人間の月①
人類が月へと移住してから、もうすぐ一〇〇年が経とうとしている。
旧国家群の解体と統合によって誕生した新政府の下、月の地下に築かれた新たな人間の世界は、月固有のエネルギー資源の発見も相まって、かつてと同じ、あるいはそれ以上の繁栄を遂げていた。
だが決して忘れてはならない。人類が敗北したことを。逃げ出したということを。
大切なものを、母なる星に残して来てしまったということを……。
「そう、俺たちは大事なエロ本を地球に置いてきてしまったんだ!」
握った拳も高らかに、宮凪両助はそう言い切った。
「俺は知っている。旧時代の日本では、毎日のようにエロ本が発売されてたって話じゃないか。しかも書店のみならず、購買にも並んでいたとか。なにそれすごくうらやましい! 俺もそんな時代に生まれたかった! なにが悲しくて俺は、裸はおろかパンチラのひとつもないグラビアデータしか手に入らない時代に生まれてしまったんだ!」
この熱弁には教室にいた生徒の大多数が頷き、一部がひどく醒めた視線を送る。
前者は男子。後者は女子だ。特に両助の目の前で腕を組む少女などは、侮蔑の視線を隠そうともしない。
「その疑問に答えてあげるわ。両助、あんたが一七歳だからよ」
ミラーゼ・シフォン。両助の通うクロイツ軍学校において、学年首席を務める才媛である。ツインテールに結んだ、燃えるような赤髪が印象的な美少女だ。
十分間に渡って両助の力説を聞かされてきたミラーゼは、先程彼から没収した、そもそもの発端となった一冊の本に、その紫色の眼差しを向ける。
今の時代には珍しい紙媒体の薄い冊子。古ぼけた表紙には、デカデカと裸の女性の写真が載っている。
「ポルノが見たければ、あと一年待つことね」
「待てません!」
「そこで胸張って言われても困るんだけど。ていうか、こんなの持ってることが教官にばれたら停学よ? 旧時代の遺物は、然るべき手続きを踏まないと所持が認められてないってことくらいあんたも知ってるでしょ? なに法を守るべき軍人の候補生が率先して法を犯してるのよ」
「だからっていきなり取り上げることないだろ! 借りたばっかりでまだ中身も確認してないんだぞ!」
「じゃあ情状酌量の余地がなくはないわね。間一髪だったわ」
「ぐぬぬ……」
説得に心動かされた様子のないミラーゼを見て、どうしたものかと両助は頭を悩ませる。このままでは『地球からの贈り物』の名で知られる稀少な旧時代の遺物が、無惨な結末を迎えるのは明白だ。
同志たるクラスの男子たちに協力を求めても、ミラーゼを心変わりさせることは難しいだろう。優等生を絵に描いたような彼女は、決して不正を許さない。
考えろ、考えるんだ――煩悩まみれの思考は、かつてない高速回転を見せる。
「……ミラーゼ。その本を捨てたところで問題は解決しないぞ。むしろ状況は悪化する」
「どういう意味よ?」
「考えてもみろ。エロ本を取り上げられた俺は、この若いリビドーを発散することができないだろ?」
「え、いや、それは……」
「それはついつい禁制品に走ってしまうほどの欲求不満だ。我慢できるわけがない。俺はなにがなんでも再び『地球からの贈り物』を手に入れようと暴走するだろう。つまり、この俺のエロスをなんとかしないことには、この問題は解決したことにはならないのだ!」
「そうかも知れないけど、だ、だからってこれを返せるわけがないじゃない!」
「なら代わりにお前のパンツをくれ!」
「なに言ってるの!? 急になに言い出しちゃってるの!?」
ミラーゼは顔を真っ赤にして、制服のスカートを押さえる。
「ダメに決まってるじゃない! なに考えてるのよ馬鹿!」
「馬鹿じゃない! スケベだ! だからあらかじめ言っておくけど、合法的にミラーゼのパンツを手に入る機会が訪れた今、絶対に引く気はないからな!」
「合法的でもないし、そんなタイミングでもなかったわよ!」
「いやもう状況はエロ本を返すか、ここでパンツを脱いで俺に手渡すかのどちらかしかないからね?」
「いつからそんな最悪な状況になってたの!?」
「エロ本とかもう正直どうでもいいので、お前のパンツをください。大丈夫、いかがわしいことには使わないから。枕元に置いて添い寝するだけだから!」
鼻息を荒くして、両助はミラーゼににじり寄る。
とはいえ、両助もまさか本当にミラーゼが下着をくれるなんて思っていなかった。ありえない選択肢と本とを天秤に乗せることで、彼女の中でエロ本の価値を暴落させようとそうと企んでいたのだ。
想定どおり、ミラーゼは恥ずかしそうにぎゅっとスカートをつかむと、
「……そんなに、欲しいの?」
あれ? これもうちょっと押せばパンツいけんじゃね?
「欲しい! ミラーゼ様のパンツ超欲しいです!」
「もうポルノ雑誌は見ないって約束できる?」
「約束するぜ! エロ本なんてこんなもの、窓の外へ飛んでけコラァ!」
ミラーゼの手からエロ本を奪い取ると、両助は窓の外へ投げ捨てた。
本を貸してくれた友人が悲鳴をあげるが無視する。目の前のパンツはすべてに優先されるのだ。それが学校でもダントツの美少女のものだとすればなおさらに。
果たして、ミラーゼはどんなパンツをはいているのか?
色は? 柄は? 面積は?
期待が鼻から奔流となってほとばしる。
制服の胸元が真っ赤に染まっていくが、慣れていることもあって気にも留めない。
「よし、それじゃあミラーゼ。約束のおパンツ様、を……」
鼻血を垂れ流しながらミラーゼに向き直った両助は、そこで彼女が不敵に笑っていることに気が付いた。
「ふっふっふ。あんたの思考パターンはお見通しよ」
「……もしかして、演技?」
「誰も本当に渡すとは言ってないでしょ? ちなみに今の時間、ちょうどそこの窓の下のあたりは教官が見回りしてるから、今頃回収されてるでしょうね。ご愁傷様でした」
「うわぁああああああん!」
「マジ泣き!?」
残酷な裏切りにあった両助は恥も外聞もなく泣き叫ぶと、近くにいた友人の腕の中に飛び込んだ。ついでに鼻血をぬぐう。
「ひどい! ひどすぎる! 俺の純情を弄びやがって! ついでに今は今かとストリップを待っていた男子たちの期待を裏切るなんて! ミラーゼの鬼! おたんこなす!」
「……本当に脱がないとも言ってないけど」
「マジで!? おい、邪魔だ馬鹿離せ! 携帯を構えられないだろうが!」
「お、男って奴は……」
目を輝かせながらポケットから携帯端末を取り出す両助を見て、ミラーゼは大きなため息を吐いた。
両助はしばらくわくわくしながら待っていたが、いつまで経ってもミラーゼが脱ぎ始める様子がなかったので、また騙されたのだと気が付いた。ついでに、結果的に稀少な聖典を失っただけであることを悟った同志たちの怒り狂った視線にも。
「両助、テメェ!」
「し、仕方なかったんだ! ミラーゼがパンツを使って俺を誘惑するから!」
「仕方ないじゃ済まねえよ」
「あれが俺たちパイロットコースのもてない男の子たちにとってどれだけありがたい女神だったか、お前もわからない男の子じゃないだろう?」
「僕、まだ見てなかったのに……」
「返せよ。俺たちの恋人を!」
「もしくはミラーゼちゃんのパンツを盗んでこい!」
「あと人の服で鼻血をふくな!」
逃げ場を塞ぎ、取り囲むようににじり寄ってくる男子たち。
「くっ、ミラーゼ。頼むパンツを! 俺にお前のパンツをぉおおぎゃあああ――――ッ!!」
女子がドン引きする中、始まる制裁。
たとえ住む星が変わっても、人の生活が劇的に変わることはなかった。




