墜落⑤
その日、彼女はいつものように空を飛んでいた。
遊覧飛行ではない。激しい戦闘を潜り抜けた、その帰りだった。
このまま基地へ帰投し、しばらく休息したあと再び戦うために空を飛ぶ。
彼女の毎日はその繰り返しだった。彼女にとって空とは、いつだって死と血の臭いに満ちた戦場であり、見上げるときは敵を捜すときだけだった。
けれど――そのとき、彼女はそれ以外の理由で空を仰いだ。
理由はない。予感があったわけでもない。ただ、気が付くと空を見上げていた。
そして見つけた。運命のように。
中天に輝く太陽の隣に、昼夜を気にせず悠然と居座る紅の月。そこから一条の輝きが落ちてくるのを。
「……嘘」
まるで流星のように――ずっと待ち望んできた、約束の日は訪れたのだ。
綺麗な青空だった。
雲ひとつなく、どこまでも高い空は吸い込まれて消えてしまいそうなほど鮮やかだ。
地下都市のパネルによって再現された青空とも、シミュレーターによって作られた電子の青空とも違う、まさに本物でしか生み出せない得も言えぬ美しさに、両助は自然と涙を流していた。
帰ってきた、と、初めて降り立った大地を踏みしめながら思った。
「ここが地球。これが地球なのか」
かみしめるようにそうつぶやいて、両助は大きく深呼吸した。潮風と森の匂いが鼻腔いっぱいに広がる。
両助が目を覚ましたのは、波の穏やかな浜辺だった。
すぐ近くには木々の生い茂る森が広がり、その向こうには連なった山脈の峰を眺めることができる。
「いい景色だな。……なんて浸ってる場合じゃないか」
涙をぬぐって、自分とともに浜辺に流れ着いた愛機に視線を向ける。
ハングドマンを倒したあと意識を失ってしまった両助を、五体無事のままこの浜辺まで運んだ漆黒のドラグーンは、激しい戦闘からの大気圏突入、着水の衝撃などによってボロボロになっていた。
落下地点が海だったことが幸いしたのか、奇跡的に原型こそ留めているものの、間接部は歪み、スラスターは折れてしまっている。表面の黒い装甲板がドロドロに溶けて全体を包み込んでいる様は、まるで黒ずんだ大きな鉄くずだ。とても動かせるような状態ではない。
それはつまり月と連絡が取れないことも意味していた。地球に墜落してしまったことを伝えて、救助を要請することもできない。もっとも、完全な状態だったからといって通信が通じるかはわからないし、救助に来てくれるかもわからないが。
どちらにせよ、ここまで酷使したのは両助であるし、守り抜いてくれたことに感謝こそすれ恨むのは筋違いだろう。
「ありがとな。守ってくれて」
両助は焼けこげたドラグーンのボディを労るように撫でる。
よくよく考えれば、両助はこのドラグーンの名前さえ知らなかった。
今となっては知る術もない。父親からの贈り物だからといって、性能以外の部分に目を向けなかったことを今更後悔する。
そんな両助の思いが通じたのか、ドラグーンのボディにわずかに光が灯る。
システムはまだ死んでいない。驚いて顔を寄せた両助に、人工知能が途切れ途切れの音声で警告する。こんなことになった原因とも言える、あの忌まわしいアラートを。
《――ARCANA TYPE:HANGEDMAN》
「そういや、ここは地球だったな」
両助は自分の耳を疑うことも、ドラグーンを疑うこともしなかった。ただ引きつった笑みを浮かべて、接近する異形の影に恐怖する。
再び両助の前に、撃破した個体とは別のハングドマンが姿を現した。
それも一体ではない。
どこからともなく飛来して、触手を蠢かせるその数、四。一体相手にするだけでも絶望しかけた敵が、当たり前のように何体も目の前に立ちはだかる。
そう、ここは地球。これこそが地球だ。
アルカナたちが跋扈する牢獄。なにかしらの運命のようにハングドマンしかいないが、探せば他のタイプを見つけることもできるだろう。
ドラグーンは警告を発するのにすべての力を使い果たしたのか、うんともすんとも言わなくなってしまった。唯一アルカナと戦うための武器を、今の両助は失っていた。
ドラグーンに備え付けられていた携帯用の拳銃を構えるが、こんなものはハングドマンの巨体にはなんの効力もないだろう。最後まで屈しない、という人間としての意地を見せつける効果しかない。
諦めたくはなかったが、これでは諦めるしかなかった。
「あ~あ、女の子と付き合ったこともないまま死ぬのは嫌だなぁ」
最後の言葉がそれなのか、と近付くハングドマンを見て両助は自嘲する。
鮮血の瞳が獲物を捉える。
触手が振り上げられ、そして――容赦なく振り下ろされた。
ドラグーンによる補正のない両助の目には、触手の動きは速すぎて、目を閉じる暇さえなかった。
だから――そこから先の一部始終を、両助は目に焼き付けることになった。
光が奔る。
両助を殴殺せんとした触手は、突如として飛来した紅の閃光によって蒸発する。
直後、さらに連続して撃ち込まれた砲撃によって、核となる瞳ごとすべてのハングドマンの肉体が消し飛んだ。たった一体倒すのに両助はあれほどの苦労を強いられたというのに、あまりにもたやすく四体のハングドマンは灰と変わり、太陽の光を受けてキラキラと輝きながら風とともに消え去った。
命の恩人はそのすぐあとに空より降り立った。
両助の目の前に着地したのは、天使の翼にも似た背中の大きなスラスターが特徴的な、白銀のドラグーンだった。
「助けてくれた……のか?」
両助のつぶやきに応えるように、ドラグーンの前面が開く。
姿を晒したライダーは、意外にも両助と同年代の少女だった。
「…………」
彼女は両助の姿を確認すると、長い沈黙のあと、唇を震わせるようにして問いを放った。
「――あなたは人間ですか?」
それはおおよそ不可解な質問だった。
誰がどう見ても両助は人間にしか見えない。
本人も、変わった体質こそしているものの、自分を人間以外の生き物と思ったことなど一度もなかった。正確にいえば、そんな疑問は抱いたことすらなかった。
外見も黒髪に黒い瞳と、月では比較的珍しい組み合わせだが、驚くほどのものではない。
むしろ外見だけでいえば、問いを放った少女の方こそ人間離れしていた。
風になびく銀の髪。深い色をたたえた紅の瞳。透けるように白い肌。
讃えるべき言葉はいくらでも思いつくが、逆に貶す部分はひとつも思いつかない。それほど美しい少女だった。
美しすぎて、寒気すら催してしまうほどに。
「答えてください。あなたは人間ですか?」
黙り込む両助を見て、少女は同じ問いを繰り返す。
質問の意図こそ不明だが、彼女が真摯に答えを知りたがっていることだけは両助にも理解できた。今にも泣き出そうな顔で、声にはどこか縋るような響きが込められている。
「人間だよ。俺は、宮凪両助は正真正銘の人間だ」
疑問を横に置いたまま、両助はそう答えた。
少女が息を呑む。
手を胸にあて、想いを伝えようと口を開くも言葉にならない。
代わりに涙が目尻に浮かび上がる。
「うぉっ!? な、なんでいきなり泣きそうになってんだよ!?」
これには両助の方が慌てふためく。
「俺なにか悪いこと言ったか? 人間じゃない方がよかったのか?」
「そんな……そんなこと、あるはずないです。ただ、感動してしまって」
指先で涙をぬぐい、少女は微笑む。
「本当に、本当にあなたは人間なんですね。わたし、ずっとずっと人間さんに会いたくて、約束の日が来るのが待ち遠しくて。だから……」
「嬉しくて泣きそうになってしまったと。……あれ? なんかおかしくね?」
人間に会いたかった。だから確認のために質問した。その理屈はわかるが、前提となる部分がそもそもおかしい。人間に会いたかったのなら鏡を見ればいいのだ。あるいは、自分以外の他人と会いたかったということなのだろうか。だとしても……。
「……待てよ」
そこで両助は思い出す。ここは月ではない。地球なのだ。
人類の故郷であり、かつて悪魔たちによって奪われてしまった星。
ここにはもう人は住んでいない。全員、一〇〇年前に月へ移住してしまった。よしんば取り残された者がいたとしても、悪魔の支配する地球で生き残っていられるはずがない。それがうら若き乙女であるならなおさらだ。
ならば――目の前の人間にしか見えない少女はなんなのか?
教官によって嫌というほど刷り込まれた怨敵の特徴が、両助の脳裏にまざまざと甦る。
人間と変わらぬ容姿。だが温もりというものを知らない白蝋の肌。そして、口元からのぞく牙と血のごとき紅の瞳。
「なあ、俺も質問していいか?」
少女からゆっくりと距離を取りつつ、両助は震える声で訊いた。
「そっちこそ、人間なのか?」
「いいえ、違いますよ」
両助とは違って、少女は迷うことなく答えた。笑って否定した。
「私は吸血鬼です」
新暦九九年――紅い月の見守る、蒼い空の下で。
宮凪両助とエリュシア・ヴァートリッヒは出会い、人間と吸血鬼は再会した。