ファーストミッション!(上巻)
ぐつぐつとリズムカルに鍋の中でお湯が踊っている。それにつられて、合図のようにお腹が鳴った。そう、私はこれからお昼ごはんという、大事な場面に差し掛かっているのだ!
元気よく飛び跳ねている熱湯は、自分の名前にピッタリ。戸棚の奥から大好きなチキンラーメンを取り出して、大きなどんぶりに入れる。これがお嬢様学校と呼ばれる、初芝女子高校に通う女の子の休日の過ごし方だと知れば、世の男どもは幻滅するのだろうか?
飯田羽澄はそんなことを考えるも、すぐに意識は目の前のラーメンへと注がれた。ほどよく沸騰した鍋のお湯を注ごうとした時、リビングのドアが開いて姉の夏美が現れた。
「はずみ! 外で沙織ちゃんが待ってるよ」
「あ! 忘れてた! って、あつ!」
勢い余って飛び跳ねた熱湯が右手にかかり、羽澄は思わず鍋を落としそうになった。「あわわ!」と叫び声をあげながら、ギリギリのところでコンロに戻す。
「はあ……あんたって、ほんとどんくさいよね」
夏美が肩を落としてため息まじりに呟いた。
「う、うるさいなあ。ぎりぎりセーフだったんだからほっといてよ」
「それより沙織ちゃん待ってんだから、呑気にラーメン作ってないで早く行ってあげなよ」
そうだったと姉の言葉に返事をするも、羽澄はお湯を注いだばかりのどんぶりを見た。熱湯を浴びた乾燥麺が、香ばしい匂いと共にぷるんとした柔らかさを取り戻していく。
「えーお姉ちゃん、ラーメンもうすぐ出来上がるんだけど……どうしよう?」
「なにバカなこと言ってんの。こんな暑い中、あんた沙織ちゃんをずっと外で待たせるわけ?」
夏美が眉間に皺を寄せて睨むと、「う……」と言って羽澄はもう一度どんぶりの方を見る。
ごめん、ラーメン。君の願いは叶えられそうにない……。
「じゃあお姉ちゃん、代わりにこれ食べといて!」
半ばやけくそな捨て台詞を吐いて、羽澄は急いで二階の自室へと走った。ドアを開けて慌てて身支度を終えると、勢いそのままで玄関まで走る。ドタドタと階段を降りれば、わずかに香るスープの匂い。ぐうと鳴りそうなお腹を抑えて、玄関横にある姿見の前に立った。
顔の輪郭をなぞるように、少し肩にかかったミディアムヘアに寝癖なし。羽澄はきょろっと大きな両目を動かして、そのまま足元までチェックをする。うん、これならバッチリだ。
「行ってきます!」の言葉に、ラーメンを食べているところなのか、「行ってらー」と姉の少し口ごもった声がリビングの方から聞こえてきた。
本当は私が食べるはずだったのに……。
ふんと鼻を鳴らして取っ手を掴み、力一杯に扉を開ける。鋭い夏の日差しと一緒に、しゃわしゃわと蝉の鳴き声が家の中へと転がり込んできた。
「あつー」
羽澄は右手で両目に入ってくる光を遮ると、照り返しが眩しい玄関の外へと一歩踏み出した。
夏だ。そんな当たり前の事実を毎回思わされるほど、この扉一枚の内と外の世界は違い過ぎる。
カメラのピントを合わすように目を細めると、門扉の向こうに麦わら帽子をかぶった沙織の姿を見つけた。風になびく艶やかな長い黒髪と白いワンピースが、沙織の清楚なイメージをより引き立てている。
「ごめん! 遅くなっちゃった」
羽澄はそう言って小走りで門扉まで向かうと、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「別に大丈夫だよ」
沙織が少し首を傾けて、くすっと笑う。
「もしかして、お昼ご飯の途中だったとか?」
「う……、え?」
不意にピンポイントな質問を食らってしまい言葉に詰まった。それを見て沙織がまたくすくすと笑っている。さすが小学生の頃からの親友だ。自分の行動パターンは読まれているらしい。
「いやー、うん。途中では……なかったかな」
途中どころか始まってもいない。今頃あのラーメンは姉の胃袋の中で、私に食べられなかったことを後悔しながら溶けているのだろう。そんなことを考えて、羽澄は睨むように家の方をちらりと見た。
「やっぱりそうだったんだ。ごめんね、連絡くれたらもっと後でも良かったのに」
「ううん! 沙織のせいじゃないよ。それに十一時半に待ち合わせって言ったの私だし……」
そう、私だ。今日遊びに行くのも、待ち合わせ時間を決めたのも全部私だった。これからはもうちょっとスマホのスケジュールアプリを使いこなそう。そう思って心のメモ帳に書いた。たぶん帰ってくる頃には忘れているんだろうけど……。
門扉を閉めて歩き出すと、早くも額に汗が滲んできた。そういえばハンカチ持ってきたっけと考えた時、蝉の鳴き声の隙間から沙織の言葉が聞こえてきた。
「あ、そうだ。この前、明里が新しいお店見つけたって言ってたよ。今度羽澄も一緒に見に行く?」
目を細めて白い歯を見せる沙織に、「あー、うん……」と羽澄は少し言葉を濁した。
明里は同じクラスの仲の良い友達で、おそらく初芝女子校の生徒の中で、一番美人でスタイルも良い。伝統に厳しく今だに恋愛禁止、バイト禁止のうちの高校で、実はこっそり読者モデルをやっているぐらいだ。そんな明里と私服で遊びに行くとなれば、こちらもそれなりの戦闘態勢で望まなければいけない。
「そうだね……。時間が合えば、ね」
「わかった。じゃあ明里にも明日言っておくね」
にこっと沙織が天使のような微笑みを見せる。ちなみに沙織も女子から見てもかなり可愛い部類に入る。明里がキレイめ美人のお姉さん的存在だとすれば、沙織は正統派純粋の可愛いお嬢様系になるのだろう。実際、沙織の家はかなりのお金持ちで、お嬢様なのは本当だ。
何故か自分の周りには、そんな魅力を持った友達が多い。これはもしかして、「類は友を呼ぶ」という言葉に期待したいところだけど、残念ながらそうではない。男気満点、食欲満点の自分は違う人種だということは、悲しいけれどちゃんと自覚している。
「二年六組の宮間さん。教頭先生がお呼びです。すぐに教頭室まで来てください」
ぼやけた意識の中でそんな校内放送が聞こえたので、羽澄は机からぬっと顔を上げた。両手を大きく天井に伸ばしながら、後ろの席に座っている沙織を見た。
「おはよう沙織……。なんか教頭先生が呼んでるって放送してたよ」
「うん……ちょっと行ってくるね」
心なしか、少し不安そうな表情で沙織は席を立った。
沙織は学年でもトップテンに入るほど成績が良く、現役で国立大学も間違いないと言われているほど。そんな彼女のことだからおそらく大学推薦か何かの話しだろうと、教室を出て行く親友の後ろ姿を見ながら羽澄は思った。
「ほんと沙織は凄いよなー……」
左手で頬づえをつきながら呟くと、まだ完全には立ち上がっていない頭をすっきりさせる為に、大きく欠伸をした。
「おーい、羽澄! お昼ご飯食べないのかー?」
潤んだ視界で窓側の席を見ると、机をくっつけてお弁当を広げている明里と結衣の姿が見えた。その瞬間、欠伸ではカバーしきれなかった意識が瞬時に立ち上がる。
「ちょっと! 私も食べるから置いてかないでよ」
さっきまでの眠気は吹き飛び、羽澄は机の上に鞄を置くと、中からお弁当を取り出す。確か今日は、私の大好きな唐揚げをお母さんが入れてくれていたはずだ。羽澄は勢いよく席から飛び出すと、二人の元へと向かう。近くの友達の椅子を借りると、さっそくお弁当を広げて、本日一番の楽しみを味わった。
「あんたって、ほんと昼ご飯の時だけは元気だよね」
お箸の先端でウィンナーを捕まえた明里が、飽きれたように言ってきた。
「だっで、ごばんだべるのば……」
「はいはい、わかったからちゃんと食べてから喋りなよ」
「そうだよ羽澄ちゃん、ご飯は落ち着いて食べないと」
おっとりした口調で、微笑みながら結衣が言った。
結衣はマイペースな人物で、たぶんこのクラスの中で一番穏やかだ。怒ったところは見たことないし、だいたいいつも微笑んでいる。少し丸顔で笑った時に目を細める結衣を見ては、「初芝の仏」だと勝手に妄想している。もちろん、結衣には言ったことはないけれど。
仏の結衣にまで優しく注意されてしまったので、羽澄は話したい衝動を抑えて、唐揚げを噛むことに専念した。思ったよりも皮が固くて、途中言葉を発しそうになるのを我慢するのが大変だった。
「そういや、なんで沙織のやつ教頭室なんかに呼ばれたんだろうね」
明里がだし巻きを突つきながら、不思議そうな顔で言った。
「沙織は成績良いし、なんか大学推薦の話とかじゃないの?」
やっと口に残った唐揚げを飲み込んで羽澄が答えると、その言葉を聞いた明里が眉間に皺を寄せる。
「えー、それでわざわざ教頭室なんかに行く? 普通それだったら職員室か進路指導室とかじゃないの?」
「たしかにそう言われれば変だよね。それに沙織ちゃん、何だか元気なさそうだったし……」
今度は結衣が眉毛を八の字にして不安そうに言った。心の底から心配しているのが伝わるその表情を見て、やっぱりこの人は仏だと羽澄はこっそりと思った。
「羽澄、あんた何か知らないの?」
「うーん……何も心当たりはないかなー」
羽澄は腕を組みながら天井を見上げた。この前遊んだ時はいつも通りだったし、今朝も校門で会った時は普通だったし……もしかして、体調でも悪いのかな。
「あんた一番沙織と仲良いんだから、戻ってきたらちゃんと話し聞いてやんなよ」
さっきまで白ご飯を掴んでいた箸先を、びしっとこちらに向けて明里が強い口調で言ってきた。見た目だけでなく、明里はいつもみんなのことを気にかけてくれる頼れるお姉さんなのだ。
「任せて! ばっちり聞いてみるから」
羽澄はにっと白い歯を見せて親指を立てる。その姿に明里は疑うように目を細めると、小さくため息をつく。「ほんとに大丈夫かな……」と呟く明里を見て、羽澄が頬を膨らませた。
「まあまあ、ここは羽澄ちゃんに任せようよ」
状況を察した結衣が、なだめるように両手をひらひらと動かしている。だいたい私たち三人のバランスは、いつもこんな感じなのだ。
お弁当を食べ終わると、羽澄はトイレに行くと言って席を立った。廊下に出ると、同じセーラー服を着た生徒たちで、そこら中賑わっている。その間をすり抜けるようにして、羽澄は近くのトイレへと向かった。
トイレでたまたま会った友達と少し話しをしてから再び廊下に出ると、ちょうど左手側に見える教頭室から沙織が出てくるところだった。
「あ! さお……り?」
教頭室を出てきた沙織は、俯いたまま早足でこちらに向かって歩いてくる。表情はよく見えないが、何となく泣いているように思った。
「ちょ、ちょっと沙織! どうしたの?」
羽澄は慌てて駆け寄ったが、沙織は俯いたまま何も話さない。そして「ごめん」と一言だけ呟くと、そのまま駆け足で階段の方へと向かって行った。
「なになに? 一体何なのよ!」
羽澄はわけがわからないまま沙織の後を急いで追った。途中すれ違う生徒たちが不思議そうに沙織と自分のことを見ていたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。こんなことになるなら、明里が言ってたようにちゃんと沙織の話しを聞いておくべきだった。
「ちょ……沙織、待ってよ」
息を切らしながら階段を駆け上がるが、向こうは立ち止まる気配はない。自分の頭上から、沙織の足音だけが響いて落ちてくる。
やっとの思いで羽澄は階段を上り切ると、屋上のドアがある踊り場で、沙織はしゃがみこんでいた。かすかに震えている肩を見ると、やっぱり泣いているのだろう。
「沙織……大丈夫?」
羽澄は息を整えながらゆっくりと近づいた。追ってはきたものの、まさかこんな状況になるとは思わなかったので、気持ちとは反対に言葉が出てこない。
「……なにがあったの?」
何とか言葉を絞り出すと、羽澄は隣に座った。問いかけの返事はないまま、聞こえてくるのは沙織の小さな泣き声だけ。仕方なく羽澄は、黙ったまましばらく様子を見守ることにした。沙織のことは昔から知っているけど、こんなにも泣いている姿を見るのは始めてだった。
予鈴のチャイムが鳴り終わっても沙織が動く気配はない。階段の下の方からはがらがらと教室のドアが開く音や、慌ただしい生徒たちの足音が聞こえてくる。しばらくすると、空虚な静けさだけが残った。
「……羽澄、ごめんね」
泣いて少し落ち着いたのか。沙織がくしゃくしゃになった顔を上げて羽澄を見た。
「ううん。私は大丈夫だよ。それより沙織……何があったの?」
羽澄はポケットからハンカチを取り出すと沙織に差し出した。「ありがとう」と、啜り声で沙織はそれを受け取ると、両目に溜まった大粒の涙に当てる。心の重荷を吐き出すように、ハンカチには涙で濡れた染みが広がっていく。
沙織は大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせると、震える声でゆっくりと話し始めた。
「私……もしかしたら学校辞めないといけないかも……」
「ええ!」
沙織の突然の発言に、羽澄は思わず目を丸くした。静まり返った階段を、羽澄の声が駆け降りていくように響く。
「が、学校やめるってどういうこと? 沙織が? 何で?」
混乱する思考を必死に抑えようと、羽澄は両手で頭を抱えた。ただでさえパンク寸前のところに、追い討ちをかけるように本令のチャイムが鳴り響く。それでも沙織は立ち上がろうとはせず、俯いたままだった。唇をぎゅっと噛む沙織の横顔を見て、羽澄はごくりと唾を飲む。一体……沙織に何があったのか?
少しの沈黙が続いた後、沙織の口がわずかに開いた。その隙間から、今にも消えてしまいそうなか細い声がこぼれる。
「……実は」
沙織は一呼吸置くと、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
どうやら沙織は恋愛禁止の我が高校で、以前から付き合っている年上の彼氏がいるらしい。大親友の思わぬ暴露話に羽澄は腰を抜かしそうになったが、そこから先の話しはさらに衝撃だった。
先週、その彼氏と遊んでいた沙織は、あろうことか教頭にたまたま見られてしまったのだ。
成績優秀で生徒会にも所属している沙織は先生たちにも有名なので、おそらく教頭も顔を覚えていたのだろう。が、問題はそれを知った教頭は沙織を呼び出し、ある話しを持ちかけてきたという。
「さっき教頭先生からは、校則に反した場合退学の恐れがあるって言われて……それで」
「……それで?」
「それで……、もしそれが嫌なら……」
「うん……」
そこで沙織は言葉を止めると、再び唇を強く噛んだ。ただならぬ話しの内容を察して、羽澄の喉がゆっくりと上下する。
「……一日だけ自分と遊びに行くなら、今回のことは無かったことにするって」
「はああ!?」
しんと張り詰めていた廊下の空気の中を、爆音の叫び声が貫いた。羽澄は慌てて両手を口に当てるも、階段の下では異変を感じたのか、教室のドアが開く音が聞こえてくる。隣では沙織がびっくりした表情で、人差し指を唇に当てていた。しかし、羽澄の頭の中はそれどころではなかった。
「ちょ、どういうこと? ってか教頭のやつ頭イカれてるんじゃない!? それ、ダメなやつだよ! 絶対、ダメなやつじゃん!」
気持ちの整理が追いつかず、羽澄は思いつくままに言葉を放った。沙織が教頭と遊びに行く? しかも二人っきりで? 一体うちのバカ教頭は何を考えているのか。
「それで沙織は……何て答えたの?」
羽澄はおそるおそる沙織の顔色を伺った。もしかしたら沙織は退学を真逃れるために、教頭の誘いを受け入れたのかもしれない……。落ち込んでいる親友の姿を見て、そんな恐ろしい想像が頭の中にちらつく。
「わたし……何て答えればいいのかわからなくて、黙ってたの。そしたら教頭先生が来月までには返事がほしいって……」
「来月までって……あと三週間しかないじゃん!」
羽澄は目を丸くして沙織を見た。あとたった三週間で沙織が学校を辞めるのか、それとも変態教頭と遊びに行くのか運命が決まってしまう……。純情な女子生徒の人生を決めてしまうには、あまりにも残酷で短すぎる猶予だ。
「沙織! ぜったい遊びに行ったらダメだよ! あのエロ教頭のことだから、何されるかわかんないよ。何も知らない純粋な沙織が……いや、もう私よりかは知ってるかもだけど、教頭がそんなバカなこと言ってるなら他の先生に話すべきだよ!」
「ダメだよ……。そんなこと話したら私が付き合ってることもバレちゃうし、きっと教頭先生に学校を辞めさせられちゃう……」
「そんなこと言っても……このままだと沙織の身が危ないんだよ!」
でも……、と沙織は膝を抱えたまま黙り込んでしまった。羽澄も隣で頭を抱えてうーっと唸った。沙織と教頭が二人っきりで遊びに行くことを想像するだけでも、発狂しそうなほどの怒りが込み上げてくる。どうすればそんな事態を避けることができるのか……。
ああでもないこうでもないと、羽澄は一人でぶつぶつ呟いていると、ポケットの中で携帯が震えていることに気付いた。
「明里だ」
取り出すと、画面にはメッセージのお知らせが三十件以上溜まっていた。開いて見るとそこには、怒りマークと一緒に「どこ行った?」「早く戻れ!」と警告文が記されている。
「うわー、明里がカンカンだ……って、今はそれどころじゃないんだよ!」
初めて授業をさぼっていることも、明里のお叱りを受けていることも、沙織の件に比べれば大した問題ではない。むしろこのまま教室には戻らず、教頭室に殴り込みに行きたい気分だ。
「なんとかして、沙織の件を無かったことにできないかな……」
ぼそっと呟いた言葉に、沙織は目を丸くしてこっちを見てきた。
「そんなこと……もうできないよ」
「いや、まだ何か方法があるかもしれない。例えば……こっちも教頭の弱みを掴むとか……」
そこまで言って、「あ!」と羽澄は閃いたように声を発した。そうだ。自分たちも教頭の秘密を手に入れれば良いんだ。沙織にこんな話しを持ちかけてくるあのエロ教頭のことだ。他の人には知られてはマズい秘密の一つや二つは持っているに違いない。
我ながら名案だと思った羽澄は、「沙織」と言って親友の両肩をがしっと力強く握った。それに少し驚いた沙織が、「え?」と首をかしげる。泣いて真っ赤にしたその両目を、羽澄はまっすぐに見つめた。
「諦めるのはまだ早いかもよ」
「でも……」
「ううん、沙織。スキャンダルには……スキャンダルよ!」
ぼかんとした表情を浮かべている沙織に、「私に任せて」と羽澄は大きく頷くと、そのまま勢い良く立ち上がった。
そうと決まればすぐに作戦実行だ!
五時間目の授業が始まってからすでに三十分。忍び込むように教室のドアをゆっくりと開けると、予想通り英語の藤林先生がカンカンに怒ってきた。何故か私が沙織を無理やり連れ出したことになっていたのが非常に気に食わなかったけど、これも普段の行いのせいなのか……。
公開処刑のように教室の前で怒られた私たちは、「すいませんすいません」とひたすら謝って自分たちの席へと急いで戻った。ちらっと窓側の席を見ると、明里がこちらを睨みながら何か口パクをしている。んん? 「この不良娘」って……、こっちはそれどころじゃないんだよ!
大変だったの! と同じく口パクで答えると、「こら飯田、どこ見てる」と違うところから返事が返ってきた。望んでもいない教室の笑いを取ってしまい、羽澄はむすっと頬を膨らませると、隠れるように頭を下げる。そのままちらっと後ろを見ると、沙織は俯いたまま黙っていた。
沙織……。いつも明るくて元気な彼女の姿を知っているので、胸が押さえつられるように苦しくなった。これはもう何としてでも変態教頭のスキャンダルを握って、沙織を助け出さなくてはいけない。
ふつふつと再び込み上げてくる怒りを感じながら、羽澄は睨むように前を見る。するとたまたま藤林先生と目が合ってしまい、「何だ飯田。答えたいのか?」と、まったく聞いてなかった問題を当てられてしまった。慌てて手元の教科書を広げて見ると、そこにはアルファベットではなく、さらに頭を悩ますような数式がびっしりと記されていた。
「ってなわけで……、二人にも沙織を守る為に力を貸して欲しいの!」
その日の放課後、羽澄は協力者を集めるために、明里と結衣に話しをした。あまりの衝撃的な内容に、話しが終わっても二人は口を半開きにしたまま、しばらくの間呆然と立ち尽くしていた。
「……まさか、沙織がそんな大胆なことしてたなんて」
「沙織ちゃん、彼氏いたんだね!」
二人とも教頭の話しよりも、どうやら恋愛禁止の我が校で、彼氏を作った沙織のほうに興味があるようだ。さすが女子。
「もう! 沙織の彼氏の話しよりも、あのエロ教頭の方が問題あるでしょ!」
羽澄はふんと鼻を鳴らして腕を組むと二人を睨んだ。
「ちょっと落ち着きなよ、羽澄。あんただって、沙織の彼氏かどんな人か気になるでしょ?」
「そりゃ私も気になるけど……って、あーもうそんな話しじゃないの!」
だーと唸りながら羽澄は両手で頭をかきむしった。こうしている間にも刻一刻とタイムリミットの日が近づいているのだ。そんな様子を見て「羽澄ちゃん、少し落ち着いて……」と、結衣があわあわと両手を広げている。
「まあでも、あのクソ教頭はこらしめないと気が済まないよね。沙織にそんな話しするなんて、どんな神経してんだろ」
明里も腕を組んで眉間に皺を寄せた。
「でもあんまり危険なことはやめといた方がいいと思うよ……」
結衣が心配そうに二人を見つめる。
「でもこのままだと沙織が学校辞めるか、あのエロ教頭と遊びに行くことになるんだよ? そんなの私、ぜったい嫌だよ」
羽澄はそう言って沙織の席の方を見た。沙織は授業が終わると、「体調が悪い」と言ってすぐに帰ってしまった。きっとまだ心の整理がつかないんだろう。
「うーん、教頭の弱みか……あいつ、前々から変なやつだと思ってたから、スキャンダルの一つや二つはありそうなんだけどなー」
明里の言葉に、羽澄がうんうんと大きく頷いた。
「ぜーったい何かある! 間違いないよ」
「……そういえば教頭って確か結婚してたよね。ほら、あの……凄い奥さん」
「あー、そういえばいたね。あのピンクの……」
羽澄の言葉を聞いて、明里が指をぱちんと鳴らした。
「そうそう! ピンクマダム!」
そう言って明里はお腹を抑えて笑い始めた。羽澄も明里の言葉でピンクマダムのことを思い出すと、むくむくと笑いが込み上げてきた。エロ教頭の奥さんも、この初芝女子校ではかなりの有名人なのだ。
通称、ピンクマダム。
たまに学校に現れるのだが、いつも全身まっピンクの高級そうな服を着て、インパクトのある大きなサングラスを掛けている。その見た目から年齢不詳、性別不詳と言われる謎多き人物で、噂によると化粧品か何かの会社の社長をやっているらしい。そのためか、いつも学校にやってくる時は、これまた高級そうな赤いスポーツカーに乗ってくるのだ。
どうやらこの学校にも支援しているのか、夫である教頭含めて、先生たちはみんなピンクマダムに対していつもヘコヘコとしている。その様子があまりにも滑稽で、初芝女子校の生徒たちの間では名物行事の一つになっているのだ。
「教頭のスキャンダルを掴んで、あのピンクマダムに話すぞって脅せば効果抜群な気がするけどね」
明里が自信たっぷりの口調で言った。
「たしかに! ピンクマダムなら教頭も頭上がんないし、他の先生たちも協力してくれるかもしれない!」
明里のアイデアを聞いて羽澄も大きく頷いた。自分たちだけで教頭に話しをつけるよりも、影響力がある人を巻き込むのもいいかもしれない。やっとヤル気になった明里を見て、羽澄は満足そうに首を縦に振った。
「そうと決まればさっそくリサーチだ。教頭のスキャンダルを抑えるために偵察に行こう!」
「ちょ、ちょっと待ちなよ羽澄。偵察って、あんたどこに行くつもりよ?」
「どこって……そりゃ、教頭室でしょ」
予想通りの羽澄の言葉を聞いて、明里はため息をついて小さく肩を落とした。
「はあ……あんたね、いくら教頭でも学校に自分のスキャンダルなんて持ってこないでしょ」
明里の的を得た意見に羽澄は「うーん」と眉間に皺を寄せたが、すぐに表情を変えて二人を見た。
「でもさ、でもさ! 沙織は教頭室であの話しをされたんだよ? それに教頭室って滅多に他の人が入らないじゃん。だからバレたらまずいことだって、一つや二つあるかも知れない」
頑なに教頭室を疑う羽澄に、明里と結衣は困った表情をしながらお互いの顔を見た。一度決めると、気が済むまで行動するのがこの子の性格だ。
結局、羽澄の言う通り三人は放課後の教頭室へと向かうことになった。この時間に教頭がいるのかどうかはわからないが、とりあえず覗いてみようということになったのだ。
廊下に出ると授業中とは違う、開放的な静けさが漂っていた。校庭から聞こえる部活生たちのかけ声と、自分たちの足音がリズムを取るように重なる。何食わぬ顔で教頭室の前まで来ると、羽澄は辺りを見渡した。
よし、誰もいない。
音を立てないようにそっとドアの取っ手に触れて、指先に力を入れる。わずかに開いた隙間を、羽澄は目を細めて覗き込んだ。細く切り取られた視界の中には、部屋の奥の方で椅子に座っているエロ教頭の姿が見えた。どうやらまだ帰っていないようだ。
「いた、まだ帰ってなかったみたい」
羽澄は振り向いて後ろにいる二人に小声で伝えた。「何してるの?」と囁くような声で聞いてきた明里の言葉に、「ちょっと待って」と羽澄はもう一度ドアの隙間に顔を近づける。目を凝らしてよく見てみると、教頭は机の上で何かを拭いていた。それは狸の置物で、よく旅館の入り口とかで見かけるやつと同じだった。その顔をじっと見ていると、何となく教頭と顔が似ているような気がする。
「……エロ狸だ」
大小並ぶ二つの狸顔と、自分で言った言葉が思わずツボに入ってしまった羽澄は、口を抑えながらぷるぷると肩を震わせていた。その様子を、後ろから明里と結衣が怪訝そうな表情で見ていた。
一体、いつまでこんなことに付き合わされるのだろうか……。
半ば飽きれた心境の明里が声をかけようとした時、誰かが近づいてくる気配がした。
「あんた達、こんな所で何してんの?」
聞き覚えのある声がして、三人は思わず背筋が伸びる。おそるおそる左に首を動かすと、そこには担任の和泉先生の姿があった。すらっとしたグレーのパンツスーツに、胸下まで伸ばした艶やかな黒い髪。その整った目鼻立ちからは、不信感というメッセージが飛ばされていた。
「いや―……これは……」
やばい。スタートから完全にアウトだ。羽澄は慌ててドアから離れると、後ろに並んでいた明里と結衣の方に近づく。同罪と思われたくないのか、二人が少し離れたような気がする。
「放課後にこんなところに何の用なの?」
長い睫毛の間から、鋭い眼光が飛んでくる。将来なりたい女性はと聞かれれば、間違いなくトップスリーに入る美しさを持っている和泉先生だが、怒るとほんとに恐い。
「いやー、はは。ここって、その……何の部屋なのかなーって思いまして……」
「教頭室。見りゃわかるだろ」
和泉先生は手に持っている日誌でドアの上を指した。そこには「教頭室」とでかでかと記されたプレートが付いている。「ですよねー……」と、羽澄は助けを求めて明里と結衣を見たが、二人とも絶妙な角度で目を逸らしていた。ああ、何てことだ。これじゃあ沙織を助けるどころか、自分たちも危ない。
三人とも黙ってしまったせいで、和泉先生の疑いの眼差しはさらに強くなった。羽澄は気まずさのあまり下を向いていたが、それでも強烈な視線を感じて背中に汗をかき始めた。どうしよう……という頼りない言葉だけが、頭の中をぐるぐると駆け回っている。
「三人ともちょっと職員……」
和泉先生の恐怖の言葉を遮るように、突然教頭室の扉が開いた。
「おや……和泉先生。どうされましたかな?」
出た、エロ狸!
羽澄は一瞬教頭を睨みそうになったが、自分の立場の方が危ないことに気付いてやめた。
「あれ? 君たちは……」
教頭が不思議そうな表情で、廊下に並ぶ三人の女子生徒を見る。
「実は教頭先生……」と和泉先生が話し始めた時、羽澄は急に左腕を引っ張られて驚いた。見ると、明里が自分と結衣の腕を掴んでいる。
「し、失礼しました!」
明里はそう言って二人の腕を引っ張ると、もの凄い勢いで近くの階段へと向かった。後ろからは「おい!」と和泉先生の声が追いかけてきたが、羽澄たちは振り向くこともせず、教室へと一目散に走った。
教頭室の前に残された二人は、消えていく足音の方向をただ呆然と見ていた。
「一体、何なんですかね……?」
教頭がぽかんとした表情で和泉に尋ねる。
「私にもわかりません」
明日またあいつらに直接聞くか。和泉はそう思うと、ため息をついて少し肩を落とした。そして抱えた日誌を持ち直すと、くるっと向きを変えて職員室へ向かおうとした。
「あの……和泉先生」
背後から教頭の声が聞こえたので、和泉は「はい?」と言って振り返る。すると、明らかに下心を含んだ笑みを浮かべる教頭の姿があった。
「実は美味しい団子をお土産でもらったのですが、良かったらいかがですか?」
教頭はそう言って自室の方を指差す。和泉は再びため息をつくと、「結構です。まだ仕事がありますので」ときっぱりと断った。
そうですか、と教頭は少し歯切れが悪そうな返事をすると、のそのそと自分の部屋へと戻っていく。その後ろ姿を、和泉は怪しむような目で見ていた。
まったく……どいつもこいつも。
はあとため息をついて首を少し横に振ると、和泉は疲れを隠すように日誌を抱きかかえて、職員室へと歩き出した。
「もう、何やってんのよ!」
教室に戻るなり、今度は明里の激しいお怒りが始まった。羽澄は拗ねたように唇を尖らせると、とりあえず「ごめんなさい」とだけ謝った。
「あんたのせいで私たちまで危なかったじゃない!」
腕を組んで鬼の形相で怒る明里に、結衣が「まあまあ……」と落ち着かせる。
「やっぱり私たちだけじゃなくて、先生に相談したほうがいいと思うよ……」
「それはダメ!」
結衣の言葉に、羽澄が胸の前で大きくバッテンを作る。
「先生なんかに相談すると、それこそ沙織が危ないよ。それに、もしかしたら教頭の息がかかっているかもしれないし」
息がかかっている……羽澄にしては珍しい言葉を知っているなと、明里は違うところで少し感心してしまった。その隣では、「でも……」と結衣がますます不安そうな顔で羽澄と明里を見る。
「と・り・あ・え・ず! 今日は失敗したけど、明日からはもっと慎重にリサーチしよう」
失敗したのはあんただけ、という明里の言葉を受け流し、羽澄は腕を組むと何かを考え始めた。またとんでもないことを言うのでは……。明里と結衣が心配そうに羽澄の様子を伺う。すると、どこからともなく低いうめき声のような音が聞こえてきた。
「何今の?」
明里は教室の中を見渡したが、自分たち以外は誰もいない。再び目の前の羽澄を見ると、気のせいか少し頬を赤くしている。
「もしかして……」
飽きれた明里の声に、羽澄は照れ隠しにぴっと舌を出した。
「ごめん……お腹が鳴っちゃった」
ほんとにこの子は……。明里はため息をついて大きく肩を落としたが、隣で結衣が吹き出すのを見てつられて笑ってしまった。まあこれが、羽澄の良いところでもあるのだ。
翌日、明里から「慎重に行動するように!」と散々言いつけられた羽澄は、出来るだけ目立たないように教頭を監視することにした。休み時間になれば教頭室を離れたところから見張り、エロ狸に動きがあれば距離を保って尾行する。途中すれ違う生徒たちから、「あの子、何やって
るの?」と不審がられることも度々あったが、これも沙織を助ける為と思えば恥ずかしさも我慢できた。ただ、さすがに数少ない男子便所を物陰に隠れて見ていた時は、自分の方が危ない奴なのではと冷や汗をかいたけど……。
そんな生活が数日続いたが、変態教頭はなかなか尻尾を出さなかった。明里と結衣からは、「学校の中だと難しいんじゃない?」と言われたが、教頭を監視するチャンスがあるのはここしかない。さすがに自分が沙織の代わりにプライベートで教頭と会うわけにはいかないし、会いたくもない。私は自分の身を委ねるのは、好きな人だけだと決めている。
そんなことを考えていたら、後ろの席に座っている沙織のことがますます気の毒に思えてきた。あの一件以来、沙織は明らかに元気がない。この前の小テストでも、いつもクラストップを取っている沙織が珍しく平均点ぐらいだった。私なら平均点なんて取れれば大喜びだけど、もちろん沙織からすれば、更に落ち込む原因になる。ここは昔からの大親友として、沙織を元気づける為に、自分が一肌脱ぐしかない。
「あ、あのさ、沙織……」
羽澄は後ろを振り向くと、ぎこちない笑顔で話しかけた。沙織は「何?」と、力なく笑って答える。その表情があまりにも痛ましくて、元気づけるはずが自分の方が悲しくなりそうで、思わず咳払いをした。
「こ、今度面白そうな映画が公開するんだけど、一緒に観に行かないかなーって思って……なんか主人公の男の子と女の子の中身が入れ替わっちゃうみたいで、けっこう期待度高いみたい、な。ど、どうかな?」
ダメだ、これじゃあまるでダメ男のナンパだ。案の定、沙織はうーんと考えた後に「ごめん、あんまり映画は見ないんだ」と、少し気まずそうに苦笑いで答えた。
そうだ、沙織は映画をあまり見ないんだった。
もう十年以上の付き合いになる大親友の性格を忘れていたばかりか、変な誘いをしてしまったせいで、気まずい思いまでさせてしまった。羽澄は「だ、だよねー……はは」と言ってそのまま前を向いて沙織の視界からフェードアウトした。一体、私は何をやっているのだろう……。
「ああ」と嘆くようにため息をついて、羽澄は頬杖をつく。教室ではクラスメイトたちが楽しそうに、恋の話や友達の話やらに花を咲かせている。それを遠目に見ながら、羽澄はこれからのことを考えていた。沙織には、自分たちが教頭のスキャンダルを掴もうとしていることは話していない。そんなことを話せば、優しい沙織のことだから必死になって止めてくるだろう。親友としては、沙織に内緒でこそこそするのは少し後ろめたがったが、今は一刻を争う一大事。沙織が変態教頭に返事をするまでに、何としてでも奴のスキャンダルを掴まなくてはならない。
心のモヤモヤを少しでも晴らそうと、羽澄は窓の向こうに広がる夏の空を見上げた。青い空には絵の具で描いたように、くっきりと飛行機雲が浮かんでいる。せめてあの飛行機雲のように、スキャンダルに繋がる糸を握ることができれば……。
そんな願いを届けてくれるかのように、飛行機雲は青空の彼方へと、どこまでも伸びていった。
「そう言えば翔子のお姉ちゃんってさー、カフェでバイトしてるんだっけ?」
沙織を映画に誘って断られてから数日がったある日、羽澄が机に顎を乗せてだれていると、二つ前の席で翔子と裕美が楽しそうに話しをしていた。
呑気なもんだ。同じクラスメイトがもうすぐ教頭の餌食になるかもしれないのに……。
羽澄は本人不在の後ろの席をちらっと見た。沙織は体調が悪いといって、二時間目が終わると早退してしまったのだ。今まで沙織が早退したことなんてなかったので、結衣や明里たちもかなり心配していた。こんな状況で、もし沙織が教頭なんかと遊びに行ってしまうと、彼女はもう二度と人前に姿を現さないのではないか……。羽澄の心に余計な不安が浮かぶ。
エロ教頭のスキャンダルについては、今のところ進展はない。あれからも事あるごとに尾行は続けているが、教頭室にこもっているか、たまに職員室に顔を出しているかで目立った動きはなかった。逆にそんな教頭を尾行している自分の方が目立ってきているようで、「今日も探偵ごっこ?」と、違うクラスの友達にからかわれる始末だ。親友のためとはいえ、このままでは自分のほうが居場所がなくなってしまうのではと、違う意味でも不安になる。だから五時間目が終わった今の休み時間は、大人しく教室で過ごそうと思ったのだ。
心も体も項垂れる自分の目の前で、相変わらず翔子と裕美は楽しそうに話しを続けていた。別に話しの内容を聞くつもりはないけれど、否が応でも聞こえてくる。羽澄は仕方なく気晴らしついでに、二人の会話を盗み聞きしていた。どうやら裕美は学校に内緒でこっそりバイトをしたいらしく、それを翔子に相談しているようだ。
「いやー、でも辞めといた方がいいですよ」
翔子の独特な口調が聞こえてきた。
「姉貴が言ってたんですが、最近バイト先にうちの教頭がよく来るみたいなんです」
え…………何だって?
羽澄はスイッチが入ったように、急に姿勢を正して耳をすませた。そんな羽澄のことを知らない翔子は、裕美に話しを続ける。
「うちの姉貴もおんなじ高校だったので教頭の顔を知っているのですが、ここ最近毎週やってくるみたいなんです。いつもスーツ姿の男の人を連れてくるので、姉貴は『なんか怪しい取り引きでもしてるのかも』と面白がっていましたが……」
思わぬ翔子の話に、羽澄はいつの間にか中腰になっていた。そして高ぶる感情を抑えきれずに口を開いた。
「その話し、もう少し詳しく聞かせてくれない?」
羽澄の大声が突然聞こえたので、翔子も裕美もびくっと肩を震わせて振り返った。
「あ……」羽澄が周りを見ると、よっぽど威勢が良かったのか、クラス中の視線を一斉に浴びていることに気付いた。少し顔が熱くなるのを感じながら窓際の席を見ると、明里が「またこいつは何やってんだか」と、呆れた表情で見てくる。羽澄は咳払いをすると、「気にしてません! 」と主張するかのように、わざと大股に歩いて翔子たちのところに向かった。翔子と裕美はそんな羽澄を、呆然とした表情で見ていた。
「あの……翔子さん。その話しもっと詳しく聞かせてくれないかしら?」
普段は「さん」付けなんてしないのに、強気な態度が裏目に出たのか、変な口調で話しかけてしまった。翔子は「はあ……」と言って、少しずり落ちたメガネを右手で戻す。そして、じーっと羽澄の目を見たかと思うと、にやっと意味深長な笑みを浮かべた。
「んー、どうしまょうか……」
翔子の発言に羽澄は少し驚いた。てっきり素直に教えてくれるものだと思っていたのに、どうやら向こうはそんなつもりはないようだ。
「お願い! 翔子ちゃん、そこをなんとか」
ええい、この際「さん」付けがダメなら「ちゃん」付けはどうだ!
羽澄は半ばやけくそに、両手を合わせると可愛いつもりでウィンクをした。普段は絶対にしないキャラ違いのポーズに、心の中にいる冷静な自分の批判が凄い。急に恥ずかしくなってきた羽澄は、背中にじんわりと汗が広がるのを感じていた。目の前に鏡がなくて本当に良かったが、代わりに真顔でこちらを見る翔子の姿に胸が痛む。うん、もう二度とこんなポーズはしない。
「なぜそんなに教頭の話しを知りたいんですか?」
ごもっともな意見に、羽澄は「うー」と頭を抱えながら唸った。言えない……沙織を助けるために教頭のスキャンダルを探しているなんて、口が避けても言えない。そんなことが翔子にバレれば、必然的に沙織が内緒で彼氏を作っていたこともバレる。しかも、翔子は初芝女子高唯一の新聞部。もし沙織のことが校内新聞にでも載ってしまったら……自分は一生沙織に顔向けできないだろう。
一人でぶつぶつともがき苦しむ羽澄を、翔子は面白そうに見ていたが、裕美はちょっと怖くなったのか「じゃ、じゃあ」と言って足早に自分の席へと戻っていった。
「あのーその……、何故かと言いますと……」
身体を少しくねらせながら、羽澄は必死になってうまい言い訳はないかと考えた。自分がプライベートで教頭に会いたがっている設定にする? いやいやいや、それじゃあ私の方が変な意味で疑われないか? 何か、何か他に良い理由は……。
「なるほど……さては人には言えない理由がありそうですね」
翔子はわざとらしく眼鏡をくいっと上げると、目を細めて羽澄を凝視した。「ぎく!」という効果音が頭の中で響く。さすが新聞部、スキャンダルへの嗅覚は私以上にあるようだ。
「ち、違います……」
気付かれないようにと念じて放った言葉は、裏返った声のせいで台無しになった。疑いを確信に変えることができた翔子は、満足そうに鼻から大きく息を吐き出した。
「へー、そうですか。じゃあ別に教えなくてもいいですよね?」
翔子は勝ち誇った表情をすると、ぐっと顔を近づけてきた。その自信たっぷりな両目を直視するとができず、羽澄は目を泳がせる。「いやー、その……」と濁した言葉で時間を稼ぐも、それに見合うだけの言い訳は出てこない。しばらく黙り込んで考えていた羽澄は、諦めるように肩を落とした。
「……わかったよ。ちゃんと理由は説明するから、教えてくれない?」
親友の許可なく秘密をばらそうとしている自分に罪悪感を覚えながらも、羽澄は「放課後に話すから」とだけ言って自分の席へと戻った。席に戻る途中、後ろの机が視界に入りチクリと胸が痛くなる。「すまん、沙織」と心の中で謝ると、羽澄は机の上に顔をうずめた。
放課後、誰もいなくなった教室で羽澄、明里、結衣、そして翔子の四人だけが残っていた。
羽澄はどうやって話しを切り出そうかと三人の様子を伺っていた。カメラ好きで独特の世界を持っている翔子とは、明里と結衣はあまり話したことがないと思う。かと言って別に仲が悪いというわけでもないので、翔子がいることに二人は不思議そうな顔をするだけだった。
「で、これは一体どういう集まりなのでしょうか?」
翔子は眼鏡をくいっと上げると三人の顔を見た。どうやら興味があることには、眼鏡を上げる癖があるらしい。
「これにはちょっと深い訳がありまして……」
羽澄は少し気まずそうに明里と結衣の顔を交互に見る。二人には翔子を呼んだ理由をまだ話していないので、ポカンとし表情で羽澄を見つめていた。再び前を向くと、鋭い眼光を飛ばしてくる翔子と目が合い、思わず「う……」と視界を逸らしてしまう。そして羽澄は大きくため息をつくと覚悟を決めた。
「翔子……一つぜーったいに約束してほしんだけど、今から聞くことは何があっても他の人には言わないでね。でなきゃ私、もうこの学校に来れなくなるから」
そんなに凄い話しなのかと、翔子は目を大きく見開き、こくんと頷いた。羽澄は明里と結衣にアイコンタクトで合図を送ると、翔子に沙織と教頭の件について話しはじめた。
最初は「おー」とか「なるほど」とか相槌を打っていた翔子だったが、教頭の話し辺りから心底驚いていたのか、そんな相槌はいつの間にか無くなっていた。代わりにペンもメモ帳も持っていなかったけれど、翔子は私の話しを聞きながら、ずっと自分の手のひらに何かを書いていた。その姿はまるで新聞記者のようで、羽澄は自分が取材を受けているような気分になり、いつも以上に熱を入れて話してしまったことに少し後悔した。
「……以上が、初芝女子高で起こった史上最大で最悪の事件の詳細です」
ニュースレポーターのように話し終えると、羽澄は目を瞑ってこほんと咳払いをした。沙織のことを翔子に話してしまったことに胸が痛かったが、これで教頭のスキャンダルを掴めるのなら致し方ない。様子を伺うようにゆっくり目を開けると、翔子は独り言を呟きながらうんうんと頷いている。これで……ほんとうに良かったんだろうか? 明里と結衣もその様子を黙って見ていた。
「私はちゃんと話したんだから、今度は翔子の番よ」
今更遅いとわかりながらも、羽澄は強気な態度で翔子に言った。よほどさっきの話しに没頭していたのか、少し間をあけてから翔子は「え?」と言って顔を上げた。そして羽澄たちの方を見ると、拳を握ってこほんと咳払いをする。
「私の姉貴から聞いた話しなんですが……」
そう言って翔子は眼鏡をくいっと上げて話し始めた。
話しの内容はこうだ。翔子のお姉ちゃんは駅近くにあるホテルのラウンジカフェで働いていて、そこでエロ教頭を目撃したらしい。そこはかなりの高級ホテルで、カフェと言っても、聞けばコーヒー一杯の金額がなんと私のお昼ご飯三日分。そんな限られた人しか訪れないような場所で、教頭は毎週日曜日になると謎のスーツ姿の男と一緒に現れて、何かの打ち合わせをしているらしい。
「なんか仕事の話しでもしてるんじゃない?」
冷静な口調で意見する明里に、翔子は「ちちち」と人差し指を振った。
「それが姉貴がたまたま近くを通った時、何やらお金の取引のような話をしていたらしいんです。しかも相当な額だったとか。それにスーツ姿の男は、いつも厳重にロックされたアタッシュケースを持ってくるみたいで、まるで見た目はマフィアの取り引きだって姉貴は笑って言ってました」
期待以上の情報提供に、羽澄は目を輝かせていた。マフィアの取り引きがどんなのかはあまりわからないけど、たぶんこの前テレビでやってたゴッドファーザーみたいな感じなのだろう。お父さんが見ていたのを、チラッと横目で見ただけだけど……。
「それ……ぜーったいスキャンダルだよ!」
興奮する羽澄の大声に、「うるさい」とすかさず明里がツッコミを入れる。そんな明里の言葉を右から左耳へと受け流し、羽澄は自分の世界に没頭していた。
もし翔子の話しが本当なら、これは相当凄いスキャンダルだ。しかも、シチュエーション的にドラマっぽくて、何だか気合いも入ってきた!
「よし! そうとわかれば早速リサーチしないと! 翔子、今週の日曜日も教頭はそのカフェに来るんだよね?」
羽澄の勢いに翔子は「は、はい。おそらく……」と少し後ずさりする。それを見た明里は心の中で、「これで翔子も巻き込まれたな」と小さく同情した。
「じゃあ今週の日曜日はみんなでリサーチに行こう!」
「ちょ、ちょっと待ってよ羽澄! それ私と結衣も参加しないといけないの?」
慌てて答える明里に、「え、そうじゃないの?」と羽澄はきょとんとした表情で聞き返した。
「いきなりうちらが三人で行ったら怪しいでしょ。それに日曜日はもう予定入ってるから私は行けないよ」
「えー、何の予定よ」とふてくされる羽澄に、明里は気まずそうに翔子をちらっと見た。あーなるほど、撮影か。明里が読者モデルをしているのを知っているのは仲が良い自分達ぐらいで、他のクラスメイトは知らない。
明里のことを諦めた羽澄は、その分情熱を込めた視線を結衣に向けた。普段は聞き役に回ることが多い結衣だが、羽澄の視線を受けてすかさず自分から話し始めた。
「ご、ごめんね羽澄ちゃん。私もその日は家族で出かけることになってるの……」
「えー、みんなダメなの?」
羽澄は最後の手段と言わんばかりに、後ろを振り返って翔子を見た。しかし、羽澄が話しだす前に、翔子の方から首を横に振った。
「はあ……私一人か」
「げ、あんた一人で行くつもりなの?」
肩を落としてため息をつく羽澄に、明里が目を丸くした。教頭室での一件、そしてその後の羽澄の行動を見ても、この子一人で行かせることは非情に怖い。
「だって……明里も結衣も来れないんでしょ?」
おやつが貰えない子供のようにぷうと膨れる羽澄に、「まあ、そうだけど……」と明里は困った顔で返事をした。
「でもあんた、今度ばかりはバレると本当にまずいよ? 学校ならまだしも、そんなところで教頭なんかに見つかれば、絶対言い逃れなんてできないんだから……」
「へーきへーき! 今度はばっちり変装していくし、絶対にバレないよ!」
親指を立てて満面の笑みで答える羽澄を、明里は疑うように目を細めて見ていた。その隣では結衣が苦笑いを浮かべている。
結局、同行できる人は誰もいないので、カフェの偵察は羽澄一人で行くことになった。
「ねえ翔子、教頭っていつも何時くらいに現れるの?」
スマホのメモアプリを立ち上げながら羽澄が聞いた。
「うーん、さすがに時間までは姉貴から聞いてませんね……」
翔子が首を少し傾けて答えると、「そっか……」と羽澄が残念そうに呟く。
「それだったら姉貴に聞いてみましょうか?」
「ほんとに!」
突然の提案に、羽澄は翔子の両手をにぎって喜んだ。すると翔子はにっと笑って、「ただし……」と話しを続けた。
「姉貴に聞いてみてもいいですが、あたいもメンバーに加えるって条件はどうでしょう?」
「え!」三人の視線が一斉に翔子に集まる。
「いいけど……どうしたの?」
ぽかんとした表情で尋ねる羽澄に、翔子はふふふと不敵な笑みを浮かべた。
「あたいは初芝女子校の新聞部代表ですよ。そんな面白そうな話し、見逃せるはずがないじゃないですか。それに協力者は一人でも多い方がいいでしょう」
なるほど、と素直に納得する羽澄の隣で、明里と結衣はまだ不思議そうな顔をしていた。その様子を見て翔子は、「まあ三人が良ければの話しですが」と付け加えた。
「そんなの全然良いに決まってるじゃん! そうだよね、ね?」
羽澄は目を輝かせながら明里と結衣を見た。仲間は一人でも多い方が心強い。それに、新聞部の翔子が協力してくれるなら、エロ教頭のスキャンダルを掴めるチャンスもぐっと高くなる。
「私は別に構わないけど……」
明里はそう言って結衣の方をちらっと見た。
「私も翔子ちゃんが協力してくれるなら、すごく心強いよ」
今度は結衣が嬉しそうに答えると、翔子の手を握って「よろしくね」と微笑んだ。そんな二人を見て、翔子はにししと笑うと「こちらこそよろしく」と小さく頭を下げた。
「よーし、翔子も仲間になってくれたし、これからは四人で作戦会議だ!」
嬉しそうに声を上げる羽澄を見て、翔子は眼鏡をくいっとあげる。
「そういえば、作戦会議っていつもどこで行っているのですか?」
翔子の質問に三人は顔を見合わせる。特に作戦会議をする場所は決まっていない。だいたい放課後の誰もいなくなった教室か、休み時間に廊下に出て話しをするぐらいだ。あとはスマホのグループメッセージでのやりとりが主で、メッセージ発信者の八割は羽澄だった。本当は作戦会議ができる特定の場所があれば一番理想なのだが、思いつくような場所がないので、今はこんな形で活動している。
「だったら新聞部の部室を使いますか?」
羽澄たちの話しを一通り聞いた翔子が何食わぬ顔で言った。その言葉を聞いた羽澄たちは、驚いた表情で翔子を見る。
「え? 新聞部って、部室あったの?」
羽澄の疑問の言葉に、翔子はこくんと頷いた。
彼女が所属する新聞部は、初芝女子高の一七ある部活の一つ。が、部員は目の前にいる翔子一人。もともとは、今年卒業した三年生の二人を最後に廃部になるところだった。しかし翔子がどんな手を使ったのかわからないが、自分が卒業するまでは部が継続できる許可が下りたのだ。
新聞部の活動としては月に一度、翔子お手製の「THE・初芝女子高の毎月新聞」が二階にある掲示板に貼られている。翔子が書く文章は独特の切り口があって面白いので、わりと人気が高い。ただ、一度は廃部の話しが出ていたような部活だったので、羽澄含めて明里も結衣もまさか部室が存在するとは思っていなかった。
「ちちち、新聞部をナメてもらっちゃ困りますよ。ちなみにちゃんと活動費も支給されてます」
得意げに話す翔子を見て、羽澄はごくんと唾を飲み込んだ。もしかしたら翔子は私たちよりも先に、だれか先生のスキャンダルの抑えて取り引きしているのかもしれない……。
「羽澄、良かったじゃん! これでやっと本格的に活動できるね」
明里はそう言って、ぱしっと羽澄の背中を軽く叩いた。結衣も「翔子ちゃん、ありがとう!」と両手を合わせて喜んでいる。翔子に沙織の話しをした時はどうなるかと心配したが、どうやら取り越し苦労だったようだ。
「じゃあこれから作戦会議をする時は、翔子の部室に集まろう!」
羽澄が高らかに右手の拳を突き上げると、他の三人も「おー!」と言って同じポーズをした。
親友の沙織を助けるために、みんなが協力してくれる。その事実が、羽澄の心の中にあった不安を溶かしていく。きっと自分一人だと、今もどうしていいのかわからず悩んでいたはずだ。でも明里や結衣、それに翔子が仲間になってくれたおかげで少しずつ道が見えてきた。だからこそ、何としてでも沙織を助けて、みんなと一緒に高校生活を送りたい。
窓の向こうに広がる青空をキャンパスに意気投合する三人の姿を見て、羽澄は改めて心に誓った。
その翌日の放課後、羽澄たちは翔子に連れられて初めて新聞部の部室へと訪れた。初芝女子高の校舎は、正門から見てコの字の形をしている。新聞部の部室は一階の右端に存在していた。部室の扉には「漫画研究部」とうっすらと残ったペンの上から、「新聞部!」と大きく手書きされたプレートが貼られていた。
「ささ、ここが新聞部の部室です」
なぜか嬉しそうな翔子が両手で扉を開ける。部活に入ったことがない羽澄にとって、「部室」という名の部屋に入るのはこれが初めてだった。
汗と夢が染み込んだユニフォーム。片思いの先輩に向けた応援メッセージ。今までドラマでしか知らなかった部室とは、そんな青春を凝縮させた憧れの空間。そして今目の前に広がっている世界にも…………そんな青春はまったく詰まっていなかった。
もわっとした埃っぽい臭い。そしてカーテン越しに差し込む弱々しい光が、まずは目に届いてきた。部屋の大きさは教室の半分くらいで、真ん中には向かい合うように折りたたみ式の横長テーブルがくっつけられている。二つのパイプ椅子が並んでいるそのテーブルの上には作成途中なのか、新聞記事の切れ端や手書きの校内新聞が原稿のまま置かれていた。窓は年季の入った分厚いベージュのカーテンで閉め切られていて、隙間から入ってくる光によって空気中にどれほどの埃が舞っているのかが目視できた。
「いかがでしょう。これが我が校で人気を誇る新聞の制作現場です」
自信たっぷりに話す翔子とは対照的に、羽澄と明里は何と答えたらいいのかわからず顔をしかめていた。代わりに結衣だけが、「おお!」と言って両手をぱちぱちと叩いている。
「まあとりあえず座って下さい。あ、そこにも椅子があります」
そう言って翔子が指差す方向を見ると、壁にもたれかかるようにして折りたたまれたパイプ椅子と、小さな木製のスツールが置かれていた。明里が先にパイプ椅子を取ったので、仕方なく羽澄は手前にあったスツールを手に取る。スツールは思っていたよりもずっと軽く、ほとんど力を入れなくてもひょいと持ち上がった。羽澄はそれをテーブルまで運ぶと、どかっと思いっきり腰掛けた。
「いたい!」
勢い良くスツールから飛び上がった羽澄は、両手でお尻を押さえながらその場にしゃがみ込んだ。
「あ、そのスツール、古くてトゲがあるかもしれないので気をつけて下さい」
「もっと早くに言ってよ!」
半べそで怒る羽澄の声を聞いて、明里が思わず吹き出した。それを見て羽澄はきりっと明里を睨むと、隣にいた結衣が「羽澄ちゃん、大丈夫?」と心配そうに駆け寄ってきた。
「うん……もう、大丈夫」
ありがとうと結衣に言って、羽澄はお尻を慰めるようにさすりながら、部屋の隅に置いてある別のスツールを持ってきた。今度は慎重に腰掛けて安全を確認すると、「よし」と言ってみんなの顔を見た。
「では改めてまして……、今から沙織を助ける為の作戦会議を始めたいと思います!」
羽澄の活気ある声が、部室の停滞していた空気を揺らす。会議専用の場所を確保できたおかげか、いつも以上にみんなの意識が高まっているような気がした。明里は腕を組んで「よし!」とヤル気を見せてくれているし、結衣も「じゃあ私は書記をするね」と言ってルーズリーフと可愛いピンクのシャーペンを取り出した。どうやらこの部室には、自分が思っていた「青春」は詰まっていなかったが、違うエネルギーが集まっているようだ。
「えーと、とりあえず今までの内容をまとめると……」
珍しく明里から話し始めた時、羽澄の目の前に座っている翔子がさっと右手を上げた。
「はい、翔子さん。どうぞ!」
クイズ番組の司会者のように、羽澄は右手を翔子に向けて言った。
「組織名は何ですか?」
「え?」
翔子の意外な質問に、三人は顔を見合わせた。組織名……今日まで活動は続けてきたが、誰もそんなことは考えたことは無かった。
「組織名かー、考えたことなかったな」
明里が天井を見上げながら呟いた。その目の前で「ほんとだね」と結衣も頷いている。
「んー……、やっぱそういうのっているのかな?」
右手で顎を触りながら呟く羽澄に、翔子がきっぱりとした口調で答える。
「こういう作戦を成功させるなら組織名は大切です。名前を決めることによってチームとしての信頼感が生まれますし、何よりターゲットはこの学校でナンバー2の権力者。スキャンダルを掴むのであれば、こちらもそれなりの組織力が必要かと」
雄弁に語り始めた翔子を見て、「おお!」と羽澄たちは感心していた。
「なんか作戦会議っぽい。ぽいよ!」
今までにない緊張感のある作戦会議に羽澄が興奮する。
「ぽい! っじゃなくてちゃんとした作戦会議。あんたがリーダーなんだからしっかりしてよね」
明里の言葉に、羽澄は「え?」と目を丸くする。
「私が……リーダー?」
「そりゃそうでしょ。あんたが言い始めたんだから……」
「ねえ」と言わんばかりに明里が結衣と翔子の顔を見た。その後を羽澄も目で追うと、二人とも大きく頷いていた。
「私がリーダー……」
羽澄はそう呟くと下を向いて黙ってしまった。「羽澄?」と少し心配になった明里が声をかける。てっきりリーダーに選ばれて喜ぶと思っていたが、さすがの羽澄も荷が重かったのかもしれない……。そう思った直後、明里の懸念は綺麗さっぱりに吹き飛とばされた。
「よーし! そしたら今日から私がリーダーだ!」
顔を上げるなりいきなり大声を出した羽澄に、「だからうるさいって!」と明里は耳を塞いだ。余計な心配をした自分がバカだったと思う明里の隣では、結衣と翔子が「おお!」と言って拍手を送っている。
「ごほん。えーでは気を取り直して……リーダーであるわたくし飯田羽澄の提案で、これより組織名を決めたいと思います!」
見えないマイクを片手に話す羽澄を見て、「ほんとあんたは調子良いよね……」と明里は呆れ返っていた。
「それでは何かアイデアがある人は挙手を!」
羽澄の言葉を聞いて、まずは立案者である翔子が手を挙げた。
「はい、翔子さん!」
「ここはやっぱり、相手に気付かれないような暗号めいた名前が良いと思います。なので……『暗中飛躍』なんてどうでしょう?」
「あ、あんちゅう……なんて?」
目をぱちくりとさせる羽澄の姿を見て、翔子が手元にあった新聞の切れ端にペンを走らせる。
「だめよ翔子。羽澄はまったく国語ができないんだから」
明里の冷静な指摘に、羽澄は口を尖らせて睨んだが、事実のためそれ以上の抵抗はできなかった。
「んー、それであれば違う名前にしますか。明里殿や結衣殿は何かアイデアがありますか?」
翔子の質問に二人は同じように「うーん……」と言って黙り込んだ。その横では、眉間に皺を寄せた羽澄も同じように唸っていた。
「せっかくみんなで力を合わせるんだし、それに関連するような名前が良いよね」
羽澄が天井を見上げながら言った。
「そうですね。せっかく四人もメンバーがいますし、それぞれの特技や強みを表現できるような名前があれば良いのですが……」
「なんかそれってハードル高いね……」
翔子の言葉に明里が難しそうな顔をする。するとのほほんとした表情の結衣が、何か思い出したかのように、両手をぱんと軽く叩いた。
「みんなの得意なことを活かして任務を達成させるって、なんだかあの映画みたいだね! ほらブラッドピッドとか出てた、オーシャンズ……」
その話しを聞いて、 ばん! と羽澄が突然テーブルを叩いて立ち上がった。
「それだぁあ!」
羽澄はそのままの勢いでテーブルに身を乗り出すと、顔をぐっと結衣に近づける。
「それだよ、結衣! オーシャンズ、初芝オーシャンズってどう? なんか組織名っぽくてカッコ良くない?」
目の前で興奮する羽澄の姿に結衣は少し身を仰け反らせて、「う、うん……」とこくんと首を動かした。
「初芝オーシャンズ……いいかもしれませんね。語呂も良いですし」
「私もそれでいいと思うよ。覚えやすいし」
翔子と明里の同意も得られた羽澄は、満足そうに鼻から大きく息を吐き出した。
「よし決まった! そしたら今日から私たちは、『初芝オーシャンズ』のメンバーだ!」
羽澄は結衣の手元にあるルーズリーフを一枚取ると、そこに大きな文字で「初芝オーシャンズ」と書いて三人に見せた。
「いやー結衣のおかげで良い名前が決まってほんとに良かったよ!」
ありがとう、と満面の笑みの羽澄の言葉に、結衣が少し照れたようにえへへと微笑む。
「とりあえず名前も決まったので、今後どう活動していくか作戦を考えますか」
「そうだね。名前決まっても作戦決まらないと意味ないし。って、ほら羽澄も落書きばっかしてないでちゃんと集中してよ」
組織名が決まったことがよっぽど嬉しいのか、羽澄は初芝オーシャンズと書いたルーズリーフの余白に可愛いデコレーションを書いていた。明里の言葉に顔を上げた羽澄は、「よしきた!」と気合いを入れ直してみんなの顔を見回す。
「で……、何から話す?」
「あんたね……リーダーなんだから少しは自分で考えなさいよ」
明里が飽きれたようにため息をついた。
「まずは今度の日曜日の潜入捜査が重要になりますね。それによって今後の対応も変わってくると思います」
真剣な眼差しで話す翔子の言葉に、自然と明里と結衣の視線は羽澄に注がれた。
「つまり……私の活躍が大切ってことだよね。うん、任せて。絶対に成功させるから!」
そう言って逞しく親指を立てる羽澄の姿に、明里が不安そうな表情で「ほんとに大丈夫かな……」と呟く。
「そう言えば、エロ教頭が何時くらいに現れるかお姉ちゃんに聞けた?」
羽澄の質問に、翔子は小さなメモ帳をポケットから取り出してページをめくる。おそらくメンバーの中で、こういう仕草が一番似合うのは翔子だろう。羽澄は一瞬そんなことを考えた。
「具体的な時間まではわかりませんが、だいたい日曜日の昼頃に現れるみたいですね。いつも教頭が先に現れてから、その後にスーツ姿の男が合流すると姉貴からは聞いてます」
「なるほど……だったら私もお昼ぐらいに行けば、現場を抑えられる可能性が高いってことだよね」
羽澄は指をパチンと鳴らした。気持ちはすでにハリウッド映画に登場するスパイの気分だ。
「今回はあんた一人で行くことになったけど、くれぐれもバレないように行動してよ」
我が子の初めてのおつかいを心配するかのような口調で明里が言った。
「わかってるよー。もう、明里は心配し過ぎだって」
頬を膨らませて明里を睨む羽澄を見て、結衣と翔子がくすくすっと笑う。
「では来週の月曜日には、ボスが掴んだ情報をもとに、より本格的な作戦を決めていきましょう」
「ボス?」
羽澄は少し驚いた顔で翔子を見る。
「そうです。羽澄殿はこの初芝オーシャンズのリーダーですからね。これからはボスと呼ばせて下せい」
「ボスか……、なんか良いかも!」
今までそんな呼び方をされたことなんてもちろんない。初めて言われた「ボス」という響きに、なんだか急に自分が偉くなったような気がした。
「初芝オーシャンズの最初のミッションは、ボスの私がばっちり決めてくるからみんな任せといて!」
組織名も決まって、作戦会議をするアジトもできた。翔子も加わってくれたし、これは間違いなく良い流れがきている。今度の日曜日に向けて、羽澄のテンションは最高潮に上がっていた。何としてでも変態教頭のスキャンダルの尻尾を掴んで、沙織を助けてやるんだ!
場違いだった……。
目の前にそびえ立つ立派な高級ホテルを前に、羽澄の気合いは早くも萎んでしまいそうになっていた。姉のサングラスと麦わら帽子を内緒で身につけた時は、変装する芸能人気分だったが、やっぱり自分はただの庶民。こんなゴージャスな場所は似合わない。
目的地に到着してからすでに十五分。ガラス扉一枚くぐれない自分を情けなく思いながらも、羽澄は入り口の前を何度も行ったり来たりしていた。ここのホテルは電車に乗っている時に何度も見たことがあった。遠くからでもわかる高級感のあるオシャレなデザインに、いつかは自分も泊まってみたいと思っていた。が、まさかこんな形で足を踏み入れることになるなんて、夢にも思わなかった。
ごくりと唾を飲み込み周りを見渡すと、ホテルに見合う立派な服装をした宿泊客たちの姿が見える。こんな場所に毎週通っているエロ教頭は、一体どんな生活をしてるのだろうか?
前を見ると、ホテルに入っていく男女二人組の姿が、エロ教頭と沙織の姿に見えて羽澄は慌てて首を横に振った。ダメだ。この場違いな雰囲気に飲み込まれて、変な妄想が浮かんでしまう。両手で自分のほっぺを軽く叩くと、「よし!」と気合いを入れ直して、羽澄は入り口へと向かった。
入り口の真横には凛々しい制服姿のドアマンが、出入りする宿泊客たちをお出迎えしながら、わざわざ一礼をしている。どうしよう……こんな格好をしているが、高校生とバレやしないか? いや、金持ちの家なら学生だってこんな場所に来るはずだ。だって翔子のお姉ちゃんだってここで働いているんだから。
入り口が目前に迫ってきた時、ドアマンが自分のことを見ていることに気付いた。ここで負けたらいけない。堂々としなければ!
羽澄はぴんと背筋を伸ばして胸を張ると、歩幅を大股に変えて入り口へと向かう。ドアマンは穏やかな表情で羽澄に向かって一礼をした。よし、バレてない!
羽澄は急いでホテルの中に入ろうと、両手を勢いよく伸ばしてドアを押し開けようとした。すると指先がガラス扉に触れる前に、ドアはスムーズに左右に開く。うん……これは自動ドアだった。
こんなホテルに自分が訪れる日が来るとは思わなかったが、まさか前へ習えの状態で入るとも思わなかった。恥ずかしさのあまり、全身の熱が顔に集まる。
羽澄は出来るだけ冷静なフリをして辺りを見渡した。外観だけでなく、このホテルはやはり内装も凄い。天井からは見たこともない大きなシャンデリアが吊り下げられていて、フロントには立派な大理石に金色の装飾が施されている。さらに、泥の付いたスニーカーでは踏むのを躊躇してしまう深紅の絨毯は、靴を履いていてもその柔らかさが伝わってきた。
やっぱり……場違いだ。
周りには、セレブ感溢れる服装をした紳士や貴婦人たちの姿。かたや自分は、上から麦わら帽子にサングラス、そしてTシャツにジーンズと間抜けな格好。なんだか、泣きたい気分だ。
このままロビーでおろおろするわけにもいかないので、羽澄は目的のカフェへと急いだ。カフェは入り口を入ってすぐ左手奥にあった。いかにも座り心地が良さそうなソファが並び、その奥にはドラマに出てきそうな大きなテラス席が広がっている。
私だって女子だ。オシャレなカフェには気分が上がる。わずかに持ち直した気持ちをバネに、羽澄は足早で入り口へと向かった。カフェはロビーよりも少し低くなっていて、短い階段を降りると、重厚感のある大理石の音が靴の裏に響いた。入り口の右手にはショーケースが置かれていて、中を覗くと赤や黄色など色とりどりのマカロンやチョコレートが並んでいる。
「うわー、美味しそう!」
危うく食べ物のトラップに引っかかりそうになったが、羽澄は「違う違う!」と言ってカフェの入り口から店内を見渡した。時間帯のためか比較的に中は空いていて、家族連れや老夫婦、外国人の姿が見える。そして仕切り代わりに置かれている観葉植物を見た時、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
エロ教頭だ!
葉っぱが邪魔して一部しか見えないが、あの特徴的な頭は変態狸に間違いない。本当にこの場所で毎週取り引きをしているんだ!
ターゲットを見つけた興奮を必死に抑えながら、羽澄は入り口から様子を伺っていた。どうやらスーツ姿の男はまだ現れていないようだ。
「お客様は、一名様でよろしいでしょうか?」
「どうぁあ!」
突然店員に声を掛けられてしまったので、思わず変な声を上げてしまった。入り口近くの席でくつろいでいる人たちが、怪訝そうな顔をしてこちらを見てくる。もしかしたら、今の声で教頭にもバレてしまったかも……。
羽澄はおそるおそる前方を見ると、エロ教頭の頭は微動だにしていない。どうやら気づかれていないようだ。
「セーフ……」
ほっと胸をなでおろす羽澄に、「あの……」と店員が気まずそうに声を掛ける。
「あ、す、すいません。一人で、一人だけでお願いします」
挙動不審な返事になってしまったが、店員は気にすることなく「お一人様ですね」と言って人差し指を立てると、その手を広げて中へと案内してくれた。
「あ、あの……」
店内に数歩足を踏み入れた時、羽澄は立ち止まり店員に声を掛けた。
「あそこの席でもいいですか?」
羽澄の指差す方向には二人掛けのテーブルがあり、それは観葉植物を挟んで、ちょうど教頭の真後ろの席だった。
「あちらは喫煙席になりますが、よろしいでしょうか?」
喫煙席か……。いつもお父さんの煙草の煙でむせている自分の姿が一瞬頭に浮かんだが、羽澄はすぐに「大丈夫です!」と返事をした。やっとの思いでスキャンダルを掴めるところまできたんだ。煙草の一本や二本で諦めるわけにはいかない。
「それでは、こちらへどうぞ」
店員の言葉に案内されて、羽澄は初の勝負台へと向かった。
いよいよ……初のミッションがスタートだ!
「申し訳ございません。少し渋滞していて……到着が二〇分ほど遅れそうなんです」
小さなスピーカーの向こうから、頭を下げている姿が想像できるくらい、申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
「ああ、別に構わんよ。こっちもゆっくりしているから」
「出来るだけすぐに向かいます」と、男が返事をしたのを聞いて電話を切った。今日は優雅な休日。時間の一〇分や二十分ぐらい許してやるか。
スマホをテーブルに置いて、そのまま空いた右手で煙草を取り出した。愛用している金のジッポで火をつけると、ゆっくりとニコチンを体に取り込み、そして吐く。いつもと同じ行動も、この場所にくると味わうように遅くなるから不思議だ。
広がる煙を追うように店内を見ると、同じように優雅なひとときを過ごしている人たちの姿が見える。ここは五つ星ホテルのラウンジカフェ。今店内でくつろいでいる人たちも、自分と同じようにかなりの社会的成功を収めた人たちなのだろう。まあ自分の場合は、ほとんどパートナーのおかげなのだがと一人で苦笑する。
テラス席の方を見ると、若い貴婦人たちが午後のお茶会に花を咲かせていた。歳は二十代くらいだろうか。ドレスコートのような洗礼された服装には好感が持てた。赤や青、黄色といった鮮やかな彩りに、最近見た人気のミュージカル映画を思い出す。ほら、あれだ。確かララなんとかって言う……。
もう少しで思い出せそうな頭の引っ掛かりを取り除こうと、「ラ……ララ……ララ」と呟いていた時、「遅れて申し訳ございません!」と突然スーツ姿の男が視界に現れた。皺一つないシャツに、しっかりと磨かれている黒いビジネスシューズ。たしか歳はまだ二十代後半と言っていた。その幼い顔立ちには似合わないほどの、重厚感のあるシルバーのアタッシュケース。まるでヤクザの取り引きで使われていそうな威圧感だ。
「君、タイミング悪いよ。もう少しで重要なことが思い出せそうだったのに……」
「え」と男は驚いた顔をしてから、「も、申し訳ごさいません」とまた平謝りした。こういう素直さこそが、若者の武器になるのだろう。
「しっかし相変わらず物騒な鞄持ってくるねー。拳銃でも入ってるんじゃないの」
「はあ……前に使っていたやつが壊れてしまって、とりあえず使えそうな鞄がこれしかなかったんです。まあ最近うちの会社でも個人情報の取り扱いが一段と厳しくなってきたので、ちょうどいいと言えばいいんですけど……」
男は恥ずかしそうに照れ笑いをして、頭を掻いている。
「今の時代、どこも大変なんだね。うちの業界も個人情報だの、何かあればすぐにセクハラだのスパルタだのって、保護者からのクレームが絶えないよ」
ため息と一緒に煙草の煙が空へと舞い上がる。この仕事に就いてから三十年。一つひとつ山をのぼってきて、やっと今の地位まで築くことができた。華の有名私立女子高校の教頭に選ばれた時は、これで毎日が楽園だと思ったが、想像と現実は違っていた。
伝統と規律を重んじる、百三十年の歴史ある高校に通う生徒とはいえ、馬鹿な学生は馬鹿だ。髪を奇妙な色に染める奴もいれば、平気で廊下で汚い言葉を叫んでいる奴もいる。たしかにお嬢様学校ならではの清楚な学生もいるが、今の時代それはほんのわずかだと痛感した。学校ではそう見えていても、裏では何をやっているのかわからない。
目の前の男が資料片手に熱弁しているのを上の空で聞きながら、二本目の煙草に火をつける。もやっと上がる煙を見ていると、最近あった出来事が心の中で立ちのぼる。
あの生徒もそうだ。二年六組の宮間沙織。
成績優秀で生徒会も努める彼女は、見た目も可愛く教師たちの間でも有名だ。教頭である私にさえ、廊下ですれ違った時には笑顔で挨拶をしてくれた。その嬉しさに、年甲斐もなく胸の高鳴りを覚えたほどだ。こういう子がいるなら、まだこの仕事も捨てたものじゃないと思っていた矢先、あの事件を見てしまった……。
先ほどから身振り手振りも入れてヒートアップする男とは対照的に、教頭の気分は下がるいっぽうだった。吐き出した煙のように、嫌な記憶も薄れていけばどれほど楽か。まとわりつくモヤを手で払いながら、そんなことを考える。それでも思考は勝手に引っ張られるようで、教頭はため息まじりに煙を吐き出す。そういえば、あの日も今日と同じ日曜日だった。
二週間前の日曜日、私は目の前の男との打ち合わせが終わると、休日を楽しもうと街へと出かけた。普段なら、人が多い休日に出かけることなんて滅多にしないのだが、その日は私の愛読書の一つ、「魔法少女サリエルちゃん!」の新刊発売日。パートナーが同行している時に入手することは不可能なので、チャンスはその時しか無かった。
あたかも我が子に買って帰るふりをしてレジでお会計を済まし、車を止めている近くの商業施設の地下駐車場へと向かった。これで充実した休日になる。前回から二ケ月待った愛読書も手に入り、私は誰もいないことをいいことに、鼻歌を歌いながら駐車場を歩いていた。そして愛車のボルボが視界に入ってきた時、それを見てしまったのだ。
誰もいないと思っていた駐車場の奥の方で、いかにも若者が好きそうなスポーツカーから男女の声が聞こえてきた。その車から降りてきた茶髪のチャラそうな男が、見た目とは裏腹な態度で、助手席のドアを開けて優しく手を差し出す。その紳士的な態度に喜んで応えるかのように、女がぴょんと飛び跳ねて降りてきた。
近頃の若者ときたら……。その初々しさが鼻につき、急いで自分の車に乗って立ち去ろうとした時、もう一度女の顔を見て思わず足が止まった。白いワンピースに黄色いカーディガンを羽織ったその女は、なんと宮間沙織だったのだ!
いつもの制服姿ではないので、一瞬自分の勘違いかと目を疑ったが、清楚な顔立ちとその眩しい笑顔で私は確信した。
なんということだ……。まさか我が校を代表する真面目で純情な生徒が、週末に男と一緒にスポーツカーに乗っている。
もはや私は手に持った愛読書のことは忘れて、物陰に隠れながら二人の様子を見ていた。誰もいないと思っているのか、二人は車を降りてからも、なかなか歩を進めようとはせずイチャついている。そして汚れた男の右手が宮間の頬に優しく触れると二人は顔を近づけて、あろうことか私の目の前で……目の前で……。
「けしからん!」
鮮明に蘇ってきた悪夢に、思わず感情が言葉になって口を出た。はっと我に返って目の前を見ると、熱弁をふるっていた男がきょとんとした表情でこちらを見ている。
「あ……あの……このオプションはお気に召しませんでしたか?」
男は少し震えた手で、テーブルに並んだ資料を右手で示した。そこにはいかにもお得感を狙ったデザインで「今なら半額! エコカラット」と書かれたチラシがある。
「こ、今回は色のバリエーションも十六色から二十八色に増えたので、奥様が好きなピンク系の色味も選べるかと……」
男は主人の機嫌を伺う子犬のような目をして説明を続けた。
「あ、ああ、そうだな。ピンクが選べるのはありがたい。それは……大事なことだ」
失態を隠そうと教頭は強く咳払いをする。男は自分の提案が受け入れられたことに、小さく息を吐いて安堵している様子だ。
危うく本来の目的を見失うところだった。五つ星ホテルカフェラウンジでの週に一度の打ち合わせ。貴重な休日の時間を割いてまで行っているのは、これから自分たちが住む新居獲得の商談だ。
今住んでいるマンションも文句はないのだが、ここ最近、妻が「夜景が見たい」と頻繁に言うようになってきた。てっきり私は、年々広がっていく夫婦仲を縮めようとする妻の計らいで、
デートに誘われているのかと思った。が、何のことは無い。妻は単純にタワーマンションに住みたいだけだった。聞けば自分の大好きな俳優がドラマの中で、タワーマンションの夜景を見ながら愛を語っているのが気に入ったというではないか。普通の家庭なら、「何を馬鹿なことを言っている」の一言で終わるのかもしれない。だが、タチの悪いことに、妻にはそれを実現させるだけの財力もあれば権力もある。それに便乗する形で生活を共にする私には、例えそれがどんなに馬鹿げていようとも、目的を遂行させる義務があるのだ。
そんな苦労もいざ知らず、目の前の男は先ほどの提案が受け入れられたことがよっぽど嬉しかったのか、物騒なアタッシュケースから次々と資料を出しては説明を続けていた。
その様子を見ながら適当に資料を何枚か手に取った時、忘れてはいけない重要なことを思い出した。
「そういえば、ペットは大丈夫なのかね?」
これは非常に重要なポイントの一つだ。子供のいない我が家には、家族になって五年目になるチワワがいる。私と妻の数少ない共通点の一つが、お互い大の「チワワ好き」という点だ。この共通点のおかげで、結婚に踏み切ったと言っても過言ではない。
我が家でのチワワの立場は、おそらく自分以上だ。私の夕食に関しては自給自足を強いられているが、もちろんチワワは支給制。私が夕食をまだ食べてはいないと話しても見向きもされないが、チワワの晩御飯をまだやっていないと言った時は、妻は激情して怒り狂っていた。そのあまりの凄まじさに、初めて本気で遺書を書こうと思ったほどだ。それ以来、私の携帯は夜の七時、そして念のため朝の七時にはアラームが鳴るように設定してある。おかげで今のところ餌やりは忘れてはいないので、遺書を書いたことはまだない。
「ちょっとお待ち下さい、ね」
そう言いながら、営業の男は手際よく資料をめくっていく。
「あ、大丈夫です! このマンションならペットも飼えるので安心して下さい」
「よし」
これで第一関門は突破できた。残るは「お風呂にジャグジーが付いていること」「トイレに乾燥機能付きウォシュレットが備わっていること」そして……。
教頭は営業の男と同じように、手際よく自分の手帳をめくっていく。妻は生活する上でかなりのこだわりを持っている。その条件に見合うマンションでなければ、即刻却下されてしまうのだ。そのため普段からリサーチにリサーチを重ねて、手帳には妻の絶対抑えていなければならないポイントが細かくリストアップしている。三六項目、四つのジャンルに分けられたこのポイントを押さえた上で妻にプレゼンテーションしなければ、「どうしてそんなこともわからないの?」と一喝され、その怒りの分だけ私のお小遣いが減ってしまうのだ。
そんな事態は何としてでも避けなければならない。
だから私は毎週自分の貴重な時間を割いてまで、こうやって不動産の営業マンと念密な打ち合わせを行っている。
その後も資料と手帳とを見比べながら、教頭は男の説明に相づちを打ったり質問をしたりしていた。どうやら今回の物件はなかなか良さそうで、こだわり多き妻にも紹介できそうだ。
「ちなみに、今までのオプションを付けると価格はどれくらいになりそうなんだね?」
一通りの話しが終わり、教頭が男に尋ねた。まあいくらになろうと、妻が気に入れば関係ないのだが、自分としてはやはり気になるところではある。男は手元の電卓を叩きながら、ぶつぶつと独り言を言って計算を始めた。その間、切れたニコチンを摂取しようと煙草に手を伸ばすと、残りわずかになっていることに気付く。昔は一日一箱あれば十分事足りたが、今では一箱だけでは足りない日も出てきた。これも仕事のストレスによるものか、それとも妻の圧力によるものなのか……おそらくその両方なのだろう。
「そうですね……ざっと見積もると……」
男は計算が終わりに近づいてきたのか、私にも聞こえる声で言ってきた。そしてぱちんと電卓を弾くと、その人懐っこい顔をこちらに向けた。
「おおよその金額としては七千八百万円ぐらいです。この金額に初期費用や手数料などが加算されるので、いくらか変わりますがだいたいこの価格帯かと」
「七千八百万円か……」
およそ予想していた金額内に安心感が込み上げてくる。やはり妻とは違って、自分の心の根っこは庶民派なのだろう。妻の実家は資産家なので億単位の話しでも物怖じしないが、私の場合はさすがに躊躇してしまう。
「よしわかった。とりあえず七千八百万円ぐらいだと妻には話しをしておこう」
こだわりポイントを備えた物件が七千八百円だと知れば、妻もきっと喜ぶだろう。そうなれば私も少しはチワワの立場にも追いつけるはずだ。
「それと、この物件についてはいつまでに決めればいいのかね?」
「そうですね……かなりの人気物件でして、遅くとも再来週にはお返事が頂きたいかと。もし可能であれば来週奥様も兼ねて三人で打ち合わせを行い、再来週にご返答頂くという流れはいかがでしょうか?」
もうそのつもりなのか、男は意気揚々と胸ポケットから手帳を取り出すとスケジュール表を開いた。びっしりと記入された商談のスケジュールに、男の実力が伺える。今まで聞いてきた物件の中では一番魅力的だったので、これを逃す訳にはいかない。来週はいよいよ本番になりそうだ。
「わかった。妻にもそう話しておこう。時間はいつもと同じで良いかね?」
「はい。ただ再来週に関しては午後に一件別のお客様の打ち合わせが入っており、十五時くらいからでも大丈夫でしょうか?」
男が少し申し訳なさそうな表情で、手帳と教頭の顔を交互に見た。その顔が、いつも妻の顔色を伺っている自分と重なり、心の中で何故か同情してしまう。
「ああ、おそらく大丈夫だろう。一応、妻にもスケジュールは確認しておくが……」
「ありがとうございます」と言って男は深々と頭を下げると、さっそく手帳に記入し始めた。三ケ月にも及ぶ打ち合わせも、ようやく終わりが見えてきて、早くも胸の中には開放感が広がり始めていた。まあもちろん、妻が今回の物件を気に入ってくれればの話しなのだが……。
男はアタッシュケースに資料を詰めて片付けを始めた。先ほど生まれた開放感からか、今日は自分が支払ってやろうと伝票に手を伸ばした時、「大丈夫です!」と男が慌てて止めてきた。
「ここは私が支払いますので」
「いやー、いつもいつもすまんね」
男が立ち上がったので、教頭もソファから腰を浮かすと右手を差し出す。商談の行く末を確かめるように、二人は固い握手を交わした。
「じゃあ再来週の日曜日が最終決定になるよう、妻にも話しを進めておくよ」
「はい! よろしくお願いします」
男は今日一番の笑顔を見せると、深々と一礼してカウンターへと向かった。その後ろ姿を見届けながら、教頭は再びソファに座ると煙草に火をつける。
これで妻も喜んでくれればいいのだが……。
疲れと一緒にゆっくりと煙を吐き出す。頭をリフレッシュさせようと、陽光が燦々と降り注ぐテラス席を見た。どうやら貴婦人たちのお茶会はまだ続いていたようで、その服装と同じく会話に華を咲かせていた。
そういえば…………あのミュージカル映画の名前は何だっけ?
間違いなく聞こえた。いや……、聞いてしまった。
周りの雑音で話の全貌はほとんどわからなかったけど、エロ教頭の声で確かに「拳銃」「七千八百万円」という言葉、そして最終取り引きは再来週の日曜日という重要な情報を聞き取ることができた。
何か一つでもスキャンダルを掴めればいいと思っていたが、想像以上の収穫に、テーブルの下で膝が震えている。これもうスキャンダルというか、もはや事件だよね?
羽澄は心を落ち着かせようと、まだ一滴も飲んでいないオレンジジュースに手を伸ばした。グラスに付いた水滴が、指先を冷やしてくれて、わずかに冷静さを取り戻す。羽澄はそのまま乾き過ぎた喉を潤そうとグラスを持ち上げた時、後ろからガタンという音が聞こえた。どうやら謎のスーツ男が帰るようだ。
やばい!
羽澄はグラスを置くと、慌ててテーブルに顔を伏せる。別に向こうが自分のことを知っているわけではないけれど、教頭のことを知っている人物だとわかれば、海に沈められるかもしれない……。恐怖で震える心臓の鼓動が、テーブル伝いに聞こえてくる。ああ神様、どうか見つかりませんように!
羽澄は麦わら帽子のつばを恐る恐る上げると、カウンターのほうを確認した。謎のスーツ男はすでに立ち去ったようで、羽澄はほっと胸をなで下ろす。しかし、黒幕である教頭はまだ真後ろにいるので、油断することはできない。
あれ……? もしかして教頭が立ち去るまで帰れない、とか?
スキャンダルを掴んだ興奮と、先程のスーツ男への恐怖が混ざり合い、心はすでに悲鳴を上げていた。
早く帰れよ、と背中で教頭に念波を送りながら、羽澄は顔をあげようとした。その時、肘がオレンジジュースのグラスに当たり、嫌な予感が頭をよぎる。
「うお!」
羽澄は小さく叫ぶと、咄嗟に両手をグラスに伸ばした。テーブルから投げ出されそうになったその入れ物は、ぎりぎりのところで羽澄の掌に捕まえられた。が、ほとんど手づかずだった中身が、花火のように盛大に飛び散る。
「あちゃー……」
声を抑えながら落胆する羽澄は、絨毯に残った模様のような染みを目で追った。するとその先に、同じように色が変色している靴とスラックスが視界に入った。
「す、すいません!」
思わず教頭がいることも忘れて立ち上がると、羽澄は相手の顔を見る前に、勢い良く頭を下げた。ぎゅっと目を瞑り、あらん限りの誠意を見せる。
「あの、その、本当に……すいません! ご、ごめんなさい!」
そのままの勢いで、「弁償します!」と言いそうになって言葉を止めた。こんなところに来ている人物だ。ズボン一つで、一体どれだけ請求されるかわからない。もしかしたら、私がバイトをしても、返せないほどの金額を言われるのでは……。
再び込み上げてくる恐怖心が、ぶちまけられたジュースのように心に広がっていく。あまりの恐怖に、今度は唇が震えてきた。ああ、せっかく教頭のスキャンダルを掴んだのに、これで何もかもおしまいだ。
「……君の方こそ、大丈夫?」
突然、頭上から優しい声が聞こえてきて羽澄はぱっと顔を上げた。てっきり怒鳴られるかと思っていたので、予想外の言葉に目を丸くする。そして相手の顔を見た時、それ以上の衝撃が雷のように全身に走った。
「え……?」
目の前には、「俳優ですか?」と聞いてしまいそうな端正な顔立ちをした青年の姿があった。茶色味がかった髪は猫のように柔らかそうで、くっきりとした目鼻立ちと白い肌はどことなく外国人を思わせる。道を歩いていれば、間違いなく女子たちが一度は振り向く風貌だ。まさか自分が住んでいる世界に、こんなイケメンがいたなんて。
突然の不意打ちに、羽澄は言葉を失い呆然としていた。吸い込まれそうなほど澄んだ青年の瞳に、ぽかんとした表情を浮かべる自分が映る。そんな情けない姿に気付き、羽澄ははっと我に返った。
「だ、大丈夫です! むしろ、こっちこそすいません!」
何故だが心臓の鼓動が飛び跳ねている。身体中の熱が上がり、頭はくらくらだ。もしかしたら私、このまま倒れちゃうかも。
「服、だいぶ濡れちゃったね……」
てっきりスラックスのことを言っているのかと思ったが、青年の目は羽澄の服を見ていた。「え?」と羽澄は自分の身体を見ると、白いTシャツがオレンジ色で染まっている。あまりにも無様な姿と恥ずかしさで、今度は羽澄の顔が真っ赤に染まる。いっそこのまま蒸発したい。
「良かったらこれ使って」
その爽やかすぎる顔立ちをさらに引き立てる笑顔で、青年はポケットからハンカチを取り出すと羽澄に差し出した。
「大丈夫! だ、大丈夫です! 気にしないで下さい。私、このままでも帰れますから」
そう言って羽澄は、慌てて両手を胸の前で振った。
ああ、ほんとは自分がしなくてはいけないことを、逆にされてしまった……。後悔する間もなく、青年は微笑みながら「気にしなくていいから」と羽澄にハンカチを渡すと、そのままカフェの入り口の方へと向かった。羽澄は声を出して引き止めようとするも、気持ちとは裏腹に言葉が喉の奥から出てこない。緊張と恥ずかしさで、指先さえも動かすことができなかった。青年がレジでお会計を終わらしてホテルから出て行く姿を、羽澄はただ黙って呆然と眺めていた。
「なんて素敵な人なんだろう……」
ドラマや映画の世界でしか聞いたことのない憧れのセリフを、まさか自分が呟く日が来るなんて。もしかしてこれが、「運命」というやつなのか?
しばらく立ち尽くしていた羽澄は、やっと我に返って慌てて後ろを振り返った。いきなりのイケメンの登場で、教頭の存在をすっかりと忘れていた。さすがにジュースをぶちまけた時から気付かれてしまったのではと不安になったが、教頭の後ろ姿は微動だにしておらず、むしろさっきよりも動かない。
「……もしかして、寝てる?」
わずかに上下する肩の動きと、前に傾いたままの頭を見るところ、どうやら本当に眠っているようだ。
「何なのよそれ!」
羽澄は心の中で叫んだ。てっきりバレてしまったのかと、冷や汗をかいた自分が馬鹿だった。
そんな心境も知らず、エロ教頭は気持ち良さそうにすやすやと寝ている。その後ろ頭を思いっきりはたいてやりたい。
「まあ、これで帰れるからいいか……」
羽澄は小さくため息をついて肩を落とす。とりあえず目的のスキャンダルは掴むことができた。それに、思わぬ素敵な出会いも……。
「せめて、名前だけでも聞いておけば良かったな……」
ハンカチを握りしめる羽澄の心には、名も知らぬ青年の顔が浮かんでいた。
翌日、羽澄は珍しく予鈴が鳴る三十分前には教室に到着していた。エロ教頭のスキャンダルに繋がる情報を手に入れたこと、そして目が眩むようなかっこいい青年と出会ってしまったこと。高校生活始まって以来の二つのビックニュースに、一晩経っても興奮が収まらず、こんなにも早く登校してしまったのだ。
「まあでも……、イケメンに出会ったことは言わないほうが無難か」
教頭のスキャンダルを掴みに行ったのに、ジュースをこぼして運命的な出会いをしたなんて言えば、明里にまたバカにされるだろう。それに彼氏の件でエロ教頭に弱みを握られている沙織を助けるはずが、私まで男絡みで追い詰められるわけにもいかない。とは言っても、自分の場合は名前も知らなければ、連絡先も知らないけど……。
「まさかハンカチに名前とか連絡先とか書いてないよね……」
いつどこで出会っても返せるようにと、自分で手洗いして持ってきたハンカチを羽澄は机の上に広げた。いかにもオシャレ男子が持っていそうな黒と茶色のチェックの柄に、右下にはブランドマークが入っている。見覚えのあるブランドマークだなっと思って昨日帰ってからスマホで検索したら、見覚えあるどころか有名なブランドだったので、思わず腰を抜かしてしまった。おそらくあんなカフェに来ていた人なので、ハンカチぐらい気にしないのかもしれないが、それでも自分としては余計に罪悪感に苛まされる。
「はあ……」ため息をついてハンカチを見ていると、昨日の夢のような出会いが、頭の中で勝手にリピートされる。優しそうな声も、紳士的な態度も何もかもが印象的で、思いだすだけで胸がむずむずする。あー、もう一度会えないかな……。
「お! 羽澄、今日は珍しいじゃん。こんな早くに来るなんて」
「うわ!」
いきなり後ろから明里の声が聞こえたので、羽澄は慌ててハンカチを隠した。
「そのハンカチどうし……」
「お父さん! お父さんの借りただけだから!」
明里の質問を途中で遮り羽澄は即答した。「そ、そうなの……」と、羽澄の過敏な反応に明里は少し驚きながらも、話題はすぐに例のスキャンダルの話しになった。
「あんたそれより、昨日の『緊急! 明日の放課後、重大発表あり!』って何なのよ?」
そう言って明里はスマホを取り出すと、初芝オーシャンズのグループメッセージを開いて見せてきた。そこにはあのホテルの帰りに、興奮冷め止まぬ自分が送ったメッセージが表示されていた。
「もう、私や翔子が聞いてもぜんっぜん教えてくれないんだから。何かスキャンダル掴んだんでしょ?」
その言葉に羽澄は、「ふっふっふ」とわざとらしく低く笑った。
「それは放課後のお楽しみ。ぜーったい明里もビックリするから!」
早く喋りたい。昨日はその衝動を抑えるのが大変だった。でも、かなりのスキャンダルだけに、ちゃんとみんなには直接伝えたくて頑張って我慢したのだ。
一人にやつく羽澄を見て、「期待させといてがっかりさせないでよ」と明里はちゃかすように言って自分の席へと戻った。
明里め……私のことだと思って油断しているのも、今のうちだからね!
友達の後ろ姿に無言のメッセージを送りつけ、羽澄は黒板の上の時計を見た。放課後まであと八時間。いつも以上にその時間が長く感じる。
この日の授業は珍しく、羽澄はずっと起きていた。先生の話しはBGM程度に、頭の中は別のことでいっぱいだった。二割は教頭のスキャンダルについて、そして残り八割はあのイケメンの青年について、だ。そのせいで授業中に当てられても答えられないばかりか、知らぬ間ににやけ顔になっていて、先生たちが気味悪がっていたらしい。そんな話しを、五時間目の和泉先生の時に聞いて恥ずかしくなった。明里たちからは「スキャンダル以外にも何かあっただろ!」と事あるごとに疑われたが、羽澄は「ないです。何もないです」としらを切った。さすがにあの話しは……まだできない。
待ちに待った放課後のチャイムが鳴ると、羽澄たちは足早に部室へと向かった。そしていつもの定位置に座ると、すぐさま作戦会議を始める。
「ごほん!」
皆の注目を浴びながら、羽澄はわざとらしく咳払いをした。いよいよ、初芝女子高始まって以来の一大スクープを発表する時がやってきた。
「よ! 待ってました、ボス!」と翔子は嬉しそうに手帳を広げてペンを握った。その隣で明里と結衣も、「どんな話しが始まるの?」と興味津々の視線を羽澄に送っている。
「それではお待たせしました。わたくし初芝オーシャンズリーダーの飯田羽澄より、打倒エロ教頭のために掴んだ一大スキャンダルを発表したいと思います!」
羽澄の言葉に三人が拍手を送る。そして真剣な眼差しを羽澄に送ると、部室は緊張感を含んだ静けさで満たされた。
羽澄は再び咳払いをすると、三人の期待を感じながら昨日起こった出来事について話し始めた。
エロ教頭が本当にカフェにいたこと。謎の怪しいスーツ姿の男が現れて密会をしていたこと。そして教頭の声で確かに聞いた、「拳銃」「七千八百万円」という言葉と、再来週の取り引きについてなど……。記憶の糸をたぐり寄せて、思い出せる限りのことを羽澄は包み隠さず話した。その後に起こったイケメン青年との出会いは除いて。
羽澄が話している間、三人はずっと黙った状態で聞いていた。途中、羽澄の説明に熱が入り過ぎて擬音語が多くなると、明里は眉間に皺を寄せて、「もう少し具体的に言ってくれない?」と突っ込みが入った。
一通り話し終わった後も、三人はしばらくの間黙っていた。やはり、自分が掴んだスキャンダルがあまりにも衝撃的で、言葉も出ないのだろう。すると腕を組んで下を向いていた明里が、ぱっと顔を上げた。
「なんか……怪しいな」
怪訝そうな顔をする明里に、「でしょ!」と同意を求めると、大きくため息をつかれた。
「そっちじゃなくて……あんたの話しがよ」
「え?」
予想外の返答に羽澄は思わず目を丸くした。私の話しが? どして?
「だって教頭とそのスーツ姿の男の話しを、全部聞いたわけじゃないんでしょ? だったら会話の弾みでそんな単語を使った可能性もあるじゃない」
明里の的を得た鋭い意見に、羽澄は「でも……」と言いつつもその続きが出てこなかった。確かに明里が言うように、話しの全貌を聞いたわけではない。でもあの謎の男が持っていたアタッシュケースと、ただならぬ密会の雰囲気は絶対に何かあるはずだ。
「んー、もう一度詳しく検証したほうがいいですね」
まるで探偵のような口調で、翔子が眼鏡をくいっとあげて言った。
「でも、もし羽澄ちゃんが話したことが本当なら、これ以上調べるのは危ないと思うよ……」
結衣が不安そうな目で翔子と羽澄を見る。「うーん……」と再び部室は静けさに包まれた。窓の向こうからは、運動部の活気あるかけ声が聞こえる。
「ボス。黒幕はたしかに再来週が最終の取り引きだって話しをしてたんですよね?」
翔子が右手で顎を触りながら羽澄に聞いた。
「う、うん……それは確かに言ってたよ。時間も十五時ぐらいから始めるって」
「だったら来週の日曜日も、またカフェに現れて密会する可能性が高いはずです。それを狙って、もう一度検証するのはどうでしょう?」
翔子の言葉に、明里がこくんと頷く。
「うーん、そうだな……もうちょっと核心的な証拠はほしいよね」
すらっとした人差し指で唇を触りながら明里が言った。その隣では不安そうな表情で、結衣が三人のことを見ている。
「よしわかった! そしたら今度の日曜日、もう一度みんなで偵察に行こう。それであのエロ教頭がしっぽを出せば、明里だって信じてくれるでしょ?」
羽澄は興奮した口調で、明里に顔を近づけて言った。その勢いに押されて、「まあ……」と明里が返事をする。
「じゃあ決まり! 次の日曜日は初芝オーシャンズ全員で偵察に行くこと。結衣も、今度はいけるよね?」
羽澄が嬉しそうに目を輝かせて視線を送ると、結衣は「う、うん……」と言って苦笑いを浮かべていた。隣では翔子が手帳を広げて、さっそくスケジュールを記入している。
残された時間は少ない。今度こそ教頭のスキャンダルをみんなにも信じてもらって、沙織のことを助けるんだ!
次の日曜日、空には澄み切った青さが広がっていた。
羽澄、明里、結衣、翔子の四人はそれぞれ変装して、目的のホテル近くのマックに集まった。結衣以外の三人はサングラスをかけていて、四人席のテーブルは異様な雰囲気に包まれていた。
「結衣、それ完全にノーガードじゃん」
羽澄はサングラスを少しずらして結衣を見た。
「でも私、サングラスなんて持ってないし……」
困った表情を浮かべて結衣が俯く。まあ確かに仏の優しさを持つ結衣が、サングラスをかけているところなんて想像がつかない。
「けど、さすがにそのままじゃマズくない?」
明里も心配そうに結衣を見る。「うーん……」と黙り込んでしまった結衣の目の前で、翔子がリュックを開けて何かを探し始めた。
「だったら結衣殿、これを使いますか?」
翔子はそう言ってリュックから眼鏡ケースを取り出すと、中を開けてサングラスを手に取った。それはマラソン選手が使っていそうな、黒一色のスタイリッシュなサングラスだった。
「あたいの父親のやつですが、無いよりかは良いかと」
「あ……ありがとう……」
かつてないほどの苦笑いを浮かべて、結衣はそのサングラスを受け取った。その様子を見ていた明里と羽澄は、目を丸くして固まっている。まさか、こんなエキサイティングなサングラスを結衣がかけるのか?
申し訳ないと思いながらも、羽澄は興味津々だった。あのいつだって聖母マリアのような結衣が、こんな挑戦的なサングラスをかけるなんて、これまたプチスキャンダルだ!
羽澄はポケットに手を忍び込ませると、スマホを握りしめてシャッターチャンスを狙った。明里も何も言わないが興味があるようで、さっきから口元に手をあてて笑うのを我慢している。そんな二人には気付かず、結衣はゆっくりとサングラスを顔に近づける。妙な緊張感が四人を包み、羽澄は瞬きするのも忘れて結衣のことを見ていた。
「ど……どうかな?」
そこには今まさに聖母マリアから、ランナーへと変身を遂げた結衣の姿があった。少しタレ目の結衣とは正反対のつり上がったサングラスは、その鋭いデザインから一気にこの場の雰囲気を引き立てた。
いきなり本格的なスパイが現れた……。
羽澄と明里はもう結衣のことが直視できず、俯いて肩を震わせていた。翔子にとっては違和感がないようで、「いいですね、似合ってますよ!」とお世辞ではなく、本音で言っているようだ。これはこれで逆に目立ちそうな気もしたが、貴重な機会に羽澄も明里もそれ以上は何も言わなかった。
結衣のことを直視できるようになってから、四人はどうやってカフェに忍び込むかの打ち合わせを始めた。さすがに四人一緒に入るのは危ない。そこで羽澄と翔子、明里と結衣がそれぞれペアになって、時間差でカフェに入ることになった。座る場所もエロ教頭の姿が見えつつも、ペア毎に少し距離を取ることで、バレる危険性を少なくする。サングラスをかけて変装した四人がそんな打ち合わせをしているので、羽澄はいつの間にか自分が映画に出てくるスパイの気分になっていた。
「いいな、お前たち。大事なのはバレないように任務を遂行すること。いけるか?」
ポテトを煙草代わりに持ちながら、羽澄はみんなの顔を見渡した。
サングラスをかけているので表情まではわからないが、みな真剣な気持ちで「わかった」と返事をしてくれた、と思っている。
「それじゃあ、ミッション開始!」
羽澄の言葉を合図に全員席を立つと、ターゲットが潜む目的地へと向かった。念には念をということで、ホテル前の公園に着くと、四人はもう一度打ち合わせを行った。
「じゃあ、行ってくる!」
羽澄は明里と結衣に敬礼のポーズを取ると、翔子と一緒にホテルの入り口へと向かった。前回と同じく入り口には凛々しいドアマンが立っていて、ホテルに出入りする人達のお出迎えをしている。今回は翔子もいるので心強い。羽澄は躊躇することなく、入り口まで向かうことができた。サングラスをかけた二人組に気づいたドアマンが、頭を深々と下げて一礼する。
「あのドア、自動で開くから」
羽澄は得意げに小声で翔子に伝えると、前方のドアを指差す。「了解!」と同じくスパイ気分になっている相方が返事をした。気持ちはまさに、ハリウッド女優だ。
二人を待っていたかのようにスムーズに開いたドアを抜けると、見覚えのある非日常な空間が目の前に現れた。ワインレッドの絨毯の上には、国籍年齢問わず様々な貴族たちが優雅に歩いている。
「すっご……」
翔子も初めて来たようで、呆然としながらロビーを見渡していた。羽澄は経験者として、「こっちよ、翔子」と胸を張って言うと、カフェの方へと歩き出す。 二人は入り口から左手に進み、小さな階段を降りてカフェの前に立った。相変わらずショーケースに並ぶ宝石のようなお菓子たちに、羽澄は視線を奪われる。
「あ、いた!」
翔子がショーケースに釘付けになっている羽澄の腕を掴んで言った。見ると、前とまったく同じ席に、エロ教頭とスーツ姿の男の姿が見える。
「もう密会は始まってるみたいですね」
翔子が眼鏡の代わりにサングラスをくいっとあげた。その仕草が何となくカッコいいと思った羽澄は、同じようにサングラスをくいっと上げると、「出遅れたか」と呟く。
二人はカフェに入ると、店員に希望の席を伝えて中へと案内される。教頭の真後ろ、オレンジジュースをぶちまけて、運命的な出会いがあったあの席へと。
「そういえば、翔子のお姉ちゃんって誰なの?」
椅子に座った羽澄は店内を見渡すと、姿勢を低くして翔子に尋ねた。もしあのイケメン青年がこのカフェの常連なら、翔子のお姉ちゃんが知っているかもしれない。
「姉貴は大学のテスト期間中なので、今日は働いてないんです。来週の日曜日は出勤してるので、ばっちり協力してもらえますよ、ボス」
羽澄の質問の意図を知らない翔子は、ぴんと親指を立ててにっと笑う。それを聞いて羽澄はとりあえず、「そっか」と少し残念そうに返事をした。
「あ、そうだ。明里たちに連絡しなくちゃ」
外で待機している仲間の存在を思い出した羽澄は、スマホを取り出すと「無事に潜入成功!」とメッセージを送った。するとすぐに既読マークがつき、「了解!」と吹き出しが付いた可愛いスタンプが返ってきた。
「今から明里たちも来るって」
羽澄が翔子に伝えたタイミングで、店員がメニューを聞きにやってきた。前にメニューを見たとき、財布にダメージが最も少なかったのがオレンジジュースだったので、羽澄は迷わずそれを頼んだ。翔子はメニューを見ることもなく、「アイスコーヒー」と店員に伝えると、その後に「ブラックで」と付け足す。
「え、翔子コーヒー飲めるの? しかもブラックで?」
「飲めますよ。ちょっと大人の女性っぽいでしょ」
大人の女性……翔子もそんなことを意識するのか。羽澄は「へー」と言いながら、翔子の顔を凝視する。自分もコーヒーをブラックで飲めるようになれば、大人の女性に見られるようになるのか? そうだとしたら、もしあの青年と運命的な再会をしてカフェでお茶をすることがあれば、その時は私も大人の女性になろう。テーブルに届けられたオレンジシュースを見て、羽澄はそんなことを考えていた。
そのまま妄想は止まらず都合が良いように夢物語は進んでいたが、ホテル入り口から入ってくる明里たちの姿を見て、すぐに現実に戻った。
「来たよ」
意識を切り替えた羽澄が、小声で翔子に言った。その言葉を受け取った翔子は後ろを振り返ると、明里たちの方を見て小さくエロ教頭を指差した。二人は教頭の姿を確認すると、羽澄たちの席からは少し離れたテーブルに座った。
いよいよ、教頭のスキャンダルを掴む為のリベンジマッチが始まった。
今日はよっぽど重要な取り引きをしているのか、エロ教頭とスーツ姿の男には前回のような笑い声は無く、真剣な様子で密会をしている。これはかなりのスキャンダルが期待できそうだと思った時、突然テラスの方から犬の鳴き声が聞こえてきた。見ると、全身ピンクの服を着た女性が、その体格には似合わない小さくて可愛いチワワを抱きかかえて歩いてくるではないか。
ピンクマダムだ!
羽澄は翔子と目を合わせた。どうやら今日の密会には、エロ教頭の奥さんであるピンクマダムも参加するらしい。スマホが震えたと思ったら、明里からも「ピンクマダム登場!」とメッセージが入っていた。
ピンクマダムは柵にチワワの紐をくくり付けると、その巨体を揺らしながらテラスの方からカフェへと入ってきた。学校に現れる時も生徒達はみな釘付けになるのだが、どうやらそれはここでも同じらしい。羽澄たちを含めカフェにいる全員が、突然現れたピンク一色の人物に釘付けになっていた。紳士的な接客をしていた店員でさえ、口を半開きにしながら通路で固まっている。
「お待ちしておりました!」
突然、背後から威勢の良い声が聞こえて、羽澄はびくっと肩を震わせた。先ほどまで真剣な表情で打ち合わせをしていたスーツ姿の男が、急に立ち上がり叫んだのだ。そして教頭も立ち上がると、へこへこしながらピンクマダムを隣のソファ席へと案内している。どうやら、密会の最高権力者はピンクマダムのようだ。
「ボス、これは本当にすごいスクープになりそうですね!」
目の前で少し興奮気味の翔子が小声で言った。翔子も、この密会のただならぬ雰囲気を感じ取っているようだ。
「ばっちりスキャンダルを掴んでやる!」
羽澄はぎゅっと拳に力を入れると、耳をダンボにして意識を後方のテーブルに集中させた。
一体、どんな密会が始まるのだろう?
いよいよ、勝負の時が来た。
テラス席の方から現れたピンクのネオン……いや、自分の妻の姿を見て覚悟は決まった。
今日の打ち合わせ次第で、今後の日曜日が穏やかに過ごせるかどうかが決まる。下準備は完璧、のはずだ。
先週の打ち合わせ終わり、妻に内容をプレゼンテーションするとかなりの好反応だった。その後も事あるごとに、「あの物件の夜景は一味違う」「まるでドラマのような内装だ」と、呪文のように唱えてきた。その度に妻は喜び、自分の好きな俳優が出演しているドラマがいかに素晴らしいかを、私の四倍以上の時間をかけて説明してくるのだ。普段なら話半分にタイミングを見計らって逃げるのだが、これも新居獲得と自分の休日を確保するためと、全身全霊を込めて話しを聞いてきた。おかげでまったく見てもいないドラマのセリフを完璧に言えるようになったのだから、人間の記憶力には何歳になっても驚かされる。
「お待ちしておりました!」
突然、咆哮のような声が聞こえたので、教頭は手に持っていたアイスコーヒーを落としそうになった。最高の接待を、と目の前の男には伝えていたが、どうやら気合いを入れ過ぎて空回りしているようだ。
営業の男は、私にも見せたことがないような笑顔で妻を迎えて席へと案内する。間接的に妻と自分の立場の違いを見せられたような感じがして少し気分が下がったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。すべての意識をこの打ち合わせに集中させて、何としてでも妻の口から「YES!」の三文字を言わせることが私の使命なのだ。
「待たせたざますか?」
典型的なマダム用語を放ち、まるで王様のような態度で妻はどさっとソファに座った。その重量を測るかのように、ソファが激しく上下する。
「いえいえいえ、滅相もございません!」
男はこのホテルの従業員以上に深々と妻に頭を下げると、片手を上げてカフェのスタッフを呼んだ。そして妻の好きなフレーバーティーである、フランボワーズをすぐさま注文する。この辺りの打ち合わせも、ばっちり仕込んでいる。大事を成すには、こういった小さな気配りが大切なのだ。
営業の男は、「失礼します」と言って椅子に腰掛ける。予定通りの資料を取り出すと、そこにはマンションの夜景が全面的に写った写真と、その下には私がリクエストして追記させた、「今だけ七八〇〇万円!」の赤い文字が街の光以上に目立っていた。右脳に訴えかける写真のイメージと、左脳に訴えかける具体的な数字を入れることで、序盤からペースを掴む作戦だ。
「ふん」と鼻を鳴らして妻はその資料を手に取ると、ページをぱらぱらとめくり始めた。もちろん内容構成も抜かりない。まずは妻が最も重要視している夜景のベストスリーショットの紹介から始まり、最新型ジャグジー付き浴槽、乾燥機能付きウォシュレット、そして愛犬と一緒に過ごせるペットルームなど……。妻のこだわりポイント三六項目が、優先順位の高いものから順に紹介される構成になっている。さらに、資料に載せきれなかった情報については、ベストなタイミングで営業の男が説明を加えてくれている。
最初は横目で資料を見ていた妻も、ページをめくる度に、表情が変わっていくのが手に取るようにわかった。今日の打ち合わせのために、私がどれほどこの男と綿密な計画を立てたのか、きっと妻は想像もできないだろう。まるでスパイ映画さながらのリサーチを重ね、そして長年連れ添ってきた経験から、最も効果的な作戦を作り上げたのだ。
私の思惑通り、妻が一枚一枚の資料を見ている時間は徐々に長くなり、途中からは相槌やひとり言を呟き始めた。
よし、ここであのページが来る!
妻の興味が最高潮に高まったのを見計らうように最後のページが現れて、そこには自分が指示して付け加えた決め手のフレーズ、「愛ある夜景を」が大きく記されていた。あれだけ散々聞かされたドラマの名セリフを、勝手に拝借させてもらったのだ。
理想に見合った物件条件。さらには好きなドラマのシーンも思い出し、妻の顔には「YES!」と言わんばかりの笑みが溢れていた。いつ以来だろうか、こんな穏やかな妻の姿を見たのは。
何もかも完璧だ。
教頭は満足そうに大きく頷くと、営業の男に次の作戦のアイコンタクトを送った。すると男は咳払いをして、少し話しづらそうな面持ちを作った。
「以上が今回の物件についてのご紹介になるのですが、何分人気のある物件でして……。理想のお部屋を確保させて頂くためにも、来週にはお返事が頂けないかと……」
再び男は咳払いすると私を見てきた。話し方、リズム、そして表情までもが打ち合わせ通りの演技に、「OK」というメッセージを込めてゆっくり頷く。妻を見ると、予想通り目を瞑って「そうざますか」と唸っていた。これは、まんざらでもない時に見せる仕草の一つだ。そして魔女のようなアイシャドーを塗った目がかっと開かれたと思いきや、私に向かって言ってきた。
「こんなにも素敵な物件を見つけてくるなんて……見直したざますわ、あなた」
妻のうっとりした視線に、若干の寒気を背中に感じなからも、「君に喜んでもらえて嬉しいよ」とお決まりのセリフを返す。これでようやく平和な休日が訪れる。有名企業の舵を取る妻とはいえ、本気を出した戦略家の私に敵うわけないのだ。
「なに、これしきのこと。君のわがままにも、私なら全て答えよう」
自分の懐の広さを伝えるために言ったつもりだった。が、直後の妻の顔を見て、私は言葉の選択を誤ったことに気付いた。
「…………わたくしのわがまま?」
ただならぬ気配をいち早く感じ取ったのか、営業の男が口をぱくぱくさせながら目を泳がせている。それを見て、自分が感じた危機感が間違いではないことを確信した。
「あなた……わたくしのことをわがままと思ってらっしゃるざますか?」
鋭い二つの眼光が自分を突き刺す。紫ともピンクとも言えぬアイシャドーが、その目に悪魔的な演出を加えていた。
「あーいや……そ、そういう意味ではない。断じて、違う。そう、違うんだ」
クーラーが効いて快適なはずの店内で、額から汗が流れ始めていた。これは……非常にまずい。急いで妻の機嫌を戻さなければ、取り返しのつかないことになる。
「とりあえず落ち着こう」と出鱈目に言ってしまったことも災いして、「わたくしは落ち着いているざますわ!」と妻は雄叫びのように叫ぶと、立ち上がってこちらを見下ろした。静まり返った店内。その怒りに満ちた目に、子犬のように怯えている自分が映る。
「あなたはこの条件を、全部わたくしのわがままだと思っているざますね!」
あまりの迫力に声は出ず、金魚のように口が動くだけだが、貰えるのは餌ではなく妻の怒りだ。自分自身の発言で余計にヒートアップしてきたのか、悪魔と化した妻の言葉は止まらず、口調まで荒々しくなってきた。
「だったらあなたの条件も言うざますよ! 七千万だろうが、八千万になろうが叶えてやるざます。ただし、その結果どこかの誰かさんが死ぬ思いになることは、覚悟しておくざますよ!」
脅しじゃないざます! と付け加えた妻を見て、いつか考えていた遺書を、そろそろ本気で書かないといけないのではと思った。目の前を見ると、営業の男は完全に怯えていて膝が震えている。テーブルを伝わってくるその振動が、自分の恐怖をますます助長させる。やめろ、その膝を止めてくれ。
妻はその後も、思いつく限りの罵倒を私に浴びせてきた。もはやそこに普段のセレブさは感じられず、ヤクザまがいの言葉まで出てくる始末。そうだ、うちの妻はこう見えても、若い時は元ヤンだったことを今になって思い出した。
怒濤に押し寄せる妻の言葉を、私は必死になって理解を示そうと、ただひたすらに謝り相槌を打って聞いていた。どうしてこんなことになってしまったのだ? 私の考えた作戦は完璧だったはず……。気まぐれに発言してしまった一言で、こんな事態になってしまったことに今更になって後悔した。
それでも一度築いたチャンスを失うまいと私は必死なって妻を評し、讃え、そして文字通り、拝んだ。その甲斐あってか、気を利かせた店員が無言で水を運んできた頃には、妻の怒りも収まっていた。冷や汗と喋り続けて失った水分を取り戻そうと、教頭は一気に水を飲んだ。そして疲れ切った両目を、全く話さなくなった目の前の男に向けると、「最後は頼んだ」と無言のメッセージを送った。
「そ……そ、それでは来週の日曜日に、最終の打ち合わせということで……よ、よろしいでしょうか?」
男の上ずった声に、冷静さを取り戻している妻は「構わないざますよ」と何食わぬ顔で返事をした。
とりあえず、今年一番の災害は去ったようだ。
残ったフランボワーズを味わう妻の姿を見て、教頭はもう二度と地雷は踏むまいと固く決意した。一時はどうなるかと思ったが、これで残すは来週の打ち合わせのみだ。少しでも希望の光を見出そうとするかのように、教頭は目を細めて眩しいテラス席を眺めていた。
目の前には、手づかずのままのオレンジジュースとアイスコーヒー。
ピンクマダムの恐ろしい雄叫びが聞こえてから三〇分。翔子も羽澄も恐怖のあまり、顔を上げることができなかった。しばらくして、ようやくピンクマダムの怒鳴り声が聞こえなくなってから、羽澄は恐る恐る顔を上げた。すると、丁度同じタイミングで顔を上げた翔子と目があった。
「……これは凄いことになってきましたね」
てっきり怯えているのかと思いきや、翔子の口調は少し興奮している。
「ボス、これは本当にスキャンダルじゃないですか!」
サングラスがずれていることにも気付かず、翔子は鼻息を荒くして言った。「だから言ったでしょ!」と羽澄も興奮気味に答える。前回の時はほとんど会話の内容は聞き取れなかったが、今回はブチ切れたピンクマダムの会話を盗み聞きすることができた。
お金はいくらでも出せること、その結果、誰かが犠牲になってしまうこと。そしてその後に続く恐怖の言葉の数々……。これはもうスキャンダルとかいうレベルではない、事件だ。いや、戦争だ!
斜め前の席を見ると、明里と結衣も同じように驚いた顔でこちらを見ていた。スマホを見ると明里から、「これ本当にヤバいやつじゃん!」というメッセージと一緒に爆弾マークのスタンプが届いていた。半信半疑だった明里も、さすがに今回の一件で信じてくれたようだ。
羽澄は再び翔子と目を合わせると、「これからどうする?」と小声で聞いた。すると翔子はエロ教頭たちのほうをチラッと見ると、「あの三人が帰るまで待ちましょう」と静かに言った。
その後、ほどなくしてスーツ姿の男がレジに行くのに合わせて、エロ教頭とピンクマダムも立ち上がった。ピンクマダムが突然「あ!」と言った時は、てっきりバレたのかと冷や汗をかいたが、その直後に「帰りにモンブランが食べたいざます」というフレーズが聞こえてきてほっとした。教頭たちがホテルから出て行くのを確認してから羽澄と翔子は、ようやく手つかずの飲み物を口にした。あまりにも内容が濃すぎる時間を過ごしたせいか、氷の溶けたオレンジジュースはいつも以上に薄く感じた。
「だから言ったでしょ、ほんとだって!」
ホテルを出て、再び集まったマックの席で羽澄の声が勢い良く飛んだ。「し、うるさいって!」と、明里は人差し指を唇に当てると、目の前で興奮している人物を睨む。そして大きくため息をつくと、観念したように話しはじめた。
「しっかし、本当に羽澄が言った通りだったなんてね……」
その言葉に羽澄はむっと頬を膨らませる。
「どういう意味よ?」
「だってあまりにも話しが唐突だったから、てっきり羽澄の聞き間違いかと思ってた」
やっぱりそう思われてたのか……。明里の言葉に、羽澄は腕を組んで「もう!」と睨んだ。それを見て、「ごめんごめん」と子供をあやすように明里が謝る。
「でもこれは本当に大変なことになってきましたね」
さっきから熱心に手帳に何かを書き込んでいた翔子が、ひょこっと顔を上げた。
「教頭たちの話しはわかりませんでしたが、あのピンクマダムの話しが事実なら、これはもうかなりのスキャンダルです!」
興奮する翔子にペン先がついてこれず、びりっとメモ帳が破れる音がした。それでも翔子は気にせず話し続けた。
「スキャンダルの証拠を抑えられるとしたら、来週の日曜日ですね」
翔子の言葉に三人は静かに頷いた。
「でもどうやってスキャンダルを抑えるの? まさか突然私たちが飛び出していくわけにもいかないし……」
明里が困った表情を浮かべる。確かにそうだ。もしそんなことをすれば、あのピンクマダムに捕まって、口封じのために海に沈められる……。羽澄は何かの映画で見たことのあるシーンを思い出して身震いした。
「そうですね……スキャンダルを抑えるなら、綿密な計画を立てなければいけません」
「うーん」と四人は黙り込んだ。今日一日で掴んだ情報が多過ぎて、羽澄の頭はパンク寸前だった。
「ねえ、結衣はどう思う?」
羽澄は少しでも頭を整理しようと結衣に聞いた。その言葉を聞いた結衣は、眉毛をハの字にすると「んー……」と呟く。
「そうだなー、チワワは可愛いと思ったけど……」
「…………え?」
羽澄含めて三人は目を丸くして結衣を見た。そうだ。この子は大の動物好きだったんだ……。
「なんて名前なのかなー?」とマイペースに一人呟く結衣を見て、羽澄は諦めたようにため息をついた。
とりあえず来週の日曜日までに具体的な作戦を考えるということで、この日はお開きになった。初めての本格的なスパイ活動と、衝撃的なピンクマダムの発言に、みんな疲れていたからだ。「何か良い案が浮かんだら、すぐに連絡ちょうだい!」という羽澄の言葉を「またね」の代わりに、四人はそれぞれの帰路についた。
リーダーとして、これはすぐにでも作戦を考えなければ!
羽澄はそんなことを考えながら、急ぎ足で家まで帰った。しかし余計に体力を使ったせいか、自分の部屋に戻るなりベッドに寝転ぶと、いつの間にか夢の世界へと旅立っていた。
「それでは今から、エロ教頭を倒すための作戦会議を開きたいと思います!」
翌日の放課後、気合の入った羽澄の声が新聞部の部室に響いた。昨日の出来事があった為か、いつもより緊張感のある雰囲気が漂っている。
「ボス、何から話しましょうか?」
右手を突き上げて翔子が言った。「そうだな……」羽澄はわざと低い声で返事をして三人の顔を見渡す。
「……何から話す?」
「はあ、ほんとあんたは……」
明里がため息をついて肩を落とす。
「とりあえず私と結衣が聞いた内容と、羽澄たちが聞いた内容をまとめてみたら? もしかしたら、聞こえてた会話が違うかもしれないし」
明里の意見に、「それは名案!」と羽澄は指をぱちんと鳴らした。「それじゃあ私が書いてまとめるね」と、結衣がルーズリーフを取り出したのを合図に、四人は自分たちが聞こえた内容について話し始めた。
ピンクマダムが金にモノを言わせていたこと、そして犠牲者が出るかもしれないということなど……。四人が聞こえていた会話はほとんど同じで、いずれもピンクマダムが怒鳴り声で話していた内容だった。それでも情報がほとんど無かった今までと比べると、随分とスキャンダルに近づいたような気はする。
「勝負は今週の日曜日か……」
羽澄はシャーペンを唇と鼻の間に挟むと、眉間に皺を寄せた。エロ教頭を脅して沙織を助けるには、何か確信的な証拠がないといけない。ピンクマダムの話しだけだと、「そんなことは知らない」と言われれば終わりだ。まして、自分たちがあの場所にいたとわかれば、捕まって何をされるかわからない。
「何か物的証拠を掴めればいいんですけどね」
器用に指でペンを回しながら翔子が言った。「物的証拠か……」と、明里が翔子の言葉を繰り返す。
「あのアタッシュケースの中身を奪えないかな?」
「え?」
羽澄の爆弾発言に、三人は目を丸くして驚いた。
「あんたねー、そんなことすればこっちが犯罪者になるじゃない」
何言ってんだかと、明里は頭を抱えてため息をついた。
「んー、そっか……」
羽澄は頬杖をつくと、再び考え始めた。何か、良い案がないものか……。
「中身を奪わずに証拠を掴めればいいのでは?」
突然の翔子の言葉に、三人の視線が一斉に集まる。
「中身を奪わずに証拠を掴むって……どういうこと?」
羽澄の疑問に、明里も結衣も同意するかのように小首をかしげた。
そんな三人の様子を見ながら、翔子は「ふふふ」と不敵な笑みを浮かべると、リュックのチャックを開けて手を入れる。三人の視線が注目する中、翔子はリュックから一眼レフを取り出した。
「あんた何つーもん学校に持ってきてんのよ……」
驚きを通り越して、呆れた顔で明里が言った。一体いくらするのかわからないが、カメラに無知な明里でも、それなりの値段はするだろうと思うような立派なレンズが付いていた。
「すっごー!」
案の定、羽澄は翔子が持ってきた秘密兵器に目を輝かせて飛びついていた。結衣も同じく興奮している様子で、「それで動物の写真をいっぱい撮ってみたい!」と、ほのぼのするような発言をしている。
「にしし、凄いでしょ。EOS 5Dmark4、プロのカメラマンも使ってるモデル。まあ父親のやつなんですけどね」
そう言って翔子は、嬉しそうにカメラで写真を撮る仕草をする。
「なるほどね! それで証拠の写真を撮ればいいってことか」
羽澄が閃いたように指を鳴らした。たしかに写真だったらアタッシュケースの中身を奪う必要もないし、遠くからでも撮影できる。たぶん、このカメラだったらかなり遠距離からでもしっかりと撮影できるはずだ。この部室といいカメラといい、翔子が仲間に加わってくれたことで、初芝オージャンズが大きく変わったことは間違いない。
「いやー、翔子のおかけでエロ教頭のスキャンダルも、掴むことができそうだよ!」
「任して下さい。これでばっちり動かぬ証拠を抑えてみせますよ」
レンズ越しに自分のことを見る翔子に、羽澄は嬉しそうに敬礼のポーズを取っていた。
「あんたら……なんか楽しそうだね」
明里は呆れたように呟いたが、そんなことを気にする様子もなく、羽澄と翔子はカメラで遊んでいる。
「なんだが、翔子ちゃんもみんなと仲良しになってきたね!」
隣で結衣が嬉しそうに両手を合わせて言った。まあ確かに、誰とでも明るく話せる羽澄と違って、自分や結衣はあまり翔子と話す機会はなかった。でもこうやって関わるようになると、今まで知らなかった翔子の人柄を見ることもできたので良かったと思う。
「ちょっと、そろそろ真面目に作戦会議しないといけないんじゃない?」
明里の言葉でようやく羽澄も本題を思い出したようで、「そうだった」と姿勢を正した。
「で……何の話しをしてたっけ?」
羽澄は照れ隠しするかのようにぴっと舌を出すと、明里は「あんたね……」とため息をついて肩を落とした。
「ボス、これで証拠の写真を撮るっていう話しです」
「そうだそうだ!」
羽澄はぽんと手を叩いた。
「問題はそのカメラを使って、どうやって写真を撮るかだよね」
明里が人差し指を伸ばして、翔子の持っているカメラに向ける。
「そうですね。望遠レンズを使ったとしても、離れていれば限界がありますし……。可能であれば、テーブルに近づいて撮ることができれば良いのですが」
「なんだがそれって難しそう……」
翔子の話しに、結衣が不安げな表情を浮かべる。「うーん……」と四人は黙りこんでしまった。
「じゃあさじゃあさ、この中で一番足が早い人が走りながらテーブルに近づいて、パシャって撮る作戦はどう?」
羽澄は机から身を乗り出して、三人の顔を見た。
「……あんたね、もう少しちゃんと考えなさいよ」
明里の言葉に、「ちゃんと考えてるもん!」と羽澄が唇を尖らせる。
「私は足遅いから……羽澄ちゃんの作戦はできない、かな」
「もう、結衣も真面目に受け取らなくていいの。走りながらって犬じゃあるまいし……」
「……それ、いいですね」
「え?」
いきなりの賛成意見に、三人は驚いて翔子の顔を見る。
「チワワですよ、チワワ。あの犬を利用するんです」
「……どうやって?」
羽澄はがきょとんとした顔で聞いた。
「ピンクマダムはあのチワワを溺愛している様子だったので、次の密会の時も連れてくる可能性が高いでしょう」
翔子はそこで一呼吸置くと、眼鏡をくいっと上げて羽澄たちの顔を見た。
「もしあのチワワが突然逃げ出せば、ピンクマダムは確実に追いかけるはずです。そうなれば、教頭だって動かざるおえない。その隙にテーブルに近づいて、スキャンダルの証拠写真を撮る作戦はどうでしょうか?」
「おお!」と三人の声が重なった。さすが初芝オーシャンズのブレーン。翔子の作戦に羽澄は何度も頷いた。
「その方法だったら、ピンクマダムと教頭の二人をテーブルから離すことが出来るわね」
明里も大きく頷く。結衣も「翔子ちゃんって、やっぱり凄い」と感心している様子だ。
「そうなると、あのピンクマダムのチワワをどうやって逃がすかが問題か……」
羽澄は両腕を組むと、眉間に皺を寄せた。下手にチワワに近づいてピンクマダムに見つかったりすれば、せっかくの作戦も台無しになってしまう。
「前回と同じシチュエーションなら、ピンクマダムはテラス席のどこかにチワワを括り付けるはずです。その後、ピンクマダムが密会に集中している時に、チワワの紐をほどくチャンスがあると思いますよ」
「なるほど……でも紐をほどいたとしても、チワワが逃げ出すかどうかはわからないよね。あれだけ可愛がられているなら、紐がなくても大人しく待ってるかもしれないし」
明里はそう言って、「うーん」と再び考え込んだ。
「そのまま捕まえて逃げちゃうとかは?」
「だからあんたは……それこそ吠えられたりして見つかったら、今度は私たちの方が危なくなるわよ」
明里の言葉に、「そっか……」と羽澄が残念そうに呟く。あのチワワがどこまで飼い主に忠誠を誓っているのかわからないが、出来れば確実に逃げ出してくれるようにしたい。すると、明里が突然何か閃いたように、指をぱちんと鳴らした。
「確か結衣って、チワワ飼ってるって言ってたよね?」
「え……う、うん。飼ってるけど」
結衣の戸惑いが混じった返事に、羽澄の目が大きく見開いた。
「ほんとに! それだったら結衣があのチワワを手なずければ完璧じゃん」
へへへと満足そうに笑う羽澄を見て、普段おっとりしている結衣が、素早い動きで首を横に振った。
「む、無理だよ私には……。それにチワワを持って逃げるなんて……」
どうやら結衣の頭の中では勝手にストーリーが進んでいるようで、チワワ持ち逃げ作戦の設定になっているらしい。結衣がピンクマダムのチワワを抱えて、猛ダッシュする姿も見てみたいが、今はそんなことよりも彼女を説得させることが重要だ。
「お願い、結衣! ほんのちょっと、ほんのちょっとだけあのチワワを誘い出してくれたらいいから」
「誘い出すって言われても……」
「大丈夫! あんなにいつも動物に愛される結衣なら絶対にいけるよ」
結衣が歩けば動物が集まる。それは羽澄たちの間では有名な話しだ。お散歩中の犬や猫だってやってくれば、餌も撒いてないのに鳩たちが寄ってきたこともある。動物の方が人間よりも人の本質を見抜くと聞いたことがあるが、やはり仏の結衣は他の生き物から見ても、女神のような存在なのだろう。
「でも……私にそんなことできるかな……」
羽澄の説得も虚しく、結衣は眉毛を八の字にして、ますます不安げな表情を作った。
「それだったら当日私がテラス席に待機してチワワの紐をほどくから、その隙に結衣が誘い出すのはどう?」
一人では心細そうな結衣に助け舟を出してくれた明里の話しを聞いて、羽澄は「それいいじゃん!」と相づちを打つ。
「結衣はいつも通り動物を可愛がってくれるだけでいいから。ね、ね?」
まるで悪友が煙草を勧めるような口説き方に少し罪悪感を感じながらも、羽澄は必死になって結衣を説得し続けた。それに合わせて明里と翔子も横から援護してくれる。
「結衣、お願い! 沙織の運命がかかってるから、どうしても協力してほしいの。今回だけ!」
羽澄の勢いに押されて、「う、うん……わかった」と結衣は戸惑いながら返事をした。その言葉を聞いて、「ありがとう!」と羽澄はがっしりと結衣の両手を握ると、嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「よーっし! これでスキャンダルをばっちり掴めるね!」
「ちょっと、まだあのスーツ男がいるでしょ? あの人どーすんのよ」
浮かれる羽澄に、明里が冷静な口調で釘を刺す。そうだった。あの密会にはもう一人邪魔者がいる。
「うーん、教頭とピンクマダムがチワワを追いかけたら、あの男も一緒に追いかけるんじゃない?」
「どうでしょう……。むしろ、密会の途中に三人まとめて席を離れたらマズいので、あの男性は残るかもしれませんね」
翔子の言葉に明里も「だよね……」と呟く。
「正体がわからない分、迂闊には近づけませんね」
「確かに……」羽澄は頭の中でイメージした。エロ教頭とピンクマダムを動かせたとしても、あのスーツ男が残っているなら近づけない。
翔子は一呼吸置くと、深刻そうな表情でゆっくりと話しを続けた。
「アタッシュケースを持ってるのはスーツ男ですからね。もしあのケースの中からピストルなんて出てきたら、近づいた瞬間に…………」
きゅううん。
突然謎の音が聞こえて、「ひい!」と明里も結衣も飛び跳ねて驚いた。「何、何の音?」と三人が慌てて辺りを見回すと、一人だけ顔を赤くして俯いている。
「……あんた、まさか」
犯人を見つけた刑事のように、明里が鋭く羽澄を睨む。すると羽澄は申し訳なさそうに、上目遣いでぴっと舌を出した。
「ごめん…………お腹、鳴っちゃった」
羽澄のお腹すいた発言によって、四人は学校近くにあるファミレスに向かうことになった。ファミレスは丁度駅と学校の中間くらいの場所にあり、初芝女子校の生徒や近隣の高校生達のたまり場になっている。そのため羽澄たちも作戦会議終わりにお腹が減ると、頻繁に訪れる場所になっていた。お金事情に厳しい高校生にとって、こういう場所は心強い味方なのだ。
席に着くなり四人はとりあえずドリンクバーを頼み、各自好きな飲み物を持ってきた。そしてメニューをテーブルに広げると、作戦会議さながらの勢いで飛びつく。
「あたいはイカの墨入りパスタ」
「私は、トマトクリームパスタにしようかな」
呼び出しボタンを押してすぐに来た若い男の店員に、翔子と結衣がメニューを注文する。
「じゃあ私は……ハンバーグステーキのライスセット!」
元気良く大声で注文する羽澄を、明里は白い目で見ていた。
「あんたまたハンバーグステーキにするの? いい加減太るよ」
「別にいいじゃん! 育ち盛りなの」と羽澄は膨れて言うと、「だってパスタじゃお腹一杯にならないもん!」と付け足した。
「あっそ」明里は軽く返事をすると、「私は季節のドリアで」と店員に注文する。それを聞いた店員はマニュアル通りに注文したメニューを繰り返し、「以上でよろしいですか?」とそっけなく最終確認をしてキッチンの方へと戻っていった。
「あーお腹減った!」
羽澄は雪崩のようにソファからずり落ちると、お腹を抑えて唸っていた。
「もう、羽澄ちゃん行儀悪いよ」と優しい口調で結衣が注意すると、羽澄は照れ隠しに舌を出して座り直す。そんな様子を見て、明里が小さくため息をつく。
注文したメニューが届くまでの間、四人は作戦会議の続きを始めることになった。
「何とかして、スーツ男もテーブルから離すことはできないかな……」
羽澄がオレンジジュースを飲みながら呟く。翔子の作戦ならピンクマダムとエロ教頭は動かせるが、あのスーツ男も一緒に動くかどうかはわからない。もし奴がテーブルに残っていたら、近づく事は困難だ。だから、出来れば三人まとめてテーブルから離すことができればベストなんだけど……。
「んー、三人一緒にテーブルから離すのは難しいかもね……」
明里の言葉を聞いて羽澄は、「やっぱり?」とため息をついた。
「何かきっかけがあるといいんだけど……」結衣も困ったような顔をして呟く。それを聞いた翔子も、「うーん……」と腕組みをしながら何かを考えている様子だった。
四人が黙り込んでしまったタイミングに合わせるかのように、「お待たせしました」と二つのパスタとドリアが運ばれてきた。食欲をそそる芳ばしい香りに、「おっ先―!」と明里はスプーンを持つと、季節感たっぷりのドリアに切れ目を入れる。湯気と一緒に、ほのかにチーズの香りが立ち昇り、羽澄の方まで流れていく。
「残酷だ。これは非常に残酷だ……」
ドリアを美味しそうに食べる明里を見て、羽澄はお腹をさすりながらソファの上でもがき始めた。その様子を見て笑っていた翔子も、「先に頂きます」と言ってパスタを食べ始める。仏の結衣だけが、両手を膝の上に置いて、羽澄の料理が来るのを待っていてくれた。
「私はいいから結衣も先に食べなよ。冷めちゃうし」
「え、でも……」
結衣は申し訳なさそうに、少し上目遣いに羽澄の顔色を伺う。
「その状態だと、私が奪って食べちゃうよ。だから先に食べて」
自分の優しさを素直に受け取ってくれたのか、それとも冗談を本気で受け止められたのかはわからないが、結衣は珍しく素早い手つきでスプーンとフォークを手に取ると、急いでパスタを食べ始めた。
明里達もお腹が減っていたようで、最後のメニューが運ばれてくるまでの間、無言で食べ続けていた。極度の空腹感と目の前の残酷な光景に、自分が話さなくなったのも大きな原因でもあるが。
「ああ……」羽澄が大きくため息をしてテーブルにこんっと頭をぶつけると、どこからともかく鉄板でお肉が焼けるジューシーな音と、良い匂いが漂ってきた。
「きた!」
待ってました! と言わんばかりに顔を上げると、羽澄は嬉しそうにフォークとナイフを握りしめる。そして目の前に運ばれてきたハンバーグステーキを勢いよく頬張りながら、疲労しきった頭と身体にエネルギーを満たす。
羽澄は過去最高のスピードでハンバーグステーキをたいらげると、最後の一切れを口に運んで「ほれれでわ……」と話し始めた。
「ちょっと羽澄! ちゃんと飲み込んでから話しなさいって」
明里の鋭い睨みに羽澄はハンバーグを喉に詰まらせそうになり、慌ててオレンジジュースを手に取る。そしてグラスを一気に空にすると、「ぷはあ!」と言って生還者のような顔つきで三人を見た。
「ごほん。えーそれではお腹も満たされたので、エロ教頭のスキャンダルを掴むための作戦会議を再開したいと思います!」
大声で司会進行を始めた羽澄に、明里が恥ずかしそうに人差し指を立てて唇に当てる。
「しー! あんたは何でそんな恥ずかしいことを大声で言えるのよ」
怒る明里の隣では、頬を少し赤くした結衣が俯いている。
「あはは……、ごめんごめん」
羽澄は申し訳なさそうに頭を掻くと、再び咳払いをして姿勢を正した。「それでは作戦会議を始めたいと思います」と今度は小声で言うと、メンバーはこくんと首を縦に動かした。
男性店員がお皿を下げたスペースに、代わりに結衣がルーズリーフを広げる。そこにはもう少しで完成しそうな、綿密な計画図が綺麗な文字で書かれていた。残る課題はやはり、あの謎のスーツ男をどうやってテーブルから離すかということだった。
「うーん、あの男が何者なのかわからないんだよね……」
スーツにアタッシュケース。見るからに怪しい格好をしている男は、今回の密会で重要人物であることは間違いない。ただ、エロ教頭やピンクマダムと違ってあの場所でしか現れないので、掴める情報もごく僅かだ。
羽澄は眉間に皺を寄せながら、新しくグラスに入れたメロンソーダを飲む。ぱちぱちと弾ける炭酸が、疲労し続ける頭にちょうど良かった。
「何とかしてあの男をテーブルから離す方法があればいいのですが……」
翔子も同じように眉毛を眉間に寄せながら、ぶつぶつと呟いている。結衣と明里を見ると、二人もドリンクを飲みながら作戦を考えてくれている様子だった。
再び始まった作戦会議は、早々に暗礁に乗り上げてしまった。何か奥の手はないかと、羽澄は思いつきで一休さんのモノマネをしようとした時、先に明里が閃いたようで声を発した。
「だったらさ! 羽澄が教頭の足を引っ掛けるってのはどうよ?」
「え?」
羽澄は目を丸くして明里の顔を見た。
「だってこの作戦だと、羽澄が教頭たちの一番近くにいるでしょ? だからさ、教頭が近くを歩いてきたらこうやってバシっと足を引っ掛けるのよ。そしたら教頭がこけて、あのスーツ姿の男も慌てて駆け寄ってくるはずじゃん」
明里はテーブルの下からすらっと綺麗な足を出すと、実演のつもりなのかジェスチャーをする。
「げ、嫌だよそんなの。だいたいエロ教頭になんて触れたくもないし……」
この人何言ってんの? と羽澄は怪訝そうな顔で明里を睨む。本人は半分冗談のつもりだったのか、けらけらと笑っている。すると今度は翔子が右手を上げた。
「それだったら、教頭には触らずに倒すのはどうでしょう?」
翔子の魔法のような発言に、三人は「?」を顔に浮かべた。
「触れずにって……どういうこと?」
羽澄がぽかんとした表情で翔子に尋ねる。すると翔子は、がさごそとリュックの中に手を入れて何かを探し始めた。「今度はいったい何が出てくるんだ?」と、三人は顔を見合わせながら翔子の様子を伺っていた。
「お、これだ」そう呟いた翔子は、リュックの中から何かを取り出した。よく見るとそれは、細くて丈夫そうなテグスだった。にししと笑う翔子は、三人の目の前でテグスを見せると、両手でピンと伸ばした。
「これを使って……」
「首を絞める」
羽澄の発言に、ばしっと明里が肩を叩いて突っ込みを入れた。すると今度は、結衣が目を輝かせながら、両手を絡ませる。
「うわー、なんだか必殺仕事人みたい!」
おっとりとした口調でらしくないセリフを言った結衣を、明里と羽澄が少し驚いた表情で見た。
「あんた、意外と渋いの知ってるのね……」
明里の言葉に、結衣が嬉しそうに頷く。
「で、これをどうやって使えばいいの?」
羽澄が興味津々で翔子に聞いた。すると翔子は姿勢を正して咳払いをすると、真剣な表情を作る。
「このテグスを使って、教頭の足を引っ掛けるのです。おそらく教頭はピンクマダムの指示で、逃げ出したチワワを追いかけるはず。事前にテラス席まで通じる道にテグスを仕組んでおき、教頭が走ってきたタイミングに合わせて引っ張ります。教頭がテグスに引っかかって転倒すれば、側で見ているスーツ姿の男は慌てて駆け寄ってくるでしょう。その隙にあたいがテーブルまで近づき、このカメラで証拠写真を撮る。この作戦はどうでしょう?」
翔子はちらっとリュックから一眼レフを見せると、満足そうに微笑む。そんな彼女を見て、羽澄はごくんと唾を飲みんだ。凄い……この人、本物のスパイだ。
「翔子って……何者?」
羽澄の言葉に翔子は、「えっへん!」と胸を張る。
「まあそれだったら、やってもいいか……。それにあのエロ教頭には、沙織を傷つけた分痛い思いさせとかないとね」
羽澄はそう言って腕組みをすると、ふんと鼻から息を吐き出した。これでようやくスーツ姿の男も、テーブルから離すことができそうだ。
「テグスで足を引っ掛けるってことは、どこかに括り付けておかないといけないってことだよね?」
明里の質問に、翔子が眼鏡をくいっと上げる。
「そうですね。当日は少し早めにカフェに潜入して、色々と準備する必要があるでしょう。それに教頭たちがいつもと同じ席に座るように、あらかじめ仕組んでおく必要もあります」
「そんなこともできるの?」
目を丸くして驚く羽澄に、翔子は自信たっぷりに頷く。
「任せて下さい。当日は姉貴もいるので、協力してもらえるように話しをしてみます」
「何か凄いことになってきたな……」
明里は驚きながらも、半ば飽きれたような声で呟いた。
「あとは密会のペースを乱すことができればいいのですが……。前回みたいにピンクマダムの機嫌が悪くなれば、チワワが逃げ出した時に教頭も必ず追いかけるはずです」
さすがの翔子もその方法は思いつかない様子で、右手で顎を触りながらぶつぶつと独り言を呟いている。すると今度は、羽澄が「ふふふ……」と不敵な笑みを浮かべた。
「あるよ。密会のペースを乱して、ピンクマダムの機嫌を悪くする方法が」
「え?」
今度は翔子が目を丸くして羽澄の顔を見た。
「あんたまた変なこと考えてないでしょうね……」
怪しむ明里に対して、羽澄は「今度こそ大丈夫!」と親指を立てて答えた。そして満面の笑みを浮かべると、じっと明里の顔を見つめた。
「な……なによ?」
意味深長な視線を送ってくる羽澄に、明里は背中に寒気を感じた。それを察知したかのように、羽澄は「へへへ」とイタズラっぽく笑うと、身体を乗り出して明里に顔を近づける。
「密会のペースを乱してピンクマダムの機嫌を悪くさせるなら……明里がエロ教頭を誘惑すればいいんだよ!」
予想もしなかったリーダーの発言に、「はあ!」と明里は思わず大声で叫んだ。変なことを言い出すとは思っていたが、こいつは一体何を言っているのか……。
「だーかーら、明里はテラス席に待機してるんでしょ? だったら当日セクシーな服装で変装すれば、テラス席から教頭の注意を引きつけることができるじゃん。それにピンクマダムが気付けば、やきもち焼いてこの前みたいに機嫌が悪くなるって」
羽澄の奇想天外な作戦に、「確かに、それは良いかもしれませんね」と翔子も納得するように頷いている。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 焼きもちってあんた……私がほんとに焼き殺されるわよ! それに、上手くいくかどうかもわからないし……」
「いーんや、あのエロ狸のことだから、スタイル抜群のねーちゃんが現れたら絶対に見るはずだ」
「スタイル抜群のねーちゃんって……あんたはオヤジか」
飽きれて頭を抱える明里に対して、羽澄は嬉しそうに笑う。
「でも試してみる価値はありそうですね。それで密会のペースを乱すことができれば、こちら側がかなり有利になります」
「もう翔子まで何言ってんのよ……。ねえ、結衣からも何か言ってやって」
明里が助けを求めると、結衣はもじもじと指先を合わせながら俯いている。
「私は……変装した明里ちゃんのことが見たい、かな」
「なんだそりゃ」明里は大きくため息をつくと肩を落とした。目の前では、きらきらと両目を輝かさせた羽澄がずっとこちらを見てくる。
「変装って言っても、私まだ高校生なんだよ? 目の肥えたエロオヤジなんて、誘惑できっこないじゃん」
「いや、モデルまでやってる明里ならぜーったい大丈夫! それに結衣だって、今回は心を鬼にしてチワワを誘惑するんだよ? 明里が頑張らなくてどーするの」
チワワと教頭ではレベルが違う。明里はそう言おうと思ったが、この場の雰囲気がそれを許してはくれなかった。
「なんたって私たちは初芝オーシャンズ! それぞれが得意分野を活かして、任務を成功させる。沙織を助けるためにも、見せるもんは見せとかないと」
羽澄の話しを、明里は口を半開きにして聞いていた。もう言ってることがめちゃくちゃだ。沙織を助けるためとはいえ、明里は自分がこの作戦に加わってしまったことを初めて後悔した。
「だー、わかりました! やればいいんでしょ、やれば」
「さっすが明里!」
羽澄は嬉しそうに隣にいる翔子とハイタッチをした。
「でももし私がバレた時は、あんた達も道連れにするからね」
明里が鋭い眼光で三人を睨んだ。
「だーいじょうぶ! そんなことにならないように、絶対成功させるから」
どこからその自信が出てくるんだと問いつめたいが、明里はこれ以上自分の話しをされない為にもあえて黙った。
「明里殿も力になってくれますし、これでターゲットの三人をテーブルから動かすことができそうですね」
翔子はそう言って結衣の手元からルーズリーフを手に取ると、それを真剣な表情で見つめる。
「作戦の大枠も決まりましたし、この辺で一度整理しますか」
テンポよく会議を進めていく翔子の隣で、羽澄は「そうしよう!」と言葉を合わせる。
当日の作戦はこうだ。
まずホテル近くのマクドに事前に集まり、そこで作戦の最終確認を行う。そのままホテルへと向かい、最初に羽澄と翔子がカフェに潜入。テグスやカメラの準備をして、ターゲットが現れるまで待機。エロ教頭たちが現れて密会が始まれば、タイミングを見計らって明里が登場してテラス席へと向かい、その間に教頭を誘惑する。その後、密会の様子を伺いながら、明里がチワワの紐を解いて、結衣が引きつける。それを見たピンクマダムと教頭が、慌ててテラスへと向かう途中で、羽澄がテグスで教頭の足を引っかける。派手に転んだ教頭のところに、謎のスーツ男が駆け寄った瞬間、近くにいる翔子がテーブルに近づき写真を取る。
「……完璧だ」
わかりやすく説明してくれる翔子の話しを聞きながら、羽澄は自分たちの作戦に胸が高ぶっていた。
「フォーメーションとしては、今回の作戦はボスがターゲット達に一番近い形になります。そのためボスには、常に密会の様子を伺いながら、作戦を進めていく合図を出してほしいです。つまり、司令塔ですね」
「おぉ! なんかカッコいい」
羽澄は目を輝かせながら、「司令塔、司令塔」と言葉を繰り返した。
「あんたの指示ですべて決まるんだから責任重大なんだよ。わかってる?」
「わかってるわかってる。任せて!」
羽澄は親指をぴんと立てると、にっと白い歯を見せる。その笑顔が、明里の心を余計に不安にさせた。ほんとに大丈夫だろうか……。
「当日は姉貴もカフェで働いている予定なので、何かしら協力してもらえるように頼んでみます。あとは掴んだ証拠で沙織殿を助けるために、どうやって教頭を追い詰めるかですね」
「そっか、それも考えとかないといけないもんね……」
少しでも頭を整理しようと、羽澄は大きく伸びをすると窓の外を見た。窓の向こうには、夕陽に照らされながら、帰宅途中の人たちが足早に駅へと向かっている。と、その時。人混みの中に見覚えのある横顔が見えて、羽澄は両手を上に伸ばしたまま思わず固まった。そして視線だけ動かしながら、その人物を目で追った。
あの人だ!
人混みで溢れかえる交差点の景色の中で、羽澄の視線は一点に集中していた。その視界の中心には、名前も知らないあのイケメン青年の姿が映っていた。
「ごめん! ちょっと用事!」
羽澄は慌てて鞄のポケットからハンカチを取り出すと、勢い良く立ち上がった。「どうしたの?」と明里が驚いた様子で声をかけるも、羽澄は答える間もなく急いで出口へと向かった。店を出る瞬間「ちょっと羽澄!」と再び明里の声が聞こえたが、羽澄は振り返ることなく、赤信号に変わりそうな交差点に向かって走った。
まさか、本当に会えるなんて!
走るリズムに合わせて心臓が脈を打つ。身体中が熱い。さっきまで頭が疲れていたのが嘘のように、今はクリアになっていた。
クラクションの音に追い立てられながらも、何とか交差点を渡り切ると、羽澄はそのまま全速力で走った。
ここで会えないと、もう二度と出会えない。そんな思いが突き上げてくる中、人混みをかき分けて走っていると、目の前で道が二手に分かれた。
どっちだ?
目の前と、右手に伸びる道。どちらも学生やサラリーマンで溢れかえっている。
「あー、もう!」
はやる気持ちとは裏腹に、羽澄はその場に立ち止まる。ここで見失うわけにはいかない。全神経を集中させて、二手に分かれる道を交互に見た。
「いた!」
前方の人混みの先に、わずかに青年の後ろ姿が見えた。息が上がっているのも忘れて、羽澄は再び両足に力を入れて地面を蹴る。一人、また一人と追い抜かすごとに,青年との距離が縮まっていく。視界の中で大きくなっていく後ろ姿に、羽澄の頬が自然と赤くなった。
「あ、あの!」
青年との距離があと数メートルに迫った時、羽澄は勇気を振り絞って声を発した。その言葉に、周りにいる関係のない人たちが振り返る。あんた達じゃない! もう一度呼び止めようと大きく息を吸った時、青年が歩みを止めて振り返った。ふいに目が合った瞬間、胸に吸い込んだ空気の出し方がわからなくなる。
「あれ、君はたしか……」
もしかして、覚えてくれている?
嬉しさと吸い込んだままの空気が、一緒になって込み上げてくる。羽澄は両手を膝につけると大きく息を吐き出した。走ったからか、それとも緊張のせいなのか、呼吸を整えようとしても息が乱れる。高ぶる感情は体温に変わり、顔も耳も熱い。どうしよう。恥ずかしくて顔を上げれない。
「大丈夫?」
あの時と同じ、優しく包み込むような声が頭上から聞こえた。その言葉に、心臓がどくんと脈を打つ。
「だ、大丈夫です!」
やっとの思いで顔を上げると、目の前には確かに青年の姿。夢じゃない。羽澄は大きく息を吸い込むと、「あの……」と震える唇をわずかに開いた。
「そ、その……。この前は、ハンカチありがとうございました!」
頭を下げる勢いに任せて、思わず大きな声で言ってしまった。周りに行き交う人たちの視線を肌で感じながら、羽澄は恥ずかしさのあまり、頭を下げたままハンカチを差し出す。
ダメだ。あれだけ会いたいと思っていたのに、自分は一体何をしているんだ……。
気持ちの行き場も頭を上げるタイミングも見失い、羽澄はぎゅっと目を瞑った。すると頭上から、小さく笑い声が聞こえてきた。
「……え?」
ゆっくり顔を上げると、青年が口元を抑えて肩を震わせている。
あれ……私もしかして、なにか変なことしちゃった?
拍子抜けしてぽかんとした表情を浮かべていると、「ごめん、ごめん」と言って青年は羽澄の顔を見た。
「こんなに一生懸命にハンカチを返してくれる人を初めて見たからさ」
その言葉に再び顔が熱くなり、思わず視線を逸らしてしまう。
「わざわざ良かったのに。ありがとう」
青年はそう言ってハンカチを受け取ると、目を細めて優しく微笑んだ。その姿に、自然と心が嬉しさで満たされる。誰かの笑顔を見て、こんなにも幸せに思えることがあるんだ。我も忘れて、青年の笑顔に見惚れている自分に気づき、羽澄は慌てて両手で顔を隠した。指の隙間から前を見ると、青年は相変わらず優しく微笑んでいる。
「あ、そうだ」
青年は受け取ったハンカチをズボンのポケットに入れると、思いついたように声を発した。
「ハンカチのお礼に、良かったらお茶でもごちそうするよ。時間、あるかな?」
羽澄は反射的に「はい!」と言ったものの、緊張のあまり青年が何を言ったのか理解できなかった。そしてもう一度頭の中で、同じ言葉を反芻した時、羽澄は目を丸くして青年を見た。
え……? ええー!




