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第1部 第3章 香りの輪郭

たとえば、誰かを殺すには、どうすればいいのだろう。

──そんなことを考えていた。窓を開けていたせいで、風がカーテンを揺らしていた。外では鳥が鳴いていて、陽射しはあたたかく、空気の湿度は心地よかった。静かで、何の変哲もない日だった。


検索エンジンに、いくつかの語を並べてみる。

「刃物」「毒」「致死量」「家庭にあるもの」「効き目」

画面に現れるのは、犯罪防止の記事や、医療監修を受けた注意喚起の文章。それでも、その合間に、隠すように、あるいは誘うように、具体的な数字や方法が混じっていた。


メモは取らなかった。指でたどった情報を、頭の中でだけ整理しておく。手を動かせば、現実味が増してしまう気がして、それが少し怖かった。けれど、不思議と罪悪感はなかった。あくまでこれは思考の延長であり、ただの想像に過ぎないのだと、自分で自分に言い聞かせていた。


その“想像”の先には、うっすらとした輪郭があった。

誰かの生活。誰かの部屋。あるいは、夜の中でぼんやりと浮かび上がる灯り。深夜に届く音、足音、残り香のような生活音。


何かを調べている、という感覚ではなかった。もっと別の、たとえば「観察」とか、「書くための準備」みたいなものに近かった。


人の生活には、必ず規則性がある。

どんなに奔放に見えても、繰り返しの中に生きている。

そこを掬い取っていけば、その人の呼吸の仕方すら、見えるようになる。


気付けば誰かの動線を辿るようになっていた。時間帯、明かり、ドアの開閉、飲み残された缶の銘柄、窓の位置。

それらはすべて、ひとつの“生活”を描く線だった。


その線が、いつしか歪みを持ちはじめる。

妙に沈黙の多い夜、鍵の音が遅れる日、何かを引きずるような気配。


決定的なものは、何もなかった。

ただ、その生活の中に、自分の感情が忍び込んでいくような感覚があった。


毒を使うとしたら、どんな形が自然か──そんな思考が頭をよぎる。

食事。飲み物。あるいは台所で手にした金属の冷たさ。

それらは現実のものというより、むしろ物語の中でしか存在しないような感触だった。


“動機”という明確な言葉は浮かばなかった。

ただ、物語には整合性が必要だというだけだった。起こるべき悲劇には、意味がなければならない。だから、観察することが必要だった。


そう、誰かを知るには、まず日常の隙間を見つけなければならない。

その隙間は、あまりにも静かで、あまりにも自然で、だからこそ見落とされやすい。


ある晩、通りすがりに、ある男性がベランダで一服する姿を目にした。

煙が空に溶けていく横顔は、どこか軽やかで、どこか空虚だった。

その背中に、言葉では表せない何かが張りついているようだった。

憂い、あるいは滑稽さ、もしくは──ただの無関心。


その時点では、まだ何も決めていなかった。ただ、僕と彼女との関係が正しくあるべきと思っていただけだった。けれど、誰かに、その言葉を持ち始めるのに、さほど時間はかからなかった。


秋の終わり、サークルの定例会が開かれた。

窓の外では風が、木の枝を細かく揺らしていた。冷え込み始めた空気が、部屋の中にこもる熱と交差する季節。コートの下にマフラーを忍ばせてくる者もいれば、半袖のまま平気な顔をしてくる者もいた。


その夜は、全体の人数は多くなかった。七人か、八人か。思い出そうとしても、その数ははっきりしない。ただ、言葉の往復が心地よかったことだけは覚えている。いつもより短く、少しだけ丁寧に言葉が選ばれていた。秋のせいかもしれなかった。


飲み会の会場は、彼女の部屋だった。

小さなワンルームにぎゅうぎゅうに詰め込まれた人間たち。文庫本の背表紙、マグカップのかけら、布団の端に積まれたクッション。どこにでもある女子学生の部屋に見えた。雑然としているのに、不思議と収まりのいい空間だった。


壁際に寄せられた机の上には、チーズとクラッカーが載った小皿。冷えたペットボトルと紙コップ。ふと視線をやると、床には誰かのリュックが転がっていた。鞄のチャックが半分開いたままで、赤い表紙の詩集が覗いていた。


誰かが自作の詩を朗読した。言葉が言葉として空気に浮かび、その輪郭だけが耳に残る。意味のすべてを受け取る必要はなかった。そういう時間だった。

僕は少し遅れて出された料理を口に運びながら、彼女の動きに目をやっていた。


誰かがキッチンでグラスを割った音がして、ひときわ大きな笑い声が起きた。彼女がそれに気づいて立ち上がる。「布巾、どこ?」という声に、彼女は迷いなく、台所の棚の脇に干してあった布巾を取る。


その一連の動きのなかで、ふと包丁立てが目に入った。外国の映画でみるあの包丁入れ。

ああ、と思った。別に、何かを確信したわけではない。ただ、そういう些細なズレを見つけたとき、人は無意識に“記録”を始める。誰かの部屋におけるモノの配置は、その人の思考そのものだ。


包丁を入れる部分は三本あったが、その夜は一本も入ってなかった。きっとシンクにあるのだろうと思った。


布巾は白く、端に色褪せた赤い染みがあった。トマトソースか、あるいは何か別のものか。考える必要はなかった。だが、目には焼きついた。


キッチンから戻った彼女が、少し俯き加減に座り直したとき、ふわりと何かの香りが漂った。明らかに、彼女のものではなかった。

シャープで、甘さのない残り香。少しアルコールが立っていて、主張が強い。男物の香水だ、と直感で分かった。


何気なく視線を巡らせると、カラーボックスの端に、その香水が置かれていた。ボトルの角ばった形と、黒いラベルのシンプルなデザイン。少し無骨で、彼女の柔らかい雰囲気にはそぐわなかった。


そんな僕の視線に気づいたのか、彼女が一瞬だけ表情を固くしたように見えた。

ほんの、かすかな揺れだった。誰に向けられたものでもなく、誰にも向けられないものだった。目の奥が、言葉を飲み込んだような光を宿していた。


そのとき、ふいに思った。

「これは、書けるかもしれない」と。


日常の裂け目にある不均衡。

無意識のうちに漏れる痕跡。

誰かの存在が、確実にこの部屋を通過している証拠たち。


ある種の物語が、すでに始まっていた。

それは恋でも友情でもなく、もっと違う、どうしようもなく冷静な形で。


飲み会が終わり、人が帰っていく。

僕もその一人として、玄関に向かった。


外は静かな雨だった。

街灯の光が濡れた路面に滲んでいて、車の音は遠く、空には雲が低く垂れ込めていた。



火を点けて、湯を沸かした。

水はしばらく静かにしていたが、やがて小さく、息をしはじめる。底の方で泡が揺れ、そのうち徐々に浮かび上がってくる。コンロの火が青い光を立てて揺れた。なんてことのない、ただの夜だった。


冷蔵庫から野菜と卵を取り出して、炒め物を作った。味つけはいつもより少しだけ濃くした。料理をしていると、思考の芯のようなものが浮かび上がってくる。無意識の層に沈んでいたはずのものが、火や油の音に引き出されて、輪郭を持ち始める。


たとえば包丁。

まな板の上で音を立てるその刃の軌道が、妙に美しく思えた。トントンと規則的に響く音は、まるで言葉の下書きみたいだった。

切る、という動作には、どこか抽象的な快感がある。対象を分断し、かたちを与える。その行為は、構築と破壊の両方を含んでいた。


食材の硬さや繊維の方向を感じながら、ふと思い出す。

この“音”は、文章を書くときのキーボードの音にも似ている。いや、もっと言えば、断定する瞬間のリズムそのものだ。

刃先が触れる。抵抗がある。貫く。沈む。そこには一種の「肯定」があった。


それが一つの発想につながったのは、ごく自然な流れだった。

包丁は、彼女の部屋にあった。少なくとも、一本、姿の見えないものがある。

あのスペース。あの沈黙。あの動作。


もちろん、すぐに何かを決めたわけではなかった。

でも、形は現れはじめていた。

たとえば、湯が沸騰するように。

じわじわと、熱が水に染み込んでいくように。


包丁という選択肢には、ある種の現実味があった。

それは誰かが持っていたものではなく、“彼女の台所”にあったものだった。

つまり、“すでに生活の一部”であり、“そこにあるべきもの”だった。


それを“使う”ということは、日常を逸脱することではなく、むしろ“日常に従う”ことに近いのではないかと思えた。


そう考えたとき、少しだけ気が楽になった。

なにか、とても複雑な数式が、シンプルな構造に還元されるような感覚だった。

それは決意ではなかった。ただの、整合性だった。


僕はフライパンを火から下ろし、皿に料理を盛りつけた。

箸を添えて、テーブルに置く。テレビは点けなかった。音楽も流さなかった。ただ静かな部屋で、料理が湯気を上げていた。


窓の外から、風の音がした。細く、乾いた音だった。

それはまるで、何かが扉のすきまから抜け出していくような音だった。

風が、名前のない意思を運んでくることがある。たとえば、昔の手紙の封を切るように。あるいは、忘れかけていた約束をふと思い出すように。


犯行という言葉は、この時点でもまだ頭にはなかった。

ただ、「筋」が通ってしまったという感覚だけがあった。

やるべきことの順番が、奇妙にきれいに並んでしまった、そんな感じだった。


自分でも、それを奇妙に思った。

だからこそ、記録に残す必要があると思った。

言葉にしておかなければ、形が崩れてしまいそうだった。


たとえば、夕食をつくる。

たとえば、机の上の紙を整える。

たとえば、引き出しの奥にあるものを取り出す。

そういった行為と同じ文脈で、準備を進める。

それは、ひどく静かなプロセスだった。


窓の外に、誰かの足音が聞こえた。階段を降りる音。遠ざかる影。

その音が消えるまで、僕はずっと包丁の持ち手を思い浮かべていた。


あの冷たさ。あの重さ。

それが手に馴染むのかどうか、まだ分からなかった。


──ある日、僕は急にやめようと思った。

それは突然でも衝動でもなく、どこか既定の結論にたどり着いたような静けさだった。

電車の終点でアナウンスが流れ、扉が開くような感覚。降りるべき場所に着いた、という納得。


彼を消す必要は、もうないのだと気づいた。長く胸の奥にあった苛立ちや、根拠のない焦燥、手に負えないほどの観察と分析。それらはすべて、僕自身が作り出した仮想の迷路だった。誰かのせいではない。ただ、自分がそこに入り込んでいただけだ。

考えてみれば、彼はもう関係ないのかもしれない。少なくとも、彼女が変わるような影響はもう見えなかった。残された香水の瓶や、言い淀むまなざし、曖昧な夜の痕跡──それらすらも、過去の話なのかもしれない。


彼を責める理由は、もはや幻想に近かった。それは妄想と現実の境界線で、僕の中だけに育った独白だった。


そして気づいたのだ。

本当に伝えるべきは、怒りでも裁きでもない。彼女に対する、ずっと伝えられなかった気持ちだ。言葉を失っていたあの頃から、僕の中にだけ積もってきたもの。書くことしかできなかった、伝達不能の感情。


それを、今こそ、行動にするべきなのではないか。


直接、伝える。

彼女の目を見て。


それは、僕にとって大きな挑戦だった。

“物語”ではなく“現実”に立ち向かうため。


夕暮れ時、空は灰色に沈みつつあり、遠くのビルの間に沈みかけた太陽が細く滲んでいた。

いつも通りの坂道を下りながら、僕はひとつずつ言葉を組み立てていた。

最初に何と言うべきか、どの表情で話すべきか、どのタイミングで目を合わせるか。

不思議と、怖くはなかった。

どこかで、ようやく自分の中の長い物語が終わりに近づいている気がした。


検索履歴も消した。それは、もう不要な情報だった。


必要だったのは、彼女に想いを伝えることだった。

そのための準備。

そのための夜。


僕はポケットの中を確認する。そこには、告白の草稿が折りたたまれていた。でも、これは使わない。

伝えたいことは、もっとずっとシンプルなものだから。


もうすぐ、彼女の家に着く。

オートロックの玄関前で、数秒間だけ立ち止まる。

インターホンの位置は知っている。押す手順も、音の鳴り方も。


今日の僕には、それを押すことができる。

ようやく、言葉にできる気がした。

あの、長い沈黙の先で──

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