第4章 調書
──キーボードの音だけが、部屋に残っていた。
斉木のパソコンの調書は、すでに数ページ分の記録が綴られている。
彼は、掌をハンカチで拭いながら、次の一文をどう書き始めるか、迷っていた。
外の雨音が、二重窓越しにぼんやりと響いている。
その静寂のなかで、俺たちは事件の“輪郭”を──言葉として、封じようとしていた。
斉木が息を吐き、再びキーボードを叩く。
【1】犯行の準備と動機
* 被疑者は過去に場面緘黙の既往があり、対人コミュニケーションにおいて一貫して筆記を選んできた。
* 大学文芸サークルにおける活動では、発話は少なかったが、提出作品には一定の水準を保つ筆力が見られた。
* 犯行の直接的な動機は、サークル内での“作品に対する嘲笑”および“好意対象である柚木に否定されたと受け止めたこと”に起因すると推測される。
* ただし、感情的衝動による突発的な犯行ではなく、事前に検索履歴(刃物、催涙スプレー、致死量など)を重ね、計画的準備を行っていた。
【2】“手記”の性質と目的
被疑者は、犯行後48時間以内に、A4用紙22枚に及ぶ「手記」を作成し提出。
本手記は、自己の行動を“感情的衝動による非計画的なもの”と見せかけるよう、文学的構造によって“演出”されている。
* 以下の特徴がある:
* 催涙スプレーによる生理的涙を、“悲しみ”として表現
* 犯行中の動揺を、“突発性”と誤認させる心理描写
* 犯行後の冷静な現場整頓行動を“感情の延長”として包摂
これらの描写は、読者の“情状酌量的読解”を誘導するために整えられており、文学的文脈と司法的文脈の交差点にある。
【3】過去の作品との関係
サークル誌『Re\:Verse Vol.13』より発見された文書、および出版社「文芸日朝社」に応募された作品を照合。
本作では“警察に手記を提出する青年”が主人公として描かれており、事件内容および人物像に多数の一致が認められる。
このことから、“手記”はこの作品の事後的続編として構成されていると判断。被疑者は、物語を現実化させることで、“小説の成立”を図った可能性が高い。
【4】犯行の性質と“証明欲求”
被疑者の動機は、単なる私怨や激情によるものではなく、「自身の構築した物語構造が、現実でも成立するか」という検証行為に近い。
サークル内で自身の作品が“笑われた”経験、ならびに好意対象である柚木による同調的な否定を契機として、「言葉では世界は変えられない」という認識への転換が見られる。
それは、「小説を読まれなかったこと」「理解されなかったこと」そのものよりも、理解されなかった結果、自分が世界に何も作用できなかった”という実感の方が致命的であったと考えられる。
よって本件は、感情の噴出ではなく、自己存在証明の最終手段として、“物語を現実化”させる過程で発生した殺人であると位置づけられる。
【5】“文学”を通じた構造的トリック
被疑者は、あくまで「手記」の中では“後悔”や“動揺”を匂わせているが、文体の中には一貫した冷静さと構造設計がある。
手記中における印象的な一文:
『それが悲しみだったかどうかは、今でも分からない』
この記述は、感情の記録であると同時に、読者に感情の錯覚を促す“罠”でもある。
被疑者は、“文学”が持つ二重性──言葉が人を癒しもすれば、欺きもするという特性を、完全に意図した上で利用していたと見られる。
彼にとっての“文学”とは、もはや表現ではなかった。
“認識を操作する構造物”としての文学を、自身の裁判戦略・自己証明の道具として選択したのである。
【6】結論と法的見解
以上の記録・証拠・手記および原稿内容から、被疑者・遠野 湊は、
「恋愛感情の破綻」や「サークル内での人間関係」によって感情的動機を発生させたわけではなく、
計画的かつ構造的に犯行を設計・実行したものと判断される。
手記は、文学的な体裁を持ちながらも、明確な構成目的を持った操作的文章であり、
情状酌量を目的とした“準備行為の一部”とみなされるべきである。
被疑者が作中で使用した「誰かに分かってもらえれば、それでいい」という記述は、
一般的な“理解されたい”という願望を装っているが、実態としては「理解されることが犯行の前提条件である」という、冷静な“設計者の条件”であった可能性が高い。
「言葉が現実を変える」
そう信じるしかなかった──彼の信仰は、ある意味では叶った。
だが、それは“命”を担保とした代償によってしか、成立しなかった。
***
「……これで、まとまりましたかね」
斉木がつぶやく。
「あぁ、お疲れさん。最終確認しとくよ」
彼の声には疲労と、どこか言い足りないものが混じっていた。
記録としては、もう充分だった。
構造も、動機も、形式も、すべては明確に“書けて”いた。──だが。
──それでも、足りないと思うのはなぜだろう。
机の上に置かれた手記の一文が、ふいに視界に滲んだ。
『でも、それが悲しみだったかどうかは、今でも分からない』
あの文章の向こう側にいたのは、どんな人間だったのか。
怒りを見せず、恨みも言葉にせず、ただ“書いた”だけの青年。
それが“表現”だったのか、“武器”だったのか、今でもはっきりしない。
だが──ひとつ、確かなことがある。
彼は、誰にも届かないまま死んでいった感情を、言葉にして残そうとした。
彼なりのやり方で、誰かに伝わることを願った。
……だから、怖いのだ。
あの手記は、正確すぎる。
悲しみを語らず、怒りも説明しない。ただ、“読ませること”に徹している。
それは、誰かに自分を理解してもらうための“文章”ではない。
“理解されたときに成立する構造物”──まるで、設計図だった。
──ならば、それに「感情を読み込んだ俺たち」は、
彼のトリックに“はまった”読者だったのかもしれない。
俺は、調書の末尾に目を落とす。
すべての論理が整っている。
証拠も、心理描写も、言葉の伏線も、分析は正しい。
──だが、この調書は、きっと裁判では採用されない。
証拠としては脆い。
動機の確定も状況証拠にとどまり、“文学的解釈”という曖昧さがつきまとう。
冷静に考えれば、この手記はただの自己申告であり、殺意の有無を決定づけるには弱すぎる。
だから、これは“証明”にはならない。
──けれど、それでも、書かねばならないと思った。
なぜか。
なぜ俺たちは、ここまで読んで、分析して、書き続けたのか。
その答えは、もしかしたら──
“彼の物語”ではなく、“彼女の人生”を物語にしないためだったのかもしれない。
俺たちが辿ってきたのは、遠野の手記を捜査して浮かび上がった「被害者」としての柚木遥の輪郭に過ぎない。
実家の家族旅行の写真やカフェでのバイト……
彼女自身の人生には、本当はもっと、いろんな色や匂いがあったのだろう。
ガスコンロの小鍋や冷蔵庫の卵パック……
そんな、ごくささいな明日への気配──
俺たちも彼女の本当の姿は分からない。
だからこそ、
理解という名の物語に変換され、“納得”の構造に組み込まれてはいけない。
「事件には、物語が生まれる。だが、死者には物語を与えるな」
その言葉を、昔、先輩に教わった。
これは“彼の物語”ではない。
彼女の人生の輪郭を、犯人の手から取り戻すための調書だ。
たとえ裁判で使えなくてもいい。
この記録が残ることが、彼女の“生”が物語に塗り潰されなかった証になる──
俺は、そう信じていた。