牢獄の星の少女③
ジークリンデのあいさつは完璧だった。
頭を上げ、胸に手を当てて名乗る仕草まで洗練されていて、なにより両助を心から歓迎していることが伝わってくる。
「宮凪両助です。察してるみたいですけど、月の人間です。今回は突然基地を訪問することになって申し訳ありません」
「あら、気にしないでくださいませ。人間さんならいつでも大歓迎ですわ」
「そう言ってもらえるとありがたいですね」
とはいえ両助からすれば、初対面の吸血鬼から好意を向けられるのはこれが二度目だ。エリスのときほどの衝撃はなく、すぐに名乗り返すことができた。相手が幼い見た目ながらも司令代行の地位ということで、咄嗟に敬語を用いる冷静ささえあった。
ただひとつ、ジークリンデ・リーゼンナハトという彼女の名前には引っかかりを覚えた。その名前は以前、どこかで聞いたような気がするのだが……。
考えても思い出せなかったため、両助はそのことはひとまず横へ置き、ジークリンデに右手を差し出した。
「よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそよろしくお願い致します。さて――それでは、あいさつはこの辺にしておきましょうか」
握手を終えたところで、ジークリンデの雰囲気が変わる。
エリスと接していたときのように、いくらか砕けた言葉遣いに戻ると、彼女は通路の奥を手で指し示した。
「ひとまず、落ち着ける場所に向かいましょう。二人には、なにがどうなってこんなことになっているのか、色々と聞きたいことがあるわ。もちろん拒否権はないのであしからず」
「俺としても色々と聞きたいことはあるので、話し合いは望むところですよ」
「そうですよね。両助くんともっと仲良くなるためにも、話し合いは必要ですよね!」
エリスだけ微妙に思惑が異なっている気がしたが、話し合いの場を設けるという方針に誰も否はなかった。
「それじゃあ、私についてきて」
ジークリンデを先頭に、三人は基地の中を進んでいく。
「まずは、月にいるはずの人間のあなたが、どうしてこの地球にいるのか説明してもらえるかしら?」
部屋に到着するまで待てなかったジークリンデが、道中で両助に説明を求める。
エリスも声には出さないが、知りたい気持ちは同じという顔をしていた。
「実は……」
事故という理由を隠す必要性は考えられなかったので、両助は二人にどうして地球に墜落する羽目になったのか、その詳しい経緯を語った。
「なるほど。ドラグーンの訓練中に、アルカナに襲われて地球に墜落しちゃったわけか」
「……災難でしたね」
「災難っていえば大災難だけど、どうしてエリスがそんな顔するんだ?」
納得顔のジークリンデとは違って、話を聞いたエリスはなぜか表情を曇らせていた。
「わたし、両助くんと出会えたことをあんなに喜んでしまったので。両助くんは死にそうな目にあって地球に来てしまっただけなのに……」
「なんだ、そんなことか」
「そんなことって、両助くんは気にしてないんですか?」
「当たり前だろ? 俺の不幸を喜んでたっていうならともかく、エリスは俺と出会えたことを泣くぐらい喜んでくれたんだからさ。俺もエリスみたいなかわいい子と知り合えたことは嬉しく思ってるからな」
「両助くん……」
「だからエリスも気にせず、俺といういい男に出会えたことを喜んでくれていいんだぜ?」
「はいっ! わたし、両助くんが初めての人になってくれたこと、一生の記念にします!」
「そ、それはちょっと大げさなような」
「それよりも初めての人ってなにかしら?」
両助とエリスの会話をにやにや笑いながら眺めていたジークリンデだったが、これには口出しせずにはいられなかった。
両助から距離を取ると、自分の身体をかき抱くようにして防御姿勢を取る。
「あなた、まさかエリスが世間知らずなのをいいことに、あんなことやこんなことを!」
「誤解! 誤解だから! 俺はエリスとそんな嬉しいことはしてません! なんだったら童貞かけてもいいですよ!」
「けれど、エリスにとっては初めての人なのでしょう?」
「はいっ! 両助くんはわたしの初めての人です!」
「素敵な笑顔をありがとな! でも否定して! お願いだから今だけは違うと言って!」
「えっ? だ、ダメなんですか? 両助くん、やっぱりわたしの初めての人になってくれないんですか?」
幸せの絶頂から一転、絶望にたたき落とされたエリスは、ぷるぷると小動物のように身体を震わせ始める。
「そう、ですよね。わたしに初めての人ができるなんて、そんな夢みたいなことあるはずないですよね……きっと目が覚めれば、素敵な人間さんなんて、どこにもいないんですよね……」
「いつでもどこでも君の隣に宮凪両助! そう、俺はエリスの初めての人!」
これ以上傷ついていくエリスを見ていられず、やけくそ気味に両助は叫んだ。叫ぶしかなかった。
「というか、初めての人って本当にどういう意味なんだ? させてくれるの? このあとさせてくれるんですか?」
「ああそれは、そのままの意味よ。エリスにとって、あなたが初めて出会った人間ってこと」
落ち込んだまま両助の声が耳に入ってこないエリスの代わりに、こともなげに解説するのはジークリンデだった。
「エリスは人間が月に去っていったあとに生まれた吸血鬼なの。だから人間を他の子の話でしか知らなかったのよ」
「そうなんです。だからわたし、みんなから教えてもらった人間さんに会うのがずっと夢で。……あれ? 結局両助くんはわたしの夢なんだから、今でも夢のままということで……なんだかよくわからなくなってきました」
「安心なさい、エリス。これは夢じゃない。現実よ」
ジークリンデは軽く背伸びをして、エリスの頬をつねりあげる。
「いひゃい! ――っていうことは夢じゃない? わぁい! ジーク、つねってくれてありがとうごひゃいまふ!」
思い切りつねられ、エリスは両手をあげて喜んでいた。
「ようやくわかった。初めての人になってくれっていうのは、初めて会った人間になってくれって意味だったんだな」
喜んで損をしたような、謎が解けて嬉しいような、両助は複雑な気持ちだった。とりあえず、脱童貞の機会を逃したことは純粋に悲しくて切ない。
「ん? ちょっと待てよ?」
そこで両助はあることに気付き、ジークリンデに詰め寄る。
「ジークリンデ! お前、最初からエリスの発言が誤解ってわかってたんじゃないか!」
「ええ。それがなにか?」
「……なんでもないです」
両助はがっくりとうなだれる。
悪びれた風もなく天使の微笑みを浮かべるジークリンデには、口ではとても勝てそうにないことを直感的に悟ってしまった。
「それにしても、まさか初対面でこんな風にからかわれるとは思ってもみなかった。ほんと、吸血鬼って知れば知るほど、月で教えられたのとは全然違うんだな」
「そうなんですか?」
吸血鬼というのは聴覚も優れているのか、両助の小声のつぶやきにエリスが反応する。
「ああ。なにせ月では、吸血鬼がアルカナを――」
「エリス。悪いけど、ちょっと用事を頼まれてはくれない?」
両助が月で吸血鬼がどう思われているのか説明しようとすると、話を遮るようにジークリンデがエリスに声をかけた。
「用事ですか? でも……」
エリスは両助を見る。連れてきた者としても、一人の吸血鬼としても、今は彼の傍から離れたくなかった。
「わたしは両助くんとまだ一緒に居たいです」
「エリスの気持ちもわかるけど、用事って言うのは他でもなく、その宮凪くんのことなのよ」
「両助くんの?」
「そう。この基地に一〇〇年ぶりのお客様が来たことを、他のみんなにも伝えて欲しいの。みんな、今日という日をずっと待ちわびていたんだから、できるだけ早く教えてあげたいじゃない。ね? エリスにもその気持ちはわかるでしょう?」
「それは……わかりますけど」
「それに、エリスはまだメディカルチェックに行ってないでしょう? あなたはアルカナと戦闘を行ってきたんだから、きちんとチェックを受けておきなさい。人間と初めて会えた興奮で今はわからなくなってるでしょうけど、厳しい状態になってるはずよ」
「でも」
「司令代行としての命令です。エリュシア・ヴァートリッヒ少尉。復唱を」
「……エリュシア・ヴァートリッヒ少尉。これより補給と他の隊員への伝達に努めます」
しばらく引き下がっていたエリスだったが、基地司令から命令されては従うほかなく、渋々といった顔で命令を復唱した。
「すみません、両助くん。そういうことで、わたしは少しの間離れることになってしまいました」
「謝ることじゃないさ。ゆっくり休んできてくれ」
「いいえ。案内すると言ったのはわたしですから。だから、できるだけ早く戻ります。具体的には五分で!」
「適当に済ませる気満々じゃないの。……仕方のない子ね」
ジークリンデはため息をつくと、おもむろにエリスの耳を引っ張って、何事かささやいた。
両助には聞こえなかったか、悪いことを言われたわけではないのだろう。離れたくないと落ち込んでいたエリスの顔が、明るい輝きを取り戻す。
「――ということなんだから、しっかりゆっくりしてくるのよ。わかった?」
「はいっ、わかりました! 行ってきます!」
ジークリンデが手を離すと、エリスは両助に一礼し、あっという間に立ち去ってしまった。その足取りは軽やかで、後ろ髪を引かれた様子はみじんもない。
「一体なんて言ったんだ?」
「内緒。でもすぐにわかると思うわ。さあ、私たちも行きましょうか」
ジークリンデは唇の前で人差し指を立てたあと、止まっていた歩みを再開させた。
それ以上の会話はなく歩き続けること数分、二人は目的地に到着する。
「到着。ここがこの基地の心臓部、戦闘情報司令室よ」
「CICって、そんな場所に部外者が入ってもいいのか?」
「気にしなくてもいいわ。見られて困るものはなにもないから」
「そういう問題か?」
司令代行が許可するなら、と両助も司令室に足を踏み入れる。
部屋に入ってまず目に付いたのは、空中に投射された、いくつものディスプレイだ。
基地周辺の地上映像だろう。両助が墜落した浜辺や、そこから見えた山などが映っている。
ディスプレイの下には大きな円卓といくつかの椅子があり、円卓には周辺の地形を模したと思われるホログラムが投射されている。なにか問題が発生したときには、ここに集まって作戦を考えるのだろう。
以前、両助は父親に連れられて、統合軍基地の戦闘情報司令室を見学したことがあるのだが、そのとき見た光景とほとんど変わりない光景だった。違うのはコンソールを叩いているのが人ではなく、多脚式の無人ロボットということくらいだ。地球と月とでは、ほとんど科学力に差はないらしい。
「そのあたりの椅子に適当に腰掛けていて。紅茶を淹れてあげるから」
ジークリンデに勧められるまま、両助は円卓を囲む椅子のひとつに腰掛ける。
しばらくディスプレイの映像や周辺の地形を観察していると、部屋の隅で一台のロボットと一緒にお茶を用意していたジークリンデがお盆を手に戻ってきた。お盆には、薫り豊かな湯気を立ちのぼらせるカップがふたつ載せられている。
「はい、どうぞ」
「サンキュ」
お礼を言ってカップを受け取り、喉が渇いていることもあって早速口をつける。
「うんまっ」
一口飲んで両助は驚いた。月で何度か飲んだことのある紅茶とは、味も風味もなにもかもが違った。こちらの方が断然美味しい。
「その顔を見るかぎり、やっぱり月だと美味しい紅茶は飲めないようね」
「これが本当の紅茶っていうなら、そうなんだろうな。月の食糧事情は、とにかく質より量だからな」
紅茶やコーヒーのような嗜好品の類が、一般市民でも手が出せるくらいの値段で市場に出回り始めたのは、ここ十数年くらいの話である。それまでは主食となる食材か、合成レーションしか手に入らなかった。
そのさらに前は配給制だったというのだから、月の食糧事情もかなり改善されてはいるのだが、ここまでの逸品は、比較的上流階級の出身である両助でも口にしたことはなかった。
「こういう保存が利くものは、地球にはまだ山とあるんだけどね。ひとまず、食べるものに困るということはないから安心して。……ん。美味しい。さすがは私ね」
両助の隣の椅子に座ったジークリンデは、紅茶を飲んで自画自賛する。両助にはなんとも不思議に思える姿だった。
「こう言ったら失礼かも知れないけど、吸血鬼でも紅茶の味はわかるんだな」
「あら? 吸血鬼が血しか飲まないと思った?」
両助が頷くと、カップ片手にジークリンデは笑う。
「血しか飲めないわけじゃないし、味だって人間と同じようにちゃんとわかるわ。美味しい物を食べたいと思う欲求もある。ただ、人間の血液以外は糧にならないというだけでね」
「……やっぱり、人間の血は飲むんだよな」
「だって吸血鬼だもの」
そう、どれだけ見た目は同じ人間に見えても、ジークリンデは人間ではない。幼い外見に反して、その気になれば両助を一瞬で細切れにできる力を持つ化け物なのである。
今更になって、両助はジークリンデと密室に二人きりでいる事実にわずかな恐怖を覚えた。エリスとは違って、彼女がこちらを害さないという確信はまだない。
そしてこの恐怖は、どうして吸血鬼である彼女たちが、人間である両助に優しくするのか、その理由を知るまではなくならないだろう。
「ジークリンデ。どうして敵対しているはずの吸血鬼が人間に好意的なのか、その理由を教えてくれないか?」
「敵対、か。……そうね。まずはそこから話さないといけないのでしょう」
両助が自分から話を切り出すと、ジークリンデも待っていたかのように話し始めた。
「人間と吸血鬼は、かつて盟友だったの」
それは月生まれの人間が知らされることのなかった、一〇〇年前の真実だった。