第六章 天を象るその眼(まなこ)
「ん……朝か」
瞼の裏を刺激する光にうっすらと目を開ける。
結局覇切は昨晩自室に戻ることはせず、百合の部屋の前に座して夜を明かした。
やはりあの状態の百合を放って布団の中で熟眠なんてことはできなかったというのも理由の一つだが、少し考え事がしたかったのだ。
これからどうするのか。
それは涅々から言われた神宝捜索の依頼に土蜘蛛事件のこと、そして百合とのことも含めたすべてに対する問いだ。そうして一晩考えた抜いた結果――腹は決まった。
「あとはどう動くかだが……」
とりあえず目下最優先で解決すべき事項はやはり町を襲う土蜘蛛の討伐だろう。
昨日の一件で、以前立てた仮説通り土蜘蛛は一体だけではないということが判明した。
しかし当然ながら、こんな風に立て続けに複数の土蜘蛛が入れ代わり立ち代わり町を襲撃する現状は、ただ偶然が重なったわけではありえないはずだ。
その辺りの真相にはもう大体見当がついているので、あとは涅々からの結果を待ち、裏付けを取るのみである。
「となると、まずはこっちからだな」
ちらりと背後の障子に視線を向ける。
百合はきっとまだ寝ているか、そうでなくても部屋の中にいるだろう。
覇切は一晩中部屋の前で考え事をしていたので、さすがに部屋から人が出てくれば気配でわかったはずだ。
両手を頭上に伸ばして凝り固まった身体を解す。
正直、昨日の今日でまともに話をさせてくれるかどうかはわからない。
しかし、今後の行動指針を定めていくためにもこれ以上百合との距離が開いてしまうのは避けたいところだったし、何より覇切個人の気持ちとしても、彼女をこのままにしておくなんてできそうになかった。
故にまずは百合が起きてくるのを待って、それから今後の話をと考えていたのだが……。
「……? 何だこれ?」
ぴたりと閉じられた障子の間に、何か白い物体が挟まっているのに気が付く。
見たところ手紙のようだが……。
「……」
何となく嫌な予感を覚えた覇切は、手紙を引き抜くと、そのまま障子の襖を開け放った。
「……あいつ」
見事に予感が的中して、覇切は思わず溜息を吐いてしまう。
部屋の中は完全にもぬけの殻となっていた。
恐らくは部屋の側方に面した窓から抜け出したのだろう。
部屋の中央には昨晩百合が使っていた布団が綺麗に畳まれて置いてあり、その他には荷物も何も見当たらない。唯一残されていたものと言えばこの手紙くらいだ。
封を切り、中身を読んでみる。
「……………………」
読み終わった後、丁寧に畳み直して懐にしまう。
中身は何とも百合らしい文章で、遠回しな物言いを含めながら長々と書き綴られたそれは、要約すれば『これ以上迷惑をかけるわけにはいかないので出ていきます。もう戻るつもりはないので探さないでください』というただそれだけのことを言うための内容だった。
その文章だけ見てみれば真面目な奴だという一言で片づけられそうなものだったが、出会ってからこれまでの行動を鑑みるに覇切は彼女に対してある一つの仮説を立てていた。
実際は仮説と言うほど大仰なものではなく、単なる想像程度の推察に過ぎなかったが、そう遠くもないだろうとは思っている。
だから、ここから一歩踏み込む。
理解したつもりになってそれ以上近づかずに傍観するのはもうやめだ。
大体そんな風に及び腰で前に進むことを恐れ、足踏みを続けるだけなんて、そんなのは東雲覇切の在り方に反している。
いつだって自分は過ぎ去った夜を嘆くことより、今日のその先を迎える朝日に向かって歩んでいきたいと、そう願っていたのだから。
ばしんと、自らの両頬を叩いて気合いを入れる。
覚悟は決まった。ならばやることは一つだ。
「それじゃまぁ……家出なんて勝手な真似した妹を迎えに行ってやりますかね」
零した言葉は冗談交じりに、しかしその瞳には揺るぎない決意の色が宿っていた。
◇
「とは言ったものの……」
意気込んで表へ出てきたのはいいものの、百合の行方にはさっぱり見当がつかないことも、また確かなことだった。
手紙には戻ってこないという内容に加え、『けじめはつける』といった内容の言葉が書かれていた。恐らくそのけじめというのは、覇切が涅々から請け負っている土蜘蛛討伐依頼のことを言っているのだろう。
そうなると事件の手掛かりを追っている可能性が高かったので、覇切は真っ先に花春へと向かってみたのだが……。
「百合さんですか~? 今日は見ていませんね~」
結果は空振り。春のところに一度は立ち寄ると思ったのだが、当てが外れたようだった。
もとよりすんなり見つかるとは思っていなかったが、立ち寄ってすらいないとなるともしかしたら百合はすでに覇切同様、事件の真相に見当がついているのかもしれない。
念のため、百合が来ることがあれば連絡を寄越してもらえるように式神を渡し、できることなら足止めもしておいてほしいと伝える。
「それは別に構いませんけど……何ですか? とうとう愛想を尽かされたんですか~?」
「そんなところだ。だから考え直してもらえるよう今必死こいて追いかけてる最中だよ」
春と軽口を交わすが、長居をしている時間はないので用件だけ伝えてすぐに店を出る。
「さて、あとは……」
とりあえず百合が行きそうな場所を片っ端から当たって、それでも見つからなければ町中虱潰しに探すしかない。そう考えて、覇切は再び走り出した。
◇
「くそ……どこにもいない」
あの後、涅々の屋敷へと向かった覇切だったが生憎と彼女は留守だった。
その場は後回しにし、昨日二人で立ち寄った団子屋も覗いてみたものの、そこも空振り。
表通りの人混みを注意深く探りつつ、念のためもう一度自分たちの屋敷まで戻ってきてみたが、屋敷の中を探してもやはり百合の姿は見当たらなかった。
屋敷の門前にて額に浮かんだ汗を拭う。出発したのは早朝と言っていい時刻だったはずなのだが、今はもう日は頂点をとうに過ぎ、すでに傾き始めているところだ。
「ひょっとして町の中じゃないのか……?」
正直、その可能性もないとは言いきれなかった。
まだ水月の隅から隅まで探したというわけではないが、一番可能性の高い西門から東門にかけての表通り沿いは隈なく探したし、心当たりのある場所もすべて回った。
念のため北の玄武通りと南の朱雀通りにもちらっと顔を出してみたが、当然ながら見つからない。各居住区に関しては、まだ未捜索だが可能性としては低いだろう。
「あとは……」
呟いて町の外へと視線を向ける。
土蜘蛛の事件を追っているのだとすれば、神威の森に向かったとしてもおかしくない。
しかし森に入ってみるにしても、水月は東側と西側の両方に神威の森が面している。
片側だけなら五行による知覚野の拡大を全力で活用すれば何とかなるかもしれないが、さすがに両方の森をとなると、とてもじゃないが一日で捜索するのは不可能だ。
冷静に考えれば今日中に百合を見つけなければならない理由もないのだが、時間が経てば経つほど、その後の行動は予測しにくくなるだろう。
故にできることなら今日中に見つけたい。
(出たとこ勝負だが……どっちかの森にいる可能性に賭けるか?)
そう考えた覇切が行動に移そうとした時のことだった。
「ん? 覇切か?」
名前を呼ばれて顔を上げると、軽く手を振りながらこちらに向かってくる涅々が見えた。
「どうした? 家の前に突っ立って」
どこか心配げな表情を浮かべる涅々に、大丈夫、と片手を挙げて答える。
「っと、そうだった。義姉さんにも訊きたいことがあったんだ……けど、とりあえずそっちの用件を先に聞くよ」
いきなり百合のことを話せば話が混乱するかもしれない。
そう考えた覇切は口から出かかった質問を飲み込み、涅々に先を譲る。
「そうか? それなら遠慮なく」
涅々は懐から凹凸の目立つ赤い石――昨日覇切が渡したと思しき魂魄を取り出した。
「これのことなんだがな。調べがついたから結果を知らせようと思って」
「随分早いな。しかも天狼衆の筆頭様自ら出向いてくれるなんて、畏れ多いことだな」
「茶化すな。それにこれを調べるのにも別にそんな手間はかかってない。詳しい者に見せたらすぐにわかったし、そもそも私は何もしていないからな」
呆れたような顔を見せる涅々だったが、それでも魂魄の調査を優先的に行ってくれたことには変わりなかったので、その点に感謝しつつ覇切は結果が聞かされるのを待つ。
「それでこの魂魄なんだが、どうも外部から一時的に神威の干渉を受けたみたいだ。そのせいで形が変質してしまったみたいだな」
「つまり誰かが意図的に土蜘蛛へ神威干渉した結果があの魂魄ってことか?」
「というより、逆かな」
「逆?」
訝しんだ覇切が眉を顰めると、涅々は人差し指を立ててみせる。
「要するに神威の干渉を受けたから変質したんじゃなく、変質させることを目的に神威で干渉したってことだ」
涅々の言っていることは一聞して同じことを言っているようにも聞こえるが、その実、前者と後者ではその本質が全く違う。
「魂魄は土蜘蛛の核を司る部分だ。人間で言えば脳みたいなものだから、そこの構造を好きに作りかえることができれば」
「行動を支配することも可能ってことか」
「あくまで仮説だがな。それに恐らく、可能でもごく単純な命令設定しかできないはずだ」
土蜘蛛はあくまでも生き物の死骸が黒業によって蝕まれることで生まれるものだ。
そのため本来からしてそれほど知能のある行動はできない。そこに核構造を複雑なものに書き換えられたりなんてすれば、処理しきれなくなるのが道理だろう。
涅々に聞くところによれば、今手に持っている魂魄も破裂する寸前の状態らしい。
そしてそんな真似ができるのは神威操作技術に長けた神巫だけで、五行の枠を超えたその術理はすなわち――
「……異能か」
五行による身体強化、神器と並ぶ神巫の特殊能力の中でも、かなり特異な力である異能。
異能に目覚めること自体には個人差があるが、その力はこの世の物理法則を捻じ曲げ、術者独自の理を顕現させる冗談みたいな代物だ。
もし今回の件が本当に、異能持ちの神巫による仕業ならば、あとはその能力に当てはまる術者を突き止めることさえできれば総てが解決するはずである。
「どうだ? 参考になったか?」
「参考も何も一流教師に回答の手解きをしてもらった気分だよ。殆ど答えを教えてもらったようなもんだ」
「ほぅ、それならもう一つの情報はいらなかったか?」
「もう一つ……っていうと、もしかしてこないだ俺が頼んだ件か?」
涅々の言葉に、覇切は昨日彼女に頼んだもう一つの調べもののことを思い出した。
「ああ。お前に言われた通り、事件で死亡した人間の身元を詳しく調べてみたら、事件一件につき、被害者の中に最低でも必ず一人は黒化病の罹患者がいた」
涅々の言葉を聞いてやはりと、覇切は納得する。
そうなると、昨日秋桜が狙われたのは例外的なことだったのだろう。明確な殺意を持っていたにも拘らず、すぐに退いたのは覇切も奇妙なものを感じていた。
目的はおそらく、警告。それも当然秋桜に対してのものではなく――
(察するにちょろちょろ嗅ぎ回ってる俺に対してか……って待てよ、そうなると)
その時覇切の背筋を冷たいものがそっと撫でた。
今の仮定が全て正しいとなると、犯人は覇切が土蜘蛛を倒す現場を見ていたことになる。
神巫としての特殊能力か、それとも何か他の要因によるものかはわからないが、そうなると、当然昨日も終始土蜘蛛の様子を観察していたはずで――
(あの時の光景を……犯人も目撃していた……?)
思い起こされるのは、土蜘蛛の死骸に囲まれ佇む百合の姿。
瞬間、全身の毛が逆立つのを覇切ははっきりと感じ取った。
「どうした? 覇切。顔色が悪いぞ?」
涅々が心配そうな表情で覇切の顔を覗き込んでくる。
「いや、大丈夫だ。それより義姉さん、今日、あいつのことを見かけなかったか?」
「百合のことか? 今日も何も、私は最初に話した日以来顔を合わせてもいないぞ」
やれやれと肩を竦めてみせる涅々の様子を見て、覇切の表情は落胆の色が隠せない。
「もしかしてあの子、いなくなったのか?」
そんな覇切の表情に気付いたのか、涅々が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「ああ。とんだ家出娘だよ。ご丁寧に書置きまで残していってな」
「そうだったのか……でもすまないな。やっぱり百合の姿は見ていない」
「いやいいんだ。俺がちゃんと注意しておくべきだった」
こうなるともうなりふり構ってなどいられない。
今こうしている最中にも百合の身は危険にさらされているかもしれないのだ。
ダメ元だろうと博打だろうとやれることはやるべきだ。
「ありがとう、義姉さん。助かったよ……って、ん?」
と、涅々に礼を言って別れようとした時、表通りの方から何やらひらひらと浮遊してくる物体が目に入った。
「式神みたいだな。こっちに向かっているようだが」
涅々の言葉通り、式神は風に揺られながらも覇切の元へと迷わずやってきた。
春からの報せだろう。焦りを抑えつつ封を切って中身を取り出す。
『秋桜さんからの情報提供です。本日正午過ぎに、東門から町の外へ出る百合さんの姿を目撃された模様。声を掛けようとしたそうですが、人目を避けつつ少し急いでいる様子だったので結局見送ってしまったそうですよ。お役に立てましたでしょうか~?』
全て読み終え、心の中で春と秋桜に礼を言う。
東門から町の外に出ていったということは、十中八九向かった先は神威の森だろう。
少し時間は経ってしまっているが、この分ならまだ外から戻っていない可能性は高い。
「ったく……本当にあいつは……」
やはり先ほどまで百合は町の中にいた。
しかし午前中いっぱい探し回って見つけられなかったということは、最早完全に避けられていたと考えていいだろう。それなのに最後の最後で秋桜に目撃されてしまった辺り抜けているとしか言いようがなく、百合らしいと言えば百合らしい。
(いや、あるいは抜いてるのかもな)
「覇切」
呼ばれた自分の名前に顔を上げると、涅々が真剣みを帯びた顔で覇切を見つめていた。
その視線を受け、覇切もまた居住まいを正す。
「百合を、探しに行くのか?」
「ああ」
「それは、私に言われたからなのか?」
「え?」
涅々の質問の意図がわからず一瞬答えに窮するが、彼女はじっと覇切の瞳を見つめたまま口を閉ざしている。
「……違うよ」
少しだけ間を置いた後、覇切の方から口を開いた。
「確かに最初は義姉さんに頼まれていたから色々気にかけてたっていうのはあるけど、今あいつを追いかけたいと思うこの気持ちは違う」
「百合に惚れたか?」
「どうかな。放っておけないのは確かだけど」
どちらかというと年下の兄妹に対する感情に近いだろうか。
かつても胸の内に宿っていた懐かしい感覚だったが、だからと言って百合に八恵の代わりを求めているわけでもなかった。
「見ていて危なっかしいんだよ、あいつは。だけど一度見て、傍に居てしまったから、逆に見えなくなっても心配なんだ。そういう意味では、義姉さんの言葉があったせいって言えなくもないけど……こういうのは、答えとしては不合格かな?」
「……いいや」
覇切の言葉を聞いて軽く噴き出したかと思うと、涅々は嬉しそうな表情で首を振る。
「十分合格だ。本当言うとな、私が不安だったんだ。お前の行動を私の言葉のせいで縛ってしまっていたらどうしようって……だけど、そんな心配も必要なかったみたいだな」
「もちろん。俺が義姉さんを心配させるようなことをするわけがないだろ?」
「それは信用できないな。私が今までどれだけお前のことを心配してきたと思っている?」
「義姉不幸だってか?」
「ああ、お前は立派な姉不幸者だ。だからせめて妹の幸せくらいは守ってやれよ」
優しい笑顔でそう告げると、涅々は対を失った左腕でそっと覇切の背中を押す。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい。無事連れ戻せたら花春に来い。今日は私の奢りだ」
もっとも自分はこの後の仕事で行けそうもないが、こういう損な役回りも年上の仕事だろう。そう思いながら、その背を見送る涅々だったが、少し行ったところで不意に覇切が振り返った。
「一個だけ言い忘れてた。今は俺も義姉不幸者かもしれないけどさ、これからずっとそのままでい続ける気はないから。義姉さんの幸せだって守っていきたいって、そう思ってるからさ。期待しててくれよ」
それだけ一方的に言い残して、覇切は今度こそ行ってしまう。
あとに残されたのは呆気に取られた表情で佇む涅々のみだったが、不意にその顔が夕陽の色に真っ赤に染まる。
「まったく……あいつは一体どこでああいう言い回しを覚えてくるんだ……まさかそこら中で言い回っているわけではないだろうな?」
熱くなった頬を左手でぱたぱたと煽ぎながら、ぶつぶつとぼやく涅々だったが、知れず緩んでしまう頬を抑えられない。
「本当に、まったく……」
鈍感なのか鋭いのか。不幸だなんて言葉の綾に決まっている。
自分が今までどれだけ彼の存在に救われてきたことか、彼は知っているのだろうか。
彼が――覇切がそこにいてくれるだけで、今でも十分すぎるほど幸せだというに……その上であんなことを言われてしまっては、姉としては期待せざるを得ないではないか。
「……今日は仕事、早く切り上げようか」
損な役回りも年上の仕事だが、たまには純粋に得を得るのもいいかもしれないと、そんな風に思いながら、涅々はその場から軽い足取りで立ち去った。
◇
暗く、重く、冷たく、湿った空気がそこには満ちていた。
点々と周囲に立ち並ぶ樹木の枝葉は天上を覆い隠すように広がり、僅かな隙間から差し込む西日の橙光のみがかろうじて辺りの様子をぼんやり照らし出す。
まるでそこに満ちた暗黒を閉じ込めるため誂えられたかのような天蓋は、ざわりざわりと底気味の悪い協奏を奏でながら、そこに現れた闖入者を歓迎していた。
「……」
今朝方、覇切に手紙を残して屋敷を後にした百合は、ある目的を果たすためにこの神威の森へと再び訪れていた。一間先ですら見通すことが危うい闇に包まれた空間だったが、躊躇うことなく奥に向かって進んでいく。
昼間は高濃度の神威が陽光を反射し煌めく美しい光景が見られたこの場所も、現在は逆に周囲の暗闇を吸収した神威が靄のようにゆらゆらと不気味に揺らめいていた。
すでに森のかなり深いところまでやってきている。
生き物の気配はとうに感じられなくなっており、辺りにより一層の薄気味悪さが漂い始めたその時、不意に足元に何かひっかかる感覚を覚えた。
直後――死角となっていた茂みの中から、高速で何かが飛び出す。
さらにそれを契機とするように四方から百合に襲い掛かる無数の飛来物。
完全に不意を突かれる形となった百合だったが、しかし彼女は驚きの声を上げることもなく……次の瞬間には、彼女を襲ったと思われる飛来物――闇討ち用に反射加工された苦無が総て地に落ちていた。
――ぱんぱんと、手の平を打ち鳴らす乾いた音が周囲に響く。
「お見事お見事。よく今の罠を総て捌ききったものだ」
そうして暗がりからやけに芝居がかった口調で現れたのは、いつか見た鷲鼻の用心棒だった。その後ろには彼に付き従うように猫背の男が下卑た笑いを浮かべながら控えている。
「そいつが貴様の神器か。塵の癖にいい刀を持っているじゃないか」
そう指摘された百合の手にはいつの間に抜刀していたのか、彼女の神器である氷刀――村雨丸が闇の中、静かに鋭い光を放っていた。
先の苦無の奇襲。
一体どういう理屈で百合が躱すことができたのかといえば、何てことはない。
百合は自らに向かって飛来してきた苦無を視認する前に察知し抜刀した後、文字通り瞬く間にそれら総てを寸分の狂いも撃ち落とした、というだけに過ぎない。
無論このような真似が一般人はもちろん、例え神巫でも易々とできるわけもなく、反射能力と速度、そして精密性に関して類稀なる才を持つ百合だからこそできた芸当である。
「塵、ですか」
と、ここに来て初めて百合が言葉を口にした。感情の乗らない極めて無機質な声音だったが、その奥底では様々な情念が渦巻いていることが彼女の瞳から見て取れる。
「そんな風にあなた個人の身勝手な価値観で、何の罪も持たない人たちを何人も殺めてきたんですね」
百合の言葉を聞いて男の眉がピクリと動く。
「ほぉ……なるほど中々勘もいいらしい。よくそのことがわかったな」
「下手な芝居はやめてくださいよ。私や覇切さんが真相に近づいていたのは承知の上だったんでしょう? だからこそ尾行されているふりをして、人目につかないこんな場所にまで私を誘い込んだ。違いますか?」
その言葉を聞いて男は少なからず驚いた様子だった。
先ほどまでの幾分余裕のある態度とは違い、まるで感心するような視線で百合を見る。
「ただの塵じゃあないってことか。だが、俺が一連の事件の首謀者だと気付いたってのに驚いたのは変わりない。何せ奴ら塵共を掃除したのは他でもない土蜘蛛なんだからな。普通に考えりゃ人間の仕業だなんて発想には至らないだろう。一体どこで嗅ぎ付けた?」
「どこで? 中々面白いことを言いますね」
男の言葉を聞いた百合がその口元に冷笑を浮かべる。
「どこでも何も……あなた覚えていないんですか?」
「あん?」
「最初……と言っても私と覇切さんが最初に遭遇した事件という意味ですが、その時の被害者は腰から上を土蜘蛛に食われ、血溜まりの中に下半身だけが浮いている状態で発見されました。当然身元なんてわかるはずもありません」
「その通りだな。俺も現地で確認していたからよくわかる」
「じゃあ、腕はどうですか?」
「腕?」
男が訝しげに眉を顰める。
「あの時あの場に転がっていたのは被害者の下半身だけではなかった。少し離れた位置にその人のものと思われる腕も落ちていたんですよ。黒業に侵された、ね」
「……それがどうした?」
「あなたはあの時現場に到着するなりこう言ったはずです。『転がっているのはただの塵じゃないか』、と」
『塵』とは、この男が黒化病の罹患者を指す時の蔑称だということはすでに知っていた。
だからこそ百合はそこが引っかかったのだ。
「あなた、どうしてわかったんですか? あの方が黒化病の罹患者だということが。あの時、被害者の右腕は一番目立つ下半身の横たわる位置から離れた場所にあって、しかもその黒業は身につけていた衣服を捲らなければ見えない程度に小さな痣でした。遠目で見たってわかるはずがありません」
男の顔から表情が消える。
先ほどまで口元に浮かべていた軽薄な笑みも今は鳴りを潜めて、窺い知ることのできない色を宿した瞳で百合を見ている。
「わかりますか? あなた、こともあろうにあの場に現れた瞬間ボロを出したんですよ。おまけに先ほどの言葉……『塵共を掃除』なんて言葉は、亡くなった方々が黒化病罹患者だと知ってない限り出てこないはずです。オチとしては異能か何かで土蜘蛛を操作した、といったところでしょうが……とんだ間抜けですよね。まさか自らが犯人だと名乗り出てくれるなんて」
はっきりそれとわかる嘲笑を浮かべる百合。
その百合を前にして男は相変わらずの沈黙を保っていたが――
「――くはっ」
突如、彫りの深い顔に邪悪な笑みを浮かべると、森全体に響くような哄笑を張り上げた。
「くくく、はは、はははははは――――っ! 言ってくれるじゃねぇか塵風情がぁ!」
先ほどまでの様子と一変、仮面が剥がれ落ちた狂気の笑みが白日の下に露見される。
「そうさ! 俺が殺してやったのさ! やつら塵共が呑気な面して人間様の世界を這いずり回ってやがったからよぉ!」
「ふん。ついに化けの皮が剥がれましたね。まぁ、あなたの腐った品性までは最初から隠せていなかったようですが」
「腐った? 俺が? そいつは間違いだ、塵女。腐ってるのは俺じゃなくお前たちの方だ」
ぎょろりと見開かれた両の眼球が百合の瞳を捉える。
「何故気づかない? 何故疑わない? 何故奴ら塵共が自分たちと同じだと考える? 黒化病だと? 笑わせるな。病は人間に憑くからこその病なんだよ。奴らは皆力のない劣等だ。この世に必要のない、何の役にも立たない塵だ。だから間引かれているのさ。今この時も神州のどこかにおわせられる神様ってやつになぁっ!」
両手を広げ、天を仰ぎ叫ぶ男を前にして、百合はその言葉の何一つが理解できなかった。
なんだこの男は? 一体何を言っている?
確かに黒化病はその発症原因が不明の死の病だ。だがだからと言って、こともあろうに神が人間を間引いているだと?
すでにこの世に神は存在していないという前提を抜きにしても笑えない冗談だったが、男はそんな百合の心中など知らずに狂った妄信を吐き散らす。
「だが正直な話、神様も随分甘いんだと思うぜぇ。何せ間引く塵に禍を植え付けるのはいいが、そこから死ぬまでが七日だひと月だ……まどろっこしいったらねぇよなぁ? だから俺が手伝って差し上げることにしたのさ。神様に選出された塵掃除の手伝いをなぁ!」
男の狂信が質量すら感じられる勢いでその場に溢れ出す。
かつてこの世に存在していた神。今ではその存在を本気で信じている者はごく僅かしかいないが、稀に熱狂的な信者が突然現れることがあるという。
何をきっかけにしたのかは不明だがこの男もその部類なのだろう。表向きの顔はただの用心棒。そして裏の顔は歪んだ信仰心の発露に、黒化病罹患者を見境なく殺す狂信者だ。
百合も十種神宝の存在を信じている手前、神への信仰を否定はしないし、信者の活動を馬鹿馬鹿しいと断ずるつもりもないが、この男は明らかに異常だ。
「狂っています。真っ当じゃない。詰まる所あなたはただ殺人の快楽に酔っているだけでしょう? 我欲を満たすためだけに都合よく神の存在を利用するような真似は信仰でも何でもありません。ただの自己陶酔です。そしてそれに気づけないあなたは、本当に救いようがない」
そう言い捨て、百合は刀の切っ先を男の眼前へと向ける。
「おいおい、いいのかそんな態度で? たかが塵の分際で俺を誰だと思って――」
――瞬間、男の喉元に氷刃が付きつけられる。
「――そうですね。そういえばまだあなたのお名前も知りませんでした。あなた一体誰でしたっけ?」
まさに神速。百合の繰り出した氷刃は、男の反応できる速度の域を遥か越えて、その喉元に切っ先を届かせていた。
「次に許可なく動けば首から上を斬り飛ばします。そこのあなたもですよ」
男の後ろで引き攣った表情をしている男にも忠告する。恐らく彼も信者の一人だろうが、この男ほど熱狂的ではないのだろう。明らかにその豹変ぶりを恐れているようだった。
「大人しく投降してください。どの道あなたは極刑を免れないでしょうが、こんな場所で私に殺されるよりはましでしょう?」
そう告げるも百合は、眼前に映る男の不敵な笑みが理解できなかった。
「何を笑っているんですか? あなた状況わかってます?」
「ああ。よぉくわかっているさ。このままうんと頷かなけりゃ、俺はすぐにでも殺されちまうだろうなぁ。おぉ怖い怖い。だけどなぁ、お前こそ自分の周りをよく見てみることだ。なんのために俺がわざわざこんな辛気臭い森の中に誘い込んだと思ってやがるんだぁ?」
そうして次の瞬間、目の前に広がった光景に百合の思考は停止した。
「神威の森の深部みたいな陰気の立ち込める場所を土蜘蛛は好む。これくらいのことは今時餓鬼だって知ってる常識だぜぇ?」
それはとてつもない規模の黒い壁だった。いつの間にかこの場にいる三人を取り囲むようにしてそびえ立っていた黒い壁は、よく見るとうぞうぞとその表面が不気味に蠢いており、その影が揺れるたびに粘着質な不協和音が不快に響く。
――どくんと、心臓が一際大きく震えた。そして胸の内に去来する黒い感情の大渦。
頭の中をぐらぐらと酩酊感が支配しゆく中で、男の声が雑音となって鼓膜を震わせる。
「土蜘蛛ってのは生物の死骸が黒業に侵されて生まれるってのは知ってんだろぉ? 塵共の場合は、土蜘蛛化を防ぐために役人にすぐ処理されちまうから人型の土蜘蛛ってのはあんま見ねぇが、動物の土蜘蛛ってのは探せば結構いるんだよ」
思えば城下町で起きた事件で現れた土蜘蛛は、そのどれもが四足歩行の動物型だった。
そしてそれこそが、この男の能力発動の条件。
「俺の異能は獣を一定時間操作して、ついでに望めばその感覚も共有できるっつーしょっぱい力だが……重要なのは、こいつで操れるのは生きている獣に限らないってことだ」
要するに死骸すらも操り己の支配下に置くことができるということ。すなわちそれは、元が死骸の土蜘蛛ですらその対象となるということだ。
「まぁいくら元が獣と言っても使い勝手はやはり悪かったがなぁ。普通の獣より能力の効き目も短い上、一体ずつしか制御ができやしねぇし基本使い捨てだ」
なるほど事件のたびに土蜘蛛の姿が一定しなかったのはこのためだったのだ。
そう頭では納得するものの、百合は次第に湧き上がる一つの『欲望』が己の中を満たしていくのを感じていた。男の声がどこか遠くに響いている。
「だが、今この場所でなら別だ! ここは神威に満ち溢れている! ここならいくらでも操れる! 何体だろうと意のままだ! 知ってんだぜぇ! てめぇがただの塵じゃないってことくらいなぁ!」
恐らく先ほど言っていた感覚共有の能力で昨日の百合の様子を目撃していたのだろう。
大袈裟に両腕を広げ、鷲鼻の男は声高に叫ぶ。
「てめぇは土蜘蛛を……黒業を食う化物だぁ! つまり貴様こそ我が崇拝する神の怨敵であり諸悪の根源!」
狂った感情の奔流がこの場に吹き荒れ、男の支配下にある土蜘蛛たちもそれに呼応するようにざわめきを増している。
男の瞳は愉悦に染まり、自己への陶酔の境地だ。黒化病の罹患者を越える絶好の獲物を前にして、涎が落ちるのを止められない男は、しかし先ほどから妙に静かな百合に苛ついたような声を出す。
「さっきから何を黙ってやがる、塵女ぁ! 俺から逃げおおせるための算段でも立ててんのかぁ? 馬鹿がっ! この土蜘蛛の大群の中、逃げられるわけがねぇだろうがぁ! はははっ! いいかぁ? 俺は今からてめぇを――」
大仰に片手を挙げて加虐的な笑みを浮かべた男だったが、その台詞が不自然なところで不意に途切れた。
今まで絶えず響き渡っていた男の声が消えたことで、辺りには奇妙な静寂が下り、周囲を取り囲むように蠢く土蜘蛛の壁だけがぐちゃぐちゃと湿った音を鳴らしている。
「――」
男の表情に変化はない。まるで彫像のように固まってしまったその狂笑は、本当に時が止まってしまったかのようにも見える。
「……? おい、どうしたんだ?」
急に黙り込んだ男を不思議に思い、背後に控えていた猫背の男がおもむろにその肩へと手を伸ばす。
そうして固まっている男の肩へ手が触れた次の瞬間――男の顔面が突然左右にずれた。
「え……ぁ、ひ、ひいいいいぃぃぃぃぃいいい!」
何の前触れもなく、いきなり達磨落としのように輪切りになった男の頭を目にして、猫背の男はその場に腰を抜す。
「――不味い」
そうして一言。感情を失った冷徹な声がその場に静かに響く。
男の顔面を切り裂いた刃に付着した血をぺろりと舐めた百合は言葉と共に、ぺっとその場に血を吐き捨てた。
「だから言ったじゃないですか……動けば斬ると」
見る者の魂まで凍てつかせるような冷笑を口元に湛えた百合は緩慢な動作でぐるりと首を回すと、周囲に広がる美味そうな食事の群れに、より一層口元の亀裂を深める。
もうすでに先ほど殺した男のことは眼中にない。その情欲にも似た食欲に満ちた瞳に映るのは、まるで自分に誂えられたかのように広がるご馳走の山。
やはりあの人に比べればどうしても見劣りしてしまうけれど、それでも彼らは食事としては魅力的すぎる。
再び放った剣閃は、首から上を失った男諸共土蜘蛛の群れの一角を細切れに斬り刻んだ。
赤と黒の肉が空中を乱舞する。その光景に込み上げてくる愉悦の笑みを堪えられない。
抑えきれない衝動に身を任せ、抗うことのできない呪いの闇へと、ゆっくりその意識が堕ちていった……。
◇
「くそっ……どこにいる?」
一方その頃、覇切は神威の森の中を必死に走り回っていた。
街道ですれ違う旅人や用心棒にも聞き込んだところ、やはりというか百合に似た人物が神威の森に入っていったという情報を手に入れた。
五行を最大限に活用して追ってはきたものの、しかし一向に百合が見つかる気配はない。
すでに日は落ち、常から暗い森の最深部は暗闇に満ちていた。
奥に進んでいくほど濃くなっていく陰気な神威にどこか不吉な予感を覚えつつ、それでも百合を探して道なき道を突き進む。
そうしてそこからさらに奥まった場所へと足を踏み入れた瞬間――不意に、周囲の空気が一段階重くなる感覚を覚えた。
「っ……」
まるで今まさに自分がこの森に飲み込まれてしまったかのような……巨大な胃袋の中に閉じ込められてしまったかのような奇妙な圧力。その息苦しさすら感じられる重圧感は、自らが異界に踏み込んでしまったことを強くその心に訴えかけてきていた。
――今ならまだ引き返せる。
「冗談言うなよ」
無意識下で覚えた生物としての本能からくる警告。ここから先は未曽有の危険地帯だということを細胞単位で訴えかけるその警告を、しかし覇切は刹那の逡巡もなく一蹴した。
「今更なんだよ。もう遅い」
そう、何もかも今更だ。神威の森のこんな奥深くまで足を踏み入れてしまったことも。涅々から土蜘蛛退治の依頼を受けたことも。
――あの日この森で、百合と出逢ったことも。
今ならまだ引き返せるなんて、一体どの時点での話をしているんだ。
引き返せる返せないの話をするなら、自分はもうとっくの昔に引き返せないところまで来ているのだから、そう思うのならばあの日彼女と出逢った運命を呪うしかない。
半ば諦めの境地とも言えるような感情。
けれどもその理不尽に対して覇切自身、微塵も後悔なんて覚えちゃいない。
その想いを胸に、地面を駆ける足に力を込める。
ここから先は正真正銘未知の領域だ。何が起きても、どんな化物が現れたとしても不思議じゃない。それだけは肝に銘じながら先を急ごうと、その両足に力を込めると――
「――た、助けてくれぇ!」
暗がりの向こうから、何者かが助けを乞いながら姿を現す。いつか見た猫背の用心棒だ。
無論、たまたま偶然通りすがっただけなどということはあり得ないだろう。
男たちが昨日の百合の様子を目撃していたとするならば十中八九、百合と何らかの接触を図っていたはずだ。
そのためこの遭遇自体はさして驚くほどでもない想定内の事態であったのだが……。
(……何だ?)
どうにも男の様子がおかしい。顔面蒼白で、全身は雨にでも降られたのかと勘違いするほど脂汗でびしょびしょ。走る足は今にももつれそうなほどに左右の動きがちぐはぐしており、まさに這う這うの体と言った有様だった。
「おい、一体何が――」
明らかに尋常ではない男の様子に覇切は、急いで駆け寄ろうとするが――
「ぎゃああああああ――!」
突然、横合いの茂みから飛び出した巨大な影に男の半身がごっそり丸ごと奪い去られる。
「土蜘蛛か……!?」
その存在を認識すると同時にすぐさま覇切は抜刀する。
目の前には口から鮮血を滴らせながら、低く唸り声を上げる獣型の土蜘蛛の姿があり、その傍らには絶命した男の下半身がいつかの惨殺現場を思わせる悲惨さで横たわっている。
男の上半身を食い千切った土蜘蛛は一瞬、覇切と睨み合う形で対峙したが、直後にその巨大な顎を誇示するかのように一つ雄叫びを上げたかと思うと、その勢いのままに覇切に向かって突撃を開始する。
「ちっ……!」
巨大な砲弾のように乱暴に空気を裂きながら突進してくる土蜘蛛に対し、しかし覇切の行動は冷静なものだった。
「■■■■■■■■――――――ッッ!」
この世のものとも思えぬ咆哮が自らの鼓膜を揺さぶるが、怯むことなく向かい合うと最小限の動きでその突撃を躱す。
「はぁ!」
そうして自らの横を過ぎ去る暴風目がけて、高速の斬り上げを放った。
一刀のもとに両断され、ものの一瞬で真っ二つとなった土蜘蛛はそのまま地面へと墜落するとその活動を停止させる。
「……悪いな。弔ってやってる暇はない」
余韻に浸ることなく手早く刀を納めると、無残な死を迎えた男の遺体に向かって短く目礼する。死んだ彼には申し訳ないが、今はとにかく時間が惜しい。
「……この先か」
男が逃げてきた方向へと向き直る。この場所からでは暗くてはっきりとわからないが、先の男の様子からこの先で何か恐怖に値する出来事が繰り広げられていた可能性は高い。
あるいは今なお繰り広げられているのか……どの道、百合の安否が気にかかる。
しかしこの先に何が待ち受けているかわからない以上は慎重に……逸る気持ちを抑えてゆっくりと歩みを進めていく。
「……」
一歩踏み進めるごとに徐々に空気が粘り気を増していく。そして同時に濃くなっていく腐臭にも似た刺激臭。
つい昨日も体感したこの臭いは必然覇切の脳内に嫌な想像を湧き立たせ、そして――
「こ、れは……」
その場に辿りついた瞬間、覇切は前回を凌駕する惨劇を前に硬直してしまった。
辺り一面に飛散した夥しい量の黒い粘液に、地面いっぱいにまるで絨毯のように敷き詰められた黒い肉片。前回は土蜘蛛十体分ほどだったが、今この場に惨殺されている土蜘蛛たちの数はおそらく十や二十ではきかないだろう。
その場に描き出された地獄絵図は、以前とは比べ物にならない程の禍々しさを見せつけており、思わず覇切は本当に地獄に迷い込んでしまったのかと錯覚を覚えたほどだった。
「……?」
そうしてしばし呆然としているうち、足元に黒い肉片や粘液に交じって赤い血のような液体や赤みを帯びた内臓が飛び散っていることに気が付いた。
――土蜘蛛に赤い血は通っていない。
「――っ」
最悪な予感が脳裏によぎる。
(……いや、落ち着け。まだあいつだと決まったわけじゃない)
そう自分に言い聞かせるも、一度覚えてしまった焦燥感は中々拭い去ることはできない。
(頼む……無事でいてくれ)
懇願にも近い気持ちを胸に黒い肉の絨毯を踏みしめながら、粘液の付着した茂みを掻き分けていく。
そうしてたどり着いた先。そこは変わらず土蜘蛛の死骸で辺りが埋め尽くされていたが、唯一違う点――一条の月光を浴び、静かに佇むその人影を視界に留めた瞬間、覇切は安堵の息を漏らすと同時、その胸に静かな緊張を走らせた。
意を決して近づいていく。
と、気配を察知した彼女がゆっくりとこちらを振り返った。
「……覇切、さん?」
「よぉ、久しぶりだな。元気か?」
「元気ですよ。覇切さんも、お元気そうで……何よりです」
覇切の軽口に付き合うように答えた百合の表情は、その言葉とは裏腹に疲労に満ちていた。いつもの聡明さを絵に描いたような凛とした瞳も今やどこか虚ろで、しっかりと焦点の定まらないまま、気怠そうに覇切の方へと視線を向けている。
本人は笑ったつもりなのだろうが、実際には口元の筋肉がピクリと動いただけでその顔は無表情に近い。
「なんで来ちゃったんですか? 本当に人の言うことを聞かない人ですね。まったく……」
言いながら、彼女の白い頬に飛び散っていた黒い肉片が、ずるりとその身体の中に飲み込まれた。
その光景を見て、覇切は一瞬また百合が正気を失っているのかと勘違いしたのだが、その割には昨日とは彼女の様子が違うようにも思える。
上手くは言えないが、より同調しているような……正気を失った状態の百合と普段の百合が融け合いつつあるような……そんな感覚を覚える。
その証拠と言えるかどうかはわからないが、今の会話も昨日耳にしたどこか現実感のないずれた声ではなく、はっきりとした百合自身の声のように聞こえた。
まだ確信には至らないが、話が通じるというのであれば覇切のすることは一つだ。
「お前を迎えに来たんだ。一緒に帰ろう」
用件だけを、正面から簡潔に突き付ける。
遠回しな言い方をしたところで今の百合に通用しないことはわかっている。
それにもとよりそういう言葉の駆け引きのようなことは不得手だ。だったら誤魔化しのきかない真っ直ぐな言葉で、自分の気持ちを真摯に伝えるのが一番だろうと、そう思いながら覇切は百合に向かって手を差し出したのだが――
「お断りします」
案の定というか返ってきた言葉は頑ななものだった。
「大体さっきも言いましたけど、何で来たんですか? 探さないでくださいって書置きも残しておいたはずですけど。それとも覇切さんは字も読めないんですか?」
「あいにくと、あの手紙の内容をそのまま鵜呑みにするほど、俺はお前のことを知らないわけじゃないんだ。お前は素直じゃないからな」
「何を馬鹿なことを……」
そう悪態を吐きつつも、どこか嬉しそうな雰囲気を感じるのは気のせいだろうか。
意地っ張りな言動の中にも、こちらの気を引くような仕草が見え隠れしていることに気付いたのは一体いつのことだったろうか。
「お前に一つ教えといてやる。本当に探してほしくない奴ってのはな、あんな風に手紙なんて残さないものなんだよ。自分の痕跡なんて残さず、最初からいなかったみたいに消えるものなんだ。と言っても、お前の場合はもっとわかりやすかったけどな」
思えば百合の行動はいつでもどこか不自然だった。
関わろうとしなければいくらでもそうできたはずなのに、会話の度に次に繋がるような発言をしたり、避けようとしていても少し探せば気が付きそうな場所に隠れていたり。
今回のことにしたってそうだ。彼女の実力を考えれば、少し注意すれば完璧に身を隠せたはずなのに、最後の最後で町を出るところを秋桜に目撃されてしまっている。街道で手に入れた目撃情報もまた然りだ。
「馬鹿馬鹿しい。勝手に人の人物像を捏造しないでほしいですね。そんなもの、覇切さんが都合よく思い描いている妄想に過ぎないじゃないですか」
「そうかもな。それについてはお前の本心を聞いてみないことにはわからないが……さっき言ってた、お前を連れ戻す理由ってのならある」
そう言って、懐から取り出した百合からの手紙を彼女に突き付ける。
「俺はお前のことを迷惑に思ったことなんて一度もない。お前がいなくなる理由っていうのが、俺に迷惑かけることの一点なんだとしたら、もうこれで解決のはずだろ?」
力強い覇切の言葉に一瞬だけ気圧されたようにたじろぐ百合だったが、すぐにキッとした視線を覇切に向け直す。
「例え……例え今はそう思っていたとしても、未来にどうなるかなんて誰にもわかりはしませんよ。覇切さんの目にも映っているでしょう? これ、全部私がやったんですよ?」
両手を広げ周囲の惨状を示した百合は、自嘲するような笑みを浮かべる。
「またいつこんな風に自分を抑えられなくなるかわかりません。街道で土蜘蛛に遭遇することだって珍しくない今の世の中です。周囲に人がいれば巻き込んでしまうことだってあるかもしれない。むしろ今まで被害を出してこなかったのが自分でも不思議なくらいです」
ふっと百合が目を向けたのは覇切の後方。恐らくは先ほど覇切が百合かもしれないと勘違いした何者かの死体のことを言っているのだろう。
察するにあれは二人組の用心棒の片割れだ。まさかとは思っていたが、あれは土蜘蛛に襲われたのではなく百合の仕業だったのだ。同情する余地のない相手だったとはいえ、人を殺したという事実は当事者の心に重くのしかかるものがある。
「覇切さん。私は……怖いんですよ」
瞳を伏せた百合が儚げに笑う。
「誰かを殺してしまうということがどれだけ異常なことかはわかっています。だからこそ、こんな風に人としての道を踏み外す度に、私の求める『当たり前』から自分自身が遠ざかっていってしまうことが本当に怖い。自分勝手ですよね? 人のことを殺めておいて、それでも自分の心配なんて……」
自嘲気味に心中を語る百合だが、覇切はそれを聞いて素直に頷く気にはなれなかった。
他者よりも自分のことが優先なのは人間なら誰だって同じだ。
そこに多少の気遣いや思いやりがあったとしても、本当に十割誰かのことを考えられる瞬間なんて、人ひとりの人生の中でごく僅かしかないだろう。
だから覇切は彼女の言葉を真っ先に否定してやりたかったが、その台詞は次に放たれた百合の言葉に遮られる。
「そして覇切さん……もしもその『誰か』があなただったとしたら、私は自分がどうなってしまうかわからない。あなたを殺した自分がその後どうなってしまうのか想像ができないんです……きっと、悔やんでも悔やみきれません」
そう告げる百合の表情は凄愴たるものがあった。先ほどまでの諦めにも似た自嘲に満ちた表情とも違う、未来を恐れ、その不安に押し潰されそうになっている弱弱しい少女の顔。
自らが暴走することで覇切を傷つけ、そしてその結果自分自身も壊れてしまうことを何よりも恐れている。
「だから私のことは放っておいてください。私はあなたを、殺したくない」
故に正真正銘これは覇切のことを思っての言葉だった。
無論、百合自身が傷つくことを恐れていることも確かなことだが、その比重は圧倒的に覇切に傾いている。
こんなことはこれまでの百合の人生でも初めてのことであり、彼女の中で戸惑いや混乱も生じていたが、それが自分の本心なのだということは本能的な部分で直感していた。
彼を守りたい、死なせたくない。その一心が彼女の内側を支配していたからこそ百合は百合なりの拙い言葉で、あるがままの胸の内を吐露していた。
そして覇切もまた、彼女の言葉がその場しのぎの誤魔化しなどでは決してなく、嘘偽りのない心からの言葉であることを悟っていた。
黒条百合は真実、東雲覇切の身を案じている。
常から素直じゃない彼女の心の、ことそこの部分に関してだけは疑いようのない真実なのだと、そう理解したからこそ覇切は――
「――ったく……そういうことかよ」
彼女なりの拙く不器用な優しさを前にして――何故だかどうしようもなく腹が立った。
「覇切さん……?」
今の話を聞いて退くでもなく、向かってくるでもなく、その場で苛ついたように後ろ頭をがしがしと掻き始めた覇切に百合は困惑したような声を上げる。
「お前の言いたいことは、大体わかったよ。抱えてるものの大きさも……俺は当事者じゃないから全部理解できたわけじゃないけど、こうして話してくれたことを嬉しいとも思う」
「ならもう満足でしょう? 私の事情を知って理解できたのなら、もう放っておいて――」
「だけど」
瞬間、覇切の鋭い視線に射抜かれ、百合は思わず続く言葉を飲み込んでしまう。
「お前は一体、何をそんなに恐れているんだ?」
「ぇ……」
「お前は怖いと言ったな? 自らが普通から遠のいてしまうこと。暴走し、巻き込んだ人を殺めてしまうことが何より怖いと。そしてそれが俺だったとしたら悔やんでも悔やみきれない……そう言ったよな?」
「そ、そうです。だから私は――」
「侮られたもんだな、俺も」
続く言葉の重さに、百合は先ほど同様に二の句が継げなくなった。
声量がそれほど大きいわけでもないのに不思議と身体の芯にまで響く、重く力強い声。
そこには微かな苛立ちのようなものも含まれている気がして、今の心が弱り切った百合を怯ませるには十分すぎた。
「正気を失って、知れず周囲の人間を傷つけてしまう怖さを俺は知らない。だから本当の意味でその辺りの気持ちを理解することなんて俺にはできないんだろう。だけど何度も言うように、俺はお前と出逢ってから一度足りともお前のことを迷惑だなんて思ったことはないし、これからだってそうだと断言できる」
「だ、だからそれだってこれからのことは誰にも……」
「わからないなんて言わせない。これは俺の気持ちの問題であって迷惑かそうじゃないかを決められるのは俺だけの特権だ。だからわかるんだ。俺はこれから先もお前のことを迷惑だなんて思わない。例えどんなことがあったとしても。それでもお前が俺の気持ちを勝手に決めつけるっていうのならそんなのはお門違いだし……余計なお世話だ」
その言葉を聞いてさすがにカチンときたのか、たじろいでいた百合の感情も爆発する。
「だ、だったら何なんですか!? 余計な世話を焼いて何が悪いって言うんですか!? ええそうですよっ! こんなのは所詮私の手前勝手な自己満足です! でもそれの一体何が悪いんですか!? 人を傷つけるのが怖いと思うのは普通の人間なら当たり前のことじゃないですかっ! 私がっ……私がどれだけ覇切さんのことを心配していると思って……覇切さんは傷つけられることが迷惑じゃないってそう言いますけど、私だってそんな風にすぐはいそうですかって納得できるわけじゃ――」
「――だから、それがお門違いだって言ってんだ」
「っ……」
その瞳に込められた力強い意思の光。その視線に射竦められ、目の端に涙すら浮かべていた百合は、肩で息をしながら呆然としてしまう。
「もう一度訊くぞ。お前は何をそんなに怖がっている?」
「そ、れは……」
目の前にいる彼を傷つけること。彼を殺してしまうこと。そのことが何より怖かった。
(だけど……違う、の?)
百合の瞳が不安に揺れる。
彼の言わんとしていることがわからない。自分は何か的外れなことを言っているのだろうか?
そうは思うが冷静さを欠いた頭では考えることすらろくにできずに混乱するばかりだ。
だけど目の前でこちらを見つめる彼の瞳は真っ直ぐで、どこまでも雄々しく自信に満ちていて――
「――あまり俺を舐めるなよ。お前に殺されるほど、俺は弱くなんてないんだからな」
あまりにも堂々と、平然とそんなことを言ってのけたものだから、その夜明けの明星のような凛然とした輝きに知れず心を奪われた。
「覇切、さん……」
そうだ。百合の心配はそもそも前提からして間違っている。
傷つけるのが怖い? 誤って殺してしまうのが恐ろしい? おいおい、一体誰に向かってそんなことを言っている?
要するにこれは男としての矜持の問題だ。覇切自身、男尊女卑の考えを持っているわけではないが、女の子にここまで言われて黙っているほど男として腐っているわけではない。
「俺だってお前の呪いを今すぐどうにかできると思っているわけじゃない。無責任な話だが、これからもきっとお前はその呪いに苦しめられていくんだと思う。昨日や今日みたいに暴走することだってあるだろう。だけど、もしそうなったとしても俺が止めてやる。お前の一番傍に居て、お前の総てを受け入れる」
彼の言葉が熱を持って心に染み込んでいくのがわかる。
包み込むような安心感はあの日初めて背負われた時と全く同じで、百合の心を覆っていた頑なな氷を今度こそ溶かしていく。
「俺を殺してしまうかもって? ああ好きにしろ。そんなもん軽く受け止めてやる。傷つけるのが怖いって言うなら、一太刀だって浴びずに捕まえてやる。そのくらいの器量はあるつもりだ」
そう言って再び百合に向かって手を差し出す覇切。
「だから、手を伸ばせ。お前の居場所はここにある」
氷解する心。
彼の熱い魂に触れて今や完全に融けきった彼女の心は、できることなら今すぐにでも彼の胸の中へと飛び込んでいきたいと思う程、嬉しさに打ち震えているというのに――
「――」
しかし、ああそうなのだ。肝心なところで自分はあと一歩を踏み出せない。
人一倍他人を恋しく思っているくせに、いざその厚意を向けられれば途端に一歩引いてしまう。
それは彼のことを信用していないというわけでも何でもなく、純粋に憶病な自分の本質故の情けない意地張りだ。
彼の言ったとおり、自分はどこまでも素直じゃないから。
だから――
「――っ……お前……」
手を伸ばす代わりに、いつかと同じように冷気を纏う剣風を彼に贈った。
狙った場所も前回と寸分違わず、飛び退き距離を取った覇切の頬に一筋の赤線が走る。
「……覇切さんのお気持ちは、伝わりました。なるほど確かにその理屈が通るなら、私の心配も杞憂に終わるというものですね。ですけど私、口だけの人って好きじゃないんですよ。それに今のままでは覇切さんのことを十分信用できないので――」
徹頭徹尾捻くれているこの性根を完膚無きまで叩きのめしてもらわないと、素直に頷くことすらできそうもなかったから。
自分はそういう、面倒臭い女だから――
「――証明してみせてくださいよ。私に殺されることなんて有り得ないんでしょう? だったらその実力を、今ここで見せてください!」
瞬間、百合を中心に吹雪が吹き荒れた。
迸る神威の奔流が竜巻となって、辺り一面に広がる土蜘蛛の死骸を吹き飛ばす。
「こいつは……」
そうして総てが吹き飛ばされた跡地。そこは一面の銀世界と化していた。
この薄闇の中で僅かな星明りを反射し、そこかしこで氷雪が煌めく光景はさながら星の海に落ちたかのようだ。
「さぁ、武器を抜いてください。覇切さん、でないと本気で――死んじゃいますよ?」
次の瞬間、飛んできた神速の突き。
何の呵責もなく放たれたそれは、避けることのできない迅雷となって覇切の心臓に迫る。
「くっ!」
紙一重の瞬間抜刀した覇切は、胸部すれすれのところにまで迫ったそれをどうにか弾くと後方に距離を取り、武器を構えた。
そうして改めて対峙したことでわかる百合の本気。
叩き付けるように放出される圧倒的な殺意は、かつての追走劇の時に勝る勢いで覇切を捉えて離さない。
「本気、なんだな?」
「もちろん。私だって自分より弱い人にあんな風に言われるのなんて癪ですから。ああそれと、最初の一撃は勘定には入れないでおいてあげますよ。さすがに不意打ちが過ぎましたからね。それとも、前言撤回しますか? 一太刀も浴びずになんて、さすがにきついでしょうし」
小馬鹿にしたような笑みを浮かべる百合に、知れず口元がひくつく。
明らかな挑発だったが、なるほど確かにあんな宣言をしておいて早速約束を破るのでは恰好がつかない。
「冗談だろ? こっからが本番だよ。男に二言はない」
「そうこなくては」
合意が成され、ここに仕切りが直される。
思えば覇切は、正真正銘正気を保った百合とやり合うのはこれが初めてのことだった。
斬り合い自体はこの森での追走劇の最中、あの時暴走状態にあった百合と初めて対面し、図らずも刃を合わせることになってしまったわけだが……。
(思えばあの時、こいつは俺と遭遇する前に土蜘蛛の相手をしていたのかもな)
そう思うと覇切としては災難極まりない理不尽だったが、今それを嘆いても仕方がない。
回想を頭の中から追いやり、目の前の百合に集中する。
前回の戦闘が正気を失った状態のものだと考えると、今ここにいる百合はその時とは全く別人だと考えるのが妥当だろう。
あの時と同種の殺気は先ほどからびしびし感じられるが、瞳には正気の光が宿っている。
その証拠に以前は積極的に距離を詰め、怒涛の攻撃を放ってきた百合だったが、今は少々離れた位置で氷刀を正眼に構えたまま微動だにしていない。
無論人格は変わっても彼女本来の能力が変わったわけではないので、前触れなく現れる氷柱や氷礫には十分注意が必要だが……。
(とはいえ、このまま向かい合ってるだけなのが上手くないのは確かだな)
百合の神器の力は、こうして周囲の環境にまで影響を及ぼしていることから考えるに、時間が経てば経つほど有利になる類のものだろう。
彼女はいわば、この場の環境を支配している状態だ。今こうして覇切が思案している間にも、そこかしこに何か罠を仕掛けていたとしても不思議ではない。
故に取るならば攻めの一手のみ。
「……よし」
そう決めた後、覇切の行動は早かった。
腰を低く構えると同時、一気に踏み込み間合いを詰めようと試みる。
しかし――
「……っ!?」
咄嗟に急制動を掛け、その場に停止する。
その喉元には、いつの間に迫ったのか、ぎらりと輝く氷の刃が突き付けられていた。
「くっ……」
まるで待ち構えていたかのようにそっと据えられたその刃は、あと一歩でも踏み込んでいたら覇切を喉から串刺しにしていたことだろう。
一旦距離を取り、再度接近を図る。今度は馬鹿正直に正面から飛び込むことはせず、巧妙に陽動を挟みながら側面から斬りかかる――が、結果は同じだった。
「――どうしたんですか? 覇切さん」
覇切の心臓に突き付けた刃を揺らしながら百合が底冷えのする声音で、嘲るように問いかけてくる。
「まさかこれが全力、なんてつまらない冗談を言うつもりではないですよね?」
「……まさか。たった今準備運動が終わったところだ、よ!」
言葉が終わると同時、百合の刀を弾き飛ばすとそのまま彼女に肉薄する。
今度こそ懐に入ったと確信したその刹那、地中から突き出してきた幾本もの氷柱が覇切に襲いかかった。
「く、おぉっ!」
鼻先を掠めていく氷柱。次いで頭上から流星群ように大粒の雹が降り注ぐが、間一髪、目の前の氷柱を蹴り飛ばし、その反動で間合いから脱した。
(くそっ……まるで近づけない)
手にした刀を構え直し、額に浮かんだ汗を拭う。
百合の剣速が尋常ではないのは既知の事実だったはずだが、二度に亘る攻防における反応は記憶にあるそれよりもさらに速い。
攻め入っているのは覇切なので後手なのは百合の方なのだが、それすら枷にはならないとばかりに易々と覇切の攻撃速度を上回る斬撃は、完全に後の先を地で行っていた。
(加えて……あの神器)
先ほどのように不意を狙って得物を弾いたとしても、待ち構えていたかのように氷柱が現れ、覇切の侵攻を苦も無く防いでみせた。
恐らくはああいった罠が今、彼女の周りのそこかしこに仕掛けられているのだろう。
際限なく溢れる冷気による環境支配は脅威としか言いようがなかったが、実際はこの氷は神器の能力というよりかは、百合自身の神威の属性によるものが大きいだろう。
神巫はそれぞれ適性のある神威の属性があるが、百合の場合は木火土金水の内の水だ。
そして神巫の中には己の神威を周辺の神威と結合、変質させることで周囲の環境を意のままに操ることができる者がいる。
無論のこと高等技術であるが、これまでの経験を踏まえるに、百合はこの環境支配をかなりの練度で修得していると見ていい。
神器の力はあくまでもその支配をより強固にするための補助的な役割で、高速の剣捌きを含めその総てが百合の実力だろう。
神速の剣閃と磨き抜かれた環境支配による数多の罠の二段構え。恐らくこれこそが黒条百合本来の戦闘態勢であり、完全に待ちの姿勢が展開されたこの戦法は――
「絶氷陣――雪雨」
瞬間、百合を中心に身も凍るような鋭い冷風が巻き起こる。
風に乗り巻き上げられた氷の塵は、彼女の周囲に円陣を描くようにして舞い踊った。
「この円の中、一歩でも踏み込めばそこは私の領域です。侵入すれば最後……掻い潜れるなんて思わない方がいいですよ」
直後頭上から舞い落ちてきた木の葉が、ぱんっと音を立てて霧消した。
はっきりとは見えなかったが、恐らくは百合の刺突によって弾き落とされたのだろう。
なるほど確かにそこは彼女の領域だ。静謐さが漂うその白銀の空間はどんな異物の侵入も許さない。
すなわち、自らの間合いに侵入した者の強制排除。
舞う氷雪によって厳かに保たれた領域に入ったことを合図に、如何なる者であろうと問答無用で斬殺する。加えて取りこぼしなど見逃さない氷の罠。
「……まるで城だな」
屈強な門番と幾重にも張られた罠で主を守る絶対零度の城。
百合自身ひとところに留まっているのは、よりその精度を上げるためなのだろう。
一貫して後の先を狙うこの姿勢は、場合によっては不利にしかなり得ない戦法だが、こと今の状況に限ってはこれほど覿面な戦術も他にあるまい。
「どうしたんです? 来ないんですか?」
「慌てるなよ。心配しなくてもすぐにそっちに行ってやる」
急かすような言葉を発しつつも、決して百合から仕掛けてくることはないところから見るに、彼女も今の戦術がこの場における最善手だということを理解しているのだ。
通常、戦闘というものは自分と相手の意識の矢印が単純に向かい合っている場合だけとは限らない。自分の矢印がいくら相手の方を向こうと、相手の矢印が全くの別方向を向いていることもあり得るし、その逆も然りだ。
要するに、逃げるが勝ち。
公式に設けられた試合でもない限り、戦いの終着点は斃す斃されるの枠に留まるとは限らない。詰まる所、生きてさえいれば少なくとも負けにはならないのだ。
そういったことから百合の取っている戦法は、ある意味で実戦には不向きとも言えるものだったが、現実問題、覇切の矢印は百合の方向を向かざるを得ない。
それは覇切の目的が百合を連れ戻すことの一点だったことに加え、先の言葉を証明するという意味でも逃げるなんて選択肢は許されないし、覇切自身そんなつもりは毛頭ない。
しかし、故に現状は手詰まりだった。
「……っと!」
「ふふ、意外と勘がいいですね」
咄嗟に飛び退くと、百合の立っている位置が先ほどよりもほんのわずかに前進している。
「摺り足は結構得意なんです。あまり考え事ばかりしていると知らない間にあの世逝きですから気を張っていた方が身のためですよ」
不敵に笑ってみせる百合。
なるほど確かに得意というだけはある。彼女の言う通り、ぼーっとしていれば知らない間に間合いに入って、あとは自動で貫かれるだけだろう。
「それと、急いだ方がいいかもしれませんね」
「……? 何のこと――」
と、視線を上げて思わず覇切はその場で息を呑んだ。
それはいつからそこにあったのだろう。
圧倒的威圧感を放ち、天上からこちらを見下ろすように聳える巨大な黒百合。
状況はあの時と全く同じだった。
禍々しさすら覚えるほど美しい漆黒の花蕾は、その花弁が開く時を今か今か待ちわびる。
「この花、確か以前もお見せしましたよね。あの時は結局不発に終わりましたけど、この花が何なのか、何故この氷が黒いのか。私の体質を知った今の覇切さんならもう答えはお分かりでは……ないん、ですか」
氷花が黒く染め上げられていくにつれて百合の呼吸も荒くなっていく。それはまるで何か力を吸い取られているような光景で――
「……お前が吸収してきた、黒業か」
「そういう、ことです。私の身体も容量には限界がありますからね。理屈はわかりませんけど、溜まり過ぎた黒業は……こうしてこの黒百合に吸い出されることで、私の黒化病の進行をある程度まで食い止めてくれるんですよ」
そして吸い出され、氷の中に閉じ込められた黒業がどうなるかなどは、蕾が開くという現象を鑑みれば馬鹿でも想像がつく。
「つまり、この花が開いた瞬間……」
「黒業が溢れ出し、この周辺は死の土地と化します」
その光景を想像して知れず背筋をぞっとするものが走った。
「一種の防衛本能みたいなものですよ。自分ではどうにもなりません。と言っても、ここまで濃縮された黒業を直接浴びれば私も無事では済みませんけど」
恐らくはこれこそが百合に宿る呪いの真髄。
「巻き込むってのは……こういうことだったのか」
あの蕾に閉じ込められた黒業がどれほどの量なのかは想像したくもないが、この巨大な花から放出されると考えるならば町一つはゆうに消し去ってしまうだろう。
防衛本能と言っていたから、きっと以前のように都合よく不発に終わったりはしないはずだ。恐らく今出現した黒百合には前回吐き出す分だった黒業もそのまま蓄積されている。
「どう、します? 諦めて……逃げ出しますか? 今ならまだ間に合いますよ?」
「何度も同じこと言わせるなよ。受け止めるって言っただろ」
しかしだからと言って、覇切の頭の中に後退の二文字はなかった。
最悪の光景を想像して一瞬臆したのは本当のことだが、要はあの花が開く前に百合を捕まえてみせればいいわけだ。あとはそのまま、彼女を連れてさっさとこの場を離れる。
故に状況は何も変わらない。場の危険度が上がったというだけのことであり、やることは何一つだって変わってない。
(一か八か……)
策ならないわけではない。百合の展開している堅牢堅固な氷の牙城を崩せる唯一の秘策。
まだ成功の確証はないぶっつけ本番の手だが、ここで決めることができなければ――
(――男じゃ、ないよな!)
決意と共に、覇切は初手と同じように、正面から百合の間合いに詰め寄るべく一気に踏み込んでいった。
◇
「……っ」
真正面から突っ込んでくる覇切の姿を捉え、百合は迎撃のために意識を集中させる。
突撃の直前どこか彼の纏う空気が変わったような不思議な感覚を覚えたが、蓋を開けてみればやっていることは先ほどまでと何ら変わりはない。
「馬鹿の一つ覚えですか!? あまり感心できませんよっ」
挑発の言葉と共に、自らの領域に踏み込んできた侵入者の喉元目がけて刃を放つ。
この陣の内側には百合の神威が神経のように張り巡らされている。そこに入り込んだ者が神威に触れた瞬間思考するより早く身体が動き、瞬時に急所を見抜いて放たれた剣閃は必殺となる。
故に稲妻のように空を斬り裂き走る刺突は、例え何者であろうと回避不可能の一撃に思われたが――
「――っ!?」
喉元まであと三寸というところで、氷刀の切っ先は上方に向かって弾き返された。
驚愕の表情で目を見開く百合だったが、しかしこの程度は彼女にとっても想定内だ。
必中必殺、侵入すれば強制的に敵を排除するという性質は、確かに相手にとって脅威となるが、その性質は言い換えてみれば、侵入しさえすれば勝手に攻撃してくれるということに他ならない。
すなわち――来るとわかっている攻撃ならば躱せる。
陽動も偽装もなしに馬鹿正直に真っ直ぐ飛んでくる刺突など、初動を掴むことさえできれば防ぐことはそう難くない。
とはいえ、それは一般的な域にある戦いの話であり、百合の放った閃光にも等しい速さの突きを防いでみせた覇切はさすがと言う外ないだろう。
「だけどっ……まだです!」
しかし、彼女の城はこんなことで崩れるほど脆くはない。
万が一にも自分の刃が届かなかった時の隠し玉。迫る覇切の行く手を阻むように、地中から氷柱の剣林が突き出し、頭上からは無数の氷礫が弾雨となって降り注ぐ。
突破不可能、難攻不落。主を守る鉄壁が、微塵の容赦もなく覇切に向かって牙を剥く。
しかし――
(嘘っ……!?)
それでも覇切は止まらなかった。
右の氷柱を躱し、左の氷柱を砕き、襲いくる氷礫を時に弾き、時に受け流しながら立ち止まることなく前進する。
正直な話、百合はことここに至るまで本気で覇切を殺そうなどとは一度たりとて、思ってはいなかった。
先の言葉は総てあくまでも『つもり』の範疇に過ぎず、そうまで自らの気を奮い立たせなければ覇切と向き合うことなどできそうもなかったからだ。
だからこの展開も、脅威として演出することで覇切を退かせようと仕向けただけに過ぎなかったのだが……。
(止まらないっ……この人は、本当にっ……)
舐めていた。侮っていた。
先にあれほど諭されたというのに、この期に及んで百合はまだ覇切の覚悟をどこかで信用していなかったのかもしれない。
そんな自分の究極に捻れた性根にほとほと嫌気がさすが、長年に亘って根付いた性格は今この瞬間にそう変われるわけでもない。
先に刃を交えた際に崩された体勢をようやくのこと立て直す。
と言っても、ここまでほんの一瞬ほどの時しか過ぎてはいなかったが、その一瞬のうちに覇切はもうすぐそこまで来ている。
しかし今自分は再び攻撃の姿勢に入った。そうなってしまえばあとは純粋な速さ勝負。
そしてそれは自分の得意分野だった。
「あと一歩……惜しかった、ですね!」
勝利を確信した百合が、その氷刃を解き放とうと照準を定め――
「――っ!?」
その時、彼女の頭の中に大音量の警鐘が鳴り響いた。
馬鹿な。なんだこれは有り得ない。
今この場にいるのは自分と覇切の二人のみのはず。それ以外に人影は見当たらないし、そもそも生き物の気配すら感じられない。
それは疑いようのない事実であり、戦いの最中周囲にも細心の警戒を払っていたので新手の土蜘蛛の出現にも十分注意していた。
そのはずなのに――
ここにきて、頭上から覆い被さるように間合いに入り込む侵入者の気配に自然と身体が反応した(・・・・)。
「――」
ほんの一瞬の硬直。
本来であれば考えるより先に速く半ば自動で敵の排除を行うはずだったが、この局面で全神経を覇切に注いでいた百合にとってこの新手の侵入者は意外過ぎる脅威であり、まるで得体が知れないことから当然無視できるものでもない。
『侵入したものの強制排除』という性質が完全に裏目に出た結果であり、加えて自分の間合い総てを覆い尽くすほどの巨大さに、どこを狙えばいいかわからず瞬時に手が出せない。
一体何が? 対処をしなくては。冷静に。落ち着いて考えろ。今この場で取るべき行動は何だ? 攻撃? 防御? いいやそんなことよりも――
「――!?」
様々な思考が脳内を入り乱れていく中、そこに至って初めて百合は理屈など抜きにして、己が失態を悟った。
これは――罠だ。
どんな手段で何が起きたのか、微塵もさっぱり理解などできてはいなかったが、これまで培ってきた勝負勘が強く百合に訴えかける。
このままではまずい。
それは単純かつ明快な己の窮地を警告する言葉。何がどうまずいかなど考えている余裕は皆無で、とにかく早急な対応が必要だったが、というかそもそも――
――自分は一体どれだけの時間覇切から意識を逸らしていた?
「くっ……!」
それは刹那にも満たないほんの僅かな間隙。
頭上から落下するのは、美しい満月上に切り取られた森の天蓋。
一体どのような術理で地上から遥か高みにある枝葉を丸ごと総て切り落としたのかは不明だったが、今確実に言えることは、自分が見事覇切の策に嵌まってしまったという事実と、もうすぐ眼前まで彼が迫っているということだけだ。
焦りと共に百合が得物を構え直す。
しかし遅い。
最早この状況で百合が覇切の侵攻を阻むことなど不可能であり、刹那、両者の視線が交錯する。
そして――
◇
「……捕まえ、た」
「――あ」
それは燃え盛る炎よりも熱い抱擁だった。
突き出された刃は鋭く光り、命中すれば絶命必死の一撃だったが、ここまで来て今更避けるのも面倒だったので、覇切は構うことなく彼女の華奢な身体を得物丸ごと抱きしめた。
結果、それが功を奏したのかどうかはわからないが、百合の狙いは急所である心臓を大きく逸れた。あるいは彼女なら必ず逸らしてくれると信じていたのか……。
「ようやく届いたな……手間かけさせやがって」
どちらにせよ、ここに勝敗は決した。
勝利と共に見事百合を掴み取った覇切は、どこかほっと安堵したかのような穏やかな笑みを浮かべていたが、しかしそれとは対照的に腕の中の少女の顔色は優れない。
顔面は蒼白。全身はまるで寒さに凍えているかのように小刻みな震えを続けている。
「ぁ……ああ……は、覇切さん……」
うわ言のように覇切の名前を呟く百合の手には彼女の愛刀が。
真っ直ぐに伸びた刀身は自らを抱きしめる男の脇腹を躊躇なく貫いていた。
透き通る美しい氷の刀身を伝い、火傷しそうなほど熱を持った血液が百合の手の平に流れ込んでくる。
「悪いな。約束、破っちまって……まぁ初回だから勘弁してくれよ。次回からはもうちょい上手くやるから、今回のところはおまけってことで」
努めて軽い調子を装ってみせるも、百合はその言葉を聞いているのかいないのか。
いいや恐らく耳に届いてすらいないだろう。
震えは一層大きくなり、口端からは震えた調子の声が漏れ出てくる。
「あ、あの……あの、私なんてことを……本当は、本当は本気で刺すつもりなんてなくって……殺すとか、死ぬとか、そんなの言葉の綾でっ、全然っ、考えてなんていなくて……本当は、本当は……!」
己がしでかした過ちを懺悔する言葉の数々。
言葉の最中、あっという間に彼女の目尻に溜まった涙は留まることなく決壊し、大粒の雫が次々と雪のように白い頬を伝い落ちていく。
「ごめっ、ごめんなさい……! ごめんなさい! ごめんなさいっ……!」
覇切の胸板に額を押し付け、嗚咽交じりの謝罪の言葉を何度も何度も口にする。
その姿は初めて見る、百合のありのままの弱さを曝け出した姿で、ともすれば彼女にとって裸を晒すよりも恥ずかしい光景を前に、覇切自身居た堪れない気持ちになったのも確かなことだったのだが……。
「……」
だけど何故だろう。
弱弱しく、恥も外聞も捨て、ただただ罪悪感に苦しみ泣きじゃくる少女を前にして、嬉しいと感じてしまうのは。
別に自分は加虐的な趣味を持つ変態でもないし、一人の女の子の泣き顔を見て、あまつさえ喜んでしまうなど不謹慎極まりないにもほどがあったが、どうにも口元に浮かぶ笑みを抑えられそうにない。
だってこの心に湧き上がる温かな気持ちはきっと、この手が彼女の心に届いたという何よりの証なのだと、そう思ったから……。
だから彼女を抱く腕により一層の力を込めた。本当は死ぬほど痛いけど、何でもない風を装って、精一杯に優しく、平然とした調子で言ってみせるのだ。
「――まったく、仕方のない奴だ」
「――っ」
そうして彼女を安心させるようにゆっくりゆっくりとその頭を撫でていく。
きっと今、百合は不安で不安で仕方ないだろうから。
嫌われたらどうしよう。突き放されたらどうしよう。
そんな、年相応の『当たり前』な少女の不安がこの手を通して伝わってきたから。
「ごめんなさいっ……本当に、ごめんなさい」
「いいんだよ。お前が気にすることなんて何もないんだ」
「でも、でも私……いつも、いつも覇切さんに迷惑ばっかりかけて」
「たまに妹の我侭に付き合うのも悪くはないさ。それでその我侭に振り回されたとしても、それこそ兄貴の本懐ってやつだろ」
その言葉に一度は止まりかけた涙が百合の瞳から再びぼろぼろと零れ出す。
「頼っていいんだ。迷惑かけていいんだ。一人でいいなんて、思わなくったっていいんだよ。俺がいつだって傍に居てやる。お前がどこか遠くに行ってしまっても、一番に見つけてやる。だから……」
そこで覇切は一つ軽い深呼吸をして間を置いてから――
「――だから……なぁ、百合」
その言葉を聞いた百合が弾かれたように顔を上げる。
「覇切さん……今……」
目を合わせるのはなんだか気恥ずかしくて、抱きしめた腕は緩めることなく思わず明後日の方向に顔を逸らしてしまう。
思えばその名を口にしたのは自己紹介の時以来ではないだろうか。
今まで無意識に彼女の名を呼ぶことを躊躇っていたのは、きっと心のどこかで八恵に対する負い目があったから。
要するに自分でも区別がついていなかったのだ。彼女を支えたいと思うこの気持ちが、失った妹の影を見ているのか、きちんと百合自身に向き合ってこそのものなのか。
昨日まではわからなかった。だから手を伸ばすことさえ満足にできないでいた。
だけど今は違う。
目が離せないと思う。力になりたいと思う。
この手が届けばいいと、そう思う。
今この瞬間そう思っている自分の心だけは疑いようのない真実なのだと、そんな風に感じたから。
自分が力になりたいと思うのは百合なんだと、そう心に誓うことができるから。
だから自信を持って、再び彼女の名を口にすることができるのだ。
「もう一度言うぞ。手を伸ばせ、百合。ここが、お前の居場所だ」
「覇切、さん……私……」
その言葉は救いだった。これまでずっと一人きりで生きてきた少女への。素直でいることができず、それでも心の片隅で情を求めていた彼女を救う奇跡のような言葉。
優しき青年の大きな手はすでに少女へ届いている。あとは少女が手を伸ばすだけ――
「私、私は――」
そうして今、自らの心を詳らかに曝した百合が初めて自分の気持ちに正直に、まるで自らの殻を破ろうとする雛のように、恐る恐るゆっくりと、その手を伸ばす。
物語の終幕は近い。いいやそれともこれから始まろうとしているのだろうか。
ある種運命的とすら言えたかつての二人の邂逅は、当然の帰結として今ここに収束へと向かおうとしている。
「……?」
――しかし、この瞬間まで二人は失念していた。
「な、何……?」
この国に神などいない。
求めれば求めるほどに。手を伸ばせば伸ばすほどに。
その手が奇跡に手が届かんとするその瞬間にこそ、この世の理不尽は極大の絶望を喜び勇んで運んでくるのだということを。
「っ!?」
地鳴りのような音が響いたかと思った直後、突如森全体を震わせる衝撃が襲った。
下から突き上げられるような大きな衝撃に、思わず視線を上げるとそこには――
「花が……」
漆黒に染め上げられた百合の氷花。
その蕾が今や完全に花開き、中心から黒くどろどろとした半液体状の塊が漏れ出ている。
土蜘蛛の体表にも似た粘液状の塊。最早説明するまでもない。
――黒業。触れた者を死へと誘う、黒化の病の源泉が今この場に溢れ出していた。
「あ、あぁ……駄目です。覇切さん、逃げてください!」
先ほどより一層青褪めた表情で切迫した声を上げる百合を前に、覇切は状況の深刻さを即座に理解した。
恐らくこの神州の誰よりも、黒業に近い存在である彼女がここまで焦燥しているのだ。危険度としては洒落にならないものがあるだろう。
故に今すぐこの場から離脱を図ろうとするが――
「きゃっ!?」
続く衝撃に踏んばること叶わず、百合の身体が手にした神器ごと後方へ吹き飛ぶ。
「づっ……百合!」
刃が抜けて堰き止められていた血が溢れ出るが、そんなことに構ってなどいられない。
手を伸ばす。
「覇切さ――」
――が、僅かに届くこと叶わなかったその指先は虚しく空を切り、直後二人の顔が絶望に染まる。
「――ぁ」
視界の端で黒百合の花が爆発するように弾け飛ぶのが見えた。
上空から泉を丸ごとひっくり返したかのような、とんでもない量の黒業が降ってくるのがわかる。
今や覇切の視界に映る総ての動きが酷く緩慢なものへと変わっていた。
隙間なく生い茂っていた木々が、次々と死に絶えていく様子が一瞬毎に更新されていく。
根は腐り、幹は爛れ、葉は朽ち、まるで生命としての時を異常に加速させたかのような光景に現実感が湧かない。
視線の先では呆けたような顔の百合がゆっくりゆっくりと、遠ざかっていく。
恐らく、今この瞬間この場には希望の一欠片すらも残っていないのだと、本能にも近い部分で覇切は悟っていた。
この世界は理不尽だから。
どれだけ手を伸ばしたところで。どれだけ希ったところで。
救いの手を差し伸べる神など、この神州のどこにも存在していないのだから。
これにて終了。これにて幕引き。
回避不能の終焉が、二人を包み込んでいく……。
◇
(これで、終わり……だと?)
もうあと一瞬と満たない刹那の先にまで迫った死の予感を前にして、しかし覇切の胸中は諦観でも絶望でもない全く別の感情で満たされていた。
冗談じゃない。ふざけるな。そんな有り得ない理不尽があってたまるか。
こんなところで終わりだなんて。
そうじゃないだろ違うはずだ。これからだろう俺たちは。
どこまでも熱く滾る怒りの念は一体何に向けてのものなのか。それすらはっきりとわかっていない覇切だったが、今この瞬間に胸に抱いた願いはただ一つだけ。
――この手が届けばいいと思った。
それはかつて失った温もりを取り戻したいがために願った思い出の残滓。
彼女を救いたかった。彼女を守りたかった。しかしその守りたかった彼女はもういない。
守ることができなかったから。
でもだからこそ、そのことをいつまでも悔やんだり、引きずったりはしたくなかった。
過去を引きずりながら生きるのは性に合わないから。彼女に笑われないように、いなくなった彼女に誇れる自分になれるように胸を張って前を向いていたかったから。
だから今度こそ、何度だって言ってみせる。
手が届かないなんてことは有り得ない。
例えこの世が理不尽に塗れていたのだとしても、そうであるからこそ人は総てを奪う不条理に屈するものかと吠え猛ることだってできるのだから。
定められた結末になど屈するな。
この世が理不尽だと言うのなら、己が理不尽で世界を丸ごと塗り替えろ。
二度とは戻らぬ夜を憂うより、明日へと繋がる朝を想う。
それが東雲覇切の魂に刻んだ誓いで――
(――俺の、ただ一つ胸に抱いた願いでもあるのだから)
だから俺は今この瞬間、他の誰でもない俺自身に願うんだ。
この手が届けばいいと……そう、何よりも強く――
――その時、暴虐とまで言えるほどに力強い風がその場に吹き荒れた。
触れれば総てを薙ぎ倒すほどの膨大な力を感じるのに、それでいて温かく、包み込む者を守り抜く信念を感じさせる風。
そしてその風に乗って、静かな、凛と研ぎ澄まされた意志を感じさせる詠歌がその場に響き渡る。
「――東雲の 天に仰ぎて 久方の 光冴ゆるは 綺羅の明星」
紡ぎ出される言の葉は、光を纏いて祝詞となる。
朝日を背負いし極光と共に青年の心に秘められし願いが、今ここに解き放たれる。
「八命相蛇之眼。乾儀・六白金星――天象眼」
瞬間、爆発的な神威の奔流が、天上向かって翔け昇った。
◇
「……っ!?」
まるで空へと飛翔する昇り龍をも思わせる絶大な神威の奔流。
もう駄目だと反射的にぎゅっと目を瞑った百合だったが、瞼を閉じていてもはっきりと感じられたその強大さに、恐る恐ると目を開く。
いつまで経ってもやってこない『最期の瞬間』を不審に思ったのも理由の一つだ。
順当にやってくるはずだった死は、しかし一向に訪れることはなく、逆に降って湧いたように現れたのはこの異常な量の神威だ。
まるで何かに吹き飛ばされたかのように四散した黒業を含め、はっきり言って現状に理解が追いつかない。
「一体……どうなって……」
「よう、まだ眠っちまうには早いんじゃないか?」
「は……覇切さん!?」
思いがけずすぐ傍から聞こえてきた声に視線を上げると、驚くほど近い距離に覇切の顔があり、百合は反射的に背を仰け反ろうとするが思うように身体が動かせない。
それもそのはず、彼女の身体は覇切の逞しい腕に横抱きに抱えられており、先の急接近に加えて不意討ちの爆弾を二発も落とされた百合は、今置かれている状況など諸々すべて忘れて顔を真っ赤にわたわたと慌てふためいてしまう。
「い、一体何がどうしてこうなってるんですか!? というかさっきまでの黒業は――」
「おっと、そこまでだ。次来るぞ」
混乱気味に捲し立てる百合の言葉を遮った覇切の視線の先を追うと、そこには新たに波濤となって押し寄せてくる黒業が広がっていた。
目前にまで迫ったそれに百合は今度こそ自らの最期を覚悟したが、直後、身体をさらうような突風が吹いたかと思うと次の瞬間には目の前にまで迫った黒業が綺麗さっぱりその姿を消していた。
唖然とする百合だったが、しかし今度はすぐにその理由に気付いた。
先ほどまでと視線の高さが違う。
眼前に広がる光景はどこまでも続く満天の星で、弾かれたように下を見ると、遥か下方、そこには今まさに神威の森の木々を飲み込まんとしている黒業の波が見えた。
「瞬間、移動……?」
思わずそんな言葉が漏れ出てしまう。
無論のこと、例え神巫の身体能力を以てしてもそのような芸当は不可能だ。身体強化はあくまで身体強化に過ぎず、その能力は人間的枠組みを逸脱することはない。
要するにどれだけ高く、どれだけ遠くまで跳躍しようとも、大空を飛行することはできないのだ。
そしてそれらの事実を加味したところで、現状は瞬間移動をしたと言う外説明ができないものだった。
有り得ないこととはわかっているが、単純な跳躍にしてはあまりに速く、あまりに高い。
しかし一つだけ。その有り得ない現象を可能とする能力を神巫は備えている。
異能だ。例えそれが理屈や概念を飛び越えた荒唐無稽な夢だろうとも、異能の力を以てすれば物理法則を無視した離れ業も不可能ではない。
故に百合は覇切が瞬間移動に近い性質の異能を使ったのだと推測したのだが……。
「そんな大層なもんじゃないさ。ほら、降りるからしっかり捕まってろよ」
すぐ傍からおかしそうに笑いながら否定する覇切の声が聞こえたかと思えば、重力加速に身を任せ、凄まじい勢いで二人は地上へ降り立つ。
「わ……」
彗星のような勢いで落下したにもかかわらず、驚くほど静かに着地を果たした覇切。
その芸当にまたも百合は驚嘆する羽目になったが、そこで初めて彼の凛々しい顔に違和感を覚えた。
「眼帯が……」
そう、例え睡眠中であっても必ず装着していた彼の特徴でもある右目の眼帯。
それが今や外され、その下に隠され続けてきた右の瞳が晒されていた。
「陽の三爻……天の紋」
およそ覇切に似つかわしくない爬虫類を思わせる冷然さすら漂う鋭い眼光。その瞳に浮かび上がるは森羅万象を表す八卦が一つ、天を象る三つの陽爻。
それが何を表しているのか現時点の百合にはまるで想像がつかなかったが、一つ変化に気付いたことで、他の異変にも気が付き始める。
まず覇切の纏う異常なまでの神威の量。あまりに自然とその身体に馴染んでいたので、つい先ほど感じた神威が彼のものだと気付くのが遅れてしまったが、莫大過ぎるその神威は森に漂うそれと同様に……いやそれ以上にはっきりと光のうねりとして目視ができる。
これほど濃密に圧縮された神威をその身に内包した神巫を百合はこれまで見たことがなかったが、仮にいたとするならば――
(なるほど。先ほどの『瞬間移動』はそういう……)
判明した事実を素直に受け止めた百合は、一つの結論に達すると同時に身震いした。
先ほど百合は『現状は瞬間移動をしたと言う外説明ができない』と断じたが、それは自分の中にある神巫の常識を基準とした視野の狭窄でしかなかった。
要するに覇切は、腕に抱かれた百合が思わず瞬間移動だと勘違いしてしまうほどに高く、そして速い跳躍を行っただけに過ぎない。
ただの跳躍。垂直跳び。二本の脚が揃っていれば誰でもできる『跳ねる』という一動作。
通常ならばそんな馬鹿なと一笑に付すところだったが、これほどの神威を目の前にした今となっては自らの思考の浅はかさを恥じる外にない。
見れば、先ほど百合が負わせた傷もすでに塞がっている。
「あなたは、一体……」
「悪いけど、説明は後だ。どうもヤバいことになってるみたいだからな」
覇切の視線に釣られると、地の底から響くような轟音と共に、何かがどこか一点を向けて集まっていく光景が見えた。
「あれは、土蜘蛛っ……!?」
恐らくは黒百合からあふれ出る黒業に釣られて出てきたのだろう。
この森にはまだこれだけの土蜘蛛がいたのかと、軽く眩暈を覚えるほどに夥しい数の黒い影が黒百合に群がりつつあり、その光景を目にした瞬間百合は、再び自分の中で『食欲』が膨らむ感覚を覚えたが、咄嗟に唇を噛んで暗転しそうになる意識をギリギリで保つ。
例えその唇を噛み切ることになろうとも、今この瞬間の出来事だけは目に焼き付けておかねばならないと、そう直感させるだけのものを覇切から感じたから。
と、その時膨大な数の土蜘蛛の中の一体が覇切たちの存在に気が付いた。
「■■■■――っ!」
凄絶極まりない雄叫びと共に、襲い掛かってくる土蜘蛛。
思わず身が竦むほどの響きを持つ悍ましい咆哮だったが、覇切は百合を抱きかかえたまま表情一つ変えることなく自らの刀を引き抜くと、その場から一歩も動くことなく目の前の虚空を切り裂いた。
するとどういう理屈だろう。一瞬前まで猛り狂って突撃を仕掛けていた土蜘蛛の影が、覇切たちの元へたどり着く遥か前方で真っ二つに切り裂かれた。
そして最初の一体が呼び水となったのか、その後も怒涛の勢いで次々と土蜘蛛たちが押し寄せてくるが、結果は同じで覇切が一振り虚空を薙ぐと同時に、先と同様一体残らず見えない何かに斬り裂かれる。
「蟒蛇神道流、壱之太刀――山楝蛇」
刹那、迂曲しながら閃く剣閃が進路上にある総ての土蜘蛛を裂断した。
「……凄い」
その光景を前にして百合は瞠目するより他になかった。
重ねて言うが覇切は先ほどから一歩たりとてその場から動いていない。
しかし彼が刀を振るった直後、目の前の敵が斬り裂かれるという現象を考慮してみるとそこから導き出される結論は一つだけで、すなわち――
「斬撃を、飛ばした……?」
無論、単純な剣技でそのような真似ができるわけがない。
ならばこれが彼の異能だと断ずるのは簡単だが、百合は直感でその可能性を否定した。
覇切と限りなく密着している状態だからこそわかる膨大だが繊細な神威の流れ。どこか覚えのあるこの感覚は――
「神威結合による、環境支配……」
系統としては百合のやってのけたものとはまた違う形の技だが原理としては同じ理屈の上で成り立っている。
すなわち、自らの属性神威を周辺に漂う神威に結び合わせ変化させる。
百合の場合は自らの水属性の神威に変化させることで周辺を氷点下の世界へと変貌させたが、覇切の場合そもそもの属性が違う。
「木火土金水の金……それが覇切さんの……」
金とは刃。刃とは斬り裂く者。
触れた者総てを斬り裂く魔性の金刃。それが彼の纏う神威属性であり、土蜘蛛たちを屠った不可視の斬撃の正体だった。
「――!? 覇切さんっ、危ない!」
と、その時、頭上から空間ごと圧壊させんばかりに迫る巨大な質量を察知した百合が声を上げる。
間一髪、覇切は百合を抱えたまま、その異次元的速度で以て飛び退くと、周囲でも一際高い木の樹上へと着地した。
「悪いな。助かった」
「い、いえ……それはいいんですけど」
相変わらずの密着感に頬が熱くなる百合だが、眼下に見える異常事態に知れず息を呑む。
「土蜘蛛が集まって……合わさっている」
そこにあるのは巨大な黒い腕だった。恐らく先ほど自分たちを襲ったのもあの腕だろう。
厩程度ならば簡単に押し潰しかねない大きさのそれは蠢きつつも、肩に首、そして頭と徐々に形を成していく。
土蜘蛛が合体するなど聞いたことがない話だが、今目の前に突き付けられている光景は紛れもない現実だ。
咄嗟に目を逸らしたくなるほど醜悪極まりない光景だったが、見上げる覇切の視線は決意にも似た強い光を放っている。
「まさか……あれと戦う気ですか!?」
「まぁそんなところかな。水月も目と鼻の先だし、あのままにしといたらまずいだろ」
「無茶です! 気持ちはわかりますけど、例え今の覇切さんでもそんなことっ……!」
「なら賭けてみるか?」
「え……? あ、あの――」
と、突然の覇切の言葉に百合が呆けた瞬間、足場にしていた巨木が消し飛んだ。
三十間以上離れていたというのに、巨大土蜘蛛はその腕の一振りで、一帯の木々を総て薙ぎ倒したのだ。
その強襲を紙一重で躱した覇切は地上に降り立つと、その莫大な神威をさらに燃え上がらせる。
「言っただろ? あんまり俺を――舐めるなよっ!」
力強い宣言と共に振るわれた刀の一閃と同時、巨大土蜘蛛の腕が両断された。
断末魔のような叫びが森中に響き渡るが、覇切は全く意に介することなく一足で距離を詰めると今度はその肩口を深々と斬り裂く。
その攻勢の間中、合体しきれていない土蜘蛛たちが絶えず襲い掛かってきていたが、それらはすべてが例の『飛ぶ斬撃』――というよりも『空を這う斬撃』だろうか――によって残らず一掃されていた。
驚嘆すべきはこの一連の戦闘の最中ずっと覇切は百合を抱えたままだったことだが、当の百合には、覇切が何をどうして敵を斃しているのかが何一つとしてわかっていなかった。
あまりに速く、そして強い。
一瞬毎に景色が変わり、その間何回彼が剣を振るったのか、それすらもわからない。
気づけば二人は巨大土蜘蛛の遥か頭上。
空中で大上段に構えた覇切の刃がその形状を変えていく。
「――蛇之麁正。そろそろ終わりにしようぜ」
その手から伸びる長さ五尺の大太刀。まるで蛇の鱗のような刃文の走る刀身に極限にまで研ぎ澄まされた神威が集約されていく。
金色に光り輝く神威の刃。今や夜空には二つの三日月が並んでいた。
まるで追いすがるようにその巨大な腕を上空へと伸ばす土蜘蛛。
しかしその動きは覇切の刃が形成されるよりもはるかに遅く――立ち塞がるもの総てを斬り裂く極大の刃が今ここに完成した。
「――じゃあな、ヘドロ野郎。今度こそ……幕引きだ!」
次の瞬間、その刀身が振り下ろされる。
吸い寄せられるように土蜘蛛の腕へと放たれた光の刃は、押し止められることなくその先にある本体まで真っ二つに両断した。
◇
「ふぅ……」
勝負を決定づける一撃の後、覇切たちは戦いの跡地にふわりと舞い降りた。
つい半刻ほど前までは鬱蒼と生い茂っていた木々は今や影も形もなく、荒廃とした草一本と生えない土地が周囲には広がっている。
恐らくこれから先この土地に生あるものが芽吹くことはないだろう。
黒業に蝕まれ死の土地と化した光景を前に覇切は何とも言えない寂寥感に駆られたが、不意に自らの視界がぐらつく感覚を覚えた。
「くっ……」
「え? は、覇切さん?」
様子がおかしい覇切に腕の中の百合が声を上げるが、事情を聞く暇もなくそのまま覇切の身体はふらりと後方へ傾くと、重力に逆らうことなくどさりと背中から地面に倒れた。
「ちょ、ちょっと! 覇切さん、しっかりしてください!」
直前の体勢から百合が自動的に覇切を押し倒すような形となって戸惑いも大きかったが、今は覇切のことを心配する気持ちの方が大きい。
何しろ彼の異変は、先ほどの異常な神威の流出と関係があるのかもしれないのだから。
「あ、ああ。百合……悪い。最後の最後で恰好つかなかったな」
「そんなことはどうでもいいです! 本当に、一体どうしたっていうんですか……」
軽口を叩ける余裕はあるようなので命に別条はなさそうだ。
それを確認できて、一先ず百合はほっと息を吐く。
気づけば先ほどまでのような膨大な量の神威は今や感じることはできず、見ると彼の右眼に浮かんでいた天紋もすでに消えている。
「急に強くなったと思ったらいきなり倒れて……わけがわからないですよ」
「すまん」
「いいですよ、別に。覇切さんは私のことを知ろうとしてくれていたのに……それに応えようとしなかったのは、私なんですから」
「……そうか」
「でも」
と、そこで百合は一つ深呼吸をすると、決意のこもった眼差しを覇切に向ける。
「今は、とても……とても知りたいと、思っているんです。あなたの……覇切さんのこと」
今にも泣きそうな百合の表情。たどたどしく紡がれるその言葉は震えていて、口に出すのに覇切が想像できない程の勇気を要したのだと察することができた。
「ありがとう」
「な、何でお礼を言ってるんですか?」
「何となく。嬉しかったからな」
「意味が分かりません……って、す、すいません。重かったですよね?」
と、その時初めて百合は、自分がこれまでずっと覇切の腹の上に馬乗りになっていた事実に気が付き慌てて飛び退いた。
その様子に苦笑を浮かべた覇切もまだ少し気怠い身体を起こすと、正座して俯く百合に向かい合う形で胡坐をかく。
「どこから話したもんかな……前にもどっかで話したと思うけど、俺の家は大昔に神州に存在していた神を祀ってる家系だったんだ」
「はい。確か、妹さんがその神様の力を受け継いだって……」
「まぁそういうことになるんだが……結論から言えば、俺の右眼がその神の力ってやつで、これは妹の――八恵の形見なんだ」
どこか愁いを帯びた表情でそっと自らの右眼に手を添えながら覇切は語り出す。
「蛇眼。それが俺の一族に代々受け継がれてきた蛇神の力だ。その眼力は全部で八つ。さっきみたいに神威を爆発的に高める術もその眼力の一つなんだが、先祖の中でも総ての力を使いこなせた奴はいないっていう話だし、事実俺も二つしか使えない。まぁ元々この力は女系だし、俺が満足に使いこなせないのは当たり前なんだけどな」
先ほどの自らの失態を指して自嘲気味に語る。
恐らく時間制限のようなものがあるのだろう。加えて使い終わった後は身体が負担に耐えられなくなり、倒れてしまう。
その程度のことは容易に想像できたため百合は口を挟まず、視線で覇切に先を促した。
「要するに俺が蛇眼を曲がりなりにも使えるのはこの右眼が八恵のものだからってことなんだが……白状すると、こいつを手にしたときの記憶が俺にはないんだ」
そこまで口にしたところで覇切はその眼球の奥に鈍痛を覚えた。
まるで見えない楔を打ち込まれたかのような重く響く痛みに僅かに顔を顰める。
脳裏に浮かぶのは一人の少女の姿と業火に包まれた生まれ故郷の光景。
「何一つだって綺麗に忘れてるくせに、ただこれだけは憶えてるんだ。俺はあいつを救ってやることができなかった。この後悔だけは今も忘れることなく、ここんところにずっと渦を巻いてるんだ」
自らの胸を親指で指し、苦しげに語った覇切はおもむろに懐から眼帯を取り出した。
「こいつはその後父さんにもらった御守りだ。力が暴走しないように普段は抑制しておくための護符みたいなもんかな。思えば、あの人から何かもらったのなんてこれが生まれて初めてだったか……今となっちゃそれもどうでもいい話だが……って、あれ?」
言いながら眼帯をつけ直そうと腕を上げるが、上手くいかずにするりとその手から滑り落ちてしまう。どうやらまだ本調子ではないようで、上手く力が入らないようだ。
「まったくもう……何をやっているんですか」
「いや悪い。ちょっと待っててくれ」
「待ちませんよ。ほらもう貸してください」
もたもたと地面に落ちた眼帯を拾う覇切を見て呆れたような声を出した百合は、その手から眼帯をひったくるように受け取ると、ずいと一歩前に出てから、正面から覇切の頭の後ろに腕を回した。
「これはなかなか……危険な体勢なんじゃないか?」
「じ、じっとしていてください喋らないでください息をしないでください。上手くつけられないじゃないですか」
百合が膝立ちになったおかげで普段とは視線の高さが上下逆になったことは新鮮味のある体験だったが、今はそんなことよりも文字通り眼前に広がる柔らかな感触に頭がどうにかなりそうだった。
なるべく平静を装うようにしているが覇切もれっきとした男だ。
顔全体で感じる圧倒的な柔らかさと上気した肌から着物越しに伝わる温かな体温。そして少し汗の匂いの混じった花のように心地よい香り。
目の前にいる少女から漂う『女性』を感じさせる様々な要素が、頭に血を昇らせる。
ちらりと目線だけ上げてみると百合の顔は羞恥に染まっており、そんなに恥ずかしいのなら後ろに回ればよかったのではと、今更ながら考える覇切だったが――
(まぁ……ここは大人しく役得を味わうとするか)
「覇切さん」
「お、おう。何だ?」
若干邪なことを考えていたところで名前を呼ばれてつい上ずった声を出してしまう覇切だったが、百合は気づいていない様子で言葉を続ける。
「その……ありがとうございます」
「それは、何に対しての礼だ?」
「色々です。出会ってからたくさん助けて頂きましたし、今も覇切さんのお話を聞かせてくれました。先ほども言いましたけれど、私は覇切さんのことを何も知ろうとしていなかったので……その、嬉しかったです……って言うのは、少し不謹慎ですかね?」
「いや、そんなことはないさ。むしろ幻滅されないか冷や冷やしてたからな。自分の妹も守れなかったような奴が今まで偉そうに何を言っていたんだってな」
「そんなことありません!」
思いがけず強い調子の声に驚いて顔を上げると、百合は今にも泣きそうな顔で覇切をじっと見下ろしていた。
「そんなこと、有り得ないです。私が覇切さんを幻滅するなんて……だってあなたは事実、私を救ってくれたじゃないですか」
「百合……? わぷ」
今の言葉を聞いて覇切はハッとして口を開こうとするが、不意にその頭をぎゅっと抱きしめられ、彼女の豊かな胸に埋められてしまう。
「頼っていいと言ってくれました。迷惑かけてもいいと言ってくれました。一人じゃないと、いつでも傍に居てくれると……私に居場所をくれると、そう言ってくれました。その言葉、信じていいんですよね?」
「……ああ。もちろんだ」
「本当にいいんですか? そんなこと言われたら私、本当に信じちゃいますよ?」
「おうよ。どんとこい」
「私めんどくさいですよ? 一度寄りかかったら一人で立てなくなるくらい弱いんですよ? それでもいいんですか?」
「だからいいって言ってるだろ。いい加減しつこいぞ」
「だったらもう一度……呼んでください」
「え?」
「もう一度、名前……そしたら私、今度こそ素直になれる気がするんです」
掠れるような、ともすれば聞き逃しそうになるくらいに小さな声だった。
研ぎ澄まされ過ぎて、今や紙より薄くなってしまった彼女の刃。そんな危なっかしい刃には、やはりそれを納めるべき鞘が必要だろう。
正直な話、覇切としても何度も同じことを言うのは気恥ずかしいものがあったが、それで彼女が安心するというのなら安いものだ。
百合に抱かれたままの体勢では如何せん恰好がつかないが、贅沢も言っていられない。
「やれやれ……まったく、仕方のない奴だな」
苦笑した後、強引に顔を上げると、不安に震える彼女の頬に手を添える。
「手を伸ばせ、百合。何があっても、俺がお前を支えるから」
「――はいっ」
そうしてその手にそっと包帯に包まれた小さな手の平が重ねられる。
天上からは二人を祝福するように月光が降り注いでいる。
いつか直接彼の手に触れることができればいいと、少女はそんな夢を見ながら、満天に輝く星々の煌めきにも負けない美しい微笑みを浮かべてみせた。