④忘れられない女性……誰ですって?
「旦那様、いや兄さん。 この際弟としてハッキリ言わせて頂きます……アレはありません」
「……わかっている」
エルフィンは、家令であるまだ若き弟、ローランドに怒られていた。
無論、ヨランダへの発言を指していることは言うまでもない。
(……出直そうかと思ったけど、私の話じゃない? コレ)
話し合いをしようとエルフィンの部屋を目指してやってきたヨランダは、手前でおもわず動きを止めた。
なにしろ目指す部屋の扉はうっすら開いており、声はだだ漏れの、会話は筒抜けである。
「忘れられない相手だから緊張するのはわかりますが、逃げられたら元も子もありませんよ?」
(──忘れられない相手?!)
これは聞き捨てならない発言だ。
しかも前後の会話的に、自分のことだと思われる。
(待って待って……お会いしたことはない……筈よね?)
ヨランダは第四王子から放置されていた為、夜会に出たのはデビュタント時のみ。少なくとも、そこで会った記憶はない。
しかし、エルフィンは(話しているのは主にローランドだが)『会った』とは言っていない。そこで見られていた可能性はある。
(まさか……一目惚れ?!)
── そ ん な 馬 鹿 な 。
驚きと共に現れたのは、胸のトキメキだとかそういったものではなく、この一言である。
この夜会にて社交界デビューを迎えたデビュタント貴族令嬢は、当然ながらヨランダだけではない。
数多の貴族令嬢の中でもその他大勢の群衆と化していた自分に、誰がどうして一目惚れをするというのか……彼女にしてみれば全く信ぴょう性のない話だ。
だが……そうならば、不可思議であった今までの経緯にも一応説明はつく。
婚約の打診をするより先に王子の婚約者となってしまったヨランダが、丸二年経ってもまだ捨て置かれており、あまつさえ第四王子は王女とイチャイチャ……
もしエルフィンが
『彼女に疵瑕がついても自分が娶るから構わない、さっさと破棄しろ』
と言ってくれたのであれば婚約破棄と同時に書類上の婚姻が成され、その場で辺境に連れていかれたのにも納得がいくというもの。
そして──今の高待遇にも。
エルフィンの態度や口調も、長期間で拗らせた恋心やヨランダへの説明なく強引に夫婦になったという罪悪感などがそうさせるのだ……
(……とか言われたら、確かに。 でも)
状況的には理由に隙がないように感じたヨランダだが、やはり疑念は拭えない。
ヨランダは自身の容姿に、ある種の自信があった。
取り立てて醜女であると感じたこともないが、決して美人ではなく『化粧をすれば(美人に)見れないこともない』くらいには化ける、中肉中背で、髪も目も金髪と茶の間くらいの、この国の貴族にも平民にも満遍なく多い色──一言でいうと『目立たない容姿』である。
同期のデビュタントの中にも、似たような娘が三人はいた。
彼女にとっては『一目惚れ』の要素が不明過ぎるのだ。
故に、もっと具体的情報が欲しかったヨランダが『その場で立ち聞き』という淑女にあるまじき蛮行に及んでしまったのは、致し方ないと言える。
「お前が尽力してくれたのはわかっている……だが、仕方ないだろう。 なんせ数年ぶりの再会だ。 あちらも覚えていないようだし……」
「覚えてないもなにも……例のハンカチすら、まだお見せしてもいないでしょう?」
(ハンカチ……?)
なんの話をしているのか、ヨランダにはまだ皆目見当もつかない。
「僕の方から奥様に話して……」
「それは駄目だ! 許さん……!」
つい声を荒らげたエルフィンに、ヨランダの身体がビクリと震える。危うく音を出しそうになってしまったがなんとか堪え、気付かれることはなかった。
エルフィンは声を荒らげた勢いのまま、ローランドの両肩を押さえ付けるように自身の手を置き、彼の顔を隻眼で睨み付ける。だが、すぐに気まずそうに顔ごと視線を外し、溜息と共に絞り出すように言葉を紡いだ。
「あれは…………私の大切な思い出だ。 ──彼女はまだほんの少女だったのだ、覚えていなくても当然だし構わない……大事なのは今だ」
「──兄さん」
その真剣な様子にローランドは一瞬呑まれるも、すぐに我に返った。
「今がダメダメだから言っているのですよ」
「…………」
全くもって、その通り。
(ハンカチ……? 思い出の……??)
そしてヨランダは、サッパリ思い当たる節がない。
むしろ、ハンカチを巡る思い出などない。
多分、ないと思う。
(もしや……どなたか別の方と勘違いなさっているのでは……)
── 有 り 得 る 。
そう、デビュタントの中にすら、似たような娘が三人はいたのだ。
誰かと勘違いされたとしても、おかしくない。
(……
…………私じゃ、ない?
………………~~~~ッ!!!!)
その想像があまりにしっくりきすぎて、ヨランダは危うく叫びそうになった。
(私じゃないッ! きっと私じゃないのだわ!!)
エルフィンはなにかしら素敵な思い出となるような経緯を経て、自分と近い年代の少女からハンカチを受け取り、その少女の面影を忘れられずにいた。
そして、それをヨランダだと思い込んでいるのだ。
エルフィンが思い込んでいるだけで、それはヨランダではない。
なのに受けているこの恩恵。
襲い掛かる、物凄い恐怖──今までだって不安だったのに、受ける理由のない恩恵を受けてしまっていると知った今、これを恐怖に感じない程ヨランダは図々しくはない。
不安を払拭する為に立ち聞きまでして、まさか更なる追い討ちを掛けられるとは、予想だにしなかった。
(はわ……はわわわわ……ここここれからどうしたら……)
脳内ですら鶏のように噛んでしまうくらいに狼狽えたヨランダに、扉の内側で続いている会話は最早聞こえず──それよりも大きな音で、心臓がばくばくと大きな音をたてる。
ヨランダはそっとその場を離れ、縺れる足を必死で動かし部屋に戻った。