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誤読  作者: ミノルマサカ/ChatGPT
第2部
13/17

第2章 証言 ─家族─

宇都宮の駅を出ると、午前の光がやや斜めから差していた。北関東の空気は都内よりもいくらか湿っていて、街路樹の葉に夜露が残っているのが目に映る。


斎木と並んでタクシーに乗り、静かな住宅街を抜ける。

目的地は、被害者──柚木遥の実家だった。遠野の手記に記された内容が、事実とどこまで一致しているのか。それを確かめるための訪問だった。


今回の事情聴取は、通常の被害者家族対応よりも一歩踏み込んだものになる。

理由はふたつある。


ひとつは、柚木の死について未だ明確な“動機”が見えないこと。もうひとつは、犯行を自供している遠野湊が、口頭ではなく“文学的な手記”というかたちで事件を語っていることだった。


つまり、こちらとしては「家族が知る柚木遥」と「手記に描かれる柚木遥」とが、同一人物かどうかを照らし合わせる必要があった。


現場の状況証拠、防犯カメラの映像、凶器の指紋──すべてが遠野による犯行を指し示している。

けれど、遠野は“語らない”。

だから、読むしかない。

その手記を、そして、その中に描かれた彼女の姿を。


白い塀に囲まれた一軒家が見えてきた。瀟洒な造りの二階建てで、窓の大きなリビングには薄いレースのカーテンが引かれていた。


「……立派な家ですね」

斎木がぽつりと言う。


門扉を開け、玄関に入ると正面の棚に写真立てが並んでいた。ランドセル姿の少女。家族旅行で海を背に笑う三人の姿。


そのなかに、比較的最近の遥の写真が一枚あった。髪は肩まで伸び、柔らかな笑みを浮かべているが、瞳の奥にはどこか影のようなものが宿っている。


子ども時代の無邪気さと、青年期の影を帯びた表情。そのあいだに横たわる空白こそが、これから聞き出すべきものなのだろう。


靴を脱ぎ、応接室に通された。迎えたのは、母親の柚木佐代子と、父親の柚木浩一だった。


佐代子は50代半ばほどの上品な装いの女性で、控えめに口紅を差した顔立ちには緊張と苛立ちが入り混じっていた。


「今日は、わざわざ……。でも、まだ何も決まってないんですよね? ニュースでは、“サークルの友人”が疑われてるって……」


「ええ。今は、ある人物から提出された“手記”をもとに、事実関係の確認を行っている段階です」

俺はなるべく丁寧に答えた。

「その内容が、現実とどこまで一致しているか──それを確かめたく、こちらに伺いました」


「そう……ですか。遥のこと……何か分かるのなら」


母親は言葉を選ぶようにして頷いた。


父親のほうは医者らしく、白いシャツに落ち着いたグレーのジャケットという装い。こちらは、沈黙を守ったまま、こちらの様子を観察しているようだった。


「遥さんの最近の様子について、お伺いしてもよろしいでしょうか」


母親が口を開いた。


「……そうですね。最近は、あまり連絡がなかったんです。LINEはくれるけど、電話では話したがらなくて。会うのも……お正月に一度帰ってきただけでした」


「お正月。一ヶ月ほど前ですね。そのときの様子は?」


「少し、疲れているようには見えました。……でも、誰かと何かあったという感じではなくて。ただ、“忙しい”って言ってました。サークル誌の編集とか、早めに就活のの準備しなきゃとか……。あの子、いつも自分で背負っちゃう子だったから」


一度言葉を切り、佐代子は小さくため息をついた。


「……もっとちゃんと聞いておけばよかった。そうすれば、こんなことにならなかったのかもって、何度も思うんです」


斎木が静かにメモを取り、俺は少し身を乗り出した。


「お嬢さんは、一人暮らしを始めたのはいつ頃からでしょうか」


「高校卒業してすぐです。予備校に通うために……」


「ご両親は、その間の交友関係や生活について、どのように把握されていましたか?」


「ええと……あまり詳しくは。本人があまり話したがらなかったんです。……でも、サークルにはちゃんと行ってたみたいで。あと、カフェでバイトしてたのは知ってました」


母親の佐代子さんが、ソファの肘掛けに手を置いたまま、俺たちをじっと見ている。その指先には光沢のあるマニキュアが塗られていて、場にそぐわない華やかさを帯びていた。父親の浩一氏は対照的に、やや俯き加減で落ち着かない様子を見せている。腕組みをしているが、何度かその腕が組み直された。


斎木が視線を上げた。


「……もう少しだけ、お嬢さんの交友関係について教えていただけますか」


そう切り出すと、佐代子さんがすぐに答えた。


「……娘、あまりそういう話、私にはしない子でした。友達はいたと思いますけど……よく分からない子で。学校で何があったのかも、あまり話さないで」


「では、特定の方と親しい様子は──」


「いえ、わたしは知らなかったです。ただ、男の人と話してるところは何度か。……予備校でお世話になった先生とは、ちょくちょく会ってたみたいで」


「そのことは、お嬢さんから直接聞かれましたか?」


「ええ。勉強の相談だって。でも、……なんとなく雰囲気で。母親の勘ですけどね」


言いながら、佐代子さんの目がわずかに細められた。浩一氏はそれに対して、何も言わなかった。


「娘、昔から大人の男性に懐くところがあって。わたし、何度も注意したんですけど。でも……聞かない子でした」


その口調には、どこか責任を回避するような響きがあった。


「……遠野湊さんという、同じ大学の方とは、どのような関係だったとお考えですか?」


佐代子さんは首を傾げた。


「名前は……聞いたことがあるような。でも、その人がどういう人かまでは」


横から、浩一氏がようやく声を発した。


「“文芸の先輩”って、口にしていた記憶があります。スマホにその名前があったような……」


「恋愛関係にあったようには?」


「……うちの娘、そういうこと、はっきり話さない性格で。私たちが知らなかっただけかもしれませんけど……でも、仮に何かあったとしても、それは娘の問題です」


そう締めくくるように佐代子さんが言った。


だが、その言い方は、どこか距離を置くようにも聞こえた。


斎木が静かにメモを取りながら、俺に目をやる。うなずき返すと、彼が質問を切り替えた。


「お嬢さんが悩んでいる様子はありましたか?」


浩一氏が、少しだけ間を置いてから答えた。


「……ありました。夜、部屋で泣いている声を聞いたことがあります。誰かと電話していたのか、独り言なのかは分かりませんが……。ただ、その後はすぐに普通に振る舞っていて」


佐代子さんが言葉を継ぐ。


「私が“誰かとケンカしたの?”って聞いたら、“違うよ”って笑って。」


目を細めるその視線には、娘を心配する母親のそれというよりも、騒動に巻き込まれることへの煩わしさのような色が混じっていた。


この家には、確かに愛情はあったのだろう。

だがそれは、正面から娘と向き合うというよりは、ある種の“枠”を守ることへの執着に近い。


彼女の発言には、どこか、踏み込ませまいとする温度があった。

そこに隠されているものを確かめるには──もう少し、踏み込む必要があった。


「ありがとうございます。もう少しだけ、お付き合いください

──大学に入ってから、遥さんが誰か特定の方と交際していたようなご様子は、ありましたか?」


俺の問いに、母親の佐代子さんは少しだけ目を泳がせ、それから軽く肩をすくめるような動きを見せた。


「……だから、それが分かってれば、こんなことには……って、何度も思いました。恋愛は自由だし、大学生ですから、そりゃ好きな人のひとりやふたり……いるでしょう。でも、あの子、私たちには“絶対に”言わなかったんですよ」


「口が堅いということですか?」


「そう。昔から、なにか肝心なことは隠す子だったんです。テストの点数も、進路の相談も、いつの間にか決めてしまってて。……恋愛のことなんて、なおさらですよ」


一方で父親の浩一氏は、それまで組んでいた腕を解き、眉間に指を当てながら、言葉を探していた。


「ただ……その……誰かに、心を許してる感じはありました」


「といいますと?」


「年末、リビングで話していたとき……娘がスマホでメッセージを送ってる様子を見てたんです。ふと名前が見えて。“ミナトさん”って書いてあった」


「“ミナト”……遠野 湊さん、ですね」


「はい。正確にそう書かれていたわけじゃありません。でも、あの子の言葉づかいの雰囲気と、何気ない顔つきで、こっちも空気で察するというか……誰かを大切にしてるんだなって。……それが恋愛なのか友情なのかは、正直、分からないけれど」


「お嬢さんは、そのような話を、ご両親には?」


佐代子さんが鼻を鳴らすように笑った。


「するわけないじゃないですか。“親に恋愛の話なんて、するわけないでしょ”って、前に言われました。“彼氏でもできたの?”って冗談っぽく聞いたのに」


──応接室には、静かに時が流れていた。カーテン越しの陽が、床に長く影を伸ばしている。


その“冗談”の成分が、いくらか刺々しいものだったことを、母親自身はどこまで自覚しているのだろうか。


「でもまあ……ちょっとは楽しそうでしたよ。何かに夢中になってるというか、頭の中で何かずっと考えてるような感じで。……私は、正直、あまり深入りしたくなかったですけど」


俺は斎木と目を合わせた。彼は微かに頷く。


遠野と柚木──その関係は、少なくとも“誰の目にも明らか”というほどではなかった。けれど、“どこかに存在していた”ことは間違いない。


問題は、彼女自身がその関係を“どう認識していたか”だ。


「……少し聞きにくいことですが、遥さんが“恋愛”について悩んでいた形跡は?」


斎木が問いかけると、母親は少し口を閉じ、それから息をついた。


「……あったかもしれません。スマホのパスワードは分かりませんでしたけど、机の引き出しに手紙みたいなものがあって……内容は読んでません。……でも、“彼と話せなくなるのが一番怖い”って書いてありました」


「“彼”というのは……」


「名前はなかったです。でも、私は予備校の先生じゃないかと。……ずっと連絡を取り合っていたって聞いてましたから」


その予備校講師──藤沢との関係に言及する声には、明らかに“好ましく思っていない”色が混じっていた。


斎木が、声を落として尋ねる。


「……ご両親として、その先生について、どのような印象をお持ちですか?」


浩一氏が、しばらく黙ってから言った。


「……教師という立場で、そういう関係に入るのは、倫理的に問題だと私は思っています。実際に何があったかは別としても」


佐代子さんも小さく頷く。


「わたしも、いい気はしませんでした。でも、娘は“ただの相談相手”だって言い張って。私が問い詰めると、逆に口を閉ざすから……」


俺は、そっと手帳を閉じた。


ここまでの証言から、俺たちが見出したのは、“彼女が何を語ったか”ではなく、“何を語らなかったか”だった。


いま明確になったのは、柚木遥という女性が──


* 感情を“言葉”にはあまり乗せないこと

* それでも誰かに“感情”を託す瞬間はあったこと

* だがその託し方が、“他者に伝わる形”ではなかった可能性があること


そして、遠野の手記が描く“心の距離”が、事実と等しいとは限らない、という可能性だった。


つまり──


『彼女は、遠野に“惹かれていなかった”かもしれない』


それなのに、手記には“惹かれていたように”書かれている。まるで、“そうだった”とすることで、なにかの意味を成立させようとしているように。


言葉は、感情の証拠にはならない。


だが、書かれた以上、それは“物語”になる。


俺たちは、その違いに、そろそろ踏み込まなければならない時期に来ていた。


「──お嬢さんが、年上の男性と“特別な関係”にあったと、ご家族として実感されたことはありますか?」


それは、なるべく直接的すぎない形での問いだった。

だが、この問いが投げられた時点で、応接室の空気にひとつ“線”が引かれたことを、全員が察していた。


佐代子さんの唇が、いったんきゅっとすぼまり、言葉を拒むように揺れた。

それでも、数秒の沈黙ののち、小さく息を吐いてから、声を出した。


「……たぶん、あったんだと思います。ええ、“そういう関係”が」


「その“相手”が誰かというのは──」


「……予備校の先生。藤沢さん、ですよね?」


問いに対して、答えではなく“名指し”で返ってきたのは、すでに母親の中で疑いが確信に変わっている証左だった。


「どうしてそう思われましたか?」


「去年の夏……あの子が実家に少しだけ帰ってきたとき、スマホを触ってて……LINEの通知が一瞬だけ見えたんです。“藤沢”って名前と、“会えないか”って短い文だけ」


「そのときは、どう対応されたのですか?」


「“誰? 藤沢さんって”って、聞きました。そしたら、“ただの昔の先生”だって。すごく軽い感じで」


佐代子さんの目が細くなった。

その視線には、母親としての懸念以上に、“裏切られた”という感情が浮かんでいた。


「でも、嘘をついてるときの顔って、分かるんですよ。あの子は。目が笑ってないから」


そう言いながら、グラスの水をひと口含み、それから口紅の跡がついた縁を、ナプキンで丁寧にぬぐった。


「……そのときから、何となく、そういう関係があるんだろうなって、思い始めました」


「反対されましたか?」


「……もちろん。私は、絶対に許せなかった。そんな“大人の男性”と、“学生の女の子”が、“ただの相談”で繋がるわけないじゃないですか」


言葉の圧が、わずかに増した。


「しかも、あの人──既婚者なんでしょ?」


俺は頷いた。


「報道はされていませんが、確認は取れています」


「最低ですよ、そういう人。自分の家庭を持っていながら、若い子に手を出すなんて……!」


怒りは、言葉の輪郭を超えて、部屋の空気に触れ始めていた。


その一方で、佐代子さんの怒りが、“藤沢”だけに向けられているわけではないことも、容易に察することができた。


「……それに、娘も娘です。なんで、そんな相手に……」


その言葉は、途中で切れた。


父親の浩一氏は、無言のまま、椅子の背もたれに身を預けていたが、ついに低い声で口を開いた。


「……遥は、優しい子でした。優しすぎて、誰かの期待に応えようとしてしまう。誰かが“弱っている”と感じると、寄り添ってしまう。」


言葉の途中で、浩一氏はちらりと佐代子さんのほうへ目をやった。

すぐに視線を戻しながら、言葉を探すように続けた。


「予備校に行ったのもそうです。それが、結果として、良くない形になったのかもしれません」


斎木が静かにメモを取りながら、質問を引き継いだ。


「……それはつまり、藤沢氏が精神的に、遥さんに依存していた、ということでしょうか」


「……ええ。娘は“頼られている”と感じたんでしょう。でも、あの人にとっては、“都合のいい逃げ場所”だったんじゃないかと、私は思っています」


佐代子さんの口調が、わずかに震えていた。


「でなきゃ、どうして、娘を……」


言葉の先は濁された。


母親としての怒りと恥、そのどちらともつかない感情が、彼女の発言には絡みついていた。


だが、はっきりしていたのは──


『柚木遥は、“既婚男性との関係”を、家族には明かさなかった。けれど、それは“知られたくなかった”というより、“語れなかった”のではないか。』


なぜ語れなかったのか。

それは、相手が“倫理的に問題のある立場”だったからというだけではない。

彼女自身も、“語るに足る関係”として自信を持てなかったのではないか。


そう考えると──


『遠野に対しても、“語らなかった”ことには、同じ背景があった可能性がある。』


恋愛ではない。けれど、“特別”な相手。

期待に応えるように、彼の言葉に反応し、詩に感想を返し、やがて何かを共有しているような“錯覚”が生まれた。


手記には、それが“想いの積み重ね”として描かれている。

けれど、その“積み重ね”は、一方通行だったのかもしれない。


母親の佐代子さんは、話しながら時折、“自分の娘がそんなふうに見られていたこと”そのものに、恥のような感情を混ぜていた。


「……正直に言いますけど、わたし、“不倫”なんて、信じたくなかったです。でも……でも、もし本当だったとしても、なんで娘ばかりが……」


その言葉は、被害者の母としてというより、自分の“家の名前”が汚されたことへの怒りに近かった。


そして──


『その怒りの矛先は、必ずしも“加害者”だけに向いていない。』


夫に対しても。


「……あなたが、"どこにも行かなかったら"、こんなことにはならなかったんじゃないの?」


佐代子さんの言葉が、鋭く部屋を貫いた。


浩一氏は答えなかった。

ただ、少しだけ視線を床に落とし、受け止めるように口元を結んだ。


家庭の中にも、“語られなかったこと”が、いくつも残っていた。


俺はメモ帳にひとこと書き足した。


《“語らなかった”のではなく、“語れなかった”》《選ばなかったのではなく、“選べなかった”》


その不自由さが、手記の中では“美しい沈黙”として描かれている。

だが、それは実際には、もっと現実的で、もっと無力な“抑圧”だったのではないか。


***


宇都宮駅前の喫茶店で、斎木と遅めの昼食をとっていた。

サンドイッチを半分ほど残したまま、彼はカップのコーヒーを指先で静かに回している。


「……この間も話しましたけど、遠野の手記を読んだ人は、きっと可哀想な青年が起こした“突発的な犯行”だって思いますよね」


「そうだな」


「……でも、それって、“誤読”なんじゃないですかね」


斎木のひとことに、思わずスプーンを持つ手が止まる。


手記を読み進めるほど、遠野 湊という人物の“輪郭”は濃くなっていった。

だがそれは、“彼が描こうとした輪郭”であり、現実とは重ならないのかもしれない。


そのとき、スマートフォンが震えた。鑑識の伊達から、「被害者スマホ解析完了」とだけ件名がある。


内容は簡潔だった。

──被害者のLINE履歴が復元されたという。


遠野とのやり取りは、ほぼすべてが“文学”の話題。詩の感想、サークル誌の進行、好きな作家についての断片的な会話――それ以上でも、それ以下でもない。


一方、藤沢──予備校講師とのメッセージは、まったく色が違った。

「なんで最近会ってくれないの?」「奥さんと別れるって言ったの、嘘だったの?」

感情そのままが、むき出しで打ち込まれていた。


さらに、彼女が他の友人たちと交わしていたメッセージにも、遠野の名は一度も出てこない。

話題はもっぱら藤沢のことばかり。悩みの相談、関係への迷い、それでも会ってしまう自分への苛立ち――。


──つまり、遠野 湊は“心の中”にはいたかもしれないが、“現実”には、彼女のそばにいなかった。


報告を胸にしまい、俺は斎木へと顔を向ける。


「たとえば、彼女──柚木遥の感情について」


手記の中では、彼女はたびたび「微笑み」、「瞳を潤ませ」、「言葉を選びながら自分の詩に耳を傾けた」ことになっている。

そのすべてが、“自分に惹かれていた証”として記されている。


けれど――


「……なぜ、そこまで詳しく書く必要があったのか」


思わず、声に出ていた。


斎木が少しだけ眉を上げる。


「え?」


「いや……手記にある、あの“泣いた”という描写。『僕は泣いていた──彼女は銀の筒を取り出そうとしていた』。あれは催涙スプレーのことだ」


「はい。現場で見つかったやつですね」


「──それを“泣いた”と書いたのは、おかしいと思わないか」


斎木の目が細まる。


「……確かに、あれは生理的な反応です。目に入れば誰でも涙が出る。痛みと防御の反射ですよ。感情じゃない」


「なのに、彼は“泣いた”と書いた。まるで、自分が感情的に涙したかのように」


口元に指を当てながら、考えを続ける。


「それは、読者──この手記を読む者に、“感情の涙”として受け取らせたい意図があったんじゃないか。あえて、そう書いた」


「……共感を誘うために」


「そう。自分が泣いたのも、彼女が彼に惹かれていたのも、すべて“感情の物語”として読ませるための仕掛け。悲しみ、孤独、断絶、そして衝動。……でも、それがもし、“設計された情緒”だとしたら?」


斎木がうなずく。


「確かに……『文学的手記』と思いましたけど、これ、“文学”じゃなくて、“演出”の可能性がありますね」


「遠野は、手記の中で柚木遥の“心情”を描き続けている。でも、彼が見ていたのは現実の彼女じゃない。“彼の中の彼女”だった」


俺は思い返す。手記のあらゆる場面で、彼女はまるで“言葉の中にだけ存在する人形”のように動く。

拒絶も怒りも、はっきりとは描かれない。ただ、彼に寄り添うように、静かに、そして少しだけ哀しげに微笑む。


「……全部、“揺らぎ”に置き換えてるんだ」


「“揺らぎ”? ああ……教授の言葉ですか」


斎木は、メモ帳の隅に書かれた言葉を指でたどる。


〈文学は、揺らぎのメディアだ。意味と意味のあいだで、読者の感情が漂う余白。そこに真実はあるかもしれないし、ないかもしれない〉


平間教授の講義録からの一節だった。


「……遠野の手記は、真実かもしれない。語っていることの多くは、物証と一致している。催涙スプレーも、防犯映像も、凶器の指紋も、矛盾がない」


「でも──それが、“誤読”させるための設計だったとしたら?」


斎木の声が、ふっと低くなる。


「悲劇の青年と、彼に淡い感情を抱いていた女性。想いがすれ違い、取り返しのつかない夜が訪れる──」


「それが、“物語”として読み解かれるように書かれていたとしたら?」


「読む人が、勝手に“同情”し、“理解したつもり”になるように」


コーヒーの残りを口に含み、舌の奥で苦味を転がしながら答える。


「これは、文学という名を借りた操作だ。誘導だよ。事実の並べ方、言葉の選び方、余白の置き方まで……すべてが、誰かの感情をある方向に“向ける”ためにある」


斎木が背筋を伸ばし、静かに言う。


「……署に戻って、分析しましょう。手記を“物語”としてではなく、“誘導装置”として読み直す。どこで感情が動かされるよう仕掛けられているのか。どこが、意図的に“曖昧にされている”のか」


「文体を、捜査するんだ」


そう答えたとき、テーブルのサンドイッチのパンはすっかり乾いていた。


──悲劇は、語られた通りに起きたのか。

それとも、語られた通りに“読む”ように仕向けられただけなのか。


遠野 湊は、沈黙した。

だが、その沈黙の代わりに、言葉を用意していた。


その言葉は、“殺意”ではなく、“構築”かもしれない。


その“構築”が、何を求めていたのか──


それを確かめるために、俺たちはふたたび、手記へと向かっていた。

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