プロローグ
月明かりが微かに照らす路地の上を、彼は歩いていた。酷使した体のあちこちが悲鳴をあげるようにギシギシ痛む。何もこんな時間まで訓練しなくても良いのに、と思いながらも彼の様な警備隊に入ったばかりの新人には、必要な教育プログラムであるために欠席は決して許されない。今日は帰ったらすぐ寝ちゃおうと考えながら、彼は疲れが溜まった体を伸ばした。その時にふと見上げた空には、満天の星々。
たまにはこういうのも悪くないと思いながら、穏やかな気持ちで彼は帰路を歩いていた。しかし星空を眺めながら歩いていると、路地に差し掛かったとき視界の端に引っ掛かるものがあった。気になってそちらの方を向いた彼は、次の瞬間自分の目を疑った。
屋根の上に、月を背にする形で誰かが立っている。古臭いローブを身に纏い、脱げたフードから髪が風に流れている。腰までありそうな銀髪は月明かりを反射し、光の粒子を纏っているかのようだ。顔は俯いていてよく見えないが、小柄であり髪が長く、線が細い印象から恐らく女性、しかも少女だと彼は思った。年端もいかない少女が夜中に屋根の上にいるという状況もおかしなものであるが、彼の目を引いたのはさらに異常な光景である。
おびただしい量の血。服にも、顔にも、髪にも、大量の血液。身体へ纏うようについているそれは妖しい光を放つ。しかしまるで装飾であるかのように、彼女を妖艶に彩っていた。
様々な感情がまぜこぜになり、彼はただただそこに佇んでいた。幻想的で妖艶な光景に見とれ、得体の知れない恐怖に縛られ、警備隊員としての正義の教えに奮え、非現実的な出来事に理解が遅れ。ただ不思議な事に直感が彼に告げていた。彼女は悲しみ涙を流していると。
彼はそのまま固まっていたが、目が乾いてきたことにより瞬きを忘れていたことに気付く。痛くなった目を瞑り潤した後再び顔を上げるが、彼の視界に彼女の姿はなかった。まるで最初からそこに何も存在していなかったかのように。
疲れすぎて幻覚でも見たのだろうか、そのわりには随分現実的だったな。働かない頭でそう判断した彼は、家へと続く道へ再び歩を進めた。