⑥前辺境伯夫人グローリアの寝耳に水事情
一方その頃。
エルフィンは視線の主に、逆に捕まっていた。
「はぁ……まだ婚姻の儀もしていないだなんて……!」
「……」
ふたりを見ていたのは、母であり前辺境伯夫人……グローリアであった。
グローリアはエルフィンの行動に大層ご立腹のご様子。
突然すぎる『妻を娶った』という報告から、敢えて手紙を返さなかったそう。挨拶に来る筈だ、と踏んで。
だが待てど暮らせど一向にこちらに挨拶に来る様子はない。
心配で様子を見に本邸のある国境のホテルに宿泊を決めるも、それと入れ違いにようやくやってきた二枚目の手紙は自分宛ですらなく、グローリアの所在の有無を確認するだけのもの。
しかもグローリアが出掛けてることを知っていて別邸へ来るらしい、と連絡の為にやってきた従者伝手に聞いた……母の心境たるや。
──まさに、『親の心子知らず』。
ふたりの様子を覗き見た結果、仲の良さそうなことがわかり安堵したが、その分押し寄せてきた怒りによりこうしてお説教を受けているのだ。
「いえその……母上には婚姻の儀が終わったら、と。 なにぶん彼女とはまだ距離がございます故……こちらには婚姻の儀のためにドレスを、と考え……」
「……ドレス?」
「ええ、彼女は王都育ちですし、王都の風習を──」
それを聞いてグローリアはあからさまに顔を顰め、怒気を込めた声を発した。
「エルフィン。 それは、彼女の希望なの?」
「! ……それは」
グローリアは息子の反応に、大きく溜息をついた。
「……貴方もなにもわかってないのね」
実のところ、悪評とは違い贅沢もパーティも好きではないグローリア。彼女は、元侯爵令嬢である。
貴族としての意識が高く、また王命で嫁いだ(※と思っていた)彼女にはヨランダのようにただなにもしないでいるという判断はできなかった。
また、エヴァンに懸想していた侍女長の娘や、彼の諸々の判断の失敗。隣国との関係悪化の末の小競り合いに、長雨による不作など、グローリアはとにかくついていなかった。
逆に、『なんかついてんじゃないか』というぐらい、ついていなかった。
彼女が嫁いですぐ。
不作と開戦により他領や実家からの支援の為に、グローリアは普段は必要としない社交をせざるを得ず、それはエヴァンに懸想する侍女長の娘ラインで悪意ある変換が行われ、激怒したエヴァンが古参の家人をガンガン解雇したことでグローリアへの被害が拡大する……という負のスパイラルが巻き起こった。
結果、軍の統制の崩れを恐れたグローリアが泥を被るかたちで、フリッカに移り住んだのである。
彼女がなによりついていなかったのは、義母となるはずのエルフィンの祖母が他界していたことにある。
彼女にここの風習や辺境伯夫人としての心得を教え、補佐する者がいなかったのだ。
辺境伯家は、その戦いの歴史と社交のなさを含む独自の文化から、他貴族に『蛮族』と揶揄されている。
王家としては防衛の要でありながら獅子身中の虫にもなりかねない辺境伯家……保守派の良家から嫁がせることで、関係性を保っていた。
その為、辺境伯夫人がなにもしないのは表向き。
情勢に敏感でなければならず『偏屈なフェミニスト』である夫を裏で上手く操縦することこそが、辺境伯夫人としての真の役割といえる。
やむを得ない状況だったとはいえ、グローリアは些か目立ち過ぎたのだ。
何も知らなかったエルフィンは、ただただ唖然とした。
だが、グローリアの話は更に続く。
今も尚グローリアの悪評は消えていないのは何故なのか──それは父エヴァンの仕業によるものである。
王命だと思っていた婚姻も、エヴァンが王家を脅してグローリアを手に入れた、というのが事実。
警備の厚いフリッカへの移住を許したのは、戦によるもしもの場合の考慮だけでなく、彼女を逃さない為でもある。
親父はトンデモヤンデレ野郎であった。
長い期間を経て最早立場は逆転しており、エヴァンはグローリアにずっと、許しと愛を乞い続けている。
無論、さっさと辺境伯という立場を退いたのはその為に自由が欲しかったからだ。
「……父上は今?」
「南に伝説の宝石を探しに行っているわ」
無表情で彼女はそう答える。
「……伝説の?」
「伝説の」
「……」
ふたりの仲が上手くいっているのかすら、エルフィンにはわからない。
ただ母は母で、割と容赦なく積年の怒りをぶつけているようであることはなんとなく理解した。
「だからエルフィン、貴方のお嫁さんには私のような苦労はさせたくないの。 この地は王都に住んでいた者にとっては特殊……それをきちんと理解し対応しなければ、追い込まれるのは彼女の方よ?」
そう言って、母は隠れてついていた護衛を連れて背を向ける。
「母上は戻らないのですか?」
「貴方が言ったのでしょう、『婚姻の儀が終わったら』と」
「楽しみにしてますよ」とやんわり圧をかけつつ、グローリアは去っていった。
「あの子に愛情があるのであれば、すぐに動くべきだったかしらね……」
馬車の中でグローリアは嘆息し、そう独りごちた。
義理の娘になる筈の子が気になり、苦労させたくない気持ちは嘘ではない。だがその一方で苦労した自分の過去が過ぎり、どこか割り切れない気持ちになる。
ヨランダを支えてはあげたいが、未だ本邸側との確執は根強く、その為エルフィンの出方を待ってしまった彼女の心中は複雑だ。
(でもエルフィンが支えるのであれば)
なんせ、今もって悪評高い自分……正直なところ、それを払拭する為に自ら動く気力はグローリアにはない。
あの頃動けたのは、貴族の矜恃と自身の自尊心から。若かったのだ、と今は思う。
そもそも愛されていると知ったのも結構後だったので、夫エヴァンに情はあるものの、今も許せてはいない。
辺境伯夫人としてヨランダに自分の二の轍を踏んでほしくないものの、妻としてもそれは同じ。
エルフィンが頑張るなら、敢えて口出しはしないのも優しさかもしれない。──グローリアは今、そんな気持ちでいた。
そして今ヨランダは、まさにグローリアの言った通り……とても追い込まれていた。
息子と義理の娘になるヨランダ。夫婦というふたりの関係性を重視しグローリアが選んだ優しさは、残念なことに悪い方向に作用していたのである。