月浴びの氷
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふうう、ようやく今年初のかき氷にありつけたぜ。
お前、かき氷のシロップって、何味が好きだ? 俺はカルピス味にはまっている。原液の濃さが、上手いこと氷のとろけ具合にマッチして食べやすくなるんだわ、これが。それに個性という点でも勝っている。
聞いたことないか? メロン、イチゴ、ブルーハワイ……これらの屋台でよく見る味のシロップは、元々はおんなじものだっていう奴。実際には色や香りによって脳がその味だと思い込むように、錯覚させている説がささやかれている。
まあ、風邪を引いたりして鼻が詰まっている時には、食べ物の味も感じ取りにくくなるしな。香りって奴も立派な味付けのいち要素なんだろ。俺たちの持つ五感は、互いに組み合わさって形を成すことが分かる、ひとつの例だな。
この感覚はできる限り、鋭敏に保っておきたいところだ。身の回りの異状に、いちはやく気づくかもしれないからな。ひとつ、氷をめぐる一話を聞いてみないか?
氷を食すという風景は、平安時代の枕草子にその記述が見られる。金属の器に刃物で削った氷を入れ、甘味料の甘葛をかけて食べていたという。当時はかなりの高級品で、貴族でなければまず、口にすることはできなかったとか。
一般に氷を食べることが広まったのは、明治時代における「函館氷」の誕生が大きく寄与している。実業家の中川嘉兵衛という人物が、1871年に函館の氷を東京へ運び込み、夏場でも庶民が氷を食する機会に恵まれたという。
この事業はわずか数年間で、大きな勢力を築くことになる。それを見て、勝ち馬に乗りたいと考える人が出てくるのは、やむないこと。氷を求める人々は東京周りの関東を中心に、様々な場所での採氷を試みていたそうだ。
かつて、氷室の管理を任されていた一族の子孫である彼も、氷の販売によってひと山当てようと目論んでいたらしい。氷事業を営み出し、最初に一年余りは函館氷の購入と利用に甘んじていたが、費用を抑えるために、自分だけの採氷地を求めたんだ。
冬場になると、彼の部下たちは彼の用意した貯氷庫の付近を中心に、探索を進めていたという。「どのような小さい発見でも、報せるように」と、皆に言い含めて。
やがて、平野部にも粉雪が舞うほどの寒い日。調査に出ていたひとりが、夏場に気がつかなかった洞穴を発見する。
彼が探っていたのは、とある山の中腹。歩けないほどではないものの、平野部よりはずっと雪が積もっている場所。進んでいる時にふと背後で雪が滑り落ちる音がし、振り返ったところ、しなだれた枝に隠されるように覆われていた穴がたたずんでいた、というんだ。
獣が住んでいやしないかと、警戒しながら一歩を踏み入れてみる。外より一回り低い空気に、思わず身震いする。だがそれは同時に、ここが氷を保持し続けられる環境が整った、「氷穴」であることを、物語っているかもしれない。
道は途中で何本かに分かれていたが、彼自身、調査を任される身の上で方向感覚には優れている。どうやら洞穴内はほぼ、輪切りしたレンコンのような構造をしているらしい。中ほどの岩壁は柱のごとく空間にたたずみ、分岐した通路は壁の周りをぐるりと巻いて、隣の枝分かれした地点から出てくる。
ほとんどの道にそれが当てはまった。例外が入り口から見て、奥の岩壁。そこの一部分だけが途切れて緩やかな坂になっている。彼は分岐の地図をくまなく記録した後で、その坂道に足を掛ける。
降り始めてすぐ、彼はここが氷穴だという証が姿を見せる。左右には壁の代わりに何本もの氷柱が並んでいたんだ。その先端に天井から落ちる水滴を受け、小さな音を立てながらしとどに濡れている。
期待を膨らませながら奥へ奥へと進む彼は、やがて行き止まりに突き当たった。人が数十人集まれそうな円形の空間と、その壁に沿って立つ、丸みを帯びた幕のごとき氷たち。床には、厚みが男のひざ近くまである氷が、一面に横たわっている。
暗い穴の中、男がそこまで様子が分かった理由は、なにも闇に目が慣れてきたばかりだからじゃない。その部屋の天井が抜かれて、月の明かりがさしていたからだ。
高さおよそ二十尺(約6〜7メートル)ほどの上にぽっかりと開いた穴。そこより、青白い貌を向けた月が、眼下の氷たちを見つめているんだ。
男はしばし見とれていたけれど、すぐに妙なことに気がついた。
自分が山に入った時、陽はまだ高かったはず。ある程度、山中とこの洞穴内をうろついたとはいえ、そこまで時間が経つものだろうか、と。
ここまでの道筋を確認した上で、ひとまず取って返す彼。穴から顔を出したところ、辺りはすっかり暗くなっていた。しかし、洞穴の中へ注いでいたのと同じ、青白い光が雪の原へ大いにその手を広げている。はっきりと行く手が、その目で分かるんだ。
――まるで、あの氷を外へ連れ出して欲しい、と言わんばかりだな。
彼はしばし考えたあと、穴の中へ取って返す。最奥の厚い氷の床へ持参した工具を当て、一部を削り取った。同じく、持ってきた桐の小箱を取り出し、敷いたおがくずの上へ氷を詰めると、上からも新しくくずをかけていく。
当時のおがくずは、用意する手間と断熱効果を考慮した結果、氷の保存によく使われていたんだ。彼は月明かりを頼りに、帰路をひた走る。行きはあれほど立ち塞がった雪たちも、気持ち柔らかくなり、彼の道行きを助けているように感じられたという。
帰り着いた彼の報告により、すぐさま件の洞穴には多くの部下たちが集った。もちろん、かの店でこの氷を独占する手はずだった。
彼の店まで、およそ馬で三日という距離。冬場のうちにできる限りを取り出し、夏の売り時に備えたかったのだろう。次々に切り出されていく氷たちだが、なかなか減らない。むしろ削ったはずなのに、次にやってきた時には厚みが増しているように思えること、しばしばだったという。
気候が春めいてくる頃には、彼の店の地下貯氷庫はほぼ満杯に。一両日中で行き来できる予備の貯氷庫にもある程度の量を確保していた。普通、どれだけ気を払っても、運搬中に目減りしてしまう氷。それが、あの洞穴から掘り出すものは、他と比べて明らかに物持ちがいい。
後は味の問題と、店主自ら一部分の氷を砕き、器に入れたものへ砂糖をまぶしていく。当時のかき氷の定番、「雪」と呼ばれる形態だ。口に含むと、ほどよい甘みをまといながら、頬、口蓋、喉の奥へと身体を溶かしつつ、落ち込んでいく。腹に注がれる時には、もはや冷水と変わりない感触だが、この食感が多くの舌をとりこにしてきた。
主人がぺろりと平らげる頃には、すでに集まった者たちもめいめいで氷を砕き、蜜をかけた「みぞれ」や、餡を乗せた「金時」の味を楽しんでいたという。だが、あの洞穴を第一に発見した彼は、得体の知れなさを覚え、終始、氷には手を出さなかったらしい。
事件は、彼らが上手そうに用意された氷を食べきった、翌日に起こる。主人をはじめとする皆が、息がしづらいと訴え出てきたんだ。
冷たさゆえに腹を下したのならば、まだ分かる。しかし、息が苦しくなるなど聞いたことがなかった。喉の奥に何か詰まっているわけでもなく、かといって食事もままならない。かろうじて水と、あのかき氷だけは喉を通ったという。
特にかき氷に関しては、摂取するといったん病状が落ち着き、回復したかのような気配を見せるから、当初は皆が勘違いした。被害者たちは我先にとかき氷を頬張った結果、いっときの快気を果たした後、度を増した窒息の苦しみに襲われる。かき氷を食べるとまた身体が良くなり……と来るものだから、完全な中毒だった。
氷を食べていない彼は、すでに霊験あらたかな住職に話をつけており、皆の病状を診てもらった。結果、主人たちに見られる症状は「月浴び」と呼ばれるものと分かったらしい。
「件の氷、穴の中で常に月の光を浴びていたというたな? それが良くない。太陽は我ら生きとし生けるものを育てるが、月が育むのは太陽の及ばぬ世界のもの。すなわちは死だ。その死の氷を食したならば、死へ身体が向かい始めるのも道理よ」
そう告げた住職は、対策を授ける。明日未明、貯蔵している「死の氷」を取り出し、日の出よりの太陽に当て続けること。同時に氷をよそるための金属の器も用意し、これも氷の脇で陽に当てていく。
太陽がすっかり沈んだ時、氷がまだ残っていたならば、それを改めてかき氷へ加工し、件の器に入れて、患者たちに飲ませろと。
一日中、太陽よりの生の気を浴びさせることで性質が変わり、助けになることができよう、とのことだった。
動ける面々は、さっそく言われた通りにする。その日は真夏かと思う強烈な日差しが照り付け続け、全員が汗だくになった。にも関わらず、件の氷の溶け具合は尋常ではない遅さ。数時間を経ても、表面がほんのり湿るだけ。この氷が他と異なるものだと、立ち会った人は改めて知ることになる。
それでも日暮れを迎える頃には、当初より一回り小さくなっている。それらを砕き、こちらも言いつけ通りに用意していた器に盛ると、「じゅうう……」と音を立てながら、数秒だけ湯気が出る。かゆのように温かいその氷を食した皆は、今度こそ偽りなく、息苦しさから解放されたという。
この件を受け、貯氷庫の氷はすべて処分される運びになった。やむなく、その年も、函館氷に頼らざるを得なかったかの店は採算が取れなくなり、数年後には店をたたむことになった。
月浴びの氷が眠る洞穴は埋められ、政府は同じ轍を踏む者が現れないよう、1878年に「氷製造人並販売人取締規則」を出す。
衛生検査に合格した氷のみを売り、販売するものは「官許」の字の下に「氷」の文字と、産地を表示するよう義務付けられたんだ。
今も店先に掲げられる「氷」の文字をあしらった旗。その裏にもまた、多くの散っていった挑戦があったというわけさ。