モッツァレラ
「モッツァレラって、いいですよね」
電車でたまたま隣に座った人が、いきなりそう言った。
「……は?」
間抜けな顔で返した僕を見て、その男性は苦笑する。二十代くらいだろうか。これといった特徴もなく、掴みどころのない人だ。
「モッツァレラチーズですよ。好きなんです、私。知りませんか?」
――いや、だからそれがどうした。
そう言おうとしたものの、それまで時間を持て余していた僕は、この奇妙な人の話に付き合うことにした。
「知ってますよ、それくらい」
「私の大好物なんですよ」
「……」
「チーズは全般好きなんですけど、モッツァレラは格別だと私は思うんです。あの味といい、溶け具合といい、弾力から、色から、全てにおいて非の打ち所のない、完璧なものですよね!」
目を輝かせて言い寄る男性に、軽く後退りする。
「え――あ……は、はい……」
そうですね、の言葉は続けられなかった。
「そもそも、チーズは保存性に欠ける――……」
僕が答える暇も無く、次々とチーズに関するウンチクを述べていく男性に、先程軽い気持ちで話に乗ってしまった自分を激しく恨んだが、もう遅すぎた。通過した踏み切りの、間の抜けた遮断機の音が空しく響く。次の駅にはどれくらいで着くのだろうか。
「……――ですよねっ!?」
「え、ええ……そうですね」
異様、とも言えるくらい熱く語る男性に訊かれ、僕は引きつった笑いを返した。そして助けを求めて辺りに視線を巡らせるも、平日の昼下がりだけあって、このローカル線には見事なまでに誰も乗車していない。
溜め息混じりに視線を戻し、僕が聞いていようといまいと喋り続ける男性を遮るように言った。
「――一つ、訊いてもいいですか? 何で僕なんですか?」
自分から許可を求めておきながら、すぐに質問を続ける。失礼なのだろうが、この人になら許されるような気がした。
「――? それはどういう意味なのですか?」
質問が唐突すぎたのだろう。男性は少し困惑した表情で言った。
「いや、赤の他人に自分から話しかける人は少ないと思って。乗るにしても、むこうの車両もがら空きだし」
そう言いながら巡らせた僕の視線の先には、誰も乗っていない隣の車両。この電車には正真、僕とこの人しか乗客がいないということが確認されてしまった。
「ああ、そんなことですか」
男性は、当然といった顔で言う。
「あなたなら話を聴いてくれそうな気がしたのです。まあ、何となく、ですが」
「……」
聞きながら、またか、と僕は思った。見ず知らずの人に話しかけられるのは、実はこれが初めてではない。道を歩いていると――たとえそれが全く知らない場所であっても――頻繁に道を尋ねられるし、スーパーなどで買い物をしていると、同じ買い物客におすすめ情報を教えられたりすることが度々あるのだ。以前友人に言われたように、自分が無害そうなのは認めるが、こんな人まで呼び寄せるとは迷惑な話だ。
「――? どうかしましたか?」
呑気としか言いようのない男性の態度に、更に脱力感を覚えたが、気を取り直して会話を続けることにする。
「いえ……何でもないですよ。と、ところで、僕の他にもこうして話しかけたことがあるんじゃないですか?」
半ば確信しながら訊いた。いきなり声をかけられたが、妙に慣れている感じがしたのだ。
「ええ。ですが、ほとんどの人が寝ているみたいで、私の声が聞こえていないようなのです」
――当然だ。
皆、僕よりも数倍勘がいいらしい。面倒な気配を察知し、いち早くタヌキ寝入りを決め込んだようだ。
「まあ、忙しいですからね、今の時代」
今度から僕も見習おう。そう心に決めつつ、適当なことを言っておいた。
「そうですね。なので私も起こさずにそのままにしておきました。ところで――」
不穏な気配を感じ取り、顔が引き攣るのが判る。案の定、今最も耳にしたくない単語が、男性の口から発せられた。
「――モッツァレラチーズは、今は牛乳が原料となっているのですが、本来は水牛の乳で作られていると知っていましたか。呼び方にも区別があって、水牛のものはモッツァレラ・ディ・ブーファラ、牛乳の方はフィオル・ディ・ラッテと言って――……」
やっと話題を逸らしたと思ったのだが、また熱く語り始めてしまった男性に、今すぐ気絶してしまいたい衝動に襲われる。
――ああ……何してるんだろうな、僕は……
そう思いながら、生き生きとしたその言葉を聞くのは悪くないような気もした。
しばらくして、眠くなるようなアナウンスが、次の到着駅を告げる。結局、いくつかの駅に停車したものの、乗客はゼロ。僕たち二人だけを乗せた電車は、相変わらずのんびりとした雰囲気だ。
僕が目的地までにはまだまだ時間がかかるな、などと考えていると、こちらも相変わらずチーズのことばかり喋っていた男性が、唐突に言った。
「あ、私は次で降りますね」
「へ?」
間抜けな声を出して男性を見た。何となくだが、自分の方が先に降りるような気がしていたのだ。
「あ、いや、そうですか」
不思議そうな顔をされたので、慌てて取り繕う。やっとこいつがいなくなるのだから、もっと喜ぶべきだ。
「――? どうかしましたか?」
ブレーキがかかり、電車が減速していく。もうすぐ駅に着くらしい。
「いえ、別に」
僕の言葉に何か引っかかりを覚えたような男性だったが、電車がホームに入るまで黙っていた僕に、それ以上訊こうとはしなかった。
「今日は、私の話を聴いて頂き、ありがとうございました」
電車が完全に停車する間際、男性はそう言って頭を下げた。本当に、礼儀正しい。あの性格が非常に惜しい気がする。
「いえ、お気を付けて」
僕がそう返している間に、音を立ててドアが開く。男性が立ち上がった。
「ではこれで」
「ええ、お元気で」
最後に短い挨拶を残して、名前すら知らない男性は開いたドアに近付き、ホームへと降りていった。アナウンスが流れ、ドアが閉まる。ゆっくりと電車が動き出すと、一度も振り返らないその背中が遠ざかり、すぐに見えなくなった。
心なしか傾いてきた太陽とすっかり民家のなくなった景色を眺めながら、次の駅と言っても当分は着かない目的地を告げるアナウンスを聞いている。
案外、退屈しない時間だった。
シュールなお話を最後まで読んでいただきありがとうございます。
いつもは緻密にプロットを立てて書くため、原稿用紙にして軽く十数枚はすぐにいってしまうのですが、二枚半で話をまとめる友人に憧れて、なんとか五枚程度で仕上げようと書いた作品です。なので、きちんとした流れになっているか少し心配な作品でもあります。
事情はこの辺りにしておいて、裏話を少し入れてみます。
私は普段、とことん電車(……と、その他の公共交通機関)に縁がなく、以前の記憶を頼りに書いたため、おかしな点等々があちらこちらにあると思われますが、そこら辺は容赦していただけると幸いです。
まだまだ未熟ですが、これからも上手い小説が書けるよう、精進していきたいと思います。




