吸血鬼の日常①
歓迎会の翌朝。床で大の字になって寝ていた両助は、小さな物音に目を覚ました。
どうやら昨日は、はしゃぎ疲れてそのまま食堂で眠ってしまったらしい。両助だけではなく、一緒に騒いでいた面々も近くで寝息を立てていた。
一人、二人、三人、四人……寝ぼけた頭で人数を数えた両助は、麗しき吸血鬼が一人足りないことに気付く。目を覚ましたときに聞こえた物音は、誰かが食堂を出て行く足音だったらしい。
「ええと、ここにいないのは……イレーナか」
歓迎会で行った自己紹介を思い返せば、すぐに誰が出て行ったのかは判断が付いた。
隣で眠っていたエリスを起こさないよう気をつけながら、こっそりと食堂を抜け出す。
幸いイレーナがどこへ行ったのかはすぐにわかった。廊下に出てすぐ、彼女のものと思われるかけ声が聞こえてきた。
気合いの入ったその声を頼りに廊下を進んでいくと、城の中庭へと出た。
軽く運動ができるくらいのスペースがあり、一角には綺麗な花を咲かせた花壇が広がっている。
「ん?」
素振りをしていたイレーナは、両助に気が付いて手を止めた。
イレーナ・ブランは長いライトブラウンの髪を一本の三つ編みにしてまとめた、大人びた雰囲気の吸血鬼である。
女性的な魅力にあふれた抜群のプロポーション。ワンピースタイプの軍服の上からでも、その鍛え抜かれたしなやかな肉体美がうかがえる。厚めの唇からもれる吐息も、あごを伝って地面に落ちる汗の雫も、どこか艶めかしい。
そんな彼女が手に携えているのは、わずかに反りの入った片刃の剣だった。
細身の刀身には美しい波紋が浮き出ている。芸術品としての側面も持つ日本刀――しかもその中でもとりわけ珍しい、野太刀と呼ばれる巨大な刀だった。
柄も含めた全長は二メートル超。女性にしては比較的長身なイレーナの身の丈をも軽く超えている。重量も相当なものだが、彼女は苦もなく右手一本で扱っていた。
「……お前か」
修練の高ぶりがまだ収まっていないのか、イレーナの両助を見る目つきは厳しい。
思えば、昨日の歓迎会のときもそうだった。出迎えてくれたときはわずかなりとも笑顔を見せていた彼女だったが、最初の自己紹介以降、少し離れた位置でお酒を飲んでいるだけで、両助や他の吸血鬼たちが話しかけないかぎり、自分から絡んではこなかった。
だからこれはチャンスだ。
二人きりになれたこの機会を逃すことなく、少しでもこのお姉様と呼びたくなる美少女との距離を縮めなければ。冷たい視線くらいで諦めるつもりはない。むしろご褒美です。
内心で意気込みを新たにした両助は、軽く片手を挙げてイレーナに近付いていく。
「おはよう、イレーナ。すごいな。毎日こんなことしてるのか?」
「ああ」
素っ気ない返事のあとに、少し間が空いて、
「毎朝の日課なんだ」
「もしかして邪魔しちゃったか?」
「いや、誰かに見られている程度で集中できないほど、柔な鍛え方はしていない」
それは暗に訓練をやめるつもりはないと宣言していた。さっさと消えろ、と遠回しに言っているのかも知れない。
「見ててもいいか?」
それでも両助は食らいついていく。
イレーナもこのしぶとさは予想外のようだった。厳しく引き締められた表情に、わずかに戸惑いが見られる。
「見ていておもしろいものでもないと思うが」
「そんなことないさ。色々と目の保養じゃなくて勉強になるからな!」
イレーナの豊かな胸元に引き寄せられそうになる視線を、なんとか野太刀へ向ける。
「俺も少し剣術をかじってるし、イレーナの戦い方には興味があるぜ」
「剣術を?」
「ああ。名前を聞いてもらえばわかるように、俺のご先祖様は日本人だからな。伝統を絶やすわけにはいかないと、日本特有の武芸芸術は大なり小なり教え込まれたのさ。イレーナの剣術も、元々は日本の剣術じゃないか?」
「よくわかったな。たしかに日本の武士から剣術の基礎を教わったが、かなり自己流にアレンジをしているんだが。……なるほど、それを読み取れる程度には心得があるわけか」
イレーナは興味深そうに両助の体付きを眺めると、野太刀を地面に刺し、代わりに近くの壁に立てかけてあった木刀を二本手に取った。
「どうだ? それならひとつ手合わせでもしないか?」
「手合わせを?」
「もちろん手加減はする。どうだ?」
「そうだな」
この展開は予想していなかったが、両助に断る理由はなかった。
「わかった。久しぶりでどこまで相手になるかわからないけど、相手をさせてもらうぜ」
「そうこなくてはな」
投げ渡された木刀を受け止め、軽く振って感触を確かめたあと、両助は教本通りの正眼の構えでイレーナに対峙する。
「どこからでも打ち込んで構わないぞ」
対して、イレーナは木刀を肩に担ぐような構えを取った。
「なら遠慮なく!」
明らかな迎撃の構えに対し、両助は馬鹿正直に真正面から打ち込んだ。
「ほう」
臆さなかった両助に、イレーナは初めて笑みを浮かべると、両助の攻撃に合わせる形で木刀を振るった。
重い衝突音。ビリビリと手首にまで伝わってくる衝撃は、もう数年前に剣術の鍛錬をやめた両助には懐かしい痺れだった。
二撃、三撃と木刀を打ち合わせる。イレーナの力加減は見事なもので、剣は型の模範演技ように二人の間でかみ合った。イレーナの振るう剣からは、相手の力を高めようとする教育者の意志が感じられ、昔は師からこうして稽古をつけられたことを両助は思い出した。
そうしてどれくらいの時間、剣を振るっていただろうか?
「あ」
汗ですべり、両助の木刀を握る力がゆるむ。
その瞬間、イレーナの動きがこれまでとは段違いに速くなった。気が付けば振り下ろされた木刀が、両助の頭の上ギリギリで止められていた。
「まいった」
両助は手をあげて降参を示す。
「すごいな。身体能力で敵わないのは仕方ないにしても、技術が半端じゃない。完全に稽古をつけられちまった」
「まあ、ずっと一人でこればかりやっているからな」
「それにしては相手に稽古をつけることに手慣れた感じだったみたいだけど、もしかして前に誰かに教えていたことがあったのか?」
「そうだな」
イレーナはわずかに逡巡したあと、
「昔、軍で教官をしていたことがある」
「教官。それでか。さぞや生徒に人気にある教官だったんだろうな」
「残念ながら、そのときの私のあだ名は『鬼武者』だったよ。今思えば、そう言われても仕方のない教え方をしていたわけだが」
「鬼武者か」
なるほどどうしてセンスのあるあだ名である。
「今、ぴったりだと思っただろう?」
「ははは、まっさかぁ! それよりも、俺としてはイレーナが本気を出すとどれくらい動けるのか気になるんだけど!」
それは誤魔化したという理由だけではなかった。実際、イレーナが本気を出すとどれくらいの動きが出来るのかは気になっていた。もっと言えば、吸血鬼がどれだけ強いのかが気になるのだ。知識や彼女たちの挙動からある程度は読み取れても、彼女たちが本気を出したところは見たことがない。
「イレーナ。よかったら、イレーナが本気で剣を振るってるところを見せてくれないか?」
「……そうだな。一度人間と吸血鬼の身体能力の差を、実際にその眼で見てみるのも勉強になるかも知れないな」
イレーナは木刀を近くの壁に立てかけると、野太刀に持ち直して構えた。
先程と同じ肩に担ぐ構えだが、稽古のときはなにもかもが違うと、彼女の放つ雰囲気を肌で感じて両助は理解した。
「ふっ!」
イレーナが野太刀を振るう。
単純な振り下ろし。だがその威力は桁外れだ。
両助の目には、彼女がイメージした相手を、脳天から股下まで一撃で粉砕した姿がはっきりと幻視できた。
彼女はそれだけは止まらない。再び野太刀を肩に担ぐと、背後を振り返り――一閃。そこにいた敵を撃滅する。
さらに。さらに。さらに。
無駄な動きは一切なく、ただ刃を振り下ろす機械であるかのごとく、彼女は敵を一撃の下に倒していく。
その戦法は居合いに近く、初撃必殺――二の太刀を考えず、最初の一撃にすべてを込めた戦い方だった。
それなら通常、両手での振り下ろしの方が効率はいいはずだが……。
「そうか。つまりイレーナの剣は、対人を想定したものじゃないのか」
一撃の威力を削いででも、間合いと手数の多さを取っている。さらにあの得物だ。彼女が想定しているのが対人ではなく、対アルカナであることは容易に想像がついた。
敵は時が経つほどに手強くなっていき、それに合わせて戦いも激しくなっていく。
イレーナの動きは単純に見えて複雑で、なにより動きが速すぎて目で追えない。攻撃のたびに小さな衝撃破を生み出し、中庭に面した壁を激しく揺さぶるほどだった。
「これが吸血鬼の身体能力……!」
まるで生身の戦闘ではなく、ドラグーンを使用した戦いを見ているかのようだった。
さすがにスペック的にはドラグーンの方が上だろうが、それでも人間の身からすれば、超人的な動きだ。
やがて最後の一体を倒したイレーナが、動きを止めて深く息を吐き出した。
その額には大粒の汗がにじんでいる。あの野太刀を生身で振るうのは、吸血鬼の身であっても疲れるのだろう。恐らく、元々パワードスーツを身につけた状態での使用が前提として作られた得物に違いない。
「これがアーリンダル空軍ドラグーン隊のリーダー、イレーナ・ブランか」
労りの言葉も、賞賛の言葉も、今の抜き身の刃のごときイレーナにはとても投げかけられなかった。
彼女の紅の眼差しに映っているのは、ただ、倒すべき悪魔のみ。アルカナを屠る鬼の武者こそが、両助の目の前にいる少女だった。
「……それにしても」
両助の鼻からつぅと鼻血が垂れる。
「大変いいものを見させてもらいました」
戦い方ももちろんだが、両助は抜かりなく、ばいんばいんと跳ね回るイレーナの胸も確認していた。その躍動感たるや、本物の巨乳というものを、両助は今日生まれて初めて見た気分だった。
「おい、大丈夫か?」
邪な視線には気付けなかったのか、イレーナは鼻血を流す両助を心配して近付いていく。
「大丈夫。もうおさまった。本当にありがとうございます」
「それならいいが……まったく、鼻血を流すほど真剣に魅入るようなものではないだろうに」
「両助くん! イレーナ!」
イレーナが苦笑してみせた直後、エリスが中庭へやってきた。
エリスは二人の様子を見ると、不思議そうに首をかしげる。
「どうかしたんですか?」
「いや、なんでもない。そうだろう? 宮凪」
「そうだな。ちょっとイレーナに剣を見せてもらってただけだ」
「そうなんですか」
得心がいったという顔でエリスは手を叩き、そのあと頬をかわいらしくふくらませる。
「でもそれならそれで、わたしも起こして欲しかったです。朝起きたとき、隣に両助くんがいないことに気付いたわたしがどれだけ慌てたか……本当に……昨日のぜ、全部が夢だと思って……」
「夢じゃないぞ~。両助くんここにいるから泣く必要なんてないんだぞ~」
「すみばぜん」
もはや見慣れた感すらあるエリスの泣きそうな顔に、両助は慌てることなく対応する。
そんな二人をイレーナは横合いから、懐かしそうな、まぶしいものでも見るかのような温かな眼差しで見守っていた。