第1章 声なき教室
僕が初めて言葉を失ったのは、小学校に入って間もない頃だった。
教室の黒板の前に立たされた僕は、教科書を持っていた。でも、声が出なかった。
口の中に見えない釘でも打ち込まれたみたいに、喉がかちんと固まっていた。
先生は、しばらく待ったけれど、やがてため息をついて僕を席に戻した。
席に戻ると、隣の女子がくすっと笑った。
僕は笑いの意味がわからなかった。ただ、それが僕に向けられたものだということだけは、妙に正確に理解していた。
黒板の文字はちゃんと読めたし、内容も分かっていた。テストの点数も悪くなかった。
けれど、口が開かない。開けようとすると、胸の奥に何か硬いものが詰まって、言葉が空気にならずに戻ってきてしまう。
家では、少しは喋れた。父はあまり話す人ではなく、母はいつも洗濯機の音にかき消されるような声で、何かを言っていた。
僕の声が小さくても、誰も特に気に留めなかった。
それでも、学校ではだんだん浮いていった。
朝の会で発言できない。国語の音読ができない。グループワークでは黙ったまま。
周囲の子どもたちは、最初はただ不思議そうにしていたが、やがて僕を「変なやつ」と分類し始めた。
変なやつは、輪から外れる。子どもたちはそれを、本能的に知っている。
それからの時間は、窓の外の空を見てやり過ごすようになった。
空はいつも僕のことを見下ろしていて、僕が黙っていても怒らなかった。
風が吹く日は、空の端っこが少し動いた。
僕は、言葉の代わりに風の音を覚えた。風は喋らないが、すべてを伝えていた。
担任の先生は、ある日、僕の親を呼んだ。
母は帰ってきてから、僕に「どうして喋らないの」と聞いたが、僕はうまく答えられなかった。
答えるには、まず声を出さなければいけない。でも、その声の出し方を、僕はとっくに忘れていた。
そうして数年が過ぎた。
相変わらず、教室ではほとんど話さなかった。でも、僕の中には、誰にも聞かせない言葉が溜まっていった。
鉛筆とノートがあれば、そこに流れ込んでいった。
ノートの中でなら、僕は自由だった。
好きなだけ喋れたし、どんな言葉も選べた。
誰にも遮られず、誰にも笑われなかった。
僕はいつしか、世界を「書くもの」として眺めるようになっていた。
言葉は、声にならなくても、そこにあった。
それはまだ、僕だけの言葉だった。
きっかけは、給食だったと思う。
ある日、僕はカレーに入っていた人参を残した。
無言で、それを端に寄せただけだった。でも、それを見ていた男子がいた。
彼は笑って言った。
「野菜も食べられないのかよ」
ただの一言だった。だけど、それが一種の合図になった。
それから、僕に向けられる声は少しずつ変わっていった。
ノートを机の中にしまい忘れると、中身が勝手に読まれていた。
体育の時間、僕のジャージだけが裏返しにされていた。
下駄箱の靴が移動していた。
誰かが「いじめ」と呼ぶには、少しだけ足りない。
でも、それが「遊び」ではないことも、僕は理解していた。
彼らはただ、僕の反応を試していた。何も言わない、何もしない人間が、どこまで沈黙を保てるのか。
僕は声を出さなかった。出せなかった。
代わりに、ノートの端に、出来事を書き留めた。
日にち、場所、誰が何をしたか。
数字の羅列のように、感情を消して記録する。
感情を書くと、そこからはみ出してしまう気がした。
冷静でいないと、何かが壊れてしまいそうだった。
担任の先生は気づいていなかった。
教室の空気は静かすぎた。
それはたぶん、僕が怒らなかったからだ。
抗議しない人間は、問題として認識されにくい。
僕は騒がなかった。泣きもせず、ただ静かに、存在していた。
ある日、僕の席にだけ配られなかったプリントがあった。
隣の子が「これ、あんたの分だって」と言って投げてよこした。
紙は机の端にぶつかって、床に落ちた。
僕は何も言わずに拾った。
手が少しだけ震えていたけれど、誰もそれを見ていなかった。
「やっぱり変なやつ」
誰かがそう言った。
僕はそれをノートに書いた。“変なやつ”という文字を、何度もなぞるようにして。
家でも同じだった。
父は相変わらず新聞を読んでいて、母は炊飯器の音に紛れて独り言を言っていた。
僕のノートの中でだけ、すべては記録されていった。
でも、ある日、僕は書くのをやめた。
書いても、何も変わらなかったからだ。
記録することと、世界が変わることは、別だった。
そのとき初めて、「言葉には、もっと違う力があるのではないか」と思った。
それはまだ、ぼんやりとした予感に過ぎなかったけれど、確かにどこかで、そう感じていた。
それは、図書室の一番奥の机だった。
誰も来ないような時間、僕はそこに座って、ノートを開いていた。
ノートには、今まで起こったことを簡潔に、冷静に書いていた。
でも、その日の文字は、少し違った。
“このままでは、誰も知らないまま終わってしまう。”
いつものように事実だけを書くことに飽きて、そう書き加えてみた。
ほんの一行。それが始まりだった。
翌日、僕は原稿用紙を買って帰った。
鉛筆を削って、最初の一枚にタイトルを書いた。
『記録と観察からの教室の今』
堅苦しい名前だった。でも、それがいちばんしっくりきた。
僕は、それまでのノートを読み返しながら、原稿用紙に文章を書き写していった。
名前は出さなかった。感情も抑えた。
事実を丁寧に並べ、そこに小さな“問い”を添えた。
なぜ、これが放置されているのか。
なぜ、誰も気づかないふりをするのか。
書いている間、僕は奇妙な感覚にとらわれていた。
まるで、自分の中にもう一人の自分がいて、その人が冷静な声で語っているような気がした。
僕はその声を、手でなぞるようにして文章にした。
それは初めて、言葉が僕の「内側」ではなく、「外側」に届いていく感覚だった。
原稿が完成したとき、僕はそれを封筒に入れた。
宛名は、校長先生だった。
あまり話したこともない人。でも、誰かが読む必要があると感じた。
放課後、職員室のポストに、そっと差し入れた。
何日かは、何も起こらなかった。
でも、ある日、空気が変わった。
担任の先生が、朝の会で急に真剣な顔をして話し始めた。
「最近、いくつかの報告があってね。教室での振る舞いについて、みんなに考えてもらいたいことがある」
それだけだった。でも、その声の調子と、クラスの沈黙がすべてを物語っていた。
数日後、何人かの生徒が呼び出された。
廊下で担任と話す彼らの背中を見ながら、僕は静かに思った。
「届いたんだ」
あの日から、少しずつ空気が変わった。
僕のノートは、前より静かになった。書くべきことが、少しだけ減った。
僕が喋れなくても、文字は喋る。
僕が黙っていても、言葉は前に進んでくれる。
そのとき、僕は思った。
文章なら、僕は世界に触れられるかもしれない──と。
*
高校を卒業して、僕は都内の私立大学に進学した。
文学部だった。理由は特になかったけれど、選ぶならここだと、ずっと前から決めていたような気がした。
電車を乗り継いで、二時間半の距離にある町だった。
地図で見ればそれほど遠くはないけれど、乗り換えの時間や、駅から大学までの緩やかな坂道のせいで、実際にはもっと遠く感じられた。
アパートに引っ越して最初のひと月は、必要最低限のことしかしなかった。
履修登録をして、図書館を探して、部屋にカーテンをつけて、安い電気ポットを買った。
夜になると、そのポットでお湯を沸かして、インスタントの紅茶を淹れた。
味はどこか曖昧だったが、カップから立ちのぼる湯気は、なぜか落ち着いた気持ちにさせてくれた。
大学の講義は、高校よりもずっと静かだった。
先生の声が一方的に教室を満たし、学生たちはノートに何かを書いていた。
話す人は少なかった。僕にとっては、それが救いだった。
黙っていることが“異常”ではなくなる場所。それが大学だった。
ある日のことだ。
講義の帰りに、生協の掲示板の前を通ったとき、ひときわ古びた紙が目にとまった。
「文芸サークル・新入生歓迎会
月曜17:00〜
学生会館203号室
純文学・詩・散文・何でも歓迎。
“読むことも、書くことも、居ることも自由”」
貼ってある紙は、角が少し焼けたみたいに色褪せていて、フォントもどこか古かった。
でも、その最後の一行が、僕の中に何かを残した。
“居ることも自由”
その言葉は、僕にとって一種の救済のように響いた。
僕は書くことが好きだったし、読むことも好きだった。
でも、“居る”ということに関しては、ずっと苦手だった。
それでも、そこにいてもいいのなら、一度くらい覗いてみてもいいかもしれない。そう思った。
月曜の午後、少し早めに学生会館に着いた。
エレベーターがなかったので、階段を上った。
廊下の蛍光灯は半分くらい切れていた。
ドアには「203 文芸サークル」とだけ書かれた紙がセロテープで貼ってあった。
ノックをするかどうか、少し迷った。
そのまま扉を開けると、中には五、六人の学生がいた。
全員が一斉にこちらを見たわけではなかった。
誰かが「あ、新入生?」と言って、簡単な自己紹介が始まった。
その部屋には、コーヒーの匂いが漂っていた。
八畳ほどの狭い空間に、使い古されたソファと、ちょっとぐらつく机、そして折りたたみ椅子がいくつか。
壁には誰かが描いた詩の一節が貼ってあった。
何も特別なものはなかった。
でも、僕にはその空間が、長い間どこかで待っていてくれたように思えた。
彼らは週に一度、作品を持ち寄って合評をしていると言った。
自由参加。義務なし。
僕は、少しだけ迷ってから、自分のノートを取り出した。
高校時代に書きためた短文をいくつか、手書きでまとめていたものだ。
それを読んだ先輩のひとりが、静かにうなずいて言った。
「……いいね。たぶん、誰にも届かないかもしれないけど、でも、ちゃんと誰かに書いてるって感じがする」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなった。
僕は、その日から文芸サークルに通うようになった。
それが“帰属”なのかどうかは、よくわからなかった。
ただ、そこには言葉があった。
声ではなく、文字としての言葉。
誰かに届くかは分からないけれど、自分の中でだけ確かに鳴っているような、そういう言葉たちが。
季節は、ゆっくりと春から夏へと移っていった。
教室には冷房が入りはじめ、空の色も少しずつ変わっていった。
それでも、文芸サークルの部屋はあまり変わらなかった。
コーヒーの匂いと、少しだけ詰まったような静けさ。
そのなかで、僕は言葉を重ねていた。
三年の春。文芸サークルの新歓の季節だった。
例年通り、ポスターはあまり目立たない場所にひっそりと貼られ、歓迎会も告知と呼ぶにはあまりに静かな告知だった。
誰かが「今年も誰も来ないかもね」と言いながら、紙コップにコーヒーを注いでいた。
そこに、彼女が来た。
最初に見たときの印象は、「線の細い子だな」だった。
背は小さく、髪は肩より少しだけ長くて、春の光を吸い込むような綺麗な黒髪をしていた。
大きなバッグを両手で持っていて、少しだけ歩きづらそうに見えた。
でも、目は真っ直ぐだった。
部屋に入ってくるとき、誰かの顔を探すような目をしていた。
それは誰かを探していたというより、自分がこの部屋にいていいかどうかを、確かめようとするような目だった。
「一年です。柚木遥です」
そう言って軽く頭を下げた彼女の声は、思っていたよりも低かった。
でも、やわらかい声だった。
喉の奥で一度だけ震えてから、空気に溶けるような声。
何人かが自己紹介を返し、彼女はソファの端に腰を下ろした。
僕は、少し離れた椅子に座っていた。
言葉は交わさなかった。
でも、彼女の動き──カップを両手で包む仕草、前髪を耳にかけるときの指の曲がり方、周囲の会話に小さく頷くリズム──そういったものが、妙に記憶に残った。
その日、特に印象的だったのは、彼女が笑ったときのことだ。
先輩の一人が冗談を言ったとき、彼女は少しだけ肩を揺らして笑った。
声は出さなかったけれど、その笑顔は一瞬だけ、部屋の空気を変えた。
誰かが窓を開けたときの風のように、自然で、柔らかかった。
それを見たとき、僕はなぜか自分の指先を見た。
右手の人差し指の先に、ささくれができていた。
彼女の笑顔とは何の関係もない。
でも、その瞬間だけ、世界が小さく“繋がった”ような気がした。
いま思えば、あのときから、別の物語の細い線が静かに伸び始めていたのかもしれない。
次に言葉を交わしたのは、数日後のことだ。
彼女は、サークルの作品集を読みながら、ページの間にしおり代わりのレシートを挟んでいた。
「その作品、僕が書いたんです」
気づいたら、そう言っていた。自分でも驚いた。言葉が自然に出た。
彼女は少しだけ目を見開いて、それから表紙をもう一度見た。
「……あ、ほんとだ。名前、同じですね」
そう言って、すこしだけ笑った。
僕は何を話したのか、あまり覚えていない。
ただ、その短いやりとりのなかで、彼女が笑ってくれたことと、僕の言葉にちゃんと反応してくれたことが、印象に残った。
彼女の声は、やはりやわらかくて、耳に残る音をしていた。
その日から、僕は彼女の姿をよく目で追うようになった。
廊下で見かけても、すぐに声をかけることはなかった。
でも、何気ない瞬間──飲み物を買うとき、自転車の鍵を探すとき、ポケットから文庫本を取り出すとき──そういう細かな動きが、僕にはすべて詩の一節のように見えた。
彼女が特別なことをしたわけじゃない。
僕に優しくしたわけでもない。
でも、なぜか“そこにあるだけで意味がある”ような気がした。
世界に配置された、ひとつの比喩。
僕だけが解釈できる詩行。
その日から、彼女の存在が、僕の中で少しずつ大きくなっていった。
それが恋なのかどうかは、その時は分からなかった。
四年生になってから、サークルにはあまり顔を出さなくなった。
卒論と院試が重なって、物理的に時間がとれなかったのもあるけれど、それ以上に、何かが一段落したような気がしていた。
文芸サークルは、僕にとって“書くこと”を思い出させてくれた場所だったけれど、今はもう、それを一人でも続けられるようになっていた。
自分の言葉と、自分の部屋と、そして静かな時間があれば。
とはいえ、サークルをやめたわけではない。
Slackに投稿される合評のやりとりや、作品集の進行には目を通していたし、たまにコメントもつけていた。
彼女──柚木さんの作品も、そこにあった。
短い詩だった。
「雨粒が名前を呼ぶように落ちていた/私は傘の中で黙っていた」
たった二行。でも、妙に引っかかった。
名前、黙る、雨。どれも僕にとっては、なじみ深い言葉だった。
その詩にコメントをつけるかどうか、少し迷った。
気に入っていた。でも、なぜ気に入ったのかを言葉にすると、何かが壊れる気がした。
結局、「柔らかくて、届かないものの輪郭を感じました」という、どこか曖昧な一文を添えて投稿した。
彼女からの返信はなかった。
サークルのSlackでは、基本的に返信は義務ではなかったし、他の人の作品にも彼女は特に返事をしていなかった。
でも、僕はその詩を印刷して、部屋の壁に貼った。
小さな付箋で角を止めて、机の前に。
直接話した記憶は、春以降はほとんどない。
サークルの総会か、あるいは追い出しコンパのときにすれ違った程度だったと思う。
廊下ですれ違ったときに、軽く会釈を交わしたこともあったかもしれない。
それ以上のことは、ない。
でも、僕の中では、その“ない”の部分が少しずつ膨らんでいった。
僕は、その年、文体研究のゼミに入った。
近代作家の文章における主観と客観の交差について調べるというテーマだった。
とても抽象的なテーマだけれど、僕にはその“曖昧さ”が心地よかった。
文章とは、意味だけで成り立っているわけではない。
呼吸や余白、文と文のあいだにある沈黙。
そういうものが、時にいちばん雄弁だった。
卒論では、ある作家の初期作品における「地の文の照応性」について書いた。
ある人物が語っているようで、実は語られているのは語り手自身だった、という構造に惹かれた。
言葉は誰かに向けて放たれていても、結果的には自分の輪郭を写す鏡のようになることがある。
僕が文章に惹かれるのは、きっとそういう理由だった。
誰かに向けて書いたようで、実は自分自身のためだったのだ、と。
そう考えると、あの詩もそうだったのかもしれない。
雨粒、傘、黙る声。
彼女が何を思って書いたかは、分からない。
でも、そこに何かが“届いてしまった”僕の感覚は、確かだった。
四年の冬、卒論を書き終えてから、少しだけ時間に余裕ができた。
合評用の作品を久しぶりに書いた。
何気ない情景描写だった。
部屋の窓を打つ風の音、コンロでお湯を沸かす時間、湯気に揺れるマグカップ。
そういう些細なものを書き連ねた。
何かを伝えるためというより、ただ書きたかったから書いた。
提出したあと、彼女のコメントがついた。
「窓の描写が好きでした。風の音が、耳の奥で響きました」
それだけだった。でも、それだけで、胸の内がふわりと揺れた。
彼女はきっと、誰にでもそういう言葉をかける人なのだろう。
でも、そのときの僕には、自分だけに届いた返事のように思えた。
大学院に進んでから、少しだけ時間に余裕ができた。
授業の数は減り、研究のペースも自分で調整できた。
昼間に起きたり、平日の昼下がりに図書館の奥で本を読んだり、そういう“隙間”のような時間が戻ってきた。
その頃から、また文芸サークルに顔を出すようになった。
といっても、週に一度、合評のときに部屋へ行くだけだったけれど、それでも久しぶりに会うメンバーたちは、あまり変わっていなかった。
彼女も、そこにいた。
去年と同じ髪型、同じような服装。
でも、どこか雰囲気が少し変わったように見えた。
いや、正確には、“周囲との距離の取り方”が変わったのかもしれない。
彼女はいつも、誰に対しても柔らかく、でも一歩だけ踏み込まないような空気を纏っていた。
ある日、僕が書いた短編が合評に出された。
季節外れの雨の夜、ひとりの男が家の中の音を数えながら時間を過ごす、というだけの話だった。
音だけが登場人物だった。
彼女は、その作品について、「音の描写が、とても静かで、でも印象に残りました」と言った。
それだけだった。でも、その言い方が、どこか“丁寧すぎる”ように感じられて、逆に耳に残った。
その帰り道、たまたま彼女と同じ方向だった。
坂を下る道で、僕の方が先に歩いていた。
ふと足音が近づいてきて、横に並んだ。
「いつも、雨の話が多いですね」
彼女がそう言った。声は、前よりも少しだけ軽かった。
「雨の方が、音が多いんです」
僕はそう答えた。
彼女は少し笑って、うなずいた。
「じゃあ、晴れの日には、書かないんですか?」
「書かないわけじゃないですけど、あんまりうまく書けなくて」
会話はそれだけだった。
でも、僕の中では、その時間が妙に長く感じられた。
言葉を交わすということが、こんなにも特別なことになるなんて、思ってもいなかった。
そのあと、彼女から詩集を借りた。
イタリアの詩人の短詩集で、僕はその詩人のことを知らなかった。
「このあいだの“音の話”を読んで、なんか合いそうだなと思って」
そう言って、彼女は鞄から文庫本を取り出した。
中には、細い付箋がいくつか挟まれていた。
僕はそれを受け取り、まだ開かないままページをなぞった。
紙の手触りがやけに鮮明だった。
その日から、僕は彼女のことを考える時間が少しだけ増えた。
もともと頭のどこかにいたけれど、それはもっと抽象的で、詩のような存在だった。
でも、あの本の手触りと、付箋の貼られたページの重さが、彼女を現実に引き戻した。
彼女は、実在していた。そして、僕に本を貸してくれた。
そう思うと、それだけで何かが大きく動いた気がした。
次の週、僕はその本を返しに行った。
彼女は笑って、「どうでした?」と聞いた。
「雨粒の詩が、よかったです」
僕はそう言った。本当は、全部がよかった。
でも、何かを選んで言わなければいけない気がした。
彼女は、またふっと笑った。あの、肩を少しだけ揺らす笑い方だった。
そのまま何かを言いかけて、けれど、言葉にはしなかった。
代わりに、ほんの一瞬だけ、僕の目を見て、
──それから、すっと目を逸らした。
その仕草が、やけに自然だった。
まるで風がカーテンを揺らすみたいに、何の意図もないように見えた。
でも僕には、それが“意図された自然さ”に思えた。
そのとき、僕の中に、ひとつの確信のようなものが芽生えた。
これは、何かが始まっているのではないか。
──その春は、例年よりも少しだけ長く続いていた。
大学の構内では、八重桜の花びらが、舗道の端をすべるように舞っていた。
僕にとっては、その曖昧さが心地よかった。
彼女と会う機会が、ほんの少しだけ増えていた。
偶然と言えば偶然だけど、サークルの打ち合わせ、詩集の貸し借り、学内イベントのチラシ配りの手伝い。
どれもほんの数分のことだったが、その断片がゆっくりと、確かな輪郭を描いていった。
ある日、彼女が僕の好きな作家の本を読んでいた。
電車の中で、隣の座席に座っていた彼女の手元に、その表紙を見つけたとき、僕は小さく息を飲んだ。
「それ、いいですよね」
僕がそう言うと、彼女は驚いたように顔を上げ、それからすこしだけ笑った。
「最近、好きになりました。前はちょっと苦手だったけど」
「難しいですよね、あの文体」
「でも、なんか……ちょっと似てるなって思って」
「誰に?」
「……先輩に、です」
そう言って、彼女は目を逸らした。
視線の動きは控えめだったが、その一瞬だけ、時間が跳ねたように感じられた。
たぶん、あの瞬間が、僕の中では決定的だった。
そこから、いくつかの小さなことが積み重なった。
合評で、彼女が僕の作品にだけ、他の誰よりも丁寧にコメントをくれること。
サークルのLINEで、僕の発言にだけスタンプをつけてくる頻度。
初夏の合宿の夜明け、同じ部屋で話した文学談義──
彼女が話しながら、指先でマグカップの縁をなぞっていた仕草。
それらすべてが、ひとつの文のように繋がっていた。
もちろん、彼女は決して明確な言葉をくれなかった。
「好き」とか、「会いたい」とか、そういった言葉は、一度も聞いていない。
でも、言葉がなくても、人は伝え合える。
沈黙の中にこそ、確かなものが宿ることがある。
僕は、かつてそれを体験していた。
僕は、彼女もまた、同じように沈黙の中に意味を置く人なのだと思った。
だから、焦る必要はなかった。
言葉にしなくても、きっと伝わっている。
今はまだ、この静かな波の中に身を委ねていればいい。そう思っていた。
その日、彼女は少し早めに帰ろうとしていた。
サークルの部室に忘れたストールを取りに戻ってきた彼女と、偶然鉢合わせた。
「夕方になると、まだ少し涼しいですね」
彼女がそう言って、小さく笑った。
「うん。でも、風が心地いい」
僕はそう答えた。
「……今日の夕焼け、綺麗でしたね」
「うん、たしかに」
そして、彼女はストールを手に取ったあと、少しだけ立ち止まった。
僕はそのまま言おうか迷った。何かを。何でもいい。たとえば、
「今度、また話しませんか」
とか、
「今、何考えてるんですか」
とか。
でも、言葉は出なかった。
あまりにも静かな時間の中で、声を出すのがためらわれた。
彼女は、僕の方を向いて、また笑った。
それから、もう一度だけ、目を合わせ、
──すっと目を逸らした。
今度は、明確な視線の切断だった。
まるで、ページを閉じるような仕草だった。
それでも、僕は思った。
これは、確かに“何か”だった。
言葉にならなくても、たしかな関係がここにあった。そう信じていた。
*
その日はひどく暑い日だった。
ある夏の日、彼女は少し疲れた顔をしていた。
蒸し暑さのせいかもしれないし、レポートの締切が重なっていたのかもしれない。
けれど、それはいつもと違う種類の疲れのように見えた。
「……今日、少し話せますか?」
彼女がそう言ったのは、サークルの合評が終わって、他のメンバーがぞろぞろと退出しはじめた頃だった。
僕はうなずいて、部室の扇風機を止めた。
音が消えて、急に静寂だけが残った。
「ずっと言うか迷ってたんですけど……」
彼女は、紙コップの水を両手で包みながら、ぽつりと話し始めた。
予備校時代の講師のこと。
教えるのが上手くて、頼れる大人に思えたこと。
大学に入ってからも、たまに連絡をとっていたこと。
気づけば、普通じゃない関係になっていたこと。
彼が既婚者であること。
でも、今さらどう断ち切っていいか分からないこと。
僕は、黙って聞いていた。
言葉にすれば、何かが壊れそうだった。
彼女の声はとても静かだった。
水面に落ちた葉のような声だった。
語尾がときどき震えていたが、泣いているわけではなかった。ただ、冷えていた。
彼女が話し終えたとき、部屋の中はすっかり暗くなっていた。
外の街灯が窓ガラスをぼんやり照らしていて、彼女の顔は半分影になっていた。
僕は、何かを言わなければならない気がした。
でも、何も思いつかなかった。
「ごめんなさい、変な話して。……でも、なんか、先輩なら聞いてくれるかなって」
そう言って、彼女は笑った。
いつものように、肩を少しだけ揺らして。
僕はその笑顔に、また確信のようなものを抱いてしまった。
彼女は僕に心を開いてくれた。
こんな話をするということは、“信頼”を越えた何かがあるのではないか。
僕は彼女の目を見た。彼女はすぐに視線を逸らした。
けれどそれは、拒絶ではないように思えた。
むしろ、照れのようにすら見えた。
その夜、僕は一人で歩きながら考えていた。
彼女は、何かに縛られている。
あの男に。彼女を長いあいだ、曖昧な境界の中に閉じ込めてきた存在に。
彼女が自分では切れない鎖を、誰かが断ち切らなければならない。
それが、僕なのではないかと──そう思った。
“惹かれている”と、僕は信じていた。
だから、その関係から彼女を引き離すことは、正しいことだと思った。
彼女のためでもあり、僕自身のためでもあった。
その考えは、翌朝になっても消えなかった。
むしろ、より静かに、よりはっきりと、心の中に沈んでいた。
何も変わっていないのに、何かが決定的に変わってしまった気がした。




