⑤チョロインでも悪女でも好きに言ってください。(※開き直り)
「……奥様?」
要らぬ情報を立ち聞きしてしまっていたヨランダは、その動揺を隠せずにいた。
心配して声を掛けるフローラに微笑むも、その笑顔には生気がない。
「ごめんなさい、少し調子が悪いみたいで……今夜の食事はご遠慮させていただくと、旦那様に伝えてくれないかしら」
「まあ……! それは大変、すぐお休みの準備を」
「後でいいわ。 少し一人で横になりたいの……ごめんなさいね、手間を掛けて」
「そんな、当然のことですわ」とフローラに言われるが、本当に彼女が仕えるべきは別の女性。
『実は当然のことではない』と思うと居た堪れない。
だが、その一方で……ヨランダの中では悪魔のヨランダがこう囁いていた。
『勘違いしてるなら都合がいい、それで押し通せ!』──と。
ベッドに横たわりながら、ヨランダは天蓋の装飾を見るでもなく眺めていた。
(『今が大事だ』と仰っていたわよね……なら……)
ぼんやりと浮かんでくるのは悪魔の囁きを後押しするものばかり。
(ああっ! いけないわこんな考え!)
しかし、丁重にもてなされている元であるのはエルフィンの『大切な思い出』だ。
偽物である罪悪感が凄い。
しかも、既にここに来て三週間程経っている。
なにしろ犬猫畜生の類ですら、『三日飼われたら恩を忘れない』というのに、ヨランダは『恩義しかない』と言っても過言ではない高待遇を受けに受けてしまっている。
ヨランダは自身の中の悪魔と倫理観の狭間で葛藤を余儀なくされていた。
(──でも……)
社交の機会がなかった彼女には、三人はいたという似たような娘が誰かまでは、覚えていない。
その中にエルフィンの『思い出の少女』がいるとは限らないが、可能性はそこそこ高いだろう。
デビュタント直後──捨て置かれてはいたものの、一応王子の婚約者となってしまったヨランダである。
王城に呼ばれることはなかったが、いざというときに恥をかかぬよう、王家からは家庭教師が派遣されていた。第四王子の婚約者なのでそう大したことは求められておらず、淑女教育と一般教養のみだが、貴族の系譜等の情報は重要であり必須。
それなりに勉学に真面目に取り組んでいたヨランダは知っている。
自分と同期のデビュタントだった娘は皆、婚約なり結婚なりしており、売れ残ってはいないことを。
(そうよ、誰に迷惑がかかるというの?)
かたや自分はどのみち王都には戻れぬ身。
(──言わなければ、まずバレることはないわ)
ハンカチがどんなものかわからないが、刺繍なら得意だ。
もし当時の話を振られても、意味深に微笑んで否定も肯定もしなければ……
なんならそこには触れず、ただの日頃のお礼として刺繍入りハンカチを新たにプレゼントし、古いものは処分させてしまえば……
唯一の証拠も、隠滅できるのでは。
(ダメよそんな! でも……ッ)
──コンコン。
とめどなく煩悶を繰り返すヨランダは、控え目なノック音にすらビクリとなった。
「……私だ」
なんとやってきたのは旦那様である筈の人、エルフィンである。
(ヒイッ?! まだ心の準備が!)
心の準備も方向性も定まっていない。
しかしながら寝巻きに着替えたわけでもない。
故に、通さない理由もない。
フローラの仕事を増やす罪悪感から、服を着替えず『少し休むだけ』と言ってしまったことを、ヨランダは今になってどちゃくそ後悔した。
「はははははい! ……どうぞ!?」
サササと身嗜みを整え、素早い身のこなしで旦那様である筈の人をお迎えする。
言葉と態度はアレだが、彼は優しい人である。
そうでなければ会話でちょっと褒めた花なんぞ、用意するどころか覚えてもいないだろう。
方向性は決まらないが、ヨランダは無駄な罪悪感をこれ以上増やしたくはなかった。そんなモノはせめて必要最低限に留めたい。
「………………」
「………………」
──カチコチ、カチコチ。
時計の音がやたらと響く。
それもその筈……ふたりは無言であった。
なにをどう、切り出していいものかわからない。
エルフィンがなにしに来たかもよくわからないが、優しい彼のことである。具合が悪いと聞いて様子を見に来ただけだろう。
その割にはなにも言わないけれど三週間の中での彼の言動を鑑みると、別に不思議でもない。
優しい言葉を上手く掛けられないだけなのだろう……そう思いエルフィンの言葉を待っているが、これはこれで気まずかった。
(──それに、このままじゃ埒が明かないわ……)
とりあえずなにか話し出そうと思ったヨランダだったが、先にエルフィンが口を開いた。
「ンンッ……その、」
なんだか彼も緊張しているようで、それを誤魔化すようにわざとらしい咳をひとつしてから。
「調子は、どうだ」
「は、はい、お陰様で……」
「──ヨランダ」
「ッ!」
エルフィンは、今までなんだかんだ呼ばないでいた彼女の名前を、ここにきて初めて呼んだ。
(な……名前を呼ばれたわ!?)
ヨランダの胸は高鳴った。
なにしろ貴族男性との接触が少ない自分の名前を呼ぶ異性など、家族ぐらいしかいなかったのだ。
高鳴った胸がときめきからなのか不安からなのかすら判別ができないものの、見つめられると際立つ顔の良さ。
(あわわわわ……美形の旦那様(仮)が私の名前を!)
動揺のあまり、思わず顔を背けるヨランダ。
(はぁっ! あからさまに顔を逸らしてしまったわ! なんでエルフィン様ってば無駄に顔がいいの?! ただでさえ緊張するというのに私のような日照り地味女には……敷居が高いッ!)
この美形め……! と歯噛みし眉根が寄るのを我慢できず、ヨランダは両手で顔を覆った。
(こんな顔のいいのが私を想ってるだなんて……勘違いで!)
顔の良さを間近で見せ付けられたヨランダは、その隻眼が向けられる先が本来なら自分でないことを強く意識せずにはいられなかった。
しかも辺境伯閣下だ。
顔がよくて、しかも辺境伯閣下。
急激に押し寄せる罪悪感に、彼女の何の変哲もない色の瞳が潤む。
逡巡しながらも倫理感が『自分は思い出の少女ではない』と言おうとするものの──それを打ち消すが如く、華やかなメリーゴーランドのように過ぎる、ここでの短く幸せすぎる日々……
そのあと高波のように押し寄せる、これからの生活への不安。
(……言えないッ……言えないわッ!! だって……)
伝手はなく、王都は遠い──流石に無一文でイキナリ追い出されることはないにせよ、ここで不興を買うのはリスクが高すぎる。
皆優しいが、それは所詮、主である彼の命。
妻としてだけでなく辺境伯夫人としてもなにもしていない以上、ヨランダがここにいる必要性はエルフィンが望んだ以外、まるでないのだ。
(誰も頼れないもの!)
心細さとそこへの保身から言えない。
その罪悪感と歯痒さに、溢れる涙が止まらない。
「──ッ!」
顔を覆っていた両手を引き剥がすように、いきなり腕を掴まれ、ヨランダは驚きと共に顔を上げた。
「……泣くと、見れた顔ではないな」
そう言って軽く溜息をついたエルフィンは、ヨランダの頬に触れ涙を拭うと
「──」
目元とこめかみの間あたりにそっと、唇を落とした。
「……」
何が起きたかわからず、ヨランダはただ呆けたようにエルフィンを見る。
涙は止まっていたが、鼻は赤く、口は半開きという間の抜けた表情で。
それにエルフィンの隻眼が僅かに細まる。
「──近々、神殿へ向かう。 いいな?」
「え」
「ふん……くだらないことで悩むのではない」
不機嫌そうにそう言い残し、エルフィンは部屋を出ていった。
(……
…………
………………あああああぁぁぁ!!??)
──顔がイイというのは恐ろしい……とヨランダは初めて知った。
綺麗な顔で見つめられて、あんなことされてしまったら、益々『この状況からどうやって抜け出すか』などよりも『この状況を継続するにはどうしたらいいか』というズルいことを考えてしまうではないか。
そもそもこちらはイイ思いしかしていないのだ。
(っていうか、好きになってしまうわ?! ……えっ、でも『神殿へ行く』って……え? ……ええっ??)
勿論それは婚姻の儀を執り行うということ。
神に誓い、正しく夫婦になるのである。
なのでむしろ、好きになっても問題ないというか、好きになった方がよりいい筈だ。
暫くの間、脳内で経緯を浚っては自問自答を繰り返していたヨランダだったが、
(ええい『毒を食らわば皿まで』よ、ヨランダ!)
やがてときめきと共にやや投げやりに決意し、その気持ちを固めていた。
やや投げやりなのはこれまでいつも流されるしかなかったからだ。なにしろ自分でする初めての大きな決断──勢いがないと無理というもの。
(好きになるからには、好きになってもらうよう努力をしなければ。その為には……)
エルフィンの顔色を窺いながら、エピソードを徐々に思い出したフリをし、擦り合わせるのだ。
そうすればきっと、ヨランダがその少女であると信じるに違いない。
ヨランダはそう考えた。
(『思い出の少女』にだってなってみせる──!)
そこには勿論、罪悪感がないでもない。
──だが、もう覚悟は決めた。
(たとえ『悪女』と謗られようとも、妻の座は死守するわ!)
こうしてヨランダの、相手不明の戦いは幕を開けたのである。