった。
次の瞬間、音が消えた。
包丁が何かに触れた感触。
それは、文章の中では何度も繰り返した表現だった。
でも、その夜、それははじめて“現実”になった。
呼吸が詰まる音が聞こえた。
僕は彼女の目を見なかった。
その目に、どんな言葉があったのか。
どんな問いが浮かんでいたのか。
それを知るのが、ただ、怖かった。
床に倒れこむ音がして、空気が一段沈んだ。
あの瞬間、世界はもう、書き換えられていた。