浮世絵師
浮世絵師
あすなろ そのこ
元文二年(1737年)の春、二月十一日で、賢吉は一歳と七ヶ月になりました。徳川政権時代(江戸時代)、暦は太陽暦でしたので現代と季節がずれます。当時は一月から三月までが春、四月から六月までは夏、七月から九月までは秋、十月から十二月までは冬です。
そのころの子どもは、一歳までの生存率は25パーセントでした。かつ、七歳までは神の内といわれ、いつ亡くなっても仕方がないと言われていました。賢吉を預かっている長屋の女将於米は、すでに命の乳をもらわなくても自ら食べることができるので、ほっとしていました。ただ、最近、賢吉の言葉が気になってきました。店を閉め賢吉を父親にかえした夜、亭主の次右衛門に相談をしてみました。
「賢坊(賢吉の愛称)の言葉ですが、最近、少々気がかりなことがあります。父親の満吉さんにきくのははばかれるので、まずはお前さんに相談することにしてみました。気づきませんか?」
いいや、という応えに、
「例えばです、カラスをみて、カラスを、『カ、カ、カラス』と、いったり、『カーラス』と引き延ばしたり、言葉がでずに、「・・・カラス』となったりするんですよ。どもりかと心配になってね」
「まだ幼いから、言葉がうまくでてこないのではないかい。そういう子どもがいることはきいたことがある。思いだした。俺の幼いときの遊び友達に一人いたな。みんながからかっていて、かわいそうだった」
「それで、どうなったのですか」
「寺子屋まではいっしょだったが、それほど仲が良かったわけではないから、その後はわからない。あいつは、今何をしているのかな」
寺子屋とは学校の様なところで、勉学をおえる九歳になると、男の子たちは働きに出ることが多かったのです。そして、働きながら人間形成をしていくのでした。
そうですか、と於米はため息をつき、
「賢坊には、ゆっくり言ってごらんとか、深呼吸してとか、落ち着いて、とは言っているのですが」
「まだ一歳半過ぎたくらいの幼児に、それらの言葉の意味がわかるのかい。ところで、そんな風にいうと、賢坊はどんな反応をするんだい?」
「イヤ、イヤ」
亭主の次右衛門は、くすっとしながら、
「すでに反抗期に入ったのだよ。人様の子どもを預かっているから、余計に気になるんだよ。様子をみていればいいだろう」
そう言われてしまうと、於米はどうしようもありません。
「それはそうと、賢坊の絵描きはまだ続いているかい」
「赤を描きたいようで、犬にはみえないけれど地面に指でかいているの。手先が器用になってきたのですね」
赤とは、この長屋で飼われていた柴犬で、二ヶ月前に賢吉をほかの町犬から守るために戦って死んでいます。
当時の紙は和紙で貴重でした。寺子屋で学ぶ子どもたちは、和紙に書いては乾かしながら何度も書きました。真っ黒くなるとすきなおし、再利用されます。
「そうかい。賢坊の心に、赤の死で深い傷が残ったのかもしれない。それで、たまに言葉にどもってあらわれてしまうのではないかな。良くはわからないけど」
次の朝、いつものように賢吉は父親につれられてきました。親子共々元気です。満吉は、何の心配もなさそうな雰囲気で、あいさつをおえると、息子をうながしました。それは、賢吉に朝食べたものを言わせることで、言葉を覚えさせるためです。そうすると、女将は昼の食事に、朝とは別なものを食べさせてくれるのです。
「な、なっとう」
女将は、その言い方にドキッとしましたが、父親は平気な様子です。
「毎日納豆ですみません。本当は、納豆では無く豆腐を食べたいのです。豆腐用の新豆が出回る年末から今年年明けに、二回ほど買ってもらってたべさせたことがあります。その旬のなめらかで舌触りの良い豆腐を食べてからは、豆腐がいいというのです。しかし、豆腐は高いし(一丁825円ほど)、日持ちがしないので豆腐屋から買わなければならない。そこで、豆腐と納豆は親戚同士だから、次回食べれる日まで待つことにしたのです」
ちなみに、納豆は一束66円くらいです。
それに対して、女将は、
「豆腐は、昔は高級品でハレの日(祝い事)にしか食べられなかったのだから、高くてもたまに食べられるのはよい方ですよ。」
百姓(農家)は、将軍様から、ハレの日以外で豆腐をつくるのを禁止されていました。それは、豆腐を作るには時間がかかるので米作りを優先させるためでした。
「それから、昨日の賢吉の袖の着物のほころびは、寝ている間に縫ってもらいました」
女将の於米は、賢吉の目線までしゃがんで、いっしょに、
「行ってらっしゃい」
と、見送りました。
父親の姿がみえなくなると、賢吉の両肩に手をおいて、
「おりんに縫ってもらったのだね」
すると、うん、と元気に首を縦にして返事をしました。
おりんは、同じ長屋に住む十四歳の女の子です。
それから、次右衛門に、
「お稲荷さんにお参りにいく」
というと、ふたりで井戸端に向かいました。小さな社のお稲荷さんは、江戸中どこにでもあるありがたい神様で、この長屋にもあります。井戸端には、すでに二人の女たちが手や足を使い洗いものをしています。そばには汚れがひどいときにつかうサイカチの実をおいています。二人にあいさつをすると、賢吉の手をひいてお稲荷さんに向かいました。このころの祈りの言葉は、
「賢坊のどもりが治りますように」
しかし、賢吉や周りにきかれると困るので声には出しません。
賢吉も真似て手をあわせています。それで、声に出して追加しました。
「賢坊が今日も元気に過ごせますように」
祈りおえると、女衆のひとり、二十五歳の於松が今日の話題をおしえてくれました。
「衣替えの話をしているんですよ」
「衣替えは四月一日だから、当分早いんじゃないかしら。今は二月だよ」
女将は、そうにこやかに返しました。
大昔の平安時代の衣替えは、四月一日と十月一日でした。徳川政権では、四月一日から五月四日までは袷小袖、五月五日から八月末までは帷子麻布(ひとえ仕立ての着物)、九月から三月末までは綿入り小袖となっています。戦争のない平和な徳川政権も長くなると、庶民にも余裕がうまれ、武家や公家のしきたりをまねるようになりました。
「アタシたちは、他の江戸の人たちが今、どんなことに興味があるかとか、何が流行っているのか気になってきて。それで、流行やしきたりに遅れまいと先の話をしていたんです四月の衣替えまではまだ時間がありますから、余裕ですけどね」
もうひとりが、
「多くの人々が、他人様は何をしているか気になるのではないかしら。食べ物だって、うちはこの料理法だがこれでいいのか、なんて考えてしまう。亭主によっては、いつもいつも同じ物ばかりで飽きてしまう。高価な豆腐料理でも食べ方はいろいろあるんだ。まわりに訊いてみろ、なんてね。しかし、周りの女房たちも同じようなことをしているのでわからない。そんなことより、亭主に、高い豆腐を食べさせてくれる稼ぎをもってきておくれ、といいたいよ。しかし、それはさておき、楽しく本を読んで広く勉強しなければならない」
賢吉が、とうふ、とつぶやきました。
「その本というが、文字ばかりじゃ読む気がしないが、絵がかいてあると読みやすい。そして、その絵がとてもうまく、かつ一面の半分以上あるのはわかりやすい。女将さんはそのような本をみたことがありますか」
「ありますよ。『和国百女』では、娘のたしなみ、夫婦の相性、化粧や習い事など、江戸の風俗と教養を説いた絵本を母親からみせてもらいました」
すると於松が、
「その本は、もう亡くなっている菱川師宣という絵師がかき、元禄8年(1695年)にだされているのですよ」
「すごい、於松さんの年で、そんな昔のことまでしっているの」
「その『和国百女』は浮世絵なのです。実は、浮世絵に調味がありましてね」
「浮世絵というのですか。あまり気にしていませんでした」
「於松さんは若いから、新しい知識がほしいのです。でも、あたいでも浮世絵はしっていますよ」
もうひとり於駒が、『浮世絵』の部分を、大きくはっきりといいました。
女将のそばできいていた賢吉が、
「え(絵)?」
と、女将の着物を揺さぶりました。
それをみて、於松が、
「賢坊も絵に興味があるのかい。絵はみただけでよくわかるから、賢坊もすきになるよ。それから、松太郎と権助は近くの蛤町に、そこの子どもたちと仲良く遊べるか様子をみにいったよ。もしいい奴らだったら、今度は賢坊を連れて行くといっていた。待っててね」
そういわれて、残念そうに、うん、と応えました。
二人の子どもは四歳で、松太郎は於松の子どもで、権助はおりんの弟です。女将は、改めて浮世絵を思い出しました。
二人の洗い物が終わったようで、今朝の会話はここで終わりました。江戸の女たちは忙しく、井戸端での会話は、わずかな息抜きで楽しみでした。
「今、井戸端をつかう人がいないから、私も洗い物をするよ。店に行って洗たく物を持ってこよう」
そう、賢吉にいうと、その手を引き浮世絵を気にしながらも、仕事や食事などの段取りを考えつつ店に戻りました。
☆
大家は付き米屋という店を営んでいるので、昼食は、一般の昼九つ(12時)より遅くなりがちです。ところで、三食になったのは、五代将軍綱吉公のころの元禄年間に定着したとみられています。その理由の一つに、夜の灯りのもとである菜種油が安くなったので、寝るのが遅くなり、二食では足りなくなったことがあります。庶民は、菜種油よりさらに安い魚油を使い、食事は三食ともご飯にみそ汁、漬物が主でした。ただ、深川は漁師町ちかくでしたので、魚や貝も食べることができました。
☆
付き米屋の昼食は、玄米に朝の残りのシジミのみそ汁、梅干しでした。玄米を白米にする仕事ですが、玄米が多かったのです。しかし、玄米の方が、白米より江戸煩い(脚気)にならないことを知っていました。まだゆっくりとしか食べられない賢吉を見守りながら、女将は食事を終えました。
昼食後、まだ幼い賢吉は昼寝をします。起きた後は、長屋の二人の男の子、松太郎と権助が蛤町へ遊びにつれていくことになりました。
「みんな怪我しないようにね。カラスが山に帰る時はみんなも帰ってくるんだよ」
と、一言を忘れませんでした。
三人は、カーカーとカラスの鳴きまねをしながらでかけました。
それをきいていた大家の次右衛門が、
「お前がカラスなんかをだすから、二人に遊ばれているのではないかい。その結果、賢坊はどもりのふりで、カ、カラスというではないだろうか」
「そうではない、と思いますが」
「カラスが鳴かなくても、夕焼けが赤くなったらだんだん暗くなるのはわかっているのだから、いわなくてもいいのではないか」
「そうですね。これからは夕焼けにします。」
二人は店の仕事に再びかかりました。女将の於米は臼に玄米を入れ、次右衛門は器具でカッタン、カッタンと静かに音を立てて玄米をついていまが、米をつくのは技術がいります。できあがった白米は別ざるにいれておきます。店で飼っているこげ茶色の二羽の鶏は、主人たちの邪魔をしないように歩いています。米を買いにくる客は、於米が対応します。
八百屋の於スナが野菜をもってきました。二日前に於米から注文を受けていて、忙しい於米のために、米を買いながら野菜をとどけているのです。その逆もあります。この八百屋の女将さんは於米より年下の三十歳です。体格はよく、大きくはっきりとした声の持ち主です。
「のらぼう菜だよ。ゆでてもかさが減らず、おひたしはもちろん、炒め物やみそ汁の具にもいいよ。こののらぼう菜を上手な浮世絵師にかいてもらって、宣伝してもらいたいね」
のらぼう菜は、小松菜のように青菜だが茎が太く、ダイコンの葉に似ています。耐寒性に優れ、花茎を折ってもまた次の芽をだす強い生命力をもつ野菜です。
「浮世絵師にかいてもらうと、売れるのかしら」
「浮世絵の浮世とは今流行していますよ、という意味よ。まあ、大昔は厭世的な考え方(この世を嫌なものに思う)だったが、逆の明るい考え方になってきたから、言葉っておもしろい。浮世絵は版画だから、同じものが何枚もすれるので安くなり、多くの人にみてもらえるから宣伝になり、みんなは流行に遅れまいとするので、売れるの。もう亡くなったが、浮世絵師としては、元禄の菱川師宜やその後の英一蝶は有名ですよ」
於米は、井戸端で於松が菱川師宣を話していたのを思い出し、そうですか、と感心しました。その後、青菜を届けてくれた礼をいうと、
「何を言っているですか。お互い様です。それに、その日の内に売らないと困る野菜は、あたしが籠に背負って、棒手振のように売り歩きます。野菜は軽いので楽ですがね。ところで、春野菜にこののらぼう菜が加わって本当によかった。料理の幅が広がります」
そう言うと、米を買いさっさと帰って行きました。
他の客もいなくなると、次右衛門が、
「於スナさんは元気な人だ。野菜のように活きがいい」
それをきいた於米はおかしくなりました。
次右衛門は、再びせっせと働きだしました。於米は、浮世絵についてもう少し知りたくなりましたが、仕事を終えた後に次右衛門に訊くことにして、賢吉のいない内に仕事に精を出すことにしました。
☆
徳川政権時代は戦争がなく平和な時代が続いたので、町人や庶民の間にも文化的な余裕ができました。さらに安い灯りの普及もあり、夜を習い事や和歌・俳諧などにいそしむこともできました。大家の次右衛門は、古典研究会に入っていて、週に二回参加しています。
その日の夜でした。夕食後、珍しく次右衛門の方から話し始めました。
「於スナさんが浮世絵の話をしていったが、この前の集まりでは浮世絵が話題だったのだ。浮世絵の意味と、浮世絵の祖といわれる菱川師宜とその故郷の話だ。次は英一蝶となる」
於米は浮世絵について興味がわきはじめていましたので、話の途中なのに、
「それで」
と、せかしてしまいました。
「浮世とは、苦しいとか辛いという『憂し』に『世』がついた『憂き世』がついた言葉で、辛いことの多い世の中という意味だ。それが、いつしか、その裏返しとして享楽的に生きる世の中という逆の意味になった。これは、八百屋の於スナさんもいっていた。そこから、当代流行の風俗をさす『当世風』といった意味にも用いられるようになったんだ」
そうですか、と相づちをうちました。
「菱川師宜だが、この人が浮世絵の確立者といわれている。将軍様御用達絵師の天才狩野探幽が亡くなった寛文十一年(1671年)に、初作『私可多咄』を出している」
「そのシカタバナシとは何ですか」
「当時の落語の笑い話だよ。もちろん、師宜はその本を描くまでは、挿絵も多く描いて、実力を認められていたんだろう」
「お前さんは読んだことはあるのですか」
「その本はまだない」
「浮世絵と、将軍様お抱えの狩野派の絵とは違いますか」
「そりゃ違うさ。浮世絵は風俗(日常生活のしきたりや習わし)だよ。しかし、師宜だって狩野派の絵や諸々の絵を勉強して、最後に浮世絵にたどりついたんだ。父親は縫箔師だったから、うまい絵を見ながら育ったんだんだろう。縫箔師は、布地に刺繍や金箔や銀箔で模様をつける仕事だ。昔は小袖にも使われたようだ」
「では、豪華な小袖(着物)ですね」
於米は、今までもこれからも着ることのない、能で着る小袖を思い浮かべました。
「師宣は絵で食べていけるまでは、縫箔師としても働いていたらしい。それが絵で成功してからは、江戸の心臓部といわれ栄えた日本橋界隈に、立派な屋敷をかまえて住むほどの金持ちになったのだ。無名時代は、仮名草子、浄瑠璃本、吉原本、野郎評判記、俳書などの挿絵を中心に絵の技をみがいたのだ。有名になってからは、屏風や絵巻、掛軸と様々とかき、晩年には肉筆浮世絵をかいている。浮世絵にたいする意気込みがすごい。日本の絵といえば、浮世絵、といわれるほどになるだろうと信じていたんだ」
「狩野派の絵よりもすごい、と人々が思うようになるということですかね。狩野派や他の絵の派に対する挑戦状のようなもの、気合いが普通とは違う」
次右衛門は腕を組みながら、
「江戸の人々は銭をつかうより、今の江戸(町)を知りたがっている。何が流行っていて話題になっているか、常に師宣の目は武家社会ではなく町人に注がれていたんだ」
「研究心が、人々の心を捉えるのですね」
「それまでの絵師は、公家や大名の言うままに描いていたが、師宣は町人の心をしっているのは、町の絵師である自分だ、といっていたらしい。町人は、二大悪所といわれた吉原(遊郭)や芝居に興味があるので、その二カ所を克明に描いて見せてくれた」
於米は、そうですか、というようにうなづき、
「吉原は一夜で、一年分ためた銭が吹っ飛びます。芝居小屋も一回見に行くのに三日四日か働いた分の(お金)銭がかかります」
吉原遊郭は、一日で千両を稼ぐといわれていました。芝居は、立ち見は264円ほどですが、最高ランクの座敷席は18万くらいしましたので、これら二大悪所は、庶民には遠い存在でした。それらを、安価な浮世絵でみられるとあって、師宣の浮世絵は瞬く間に人々の心をとらえたのです。
その後、師宣の故郷については、次のように話しました。
「菱川師宜は、安房国平郡保田(現 千葉県鋸南町)出身だ。この保田は、漁港であり、江戸両国へ魚が運ばれ、なかでもアジが有名。陸ではなく船での江戸との行き来は当時としては楽なほうであったので、師宣も船で保田と江戸を行き来していたのだ。師宣は故郷や両親を生涯大切にし、落款(絵に入れる自分の名前)に、安房国をイメージさせるものをもちいた」
ふたりは、この機会に、本屋で師宣の本を借りてよむことにして寝ました。
☆
ところで、師宣の有名な『見返り美人』には、房陽菱川友竹筆 と書かれています。国を思う気持ちは、『房陽』に現れています。『友竹』は死期を察して、一年か二年前に剃髪をして名前をかえたためです。当時の人で晩年に剃髪をする人は多かったのでした。この『見返り美人』の着物は、当時高級であった紅で染められた生地で、絞りが入り、白と水色の刺繍、そして黄色の花は金糸による刺繍です。作品は絹に書かれた肉筆画(絹本著色)、縦63,横31,2センチメートルの大きさ、国宝になったのは比較的早く60番目です。記念切手に、昭和23年(1948年)発行されています。
☆
師宣のころの浮世絵は、木版画でまだ黒色です。それでも木版画は同じ物を何枚も印刷できるので安くなります。その印刷した絵に、赤色を部分的に塗ることがありました。それがやがて極彩色の浮世絵に発展していくのですが、このころはまだ黒色でした。ちなみに、極彩色になるのは、やく三十年後の浮世絵師鈴木春信からです。浮世絵の革命児となった春信は、美人画にその才能を発揮し、華奢な少女を得意としました。
話は戻りますが、それらの黒綴りの絵つき文章の本、というよりもともと高価な本そのものを庶民は買えないので、貸し本屋を利用しました。当時の紙は貴重でしたので、本は長く読まれる物でした。現在のように、読んだら捨てることはしません。大名や金持ちの依頼で、紙だけでなく絹の布地に描く一点物の肉筆画もありますが、こちらは多色で描かれました。とても高価で、庶民はみることさえできない絵でした。
師宣は、それまで文章中心の本にかえて、文章三分の一を上にして、その下すべては絵を大きく入れました。これで、読み手はわかりやすくなり、かつ師宣の絵は上手でしたので評判を呼んだのでした。
☆
翌朝、於米はいつものように井戸のそばにあるお稲荷さんに、賢吉を連れてやってきました。昨日の於松は洗い物をし、その子どもの松太郎はそばで遊んでいました。参拝をすませると、賢吉は女将から離れ、松太郎のそばに遊びにいきました。女将は於松に楽しそうにいいました。
「今日は本屋に行き、菱川師宣の浮世絵の本を借りてくるよ」
「それは、素敵なこと。あたしも今一冊借りているのです。東海道分間絵図といい、元禄三年(1690年)の東海道の地図です。これは、風俗をくわえて美しくしたら女子どもも喜ぶのではないか、と序文にかいてあるとおり、親しみやすいのです。あとでおみせします」
「それはありがとう。師宣にはたくさんの本があるようなので、一度に全部を借りるのは
大変ですからね」
貸本は、二週間から一ヶ月間も借りられます。本屋は本を出版するだけでなく、自店の本を卸販売しながら、他店の出版物を含めた新刊書の小売りのほか、貸本、版木の売買、中国から輸入した唐本販売までする、書籍の総合商社的存在でした。版木とは、刷るために文字や絵などを彫り刻んだ板のことです。これらの他にも、書画、紙や文房具、絵半切(絵入の書道や手紙のための帳面)を売り、本の仕立て直しもしてます。店構えは、できるだけ日の当たらない方向の北向きか東向きです。往来(道路)側には、本屋を示す『古本売買』などの出し看板をおいています。
本をたくさん並べて手にとってみられるような今の本屋の置き方は、草紙屋である大衆本の専門店で、堅い本を扱う店は、掛看板や吊看板という売り物の署名を書いた看板を何本もかけておきました。
客は、店先で、「何々の本はないか?」とたずねるのが普通でした。店側が行商のように、本を運んでくるばあいもあります。
今の八代将軍吉宗公のあと十代将軍家治公以降の時代に、江戸の町の出版文化を発展させたのは有名な蔦屋重三郎です。蔦屋は、大首絵の東洲斎写楽や美人画の喜多川歌麿などの浮世絵師を世にだし、吉原細見という吉原遊郭の案内書を鱗屋(版元)にかわり年二回発行し、約160年間続く日本の長期ベストセラーにしました。
☆
次の日の午後、女将の於米は賢吉が他の子たちと遊んでいる内に、賑わう富岡八幡宮近くにある本屋に行くことにしました。そこは、於米のすむ冬木町からそれほど遠くはなく、同じ長屋の於松から場所を聞いています。日本橋ほど大きな本屋ではありませんが、於米には十分とおもわれました。
本屋ののれんは、他職種の店より短く、店の中が見えるようにしてあるので、本屋とわかります。先客は二人です。どの本の表紙も見えるように、店側を小高くして斜めに並べられています。
順番を待ったのち、
「菱川師宣の本を借りたいのですが、どんな本を置いていますか」
「残念ながら、師宣のすべての本はおいていません。どんな本が良いですか。すでに読んだ本はありますか。誰が読みますか」
「私は、『和国百女』を若い頃に読んだことがあります。それから、『東海道分間絵図』も最近読んでいます。他は読んでいないので、私と亭主に二冊づつ借りたいのです。おすすめはありますか」
「では、そうですね、あなた様には、『浮世続』という江戸庶民の風俗を描いた師宜の代表作がよいでしょう。江戸の流行や情報、発信というべき内容です。これは天和二年(1682年)のものなので、大分流行はおくれましたが、良い絵ですよ。『四季模様づくし小袖雛形』は、衣装や図柄をあつめたいわば当時の流行をかいています。しかし、それだけでなく、女性たちの身だしなみについてのおはなしもあります。この本は天和三年(1683年)のものですが、教養として読んでおくとよいです」
於米は、そうですね、と納得したようです。
「それから、旦那さんには、『鹿野武左衛門口伝ばなし』はどうでしょう。江戸落語の祖といわれる鹿野武左衛門の小話を集めた絵入り本です。この絵の中で、立派な座敷でキセルをくわえた人物が師宜自身です。当時、師宣が売れっ子絵師として、日本橋人形町に住んでいたこともわかります」
「師宜の自画像がわかるのですね」
「小太りのいい男です。もう一冊は、上方の井原西鶴の書いた『好色一代男』が江戸で出版されたときに、挿絵を師宜が描いているのですが、大変好評でした。これは、貞享元年(1684年)にかかれたものです」
「では、それらを借りていきます。こちらでは、他に師宜の作品でなにかお勧めは?」
「流行を描いた『このころ草』、男女の恋の『表四十八手』、すでに読んだといわれた『和国百女』、遊郭吉原の案内書である『吉原恋の道引』、庭の図の『築山図付き(つきやまずつき)庭尽』が残っていて、あとは貸し出し中のものもあります」
「では、先ほどの四冊をお願いします」
於米は、店員が用意している間、店の中に展示している本や一枚づつの浮世絵をみていました。壁の張り紙には、岩佐又兵衛、奥村政信、加えて昨夜亭主の次右衛門がいっていた英一蝶名前があります。たぶん、有名作家か絵師なのだ、と女将は思いました。そのうちに、賢吉が犬の絵をかきたがっていたのを思い出しました。犬の絵を探していると、店員が準備ができました、というので、たずねてみました。
「今借りた本の中に、犬の絵はありませすか」
「なかったとおもいます。師宣ではなく他の浮世絵師が描いたのがありますよ。犬だけではなく、美人も描かれています。吉原の遊女たちの間で犬を飼うのが流行っているので、いっしょに描かれた絵があります。ちょっと待ってください」
すぐに、一枚の浮世絵を持ってきました。面長で切れ長の目、鼻筋がスーッと通った女性が犬を抱いた絵ですが、その犬は狆です。
「柴犬の絵はありませんか」
「柴犬は、子どもたちが遊ぶ絵に端っこに描かれていますが。小さく、犬の顔は輪郭だけです。この狆が描かれている版画絵は、少々難があるので安くしますよ」
版画は、同じ絵を何枚も刷ることができるので、庶民が購入できるほど安くなっていて、豆腐一丁を買うより安いのでした。女将は、どうしようか迷ったが、大きく描かれた美人といっしょに描かれた狆の絵にすることにしました。
長屋へ帰る途中で、於松にあいましたので、借りてきた本をみせました。すると、
「読みました。みんな面白かったです」
うれしそうに、手にとっています。最後に、本ではなく一枚の絵をみて、
「おや、この美人画はどうしたのですか。女将さん好みの美人ですか」
そう怪しげに聞かれたので、
「違うわ。賢坊が赤の絵を描きたいようなので、みせてあげると、お手本になっていいかなと考えたの」
「死んだ赤は普通の柴犬でしたよ。狆は顔が広くゆたかな毛におおわれた優雅で気品があります。この絵でも、正面向きでそのようにかかれています。死んだ赤とはどうみても似ていないですよ」
「それが問題なの。普通の柴犬の絵は小さくて顔がはっきりしていないから、こちらの方がまだいいかなと」
柴犬は、日本犬のなかで一番ポピュラーです。キリリと引き締まった表情、、ピント立った耳、勇敢で飼い主に忠実な性格です。ただ、柴犬はどこにでもいたので、絵師が柴犬を大きく描いても、その絵をほしがる人はほとんどいなかったのでしょう。
一方、狆は日本で品種改良された、犬と猫の中間の大きさの室内犬です。体臭が少なく、絹のようなしなやかでツヤのある被毛に覆われています。顔は鼻ペチャ、小さな垂れ耳、ふさふさとした羽のような尻尾、短い足で、性格は温和で物静か、人なつっこく忠義者で、ご主人様の膝の上が大好きです。白のベースカラーに身体と目から耳全体にかけて左右対称の黒または赤の班がはいっています。そして、賢く物覚えが良いので、五代将軍綱吉公だけでなく、大名や吉原の遊女たちも飼いました。ゆえに美人とされる遊女と狆の絵はよく描かれました。庶民は、狆をチンコロ、とよんでいました。
於松との分かれ際に、於松が付け加えました。
「最近の浮世絵の美人画は、女の美しさをより強調して、目は細く描くので好きではないの。師宣のころの太めで、髪を玉結び帯は吉弥結びがいいわ。でも、あたしの髪型はやはり今の流行の首より上に結い上げた方が、仕事にも楽でいいですけど」
玉結びとは、前髪は別にとって膨らませ、後ろ髪は輪状に結ぶので、背中まで髪がきます。
☆
店にもどると、次右衛門が少々興奮気味の様子です。
「何か良いことでもあったのですか」
「それが、あったのだよ。いつか、どもりの幼なじみの話をしたことをおぼえているかい」
覚えている、というと、
「そいつが、豆腐屋をやることがわかったんだよ」
「え、私が本屋に行っている間にですか」
女将の於米にも興奮が移ってきたようです。
「今夜の古典研究会の話題は、今は亡き浮世絵師の英一蝶なんだが、その一蝶が島流しから帰った後に住まいとしたのが、仙台堀川の向こう側にある深川の宜雲寺だ。」
「英一蝶は、変わった人生を歩んだ人というのは知っていますよ。それが幼なじみとどう関係があるのですか。まさか、幼なじみが有名な絵描きになったという話ですか」
「違う。どもりの幼なじみが、その宜雲寺近くで、豆腐屋をだすんだ。たぶん、あいつだと思うのだ。出身地がおれと同じ下総で年齢も同じくらいというのだ。それになんと言っても、以前はどもりだったというのだ。どもりといえば、そんな人は滅多にいない」
そうですね、と於米は反対はしませんでした。
「この話は、八百屋の於スナさんが先ほどおしえてくれたのだ。あいつのどもりはなおったらしいが、どもりであることで、みんなに豆腐屋をしってもらいたいという、いわば宣伝なのだ。それで、七日後に開店するが、開店祝いに値段を安くすると言うので、予約が殺到しているから、お前にも知らせておくれという。予約は、於スナさんがしてくれるから、予約するかどうかだけをつたえてほしいというのだ」
「まあ、豆腐は滅多に食べれないし、高いのに。お前さんどうしますか」
「幼なじみだから買わねばなるまい。豆腐の店が一件でも多くなれば、豆腐の値段は安くなるだろう」
「そうですね。ところで、師宣の本を二冊づつ借りてきました。お前さんにはこれが良いと、店員にすすめられました」
そう言い、手渡し、再び、
「二週間後に返しに行きます。それから、賢坊に犬の絵を見せてやりたいと、安かったので版画絵一枚を買ってきました」
「賢坊がそれで喜ぶなら、いいのではないかい」
版画絵を見ることなく応えました。
☆
ところで、英一蝶の解説をします。一蝶は、師宣の後に現れた浮世絵師で、師宣死後三十年間生き、七十三歳で亡くなっています。父は、伊勢亀山藩(三重県)の侍医です。藩主に付き添い家族で江戸にきてから、絵描きの才能を求められ、藩主の命令で将軍様の奥絵師、宗家狩野安信に師事しました。
この狩野安信は、天才狩野探幽の十二歳年下の弟で、10歳で惣領家に養子に入りました。兄ほどの才能はなかったが、努力を重ねて62歳で名実ともに狩野家筆頭の地位を得たのでした。
一蝶は、この狩野安信に師事したが、いつのことかかつ原因不明だが破門されてしまいます。しかし、狩野派流の町絵師として活躍しながらも、俳諧や書道で有名になり、町人・旗本・大名・豪商まで広く親交をもちました。吉原遊郭では、客になっただけでなく、幇間といい、宴席を盛り上げる仕事でも活躍をし、見事な芸をしたといわれています。しかし、当時武士だけにゆるされていた釣りをしたことで島流しになりました。島流しというと惨めな感じがしますが、一蝶は島で絵を描き、その絵を売って家持ちとなりました。さらに、島役人や島人ともうまく付き合い、名主の娘との間に子どもまでなしました。57歳の時、五代将軍綱吉公死去による将軍代かわりの大赦で江戸に戻り、絵を描きながら吉原での芸人活動を続け、豪商の材木商紀伊國屋文左衛門や奈良屋茂左衛門とも交友があったといいます。いろいろとお騒がせな人でもありました。
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さて、女将は遊びから戻ってきた賢吉に、父親が迎えにくるあいだに喜ばせてあげようと、そっといいました。
「賢坊、死んだ赤とは違う種類の犬の絵だが、みせてあげるよ」
重々しく、先ほど借りてきた浮世絵をみせると、絵をみた賢吉は、赤とは違うと、泣き出しました。
「犬の親戚だよ。そう、豆腐と納豆が親戚なようにね」
それでも泣き止まなく、玄米をついている次右衛門にきこえるとまずいので、抱いて、
「豆腐、豆腐を食べさせてあげるから、泣かないで」
と、先ほどの話をおもいだしあやしました。
すると、賢吉は泣き止み、いいました。
「と、とうふ」
「今日ではないが、七つ寝たら、豆腐を買うからいっしょに食べようね」
それから、借りてきた本の中の絵を、一枚ずつめくって見せてやりながら、
「賢坊もこんなに上手にかけるといいね。ここ深川には、今は死んでいないが、英一蝶という有名な浮世絵師が仙台堀川の向こうがわにある宜雲寺に住んでいたんだよ。それから、有名な狩野派の町絵師は、仙台堀川のそばにいる。さあ、さっきの赤の親戚の犬の絵をみて、いっしょになぞってみようよ」
そういい、賢吉の後から幼い人差し指をもって、狆をゆっくりなぞりました。
「この犬は、チンコロというのだよ。面白い顔をしているだろう。チンコロが上手にかけるようになったら、赤も上手にかけるようになるからね」
三度、いっしょになぞったあと、こんどは、賢吉一人に狆をなぞらせました。
「上手だね。やがては赤を上手にかける絵師になるからね」
うん、と女将に振り向いて返事をしました。
それから、狆より大きく描かれている、絶世の吉原遊郭の美女を指さしききました。
「た、たれ?」
於米は、思いもよらぬ質問をされ戸惑い、とっさに、
「び、美人」
つられてどもってしまいました。