野良猫に脳を破壊される男
冬の九州は日の出が遅い。七時になっても薄暗い。外套を着た男が、駅前のベンチで缶コーヒーを飲んでいた。この男は平日朝には必ずここにいる。遅刻対策として自宅を早く出発し、ここで時間調整をしているのだ。
にゃー。
その瞬間、男に緊張が走った。
猫だ!
猫の鳴き声だ! どこにいる?
その小さな鳴き声は、男の後方から聞こえていた。
黒と茶色の縞模様を持った猫が、そこにいた。美少年、美少女、紳士、淑女、いずれの表現が適しているのかは不明だが、美しいことは確かだ。まだ暗く寒いにも関わらず、冷たそうな木の根に背中を擦り合わせていた。痒いのかもしれない。
男は立ち上がった。もっと猫に近づきたかった。この男は道端で猫を見かけても普段は近寄らない。猫とはいえ野生動物なのだ。できるだけ人間とは交流しないべきだ。男はこれまでそう考えていた。しかし、眼前のトラ猫を前に、その覚悟は揺らいだ。
頭を撫でたりせず、ただ隣にしゃがむだけなら許してもらえるだろう。空間と時間を共有するだけなら許してもらえるだろう。誰にでもない言い訳をして、男は猫から少し離れた場所にしゃがんだ。猫も男が近寄ったのに気づき、毛繕いをやめた。
にゃー。
細く鳴いて立ち上がった。
あっ、待ってくれ!
猫は階段を降りていった。総じて猫は階段を降りるのが得意だ。それを作った人間よりも速く降りることができる。あっという間に男と猫との間に大きな物理的距離ができてしまった。
「おっ。元気か?」
階段の下から、誰か人間の声がした。男性のようだ。猫の行方を気にしていた男は、そっと手すり越しに階下の自転車置き場を覗いた。仰向けに寝転んでわしゃわしゃと弄られ、あられもなく身体をよじる猫の姿があった。人間のもう片方の手が、猫の無防備な額へと伸ばされた。
男は階段から離れた。より正確に言うなら目を逸らした。そして己を責めた。愛する故に欲求を満たしてあげられなかった。しかし男には失意に沈む暇も与えられない。東の空がそろそろ会社へ向かうよう男に通告していた。男は純愛過激派である。