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第1部 第2章 届かぬ詩集

文芸サークルの部室は、いつも誰かの作品で満たされる。


四月の終わり。空気はまだ冷たく、窓の隙間から入り込む風がカーテンを揺らしていた。早く来たメンバーが、いつものように電気ポットを満たし、コンビニのビスケットを机の真ん中に置く。誰が仕切るでもなく、静かに準備が進んでいくこの時間が、僕は好きだった。


その日の合評作品は三本。そのうちの一本が、彼女の詩だった。

プリントされた白い紙に、彼女は短い言葉を綴っていた。


「話し合いはいつも夕方の光の中で/誰も何も決めないまま帰る」


タイトルもなく、ページの余白が広くとられていた。彼女は詩を書くとき、いつも少しだけ行間を空ける。まるで“そこにいない言葉”までを読ませようとするように。


「……これ、ちょっと胸が痛くなりました」と先輩が呟いた。「決めないまま、ってのがいい。優しいんだか、残酷なんだか分からなくて」

彼女は苦笑して、紙コップを両手で包んだまま何も言わなかった。


僕は、彼女の詩にコメントをするタイミングを探していた。彼女の作品にはいつも、“届きそうで届かない距離”がある。言葉自体は静かで、削ぎ落とされていて、でもどこかに感情の断片が潜んでいるようで、読み手がそれを探しに行くしかない。


だからこそ、僕は思うのだ。

彼女は誰かに、ちゃんと届けたいと思っているのではないか、と。


「僕は、“決めないまま”っていうのが、“決めることを許されてない”って意味に見えました」

言いながら、すぐに後悔した。穿ちすぎたかもしれない。けれど、彼女は少しだけ目を見開いてから、かすかに笑った。


「……それ、わたしも、ちょっと思ってました」

そのとき、たしかに何かが通ったように感じた。


彼女の表情には何も出ていなかったけれど、声の温度が、わずかに変わった気がした。小さな火を灯すような、そんな変化だった。きっと他の誰も気づかなかっただろう。でも、僕は気づいてしまった。


その日から、彼女の詩を読むとき、僕は自分のための暗号を解くような気持ちになった。


火曜日の午後は、文体論ゼミだった。


学部の中でも人数が少ないこのゼミは、担当教員の影響もあって、どこか私語を許さない静けさがあった。机の並びも、教室の端に吸い込まれるように平坦で、誰かの声が響くときだけ、その空間がふっと歪む。


今日のテーマは、「視点の一貫性と自己投影」。


ある近代作家の短編をもとに、語り手がどのように感情を読み取らせ、また隠すのかについての議論が行われていた。話が枝分かれして、文体と読者の想像力についての話題になったとき、僕はつい口を開いた。


「……読者って、“語られてないもの”を補おうとすると思うんです。だから逆に、語られすぎると、想像できなくなる」

ゼミの教員が軽く頷いた。「つまり、空白こそが読者の居場所だと?」

「はい。ときどき、書かれてないことの方が、意味がある気がします」

口にしてから、ふと彼女の詩のことを思い出した。


余白の多い詩。はっきりとは言わない詩。けれど、何かを待っているような詩。


あれはきっと、誰かに“届いてほしい”と思っている証拠じゃないか。彼女が直接語れないものを、作品に託しているのだと、僕は思っていた。


授業のあと、研究棟の裏の自販機でアイスティーを買い、ベンチに腰掛けた。風が通り抜けて、髪が少しだけ乱れた。スマホを見ると、サークルのSlackに彼女の新しい詩が投稿されていた。


「寄せる波が届く前に/わたしは言葉を閉じる」


また、余白の多い詩だった。意味ははっきりしない。だが、その行間の揺れは、たしかに僕の胸のどこかに触れた。


──それでも、届かせたいと思っているはずだ。

僕は、既読をつけたあと、そっとコメントを打った。


「閉じた言葉の奥に、何かが残っている気がしました」


数分後、彼女が「いいね」を押した。それだけの反応だったけれど、僕には十分だった。彼女は、読んだ。受け取った。僕の言葉が、ほんの少しだけ届いた。


その夜、ノートを開いて、僕は短い散文を書いた。

彼女の詩の文体に似せて。語尾を曖昧にし、行間を広くとり、余韻を残すように書いた。使う言葉も柔らかく、形容詞を控えめにして、彼女が好みそうな“沈黙の質感”を模倣した。


これは、模倣ではない。

──彼女の言葉に“寄り添う”ことなのだ、と僕は思った。



夏学期の後半、僕はある文学賞に作品を投稿した。

タイトルはつけなかった。ただの「作品」とだけファイルに記し、表紙には自分の名前だけを記した。主人公は名前を持たない男で、彼はいつも、言葉を通じて誰かに何かを届けようとし続けていた。

けれど、その誰かが最後まで誰だったのかは、書かれなかった。


僕にとって、それは“彼女に読まれること”を前提とした作品だった。

物語の細部に、彼女の好む語感、詩の余韻、沈黙のような比喩をちりばめた。

たとえば、夜の冷蔵庫の音、湯気のたちのぼる速度、歩道に積もる花の影。

そんな、彼女が「好きそうな風景」だけを集めて、言葉にした。


投稿した数日後、彼女に見せるつもりもなかったその原稿を、ふと机に置いていたとき、彼女がふらりとサークルの部室にやってきた。


「なに、それ?」

「……あ、いや、ちょっと応募したやつ」


彼女は僕のノートをちらりと見てから、隣に腰を下ろした。ソファが少し沈んで、僕の肩に彼女の髪の先がふれたような気がした。


「読んでいいですか?」

「……うん」


彼女は数ページめくってから、目を細めて一言つぶやいた。


「……好きです、こういうの」

その声が、やけに真っ直ぐだった。


僕はそれだけで、十分だった。評価も、賞も、誰かの選考も、どうでもよかった。


彼女が「好き」と言った。それが、すべてだった。


「でも……ちょっと悲しい人ですね、この主人公」

「そうかな?」

「なんか……伝えることで、ますます孤独になっていく気がする」

「……」


彼女はそう言って、小さく笑った。


「でも、わたしは、そういう人のほうが好きですよ」


それが、どこまで本気だったかなんて分からない。でも、その言い方は優しくて、やわらかくて、どこか照れているようにも見えた。


僕は、それを「本気」だと受け取った。


その夜、僕はそのやりとりを繰り返し思い返しながら眠った。


肩にかかった髪の感触、ページをめくる音、彼女の視線が文字を追う時間。

それらの一つひとつが、まるで恋文の返事のように思えた。


数週間後、応募作は落選した。


短いメールが届いただけだった。選考に漏れた旨、形式的な文章、そして「ご応募ありがとうございました」の定型句。


でも、不思議と悔しくはなかった。

それは、すでに“届くべき人には届いた”と感じていたからだ。


その翌週、彼女がふいに言った。


「……最近、先輩の文章、前より柔らかくなった気がします」

「そう?」

「なんか、言葉の向こうに、ちゃんと人がいる感じがして」

その言葉に、胸が少しだけ高鳴った。


言いたかったことが伝わった。僕の書いたものが、彼女に届いた。彼女はそれを“感じて”くれている。


──これが、僕の方法だ。

言葉で、書くことで、届かせる。


かつて、沈黙の中でしか存在できなかった自分が、ようやく誰かに“触れた”のだ。


そして、それは彼女だった。

彼女は、僕の言葉に反応してくれる。

他の誰でもない。


彼女だけが──僕の物語を、理解してくれる。


彼女がまた、あの文庫本を返してくれた。

「付箋、たくさん貼っちゃってすみません」

そう言って、彼女は微笑んだ。そのページの隅には、きちんとした字で、小さな感想が書き込まれていた。


「ここ、好きです」「風の音が残る感じがする」「沈黙がうつくしい」


どの言葉も、僕が大切にしている感覚に、まっすぐ触れていた。


彼女は、僕のことを理解してくれている。言葉の皮膚に触れただけでは分からない、もっと奥の体温に、気づいてくれている。

それは、僕にとって“恋”と呼ぶしかないものだった。


ある日のこと──

「……向こう、最近は何も言ってこなくて、逆に、ちょっと怖いっていうか」


彼女は、まだあの男と連絡を取っていた。

しかし、言葉の温度は低かった。僕はそこに、彼女の“決断の揺れ”を感じた。


その夜、僕はノートを開き、いくつかの詩を引用しては、彼女のための一文を書き足していった。

それは、誰にも読まれない手紙のようだった。

僕たちは、その後も何度か、“話し合った”。

たまに朝まで話し合うこともあった。


文学のこと。作品の構造。沈黙の意味。

言葉が向かうべき場所と、それが逸れていくことの寂しさについて。


「言葉って、ほんとうに届くんでしょうか」


彼女はそんな問いを口にしたことがあった。

僕は、「届くと思う」とだけ答えた。

それが、僕が今まで自分に言い聞かせてきたことだったからだ。


そして、僕は信じていた。

僕の言葉なら、彼女を“変えられる”と。


「わたし、なんであんなに拘ってるんだろうな、って思うんですけど……でも、なんか、切るっていうより、終わらせ方が分からないんです」


そう言ったときの声は、心のどこかがほどけかけているように聞こえた。

僕はまた、何も言わなかった。ただ頷いた。

言葉は慎重に、時には無力なほど静かに、選ばれるべきだと思ったからだ。


そのあとも、僕たちは何度も“話し合った”。

日が落ちる頃の部室で、コンビニの袋を机に置きながら。

早朝の図書館の前で、彼女が本を抱えたまま立ち止まったとき。

Slackのダイレクトメッセージの中で、深夜にぽつりと送られたひとことに、僕が長文で返したとき。


彼女が苦しんでいることは、分かっていた。だからこそ、僕の言葉が、彼女の“選択”を少しでも変えるのではないかと思っていた。

だが、ある日、彼女がふと漏らした。


「……あの人は、“わたしのことを物語にしてる”って、言ったことがあるんです」


その瞬間、胸の内がざらついた。


物語にされること。

誰かのために、自分が素材になるということ。

彼女はそれを、憎しみでも、悲しみでもなく、ただ“受け入れている”ように言った。


僕は、はじめて―ほんのわずかに―彼女に怒りを感じた。


どうして、まだ切れないのか。

どうして、そんなふうにされて、黙っていられるのか。

どうして、僕の言葉だけが、彼女を変えられないのか。


その夜、僕はまた書いた。

でも、それは誰にも見せるつもりのない文章だった。

まるで、自分自身に向けた告発のように。


ある日、彼女が言った。


「最近、連絡を断ってみたんです。……でも、やっぱり来ました」

スマートフォンの画面を伏せて、彼女はマグカップを指先で押した。

「“ごめん。会って話せない?”って、また」


その声には、怒りも迷いもなかった。ただ、冷たい空気のような無音の温度だけがあった。


僕は、そのとき思った。

これは終わっている関係じゃない。

彼女は、まだ彼に囚われている。言葉ではなく、もっと深い場所で。


そして、僕には、それが耐え難かった。

彼女は、たしかに僕の言葉を受け取ってくれていた。

詩を交換した。作品について語った。


深夜に「この一行が、今のわたしに刺さりました」とメッセージをくれたこともあった。

それなのに、彼女はまだ、あの男に言葉を返している。


僕は、自分の中にあるものが、静かに温度を持ち始めているのを感じた。

その男の名前は知らない。顔も知らない。

でも、彼女が一度だけ口にした特徴──背が高くて、声が低い。年上。既婚者。

それだけで十分だった。


どこかで見たような人影に、それらしき人物を重ねてしまうことがあった。

駅のホーム、図書館のロビー、サークルの広報誌の寄稿者欄。


もちろん、確かな証拠はなかった。

だが、僕の心の中では、その男の輪郭は明確になっていった。


ある種の“敵”という形を持って。


彼は、彼女を物語にした。

「君は、僕の小説みたいだ」

──彼女がそう言われたと話したとき、僕の中で何かが音を立てて崩れた。

それは、僕の言葉だったはずだ。

僕こそが、彼女の沈黙や、空白や、傷口のような感情を読み取り、それを詩にしてきた。


彼女はそれを、好きだとさえ言った。

なのに、彼女はその男の“物語”の中にいる。

“読まれること”を許している。

そのことが、僕には許せなかった。


「彼女は傷ついている」

「その男が悪い」

「彼女を守れるのは、僕しかいない」


その考えは、何の抵抗もなく、僕の中に沈んでいった。

夜、自室で窓の鍵を閉める。

冬の風が吹き込むのを防ぎながら、僕は心の中の“構造”を整理していた。

部屋の明かりを消して、天井を見つめながら、何度も“あの夜の風景”を想像した。

彼が彼女にどんな声をかけていたのか。

どんな手の動きで、彼女の心を掴んでいたのか。

僕にはわからない。

けれど、それを“理解する必要はない”と、どこかで思っていた。


“話し合い”は、もう何度も重ねた。

“言葉”は、すでに尽くした。

彼女は、傷ついたまま戻ってくる。

僕の言葉を受け取ってくれる。

けれど、その先には、またあの男がいる。


──だったら、僕がその“先”を消すしかないのではないか。


その夜、彼女から一通のメッセージが届いた。


「ありがとう。先輩の言葉で、ちょっとだけ息ができます」


僕はその文面を何度も読んだ。

その一行が、まるで“許可”のように見えた。


「僕の言葉で、救われる人がいる」


それは、かつての成功体験の再来だった。

そして、それが終わることのないように、僕は“静かに、誰にも気づかれずに”、準備を始めた。


***


書く、という行為は、どこかで“選別”に似ている。

現実のすべてを描くことはできない。だから、人は削り、編み、組み替えて、“意味”を生み出す。

僕にとって、彼女との日々もそうだった。


一緒に歩いた帰り道。

文芸サークルの机を挟んだ議論。

折りたたんだ詩集に挟まれた付箋の色。


すべては、選ばれた断片として、僕の中に“物語”を形成していった。

そして、その物語の最後に、彼は不要だった。彼の存在が、物語の構造を歪めていた。彼は、あくまで「脇役」であるべきだった。


けれど現実は、彼を主語に据えて、彼女の行動を書き換えていた。

彼の一言で、彼女の予定が変わる。

彼の沈黙で、彼女が沈む。

それは、僕が望んだ物語ではなかった。


僕は、言葉で世界を変えたことがある。

小学生のとき、ノートに書き連ねた記録は、いじめという構造を告発し、周囲の視線を変えた。

言葉には、風向きを変える力がある。

黙っていた僕が、初めて外に出した“声”だった。

そして今、再びその力が問われている。

彼女は、まだ「読む人」だった。でも、彼女にはまだ気づいていなかった。誰が“語っているのか”。誰が“この物語を書いているのか”。


駅前の小さな公園のベンチで、僕は原稿用紙を一枚取り出した。

何も書かれていない表面に、鉛筆を滑らせる。

「夜の輪郭が、少しずつ静かに崩れていく」

そんな一文から始まる、短い散文だった。

実際の夜は、風が強く、寒かった。


でも、文体は違った。

文体は、どこまでも穏やかで、呼吸が深かった。


「言葉は、選ばれるべきだ」

僕はそう思っていた。


伝えるためではなく、“成立させるために”。

彼女の存在も、言葉のようなものだ。

誰に読まれるかによって、意味が変わる。


僕は、彼女を「読みたい」と思った。

そして、「書き直したい」と思った。


その夜の風景を、僕は正確に覚えている。

街灯の下、銀色の自転車のハンドルが冷えていたこと。

小さな噴水の水音が、時折、風に千切れて聞こえたこと。

誰もいないベンチの隣で、一匹の猫が尾を巻いて座っていたこと。

そのすべてが、“始まりの文体”を持っていた。


だから、僕は気づいていた。

この物語は、次の章を待っている。

ただの偶然ではない。

自然な流れだ。


“語られるべき構造”が、僕の中でひとつにまとまりつつあった。

彼女と話すべきことは、もうなかった。

話し合いは、何度も重ねた。


文学について、表現について、沈黙について。そのすべてが、今の“静けさ”へと導いていた。


あとは、ページをめくるだけだった。

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