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誤読  作者: ミノルマサカ/ChatGPT
第2部
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第3章 読解 ─小説─

午後三時。大学の文芸サークル部室。


ドアを開けると、埃と紙とインクの匂いが鼻を打つ。窓から午後の光が差し込み、棚の上の古いコピー本を照らしていた。空調は切れているが、風がカーテンを微かに揺らしている。


テーブルを囲むように、六人の学生が座っていた。全員、上級生だ。

安藤(四年)、江本・森下(三年)、高橋・佐伯(二年)、そして前回欠席していた沢口の姿もあった。


斎木は俺の隣で椅子に腰かけ、学生たちを一人ひとり観察していた。

その眼差しは柔らかいが、どこか鋭さもある。最初に口を開いたのは斎木だった。


「じゃあ、始めさせてもらいます」


そのひと言で、部室の空気がわずかに引き締まる。カップが紙袋の中で擦れる音がやけに響いた。


「今日は、遠野さんと柚木さんの間に、何かトラブルがなかったかという確認です」


沈黙。


口火を切ったのは、サークル長の安藤。


「……いや、特に思い当たらないですね。ふたりとも、言い合いしてるとか見たことないですし」


続けて森下。


「私もです。少なくとも、サークルの中では、そんな雰囲気は感じませんでした」


江本も無言で頷く。


高橋がやや遅れて口を開く。


「……まあ、俺も同じです」


その瞬間、空気に微かな歪みが走る。


「高橋。あれじゃないのか? 遠野さんの応募作品のやつ」


沢口の声が静かに割って入った。抑揚のない口調だが、部屋の温度が一度下がったように感じた。


高橋は慌てて首を振る。


「いや、そんな、大したことじゃないですよ」


俺は斎木と目を合わせる。うなずくと、斎木がさらに問う。


「応募作品って……詩が入った恋愛小説のことですか?」


「違います。ミステリー小説です」


俺の眉がわずかに動く。手記にはなかった言葉。


「それについて、何があったんですか?」


高橋は溜息まじりに口を開いた。


「……ちょっと前のことです。学食で、柚木先輩と俺が遠野さんの応募作品について話してたんです。ジャンルは自由で、遠野さんが出したのはミステリー小説でした」


「どんな内容?」


「……犯人が手記を残して、情状酌量を狙う話でした。俺が冗談で“そんなトリック、通らないですよね”って言ったら、柚木先輩が笑って、“ほんとそれ。それにあんな男、好きならないでしょ”って。ちょっと語気が強くて、あれ?って思ったんですけど、笑ってたから冗談かなって」


高橋はうつむき、机の端を指先でなぞった。


「……で、遠野さん、そのとき近くにいたみたいで。俺たちの会話、聞かれてたんです。気づかなかったけど……柚木先輩の顔が急に固まって、あ、って。今思えば、遠野さん、無言でその場から立ち去ったんです」


メモ帳にさらさらと走り書きしながら、ふと考える。


──自分の作品が“笑いのネタ”にされた瞬間。それも、好意を寄せていた相手に同調されたとすれば。

それは“物語の否定”じゃない。“自分ごと拒絶された”のかもしれない。


斎木が頷く。


「なるほど。遠野にとって、それは無視できない出来事だったでしょうね」


佐伯の細い声。


「……でも、それで怒るとか、そういう人に見えなかったです」


「怒らなかったからこそ、かもしれません」


自分でも自然に言葉が出た。


「……外に向けて出せない感情が、内側で発酵することがある。彼が“何も言わなかった”というのは、沈黙じゃない。抑圧だったのかもしれない」


部室の時計が、ひとつだけ遅れて“コトリ”と音を立てた。


誰も反応しない。でも、それが──

心のどこかで“時間が止まっていた”誰かの時計が、ようやく動き出した音にも思えた。


「その小説、ここにあるんですか?」


斎木が問うと、空気がまた揺れた。誰かが息を呑んだ気配。

目を向けると、安藤が棚へ向かう。


「たしか……コピーをあのファイルに入れてなかったか?」


足取りは迷いなさそうで、その動きには“ためらい”が混じっているようだった。


他のメンバーも散らばって動き始める。

“探す手”は動いているが、“見つける意思”があるようには見えなかった。


机の上の紙の山、文芸誌の束。

森下が静かに書類をめくる音だけが、妙に耳についた。


「ないな……」

「こっちにも、ないです」

「PDFだったとか……いや、印刷だったはずだけど」


言葉は重ならない。不自然なまでに“揃わない”同調。


その時、バサリと音がした。


棚の上から、文芸誌が一冊落ちた。誰も触れていない。

でも、まるで誰かが“落とすのを選んだ”かのような間のある落下。


「……『Re\:Verse Vol.13』?」


手製装丁。色褪せた表紙。

“触れてはいけない記憶”の匂いがした。


「これ……柚木先輩が編集に入った号ですよね?」


佐伯がしゃがみこむ。


その瞬間、文芸誌の間から一枚の紙が、導かれたように、ひらりと落ちた。


手帳サイズのグレーの用紙。明らかにパソコン印字。

斎木が拾い上げ、読み上げる前に──俺はすでに寒気を感じていた。


《俺のトリックは成立する。絶対に許さない》


空気が止まる。

言葉が空間を切った。


部室全体が、止まったように静まり返る。

誰も言葉を探せないでいる。


「……これって」江本がかろうじて声を出す。「遠野さんの……?」


その時だった。


高橋の身体が固まり、やがて前屈みになる。

浅い呼吸、額に手、微かな震え。


誰も動けない。その場にしゃがみ込む高橋。


衣擦れの音が静寂に響く。


「……俺、そんなつもりじゃ……ほんと、違うんです……」


沢口が眉をひそめる。「おい、落ち着け」


俺は、高橋の手の震えをじっと見ていた。彼は“罪悪感”で泣いているのではない。“恐怖”だ。なにか、自分が知らないまま、重大な“地雷”を踏んでしまった人間の震えだ。


安藤が近づく。


「高橋、医務室行こう。付き添うよ」


「すみません……すみません……」


その声を背に、ふたりは静かに部室を出ていく。


再び静かになった空間。斎木がメモを見つめる。

俺は斎木の手の湿り気に気づいた。

──紙が、わずかに濡れている。手汗か、涙か、それとも──


「……この小説、本当にここにないんですか?」


斎木の呟きが宙に漂う。


佐伯が苦しそうに首を横に振った。


「少なくとも、私たちの誰も持ってないと思います。あの原稿は……一回限りの読み切りで、“どこかに出す”って本人が言ってました」


──出した、か。


「どこに出したか、分かるか?」


森下が、記憶を手繰るように口を開く。


「えっと……“文芸日朝社”です。学生向けの短編賞があって、それに出したって」


斎木に目を向ける。うなずき返す。


「斎木。そこを当たろう。“原本”を手に入れたい」


──部室にはない。本人の部屋も調べる必要はあるが、

もし“意図的に排除された”のだとしたら、そこにも残っていないはずだ。


メモに書く。


『俺のトリックは成立する。絶対に許さない』


“トリック”──これは作品中の仕掛けか、それとも現実に仕掛けた報復の構造か。


文章という“構築物”の中で、彼はどこまで冷静だったのか。

そして、その言葉を“誰に”向けていたのか。


部室にはまだ夕陽の余韻が残っていた。

だが、部屋にいる誰一人として、その光の中に希望を見ていなかった。

すべてが夜の輪郭を帯び始めていた。



──翌日、午前十時。

俺は出版社の受付カウンターにいた。


「文芸日朝社」。新宿の雑居ビルの9階。エレベーターを降りた瞬間から、紙とインクの匂いが漂っていた。

受付の女性に名刺を渡すと、奥から編集部の人間が現れた。ベージュのジャケットに濃紺のハイネック、眼鏡をかけた男──肩書きは「第三編集部・松岡」。


「……いやあ、正直驚きましたよ。学生賞の問い合わせなんて、普通ないもんで」


応接室に通され、缶コーヒーが出された。彼は口をつけず、話し続けた。


「うち、年間で学生の応募がざっと三百本以上あって、その大半は一次選考止まり。だから、落選原稿となると……まあ、掘り返すのが大変なんですよ」


机の上に、A4用紙をまとめたクリップ留めの束が置かれている。


「この“遠野 湊”って人……何か、トラブルでも?」


そう訊かれたとき、俺はほんの一瞬だけ言葉を探した。


「……いえ。ちょっとした参考資料です」


「ふうん……」

松岡は納得したふりで頷いたが、その目には編集者特有の“行間を読む視線”があった。俺が名乗った肩書きと、話さない姿勢のあいだに、何かを察したのかもしれない。


「この人、なかなか書ける人でしたよ。筆が整ってて、文体に“クセ”がある。でも、それが逆に選考では仇になった。──“うますぎて、警戒される”ってあるんですよ、こういう賞では」


「“うますぎて”?」


「はい。手慣れてる文章って、“心が見えにくい”って言われるんです。だから、最終候補までも行かずに落とされた。僕は惜しいと思ったんですけどね……」


それ以上、俺は何も言わなかった。ただ資料を受け取り、頭を下げて部屋を後にした。



署に戻ったのは正午過ぎ。

俺たちは会議室の端に資料を置き、コートを脱ぐ間もなく席に着いた。


「……やっぱり、これは、ただの小説じゃないですね」


斎木が読み終えたコピー原稿を静かに閉じる。


主人公は場面緘黙の過去を持つ青年。殺されるのは、彼女の“元カレ”──高校時代の塾講師。しつこくつきまとう大人。

彼女は主人公の味方で、事件のあとも彼のそばに残る。


「……まるで、遠野の“願望の投影”ですね。現実とは逆。彼女が生きていて、味方で、過去の加害者を排除できている」


頷く。


「……その“加害者”が、どう見ても藤沢なんだよな。設定は元カレだけど、描写はそっくりだ。言葉遣いも、距離感も」


「藤沢を、物語の中で“処罰”したんですね。遠野にとって、あれが現実に変えるべきだった世界だったんだ」


斎木が目を細める。


「でも……現実は、逆だった」


彼女は藤沢を否定しなかった。

その関係を変えようとしなかった。


──そんなトリック通じるわけない

──あんな男、好きになるわけない


彼女は彼の小説を笑った。

……そして、自分は死なないと誤読した。


「……共感なんてなかった。“物語は通じなかった”。」


斎木が静かに言葉を継ぐ。


「彼にとっての“文学”は、小学生の頃からの武器だった。“話せない代わりに書く”。それで、ずっと世界をどうにかしてきた」


「それが、“書いても何も変わらなかった”って現実を突きつけられた。人生の根幹が否定されたようなもんだ」


「遠野にとって、“書くこと”は自己証明だった。世界を変える手段だった。それが……“笑い飛ばされた”。」


『俺のトリックは成立する。絶対に許さない。』


「……これ、サークル誌に挟まれてたメモだろ。小説の中での“トリック”が、現実に成立すること。それが、彼の目的だったんじゃないか」


小説の主人公は、警察に手記を渡すことで事件を“構造化”し、情状酌量が認められる。


「つまり……あの手記は、この小説の“模倣”じゃない。“続編”だ」


「第2部……?」


「そう。自分が描いた物語を、現実で完成させたかった。“理解されなかった物語”を、現実の中で実証する。それが、彼にとっての“証明”だった」


沈黙。


「これは“感情”の犯行じゃない。“構造の証明”だ」


小説の一行を指さす。


『誰かに分かってもらえれば、それでいい。でも、分からなければ、僕がやった意味は、全部消える』


主人公が彼女に向けた言葉だった。


「誰にでもいい。“分かってもらうこと”がゴールだった。でも、“分かってもらえなかった”。だから、“やった”」


斎木が、かすかに震えた息を吐く。


「……小説を笑われたからじゃない。笑われた“構造”を、現実で成立させることで、“笑えなくしてやる”──それが、遠野の目的だった」


「そして今、俺たちは“手記”を読んで、証拠と照合して納得してる。……それこそが、遠野にとっての“勝利”だ」


斎木が目を閉じる。


「……俺たちが、手記の証拠を探すことが、彼の“トリック成立”の証明になってるんですね」


「そうだ。俺たちは今、彼の小説の中にいる」


静かに、原稿を閉じた。


『僕はこれまで、いくつもの文章を書いてきた。誰にも読まれなかったものもある。 選に漏れ、破棄された原稿もある。それでも書き続けたのは、言葉には何かしらの力があると信じていたからだ。


小さな教室で、ノートに書いた告発が、世界を動かした。それは偶然だったのかもしれない。でも、僕にとっては奇跡だった。 言葉が、現実を変える。 そう信じるしかなかった。』


この手記の一節── その力の“証明”が、誰かの命と引き換えにされているという事実が、ページの余白から滲み出ていた。


俺は静かに立ち上がった。


「……斉木、調書に移るぞ。“読み終えた”なら、“書く”しかない」


彼は黙って頷いた。


読み終えたのは小説ではない。 ──現実の“構造”だった。


だが、次に綴るのは、“真実”であるべきだ。

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