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第五章 逢魔ヶ時

 

 

 涅々から手紙の返事があったのはそれから四日後のことだった。

 式神による連絡を受けた覇切は指定された通り、その翌日に涅々の屋敷を訪れる。

「すまないな。連絡が遅くなってしまって」

「いいさ。こっちも突然だったからな」

 客間へ通された後、早速事の顛末を報告する。

「そうか……お手柄だったな、覇切。お疲れ様」

 労いの言葉と共に涅々が微笑む。

 土蜘蛛による被害を未然に防ぐことは叶わなかったが、それでも町全体を覆っていた不安感の原因を排除できたことは、褒章に値する働きだろう。しかし――

「すっきりしていないって感じの顔だな」

 報告を終えた覇切の表情は優れない。いつものように一仕事終えた後の清々しい感覚は一晩寝た後もついぞやってこなかった。

 どこか煮え切らない表情の覇切を見て涅々は一つ溜息を吐く。

「実はな、私も同じなんだ」

 意外な言葉に驚いて顔を上げると、涅々はその端正な顔に曖昧な笑みを浮かべていた。

「以前から少し気になっていたことがあってな。知っての通り私は事件の調査に直接関わっているわけじゃないからただの憶測にすぎなかったが、今の話を聞いてもしやと思って」

 そう言って涅々は脇に置いてあった資料を手に取る。

「お前の報告によると、被害者を襲ったのは狼に近い形をした四足歩行の土蜘蛛、ということでいいんだな?」

「ああ。それは間違いない」

「実は少し前にも町を襲う土蜘蛛を目撃したという証言があったんだが、その時上がってきた報告によると目撃されたのは狼型よりもさらに一回り熊を模した土蜘蛛だったそうだ」

 涅々の言葉を聞いて、目を見開く。

 渡された資料を手に取り見てみれば、確かにそこには目撃証言として熊型の土蜘蛛が挙げられている。

「それだけじゃない。その前は巨大な山猫、そしてその前は虎……はっきりとした目撃情報があったのはこれだけだが見事に総ての証言が一致しない」

「単なる見間違いじゃないのか? 全身黒いから二足でもなければ、どれも遠目の見た目にそう大差はないだろ」

 生物の死骸が黒業に侵されて生まれる土蜘蛛は、基本見た目の姿形が一定しない。

 故に細かく見ればその種類も多岐に亘るが、覇切も言ったように輪郭が黒一色のため、獣型や昆虫型といったように大枠で捉えるのが普通だ。

「もちろん私もその可能性は考えたんだが……やはり気になってな」

 一つ息を吐いて涅々は表情を曇らせる。感覚としては少し引っかかるという程度の違和感だが、涅々からしてみれば不安要素はできる限り潰しておきたいところなのだろう。

「まぁ、俺も町中騒がせている割に随分あっさりしすぎているとは思ってはいたよ。それじゃあもし仮に、今の可能性が事実となった場合についてだけど」

「ああ。覇切が斃してくれた狼型の土蜘蛛を引いたとして最低でも残り三体。可能性だけで言えば、もっと湧いてくることだってあり得る」

 考えられる想定としてはいくつかあるが、その中でも一番面倒なのがこれからも土蜘蛛が絶えず現れるという状態だ。そうした場合、覇切は土蜘蛛が町に現れるたびに逐一倒していくことになるが、はっきり言ってそれでは終わりが見えない。

 もしそうなればさすがに覇切も依頼の放棄も考えざるを得ないし、仮に依頼を継続していくにしてもやはり根本的な解決には至らない。

 そして最悪の想定は、土蜘蛛が複数同時に現れた場合だ。正直そうなれば覇切一人の手に負える問題ではないだろうし、用心棒の中には土蜘蛛退治を専門とする通称土蜘蛛狩りという者たちもいる。そこまできたら彼らに任せてしまった方が無難のはずだ。

 土蜘蛛が群れを成して行動するという話は聞いたことがないが、今回の場合、それぞれ行動目的が同一なのに対して一度も同時期に現れないというのは奇妙なものがある。

 万に一つの可能性だが、ないとは言い切れないので頭の片隅に留めておいた方がいい。

 と、そこまで考えたところで覇切はふと先日手に入れた魂魄のことを思い出した。

「そういえば義姉さん、これなんだけど」

 前置いて覇切は懐から赤く光る石を取り出す。

「これは……土蜘蛛の魂魄? だけど少し形が変だな」

 涅々に手渡すと、彼女もその形に違和感を覚えたらしい。魂魄を手の平で弄りながら興味深そうに眺めている。

「実はそれ、例の土蜘蛛から取れたものなんだけど形が少し気になったから拾ってきたんだ。前に奉行所の役人に見せたときは特に何も言われなかったけど……」

「あいつらは私たちと仕事の性質が違うからな。気にも留まらなかったんじゃないか?」

 奉行所の仕事は町の治安維持だが、専門は人間同士のいざこざの解決だ。

 土蜘蛛の存在と倒せば魂魄が採取できることくらいは知識として知っているだろうが、もとより化け物退治は門外漢なので、そんな細かな違いなど気がつかないのが当然だろう。

「だが確かに、これは少し気になるな……この魂魄だがしばらく預かっていてもいいか? 調べてみれば何か分かるかもしれない」

「ああ、是非お願いするよ。それと……あともう一つだけついでに調べておいてほしいことがあるんだけど……」

 そう言って覇切はもう一つ事件の時に気になった点を涅々に告げる。

 こちらはもしかしてという程度で事件とは何の関係もないのかもしれないが、気にしすぎて悪いことはないはずだ。

「……なるほど、わかった。そっちも調べておこう」

「助かる。依頼を受けた身で頼りっきりなのは申し訳ないけど……」

「いいんだ。実地で動いてもらえてるだけでもすごく助かっているからな。これぐらいはさせてくれ」

 快く承諾してくれた涅々にお礼を述べると、ほっと一息吐く。

 これで今日の用事は大体済んだ。あとは涅々からの結果報告を待つだけだったので、そろそろお暇しようかと考えていた時のことだった。

「そう言えば覇切、以前話した『依頼』の件だが……返事は決まったか?」

「あ……」

 言われて初めて、例の十種神宝収集協力の依頼について思い出した。

「すっかり忘れてたって顔だな」

 苦笑する涅々の言葉に、覇切はばつが悪そうに後ろ頭を掻く。

 四日前の土蜘蛛退治ですっかり頭から飛んでしまっていたが、元々覇切が涅々に呼び出されたのはこちらの話が主な理由だったはずだ。

「なるべく早く返事をくれ。できれば今日明日中……遅くとも明後日には答えが欲しい」

「わかった。そっちもちゃんと考えとくよ」

 とはいえあまり待たせるわけにもいかない。

 涅々の言う通り、近日中には今後の身の振り方を考えておかないといけないだろう。

 と、不意に涅々がからかうような笑みを浮かべていることに気付いた。

「……? なんだ? 俺の顔に何かついてるか?」

「いいや、別に。ただ少し面白い話を思い出してな」

 瞬間的に嫌な予感を覚える覇切だったが、止める間もなく涅々は楽しそうに語り始めた。

「風の噂で聞いただけなんだが……最近とある用心棒の男とここら辺では見慣れない美少女が仲良さげに並んで歩いているところをよく見かけるという話があってな。覇切なら何か心当たりがあるんじゃないかと思って」

「……へー」

 どこか白々しい涅々の言葉に、さっと目を逸らす覇切。

 やはり訊くんじゃなかったと、後悔するも時すでに遅し。

「しかもどうやらその二人、一緒の家に住んでいるそうなんだ。町外れにある屋敷なんだが、変だと思わないか? そこは私が覇切に鍵を渡したところだからな。なぁ、覇切?」

「えーっと……」

 額に汗を浮かべ、あからさまに目を泳がせる覇切を見て、楽しそうに涅々は笑う。

 別にやましいことをしているわけではないのだから隠す必要もないのだが、何となく罪悪感のようなものが湧くのは何故だろうか。

 とにかくこれ以上しらを切り通すのは不可能に近いことだったので、覇切は両手を挙げて降参の意を示した。

「あー……その、どこでその情報を?」

「とある茶屋の自称情報通さんからだ」

 言われた瞬間、あのニコニコ笑顔が一瞬で頭の中に思い浮かんだ。

 確かにこの前百合を店に連れて行ったら『今後のネタに使う』とか言っていた気がするが、いくらなんでも情報が出回るのが早すぎだろう。

 一緒に店に入ったが、同じ家に住んでるなんて話はしていなかったはずだ。

 一体どんな情報網を持っているのやら……。

「誤解しないでほしいんだが、別に責めてるわけじゃない。むしろ安心した。あの子……百合のこと、気にかけてくれていたんだな」

「その名前も情報通から聞いたのか?」

「まぁな。だがこの話を聞いた時、名前を教えられる前から何となく百合のことを言っているんじゃないかって思ってはいた。お前結構真面目だからな」

 以前百合のことを頼むと覇切に告げたことを言っているのだろう。

 褒めているのかどうか微妙な発言だったが、何となく行動を見透かされていたことが気恥ずかしくなって、覇切は視線を逸らしてしまう。

「それで、どうだ? あの子は」

「どう、とは?」

「気に入ったか?」

「まぁ、悪い奴じゃないとは思ってるよ」

 無難な回答を返すと、期待していた答えとは違ったのだろう。涅々はつまらなそうに頬を膨らませてみせた。

「なんだか面白くないな」

「一体俺に何を求めてるんだよ、義姉さんは」

 というか、堅物の義姉がこんな話をするなんて珍しい。

 一体どうしたのかと思っていると、不意に涅々がどこか心配げな表情を浮かべた。

「私もな、あの子のことをよく知っているわけじゃないが……やっぱり心配なんだ。覇切ならもう察してると思うが、あの子どこか危なげな雰囲気があるだろう?」

「ああ、それは確かにな」

 少しでも扱い方を間違えれば一瞬で壊れてしまいそうな、そんな硝子のような脆さは彼女と行動していると度々感じられるところだった。

「だから、覇切が少しでもいいからあの子の支えになってあげていたらいいなと、勝手だがそう思っていたんだよ。ほら、私は嫌われてるみたいだからな」

 苦笑しつつも涅々は優しい微笑みを浮かべてみせた。

 先日の百合の様子だと二人の相性はすこぶる悪いみたいだが、それでも涅々の表情からは、純粋に血の繋がった親戚である百合のことを心配する気持ちが伝わってくる。

(俺は……どうなんだろうな)

 涅々の言葉と表情にこの間の百合との会話が思い出される。

『どうしてあなたは……こんな私に構うんですか?』

 あの時の問いに対する答えは自分の中でまだ出ていない。

 涅々と同じように家族に対する親愛の情からなのか、女性としての百合に対する下心からなのか、あるいは――

「……さてと、それじゃあ私はそろそろ仕事に戻る。慌しくなってすまないな……覇切はどうする? 別にここで寛いでいってもらっても私は構わないが」

「いや、俺も出るよ。こっちこそ急な話で悪かった」

 涅々の言葉に我に返り、その場に立ち上がる。

 流石に家主不在の家にいつまでも厄介になるわけにはいかない。促され、出口へ向かう。

 その間も百合の問いについて考えてみたが、やはり答えが出てくることはなかった。

 

        ◇

 

 屋敷の門前で涅々と別れ、歩き出そうとしたときのことだった。

「またあいつは……何をやっているんだか」

 呟く覇切の視線の先。涅々の屋敷より少し離れた路地から、時折ひょっこり顔を出してこちらの様子を窺う百合の姿を見つけた。

 本人は隠れているつもりなのだろうが、はっきり言って傍から見ればバレバレである。

(こっちもどうにかしないとだよな……)

 実のところ、百合の奇行は今日に限ってだけの話ではなかった。

 正確に言えば四日前覇切が土蜘蛛を斃して帰ってきた後。

 その時は互いに得た情報の交換をするなり普通に会話ができていたのだが、覇切が涅々の屋敷に寄って帰宅したところからどうも挙動不審になりだした気がする。

 妙に距離を取ったかと思えば、置いて行こうとすると慌てて追いかけてきたり、じっと覇切のことを見つめていたかと思えば、話しかけると逃げていったりと、まともに会話ができていない状態だ。

 この行動の意図するところは理解不能だが、ここに至った理由に関しては考えられる限り一つしかない。

「やっぱこないだのあれだよな……」

 花春での秋桜の指摘から始まり、例の百合の問いに至るまでの一連の会話。

 諸々細かい部分までは突っ込まなかったが、最終的にかなりぶっちゃけた話になったため、時間をおいて冷静になった百合は、簡単に言えば戸惑っているのだろうと予測できる。

 覇切も覇切で先ほどのように百合の問いを思い出しては物思いにふけることが何度かあったが、百合の場合は心中の外界への現れが顕著で、あの意味不明な行動の数々――このバレバレの張り込みも然りだが――は彼女の心の動揺を表していると言えるだろう。

 とはいえ、いつまでもこのままにしておくわけにもいかない。

 また逃げられるのも面倒なので、覇切は百合が路地に引っ込んだ瞬間を見計らい、すっと通りの脇に停めてある荷馬車の陰に隠れる。息をひそめて様子を窺っていると、再び路地から顔を出した百合が驚きの表情を浮かべているのが見えた。

 慌てた様子で路地から飛び出してくる百合。

 その様子を確認しつつ、壁伝いに身を隠しながらこっそりと近づいていく。

 通りの真ん中でおどおどと右往左往している姿は以前見かけた光景と同じで、見ていてなんだかおかしくなってしまったが、いつまでも眺めているのも悪趣味なので頃合いを見計らってその背に声をかけた。

「よぉ、また道にでも迷ったか?」

「ひゃうぅっ!?」

 軽く飛び上るほど驚いて、百合は恐る恐るといった風に振り返る。

「は、覇切さん……?」

「おう。どうしたんだ? こんなところで」

 いたって平静を装いながら問いかけると、百合は面白いほど動揺してあたふたし始める。

「あ、や……どうしたっていうか、別に覇切さんを尾けてきたとかいうわけではなくっ……ただそうっ、散歩をしていたら偶然覇切さんの後ろ姿が見えたので見つからないようにこっそり追いかけてきただけ、というかっ」

「それは尾けたって言わないのか?」

「ぜ、全っ然言いませんね! いわば監視ですよ監視! いやらしい覇切さんが涅々さんの家で不埒な真似を働かないか見張っていたんです」

 ふふんと、ドヤ顔で豊かな胸を張る百合だったが自らどんどん墓穴を掘っていることに気付いていない。いや、気づいた。

「ち、違います。監視じゃないです。覇切さんがいやらしいのは違わないですけどっ」

「俺はそんな風に思われていたのか……傷つくな」

「えっ!? あ、その……違うんです。そういうことが言いたいんじゃなくて……うぅ」

 大袈裟に肩を落として見せると、百合は一層狼狽し始める。

 これはこれで面白い光景だが、さすがにいつまでもいじり続けるのは可哀想だ。

 正直な話、こちらから声をかけても無視されて有無を言わさず逃げられる、という可能性を考えていないではなかったのでとりあえずは一安心だろう。

 おろおろとしている百合の頭にいつものようにぽんと手を置く。

「冗談だよ。悪かったから、そうびくびくするな」

「あ、あの……でも私、勝手に覇切さんのあとを……」

「帰りが遅かったから迎えに来てくれたんだろう? 結構時間がかかっちまったからな。戻りの時間くらいは伝えておくべきだった」

「あ……そ、そうです。迎えです。まったく覇切さんは……待ちくたびれちゃいましたよ。出かける時はしっかり教えてくれないと困ります」

 その出かける時は、百合に話しかけようにも変に距離を取られていたため、それが不可能だったのだが。

「はは、悪かった。次からは気を付けるよ。それから、ありがとな」

「いえ……あの、こちらこそ、ありがとう……ございます」

 もごもごと恥ずかしげに目を逸らしながら、百合は消え入りそうなほど小さな声でお礼の言葉を述べる。

 何のことやらと、肩を竦める覇切は視線を表通りの方へと向けた。

「さて、それじゃあ待たせたお詫びに何か美味いものでも食わせてやるよ」

「え? いえそんな、悪いですよ」

 先日も奢ってもらった手前、遠慮の姿勢を見せる百合だったが、覇切は中腰になって百合に目線を合わせると、口の横に手を当て内緒話をするように百合の耳元に口を寄せる。

「実はな、俺が食いたいだけなんだよ。前にこの近くに美味い団子屋があるって話を聞いて、いつか行こうとは思ってたんだが一人じゃ入りづらくてな……協力してくれるか?」

「ま、まぁそういうことなら……」

「決まりだな」

 そう言って覇切が中腰から直ったところで、百合はまた上手いこと覇切の口車に乗せられたことに気付いたが、今度は遠慮したりはしなかった。

「ほ、本当に仕方ない人ですね……でも、仕方がないから……付き合ってあげますよ」

 

        ◇

 

 一口に表通りと言っても、実のところその言葉が指す場所はいくつかある。

 町の中央にそびえる水無月城のある貴族街区を起点に、東門へと延びる青龍通り。西門へと延びる白虎通り。南門へと延びる朱雀通り。そして北門へと延びる玄武通り。一般街区を横断して延びるそれらは各居住区を綺麗に隔てている。

 ちなみに春の実家である花春が位置するのは東の青龍通りである。

 そして現在覇切たち二人が足を運んでいるのは、その青龍通りとは真反対に位置する白虎通りだ。涅々の屋敷が貴族街区の西側に位置するため、ちょうどいい機会だと普段訪れることのない場所に出てきていた。

「なるほど……そうだったんですね。土蜘蛛の魂魄が……」

「ああ。考えすぎかもしれないけど、もしかしたら何かの手掛かりになるかもしれないと思って義姉さんに調べてもらうことにしたんだよ。おい……垂れそうだぞ」

「わわっ」

 覇切の指摘に百合は急いで手にした串団子にかぶりつく。

 砂糖醤油の葛餡にたっぷり浸し込んで作られたみたらし団子だ。

「ん~……しあわへでふぅ」

「そりゃ何よりだ」

 覇切も自分の手にした三色団子を頬張りつつ、ふにゃふにゃになった百合の顔を眺め、目を細める。

 二人が来ているのは、先に覇切が言っていた通り、花春とはまた別の団子を専門とする甘味処の店先だ。野点傘(のだてがさ)の下、緋毛氈(ひもうせん)の敷かれた縁台に二人並んで腰かけ茶を啜りつつ、噂通りの団子の味に舌鼓を打つ。

 最近は少し慌しかったし、ひと段落ついた後も百合との微妙な空気のせいで若干ぴりぴりとした日が続いていたので、こうして何も気にせずのんびりと過ごすのは随分と久しぶりのように思えた。

「甘いもの、好きなのか?」

「そうでふね。割と」

「この前は頼んでなかったんじゃないか?」

「ん……この前は朝ご飯でお腹いっぱいでしたからね。一度の食事であまり多く食べられなくて……別に小食というわけではないんですけどね」

「ははぁ、なるほど……」

「……なぜそこで胸に視線がいくんですかね」

「いやぁ、小食だったら一体どこから栄養補給してるんだと気になってたんだが……どうやらいらぬ心配だったみたいだな」

「本当にいらないですね。一体何の心配をしているんですか、まったく……」

 じろりと覇切をひと睨みした後、百合は再び団子にかぶりつく。

「おいおい、そんなに急いで食わなくても大丈夫だぞ。この後予定があるわけでもなし」

「んぐ……で、でも覇切さんはもう食べ終わってるじゃないですか。待たせてしまっているの、申し訳ないです」

「俺は食うのが速いからな。気にすることはねぇよ。そんなことより、ほら」

 覇切はおもむろに懐から綺麗に畳まれた手巾を取り出すと、百合の口元を優しく拭う。

「口の周りが蜜でべたべただったぞ。待っててやるから、ゆっくり味わって食え」

 数瞬の間、放心したようにぼーっとしていた百合だったが徐々にその頬が、その耳が、朱の色に染まっていく。

 帯びた熱は羞恥からかはたまた高揚からか。

 かぁーっと熟れた林檎のように顔を真っ赤にした百合は一言、

「…………はい」

 そう蚊の鳴くような小さく掠れた声でこくりと頷くと、覇切に言われたとおり慌てて食べようとはせず、ゆっくりとその小さな口に団子を収めていった。

 

        ◇

 

「ふぅ、大変美味しかったです。ごちそうさまでした」

「ああ、そいつはよかった」

 食後、すっかりご満悦となった百合の表情を眺めて覇切は目を細める。

 一時はどうなることかと思ったが、今の百合からはもう昨日までの奇妙な堅さのようなものは感じられない。四日前から続いていた二人の間のぎこちない空気は、一旦のところは払拭されたと考えていいだろう。

 いまだ根本の解決には至っていないが、それは今後ゆっくり修復していけばいい話だ。

 そんな風なことを覇切がぼんやりと考えていると、不意に百合が口を開いた。

「でも……なんだかやっぱり悪いですね」

「何がだ?」

 突然何を言い出すのかと、怪訝な視線を向けると百合は曖昧な笑みを浮かべてみせる。

「なんというか……先ほども思ったんですけど、出会ってからというもの、覇切さんには色々奢ってもらってばかりな気がしたもので」

「ああ、なんだそんなことか」

 どんな話が飛び出してくるのかと少し構えたが、内容を聞いて脱力する。

「別に気にするなよ。俺が勝手にやってるだけなんだし」

「でも……」

「どうせ普段の食い扶持なんて俺一人分だけなんだ。たった一回の食事でもう一人二人分払ったところで大したことはないさ」

「え? そうなんですか?」

 覇切の発言を聞いて百合は心底意外そうな表情を浮かべる。

「そうなんですかって……何だ? 何か変なこと言ったか?」

 百合の発言の意図するところがわからずそう問い返すと、どことなく気まずげに目を逸らした百合はもごもごと口ごもりながら言い訳のような言葉を口にし出す。

「いえ、あの、何と言いますか……別にどうでもいいと言えばどうでもいい話で、ただ単に気になったというだけのことですので真面目に取り合っていただかなくても適当に答えてもらえればそれで結構なんですが……」

「何だよ、もったいぶるな。言ってみろよ」

 やけに歯切れの悪い百合に覇切は訝しんで先を促す。

 百合はそれでもどこか口にするのを躊躇っているようだったが、意を決するようにぐっと拳を軽く握ると、意外な一言を覇切に告げる。

「その……覇切さんって、お兄ちゃん、みたいですよね」

「……はぁ?」

 唐突な百合の言葉に思わず素で訊き返してしまう。

 その反応を見た百合が若干慌て気味に補足し始めた。

「へ、変な意味はないんですけど……なんていうか、他人を甘やかし慣れているというか、妙に面倒見がいいというか……そんな印象を覇切さんから受けることが多々あるので。覇切さんご自身が涅々さんの義弟というのは聞いていたんですが、もしかしたら弟さんか妹さんがご実家の方にいらっしゃるのではと勝手に思っていたんですけど……」

「ああ、そういうことか」

 一気に喋り通した百合の説明を聞いて、ようやく納得する。

 この前も秋桜から同じようなことを言われたのを思い出したが、血の繋がりがない者に兄と呼ばれるのはなんだかくすぐったいものがあった。

「俺の面倒見がいいかどうかは知らないが、お前の質問に答えるなら、確かに妹が一人な」

「わぁ、そうなんですね。ちなみに妹さんはおいくつなんですか?」

「ああいや、もういないんだ。俺とは歳が三つ離れてたから、生きていたら今頃百合と同じくらいかな」

 何気なく。本当にさらりと、ともすれば聞き流してしまいそうになるくらいの自然さで告げられた言葉に、百合は呆けたように固まると一瞬の後に言葉の意味を理解する。

「あ、あの……すいません。私……」

「気にするなよ。もうずいぶん昔の話だ」

 百合が気を遣わなくて済むように、できるだけ何でもない風を装って答えたつもりだが、かえってそれが余計に気を遣わせる結果になってしまったらしい。

 せっかく普段通りの空気に戻りかけていたというのに、自らぶち壊しにしてしまった覇切は、自分の迂闊さを呪いつつ後ろ頭を掻く。

 互いに沈黙。このままだとまた昨日までと同じ空気に戻ってしまう。

「……妹は、さ」

 そうして迷った末、口から漏れ出た言葉には一体どんな意図があったのか。

 気づけば覇切は普段は絶対しないような妹の話題を、自分自身持ち出したことに軽く驚きながらも話し始めていた。

「八恵って言うんだけどな。早産だったんだ。だからなのか昔っから身体が弱くてさ。思い返してみれば外に出たことなんて数えるくらいしかなかったんじゃないかな」

 外出できたとしても、必ず誰か――と言っても覇切が行くことが殆どだったが――と一緒に出掛けていたため、八恵が一人で外を出歩くという日はついぞ訪れることはなかった。

「加えて俺の実家はなんていうか……前時代的っていうのか。今はもう殆ど信仰されてない神様ってやつを祀ってる家系なんだ。代々一族の女性がその神の力を受け継いできてたから、母さんが死んだ後、八恵も巫女としてその力を身体に宿すことになったんだけど……やっぱり八恵には負担が大きかったらしくてさ。結局十二の誕生日の時に、な」

「そう、なんですか」

「何かと危なっかしい奴でさ。身体が弱いってのに、すぐに人の身体に飛びついてきたり、こっそり外に出ようとしたり……見かけによらずやんちゃでよく困らされたよ」

「可愛らしい妹さんじゃないですか。お兄ちゃんに構ってほしかったんじゃないですか?」

「どうかな。ただ、俺を頼ってきてくれるのは素直に嬉しかったよ。父さんは殆ど家族と会話しないような人だったから、そうなるのは自然なことだったのかもしれないけど」

「そのお父様は、今は?」

「さぁな。母さんが死んで、八恵もいなくなった後、俺は昔から縁があった東雲家に養子に出されたから……父さんが今どこで何をしているのか知らないし、知ろうとも思わない」

 別に特別不仲というわけでもなかったはずだが、昔から互いに関心があまりなかったような気がする。言ったように普段から会話と呼べるものは一切なく、唯一明確なやり取りがあったのは剣術の稽古の時のみだった。

「覇切さんは……つらくはないんですか?」

「ああ。まぁ半分以上天涯孤独な身だけど、東雲の家の人はみんないい人ばかりだし、今では本当の家族だと思ってるから別に……」

「そうじゃなくてっ」

 不意に強まった語気に驚き視線を向けると、隣で百合がじっと覇切の瞳を見つめていた。

「そうじゃなくて……覇切さんは、取り戻したいと思わないんですか? 失った日常を、最愛の家族を……大好きだった妹さんを、取り戻せるならそうしたいと、思ったことはないんですか?」

 その瞳は半ば縋るような色を見せていた。問いを投げているようでその実、自らの期待する答えをもらいたいと願う若干の媚が入った視線。

 できることなら頷いて安心させてあげたいと思った覇切だったが、しばしの迷いの後、ゆっくりと首を横に振る。

「八恵を取り戻したいと思ったことは、ないよ。それは他の家族やかつての俺の日常に関してもそうだ。突然総てを奪われた理不尽に怒りもしたし嘆きもした。だけど俺は、過去に縛られて生きていたくなかったから……次の日の朝日を誰よりも見たかったのは八恵のはずだって、そう思ったから」

 だからこそ今ここにいる自分がいつまでも過ぎ去った夜のことばかり気にしているわけにはいかなかった。

「そう、ですか……そうですよね。覇切さんらしいです」

 そう言う百合は期待していた答えが返ってこなかったことに、酷く悲しげな表情をしていたが、精一杯取り繕ってその顔に苦い微笑みを浮かべていた。

 見ていて痛ましかったが、自分の正直な気持ちを伝えたことに後悔はない。

 百合が今後どのような道を選択するのかはわからないが、どんな道を選ぶにしろ……例えそれが周りから見れば間違っているような邪道であったとしても、その時訪れる重要な局面で中途半端に迷うようなことだけはしてほしくなかったから。

「……?」

 しかしそこでふと胸の内に違和感を覚えた。

 百合に迷ってほしくないのは本当だ。だから自分の行く道に不安を覚えることがないように、自信をもって歩んでほしいと心から願っている。

 しかし、本当にそうか? いやもっと正確に言えば、本当にそれだけなのか(・・・・・・・・・・)?

「……さて、そろそろ行くか」

 すぐには回答が出そうにない自問は一旦しまうことにして話を切り上げる。

 百合に迷ってほしくないと思っていた手前、早速自分の心がわからなくなっていることに少し恥ずかしさを覚えたせいかもしれない。

「そうですね。例の土蜘蛛の件も警戒しないといけませんし」

 そう言うと、覇切の言葉に従って百合もまた立ち上がる。その言葉自体は仕方なさの裏にも意気込みを感じられて、覇切としても頼もしく感じた言葉だったのだが――

「あー……そのことなんだがな」

 言いにくそうに後ろ頭を掻きながら、覇切は少し前から思っていたことを口に出した。

「俺から言い出したことで今更何なんだって話なんだが……土蜘蛛退治の依頼、無理に手伝わなくてもいいんだぞ?」

「え……?」

 覇切の言葉が余程意外だったのか、思わず百合はその場で固まってしまう。どうして急にそんなことを言い出したのかわからないといったような顔だ。

 しかし、覇切としては今言ったことは少し前から考えていたことだった。

 元々半分無理に承諾させたみたいで若干の罪悪感があったことも確かなのだが、そもそも百合はこの水月に十種神宝の情報を得るためやってきたのだ。

 涅々や春から僅かながらも情報を得られたとはいえ、それでは当然足りないのだろう。

 この三日間、百合は殆ど一日中外出して、町中で情報収集に明け暮れている様子だった。

 百合はかなり強情な性格をしているが、それに加えて極めて律儀だ。特に借りや貸しなんて言葉には敏感だろう。だから、自分が妙なことを言い出したせいで百合本来の目的のための時間を奪っているのだとしたら、それはとても申し訳ないことだと思った。

「本当言うとな。お前のことも最初は義姉さんから頼まれてたんだ。ほら、お前義姉さんのところに間借りする予定だったみたいなのに飛び出してきたんだろ? だからどうにかしたくて、ついああいう言い方しちまって……そこについては悪かったと思ってる」

 言おうかどうか迷ったが、結局この機会に義姉に頼まれていたということについても正直に話してしまうことにした。

 どの道いつかはばれてしまうことだし、隠し続けていてもいいことはないだろう。

「だからって追い出そうってつもりはない。別に宿代なんて払わなくったって、今まで通り屋敷にいていい。俺が言いたいのは、お前にはお前の目的があってここにきたんだから、俺の用事に付き合って時間を浪費することはないってことだ」

 彼女の願いというのが何なのかはわからないままだったが、できることならその願いの実現のために最短距離で真っ直ぐ進んでいってほしかった。

 そういう激励の思いも込めて言ったつもりだったのだが、対する百合からの返答はない。

 先ほどからずっと俯き気味に黙りこくってしまっているためその顔色も窺い知れない。

 やはりがっかりさせてしまっただろうか?

 少しだけ心配になっていると、百合は酷く緩慢とした動作で俯いていた顔を上げる。

 そうして自分を見上げる視線を目の当たりにして、覇切は思わずぎょっと目を見開いた。

 てっきり軽蔑か落胆した視線が待っているのかと思っていたが、そこにはまるで親から見放された子どものように、絶望的な色を湛えた瞳があった。

「わ、たし……邪魔、なんでしょうか?」

「え?」

「私がしつこく付きまとっていたから、覇切さんは鬱陶しく思ってるんですよね?」

「おいおい」

 いきなり何を言い出すんだと思ったが、百合の視線からはふざけている様子など微塵も窺えない。顔色は血の気を失ったように真っ白で鬼気迫っているとでもいうのだろうか、随分と余裕がないように思える。

 もしかしたら自分は今とんでもない地雷を踏んでしまったのではないかと、百合の様子に尋常ならざるものを覚えた覇切は彼女の肩にそっと両手を置き、できる限り優しく言い聞かせるように、言葉を選びながら語りかける。

「すまん。言葉が悪かった。なにもお前を突き放そうとしたわけじゃないんだ。お前にだってやりたいことがあるし、やるべきことだってあるだろう? 最初に会った時そう言ってたじゃないか」

「言い、ました……言いましたけど……でも私っ」

「最近のお前は一生懸命神宝の情報集めをしてたみたいだし、これ以上俺の都合に付き合わせるなんて申し訳ないと思ったんだ。お前が自分の目的を脇に置いてまで俺みたいなやつの面倒見ることなんてないって、そう思ったんだよ」

 身長差のある百合に視線を合わせて、出来る限りゆっくりと喋って呼吸を落ち着かせる。

「何もどっか行けなんて言ってるわけじゃない。お前が俺のことを助けてくれるっていうのなら、俺も嬉しいよ。ありがとう」

 そう言って百合の頭に手を置き、ゆっくりと優しく撫でる。

「あ……」

 と、そこでようやく正気に戻ったのか、百合の瞳に光が戻り、次いで徐々にその頬が赤く染まっていく。恥ずかしそうに再び俯くものの、覇切の手を振り払ったりはしなかった。

 そんな百合の様子に目を細める覇切だったが、改めて彼女の心の危うさのようなものを確認したことで、今後のことが余計に心配になってしまっていた。

 

        ◇

 

「あれ? 覇切に百合」

 団子屋を後にした覇切たちが屋敷へ戻るため、青龍通りの方角へ向かっていると、偶然前方から歩いてきた秋桜と出会った。

「また意外なところで会ったな。これから仕事か?」

「そんなところ。最近この辺少し物騒でしょ? だから隣町まで護衛の依頼を頼まれてさ」

 そう言って秋桜が背に負ったものを軽く持ち上げてみせる。

 もっとも、実際に持ち上げてみせたのはおよそ『軽く持ち上げる』などという表現が似つかわしくない程巨大で無骨な鉄の塊だった。

「もの凄い大きさの武器ですね」

「まーね。大鋸・悪路王。あたしの神器(あいぼう)よ」

「はー、大したもんだな。三十貫はあるんじゃないか?」

 言いつつ、そのあまりの大きさに瞠目する。

 全長は秋桜の身の丈をゆうに超え、目算でも六尺以上。幅広で分厚い造りの刃からは鋸のように削るというより、棍棒のように叩きつけて扱う印象が受けられる。

「別に慣れればどってことないわよ。ていうか、神巫だったらこれくらい大したことないでしょ?」

 なんてことないような調子でさらりと言ってのける秋桜だったが、実際これほどまでの大きさとなると、例え神巫であっても中々きついものがあるだろう。

 そもそも一口に神巫と言ってもその系統は様々だ。

 見たところ秋桜は力重視の系統のようだが、百合のように速度重視の系統の者もいるので、この大鋸を操ることができるのは純粋に秋桜の実力と言っていい。

「っと、そうだった……あの、百合」

 と、そこで秋桜は若干居住まいを正してから百合の方へと向き直る。

「はい? 私ですか?」

 声を掛けられたのが意外だったのか、思わず聞き返す百合に秋桜はいきなり頭を下げた。

「この間は、ごめん」

「え?」

 突然の謝罪に戸惑いを隠せない様子の百合だったが、秋桜は構うことなく言葉を続ける。

「覇切には言ったんだけど、あたしすぐに思ったことを口に出しちゃうところがあるからさ。あの時、たぶん自分でも気づかないうちに無神経なこと言っちゃってたんだと思う。悪気があったわけじゃないんだけど」

 そこまで聞いて百合は、ようやく秋桜が先日の花春での一件のことを言っているんだと合点がいく。

「あたしもあたしでこの町に来たのはちょっと目的があってさ。そのことで少しピリピリしてたのもあったんだと思う。だからこないだのはあくまであたしの場合ってだけで、何も百合の想いまで否定したいわけじゃなかったから。だから、ごめん」

「そ、そんな、いいんですよ。私も少し取り乱してしまいましたし。こちらこそ変に当たるような言い方をしてしまって申し訳なかったです。どうか頭を上げてください」

 百合の言葉を聞いて、秋桜はようやく下げていた頭を上げる。

「ありがと。それから改めて、これからよろしく」

 そう告げ、秋桜はにこっと微笑むと右手を差し出す。

 差し出された手を見て驚いたように目を見開いた百合だったが、それもほんの一瞬のことで、素直にその手をぎゅっと握り返した。

「はい。こちらこそよろしくお願いします」

 無事和解した二人の様子を見て、覇切は密かにほっと息を吐いた。

 こんな風に直球で感情をぶつけて謝ることができるのは秋桜の美徳だろう。

 彼女はそんな自分の性格を先ほど引き合いに出していたが、その性格は殆どの場面でいい方向に働くはずだ。この分なら、もう互いにこの一件を引きずることはないだろう。

 少し気になっていた案件だったので、片が付いてなによりだった。

「さてと。それじゃあたしは仕事に向かうけど、あんたたちはこれからどこ行くの?」

「ああ。俺たちは特にどこってわけでもなくてな。強いて言うなら仕事の帰りだ」

 団子屋へ行ったなどと下手に口に出すと、何を言われるかわからなかったので咄嗟に誤魔化す。

 と言っても午後一番に涅々のところへと足を運んで、依頼の状況報告を済ませてきたので嘘ではない。

 しかし、秋桜は何故か覇切の言葉に納得したように頷いてみせた。

「ああ、そういえばお春から聞いたんだけど、あんたたちって例の土蜘蛛事件の依頼を請け負ってるんだっけ?」

「……春に詳細を話した覚えはないんだが、まぁそれであってるな」

 相変わらず一体どんな情報網を持っているんだと気になったが、もはやいちいち気にしていたら負けだ。

 そんな風に自称情報通の情報力に半ば呆れていると、ふと秋桜が難しい顔で顎に手を当てているのに気付いた。

「どうかしたか?」

「あ、うん。一個だけ情報をと思って」

「情報、ですか?」

「そ。まぁ信憑性があるかどうかはわかんないんだけどさ、昨日の夕方ごろに西門付近でまた土蜘蛛が現れたそうよ」

 秋桜の言葉に百合と揃って顔を合わせる。

 土蜘蛛がまた現れた? それも昨日?

「秋桜さん、それは本当に昨日のことですか?」

「間違いなかったと思うわよ。そもそも今回の護衛の話ってその目撃者の商人からの依頼なのよ。襲われはしなかったんだけど、昨日西門の近くを歩いてたら突然目の前に現れたんだってさ。それでビビっちゃったみたいで」

 肩を竦めてみせる秋桜だったが、その話を聞いた二人は背筋に走る戦慄を禁じ得ない。

 今の話が本当ならば、先に立てた仮説通り、町を襲う土蜘蛛が一体だけではないということになる。

 もちろんその商人が普通の獣と見間違えてしまった可能性はある。

 暗くなり始める時間帯のことなのでその可能性の方がむしろ高そうだが、秋桜は、土蜘蛛はその商人の『目の前』に現れたと言っていた。

 いくらなんでもそこまで接近した獣を土蜘蛛と間違えるだろうか。

 それにもし本当に土蜘蛛だったとしても、何故その商人は無事だったのか。

 四日前の被害者は状況から見て、遭遇から問答無用で食われたようだった。

 この二つの事件を比較して、前者はただ運が良かっただけと片付けるには、楽観が過ぎるように覇切には思えた。

「……? どうしたのよ? 二人ともさっきから黙りこくっちゃって」

 突然黙り込んで思考に耽りだした二人を秋桜が訝しむ。

「あ、ああ、何でもない。それより秋桜――」

 結論を出すにはまだ情報が足りない。

 もっと詳しく話を訊こうと覇切が顔を上げたその時だった。

「――!?」

 秋桜のすぐ背後に音もなく、何かが降り立つのが見えた。

 それは禍々しいほどに全身黒く淀んだ色をしており、なんの躊躇もなくその丸太のような前脚を振り上げると――

「――秋桜っ!」

「へ?」

 咄嗟に叫んだ覇切は、きょとんとした顔の秋桜の腕を掴むとその場に引きずり倒した。

 ――瞬間、暴力的なまでの質量を伴った風が頭上を薙ぐ。

 周囲から一斉に悲鳴が上がった。

「くっ!」

 覇切はすぐさま体勢を立て直して武器を構えようとするが、一瞬前まですぐそこにいた土蜘蛛の姿はどこにも見当たらない。

「ちっ……どこいった?」

 周囲を見回してもその巨体は見つからない。

(となると……いた!)

 頭上を見上げると視線の先上空、屋根伝いに町の外へ跳ぶように駆ける黒い影が見えた。

「秋桜、大丈夫か?」

「あ、焦った~……今かなりヤバくなかった? あたし」

「……元気そうで何よりだよ」

 焦ったと言っている割に全く動じていない表情の秋桜に呆れる。

 怪我もないようだし、この分なら大丈夫そうだ。

「秋桜、お前はもう仕事に行け。俺もたった今仕事ができた」

「手伝おうか?」

「いや、大丈夫だ。当日になっていきなり依頼を蹴ったら用心棒の信用に関わるだろ?」

 別に気にしないでいいのに、と秋桜は言うが、そういうわけにもいかないだろう。

「よし、それじゃあ……」

 と、百合に声を掛けようとしたところで、その先の言葉を飲み込む。

 先ほどは少し有耶無耶に話が終わってしまったが、このまま百合に手伝わせてしまっていいのか、覇切は少し不安になる。

 遠慮と申し訳なさの意味で百合に手伝わなくてもいいと言った覇切だったが、今度はその心の危うさが気がかりだった。

 思えば出会った当初よりも百合は不安定になってきているようにも思える。

 漠然とした勘だが、もしその原因が自分にあるとしたならば、これ以上この一件に関わらせるのはよくないと感じる。

 何にせよ百合の返事を聞かないことには仕方がない。

 そう判断した覇切はもう一度声を掛けようと百合の方へと向き直るが――

「……? おい、どうした?」

 どうにも百合の様子がおかしい。

 呼びかけても返事がないのももちろんそうなのだが、明らかに周りが見えていない。

 身体は凍り付いてしまったかのように微動だにせず、その目は光を失い、どこか遠くを見つめているかのように虚ろだ。

 ――そしてこんな状態の彼女を見るのは初めてのことではない。

「……っ」

 ぞくりと、全身に悪寒が走った。奇妙な焦燥感のようなものが胸の内から溢れ出し、頭の中に警鐘が鳴り響く。

 このままにしておいては絶対にいけない。

 そんな虫の知らせにも似た直感を覚えた覇切は、百合の肩を揺さぶろうと手を伸ばす。

「おい、本当にどうし――」

 しかし、覇切の左手が百合へと届こうとしたその時――

「――」

 何事か呟いた百合は地面が抉れるほどの踏み込みを見せると、信じられない速度で飛び出した。

「え……え? 何? どしたの?」

 自らの目の前で立て続けに繰り広げられる展開に秋桜は何が何だかわからず、混乱したように百合が飛び出していった先と覇切とを交互に見る。

「っ……悪い秋桜! また今度だ!」

「え、あ、ちょっと……!」

 一瞬遅れて覇切も駆け出す。秋桜には悪いが、今は彼女を気にかけている暇はない。

 視界の端で戸惑いの表情を浮かべる秋桜を置き去りに一気に加速する。

「くっ……」

 ものの数瞬で街門へと辿り着くが、すでに百合の姿は前方遥か遠くに小さくなり始めており、あまりの速度に油断するとすぐに見失ってしまいそうになる。

 瞬く間に街道を駆け抜け、そのまま速度を落とすことなく神威の森へと飛び込んだ。

「ったく……この前とは真逆だなっ」

 言い捨てながら、うんざりするほど生い茂った草葉を身体で掻き分けながら進んでいく。

 すでに目で追うことはせず、五行による知覚野の底上げで百合の気配のみ一点集中で追う方向に切り替えているが、油断をすればすぐにでも見失いそうになるのは変わらない。

 澱んだ水溜りを踏み抜き、足場の悪い道なき道をなりふり構わず突っ切る。

(さっきの百合の様子……嫌な予感がする)

 先ほどの百合は目に見えて尋常ではなかった。

 加えて今のこの状況。まだ自己紹介すら交わす前、森の中で正気を失った彼女と追いかけっこを繰り広げていたあの時と似ている。

 あの時とはまるっきり立場が逆だったが、あらゆる面で重なるこの状況に不吉な予感ばかりが絶えず膨らんでいく。

(いや……逆なのは俺だけか?)

 あの時追いかけられていた自分は、今は追いかける側だ。

 しかし百合はどうだろう? 覇切から見れば、彼女は今追われている立場だが、表通りで走り出した彼女は自分を見ていただろうか?

 答えは否だ。彼女は今もかつても追われてなどいない。

 見失わないよう必死に追走する覇切など歯牙にもかけず、彼女は一心不乱に獲物を追う。

(このままいけば、わかるのか?)

 突然の豹変。十種神宝を求める理由。自ら呪いだと厭うている彼女自身の身体。

 百合を覆う闇の総て。今まで見えていなかった彼女の根幹にも関わる答えがこの先に待っているだろうことを予期した覇切は覚悟を決める。

 そうして息も切れ切れ、ようやく百合の気配のある場所の一歩手前まで追いついた覇切は大きく深呼吸をして動悸を落ち着かせると、念のため武器を抜いてからゆっくりとその場所に足を踏み入れていく。そして――

「うっ……」

 一歩踏み込んだ瞬間、むわっと鼻をつく異臭に顔をしかめる。

 まるで腐った肉を糞便の中にぶち込みさらに煮詰めたかのような、狂いそうになるくらいの刺激臭に息をするのも躊躇われたが、その臭気の原因はすぐに判明した。

 目の前に広がる惨状。周囲に生い茂る草葉や木の幹、枝葉にまであちこちに黒い粘液にも似た塊が飛び散っており、頭上からぼとり、ぼとりと不快な音を立てながら滴るそれらは、その一つ一つが無遠慮にも腐臭を周囲に撒き散らしている。

 地面にもまるで生き物の肉塊のような黒い塊がごろごろと転がっており、明らかに土蜘蛛のそれだとわかるその部位たちはおそらく一体だけのものではない。

 ざっと見積もってみても十体以上。

 全身に張り付くようなねっとりと重く湿った空気が充満する中、土蜘蛛の死骸の中心には、黒い返り血を浴びて全身どろどろになりながらもゆらりと佇む何者かの姿があった。

 無論『何者か』などとぼかした表現をせずとも、覇切にはそれが誰なのかわかり切っていたことだったが、それでも何かの間違いであってほしいという思いは絶えない。

「ああ……覇切さん」

 しかし次の瞬間には、そんな風に胸のうちに抱いていた僅かな希望を木端微塵にぶち壊す声が鼓膜を突き抜け頭蓋を直接揺さぶっていた。

 この世界は理不尽だから。手を伸ばし、その手が届こうかという瞬間にこそ、そんな期待を嘲笑うかのように、総てを奪い去っていくのだから。

 この地獄絵図のような光景の中、森の薄闇に溶け込むようにして佇むその人影は間違いなく覇切の追ってきた人物――黒条百合に他ならなかった。

「来たんですね……遅かったじゃないですか……」

 どこかはっきりとしない、奇妙なずれ(・・)を感じさせる声。

 以前と違い言葉を口にできているようなので正気に戻ったのかとも思ったが、その瞳からは相変わらず生気が感じられず、焦点が合っていないように思える。

 だらりと下がったその腕には漆黒の血を帯びて禍々しく光る氷刀が握られており、この惨状を演出したのが彼女であろうことは疑いようのない事実だった。

「お前、一体何を……」

 言ってから馬鹿な質問をしたなと自分でも思った。

 普通に考えれば百合は町で遭遇した土蜘蛛を追ってここまで来て、そしてたまたま遭遇した別の土蜘蛛たちもまとめて退治した、という答えが成り立つ。

 だからそう言ってくれればすべてはそこで片が付いたのだ。

 いつもの憎まれ口のように、『鈍間な覇切さんに代わって私が依頼をこなしてあげましたよ』と一言言ってくれれば、覇切も参ったなという顔で『お前にはかなわないな』と軽口を返すことができたのだ。

 故に早く何か答えてくれと覇切は切に願ったが、同時に答えが返ってきてほしくないと思ってしまうのは一体どういうことだろうか。

 時間と共に言い知れぬ不安が募る中、しばらく百合は呆然としたようにその場に佇んでいたが、次の瞬間ふっと、思わず寒気を覚えてしまう程ぞっとする笑みを浮かべてみせると、驚くほどあっさりその言葉を口にした。

「――あっは。何って、食事に決まってるじゃないですかぁ」

 最早彼女が何を言っているのかが覇切には理解できなかった。

 食事? 彼女はこの直視するにも耐え難い光景をこともあろうに食事と言ったのか?

「美味しいんですよ、こう見えても。まぁ臭いと見た目は最悪ですけど、何も口から食べるわけじゃないですし」

 そう言った彼女の足元に広がる黒い肉塊が、びくんと不気味に痙攣する。そうしてずるずる、ぐちゃぐちゃと不快な音を刻みながら、肉塊が百合の全身を這い上っていく。

 やがて百合の身体中に纏わりついたそれらは一際大きく鳴動してみせると、次の瞬間――ずるりとその身体に飲み込まれていった(・・・・・・・・・)

「……っ、はぁ」

 ぶるっと、快感に全身を震わせる百合。上気したその頬と赤く染まった唇は扇情的に思えるほど美しかったが、周囲の光景とのあまりの齟齬に頭がおかしくなりそうだ。

 目の前で繰り広げられていることの一切が理解できない。

 百合を前にしてそんなことは言いたくなかったが、正直言って今のこの光景は悍ましいの一言に尽きるものだった。人間の所業ではない。

 知れず武器を持つ左手が震えていることに気が付いた。

(怖いのか……? 俺は)

 わかってきたと思っていた。

 まだ出会ったばかりとはいえ、一緒に過ごした時間はそれなりに長い。

 意外と家庭的なところがあったり、意外と頑固だったり、意外と感情的だったり。

 出会った当初は知らなかったたくさんの意外な面を見てきて、百合のことをすっかりわかったつもりになっていた。

(馬鹿か……本当に)

 だけどなんてことはない。要するに覇切は結局わかっていなかったのだ。

 彼女の……百合のことなど何一つ。わかったつもりになって踏み込むことを恐れていた。

(一番中途半端だったのは、俺じゃねぇか……)

 話を訊く機会ならいくらでもあった。だけどそうしなかったのは、どこかで楽観視していたからだ。

 出会った当初を思えば百合が再びこうなる可能性などいくらでも想定できたのに、そうしなかったのは状況に甘えていたからだ。

 彼女と過ごす時間は心地よかったから。その時間を壊したくなくて、だけどもっと知りたくて……そうした中途半端が招いた結果が今こうして最悪な形として現れたのだ。

「――ねぇ、覇切さん。私、最近変なんですよ」

 不意に百合がまるで独り言のように虚空へと呟いてぐちゃりと、彼女曰く『食事』を踏みつぶしながら一歩一歩近づいてくる。

「以前はとても美味しいと思えていたこれも、最近は前ほど美味しいとは思えなくなってきて……なんでだと思います?」

 くすりと微笑み、とうとう覇切の目の前までたどり着いた百合の瞳には、見るもの総てを魅了するような妖艶な輝きが宿っていた。

 そっと差し出された手の平が覇切の頬を伝う。

「あなたが欲しいんです。覇切さん。あの日初めて出会ったあの時から……もうあなたしか目に入らなくて仕方がない」

 紡がれる言葉は捉えようによっては愛の告白とでも言えるものだったが、あいにくこの状況下でそんな浮かれた勘違いを許すほど、覇切の頭の中はおめでたくはできていない。

「ああ、覇切さん……私は、あなたを本当に――」

 逃げようと思えば逃げ出せるこの状況。しかし覇切の足はまるで地面に根付いてしまったかのように、ピクリとも動かない。

 そうこうしている間に、身体が密着するほど接近した百合は覇切の両頬をそっと手で包み込むように固定すると、精一杯の背伸びで耳元に口を近づけ――

「――食べてしまいたい」

 ぞっとするほど妖艶な声音で、そう告げた。

「――っ」

 その時覇切はとっさに動くことのできなかった自分を恥じていた。

 頭では分かっていたのだ。このまま百合に為されるがままになっていれば取り返しのつかないことになると。

 だから張り付いた足を引き千切ってでも、目の前の百合を突き飛ばしてでも、この場から逃げることを選択するべきだった。

 しかし覇切は自らを見つめる百合の双眸を前にして、一瞬でも思ってしまったのだ。

『彼女に食べられるのも悪くない』

 その感覚がどこか奇妙にも自らの心にかちりと嵌ってしまっていたので、余計に違和感を覚える。

 まるで自分の意思じゃないかのようなふわふわとした曖昧な感覚。

 こうなるのが自然で、当たり前のことのような、そんな気がしてしまったから――

「――あ」

 だから、次の瞬間百合が突如気を失ってしまったのは運がいいと言う外なかった。

 彼女の身体を抱き留めた覇切がほっと息を吐いたのと同時、全身から汗が噴き出した。

(あのままだったら、俺は……)

 その先を想像しそうになって、掻き消すように頭を振る。

 立て続けに異常事態が起きたことで精神的にも疲労がきているのか。

 だからあんなわけのわからない感覚に陥ってしまったのだと、この場ではそう無理やり納得することにした。

「早く戻らないと……」

 忘れかけてはいたが、この辺りは土蜘蛛の巣窟とも言える神威の森の最深部だ。

 この辺りにいた土蜘蛛は百合が一掃したようなのでしばらくは大丈夫だろうが、いつまた土蜘蛛が集まってくるかわからない。

 考えるべきことはたくさんあるが、それは今すぐじゃなくていい。考えたいならばあとで思う存分考えればいいだろう。今は何より、百合を連れて無事帰るのが先決だ。

 不意に見上げた木々の合間から見える空は橙色から紫がかった青色へと移ろい、夜の帳が降り始めてきている。

 昼と夜の境目。日が暮れ、闇夜が訪れようとするこの時間帯のことを俗に何と言ったか。

「逢魔ヶ時……」

 世界の境界を浮き彫りにする黄昏時。人ならざる魔と出逢う時間だった。

 

        ◇

 

 屋敷に帰ってきた。

 ひとまず百合を部屋へと連れ帰り布団に寝かせたはいいが、何しろ汚れが酷い。

 身体を拭いた方がいいだろうとお湯と手巾を用意はしたが、寝ている女性の肌に無断で触れるという事実にどうにも抵抗がある。

「とりあえず顔回りだけでも拭っておくか……」

 独り言ちて、土蜘蛛の体液で汚れてしまった可憐な顔を優しく拭う。

 おでこに両頬、口元に顎と、順々に拭いていく。そうして首元に差し掛かったところで、常に全身くまなく巻かれていた百合の包帯が解けかかっているのに気が付いた。

 咄嗟に直そうと手を伸ばすが、気づいたのはそれだけではなかった。

「これは……」

 取れかかった包帯の下、百合の鎖骨から胸元にかけて黒い火傷のような痕が走っていた。

「ん、ぅ……」

 と、その時ちょうど百合が目を覚ました。

「気が付いたか?」

「あ、れ……覇切、さん……?」

 無事に目を覚ました百合にほっと安堵する。

 重たそうに開いた瞼の下には若干虚ろながらも先の森にいた時にはなかった光が戻っていて、どうやら完全に正気に戻ったようだ。

「ここ、は?」

「義姉さんから借りてる屋敷に戻ってきた。身体は動かせそうか?」

「はい……多少怠い気もしますがこれくらいなら」

 そう言うと緩慢な動きで上体を起こす。

「喉、渇いてないか? 水しかないが」

「ありがとうございます。頂きます」

 よっぽど喉が渇いていたのだろう。百合は受け取った杯を傾け、喉を鳴らして一気に中の液体を嚥下する。

「……ふぅ。美味しかったです」

「そうか。それから悪いけど、これで身体でも拭いてくれないか。顔回りだけは拭いておいたんだが……」

「あ、はい。ありがとうございます」

 空になった杯と交換に手巾を渡す。

 まだ少しだけ弱弱しい動作で受け取った百合は、あろうことかそのまま衣服をはだけようとしたので、慌てて覇切は背を向け立ち上がる。

「悪い。じゃあ、俺はこれで……」

「あ、待ってください。覇切さん」

 しかし立ち上がろうとしたところで百合に袖を掴まれ止められる。

「ここにいてください」

「いや、でもな……」

「ここに、いてください」

 思いの外強い調子の百合の言葉にそれ以上反論することもできず、覇切は一つ息を吐くと背を向けたままの状態で座り直した。

 そうして覇切が立ち去らないことを確認した百合は、改めて衣服をはだけると身体を拭き始める。

 互いに無言の時間が続く。何となく気まずさを覚えた覇切はこの際、気になっていたことを思い切って訊いてみることにした。

「その、実はさっき偶然目に入っちまったんだけど、お前、黒業に……」

 正直、覇切としては意を決して投げた問いだったのだが、それに対する百合の返答はあっさりとしたものだった。

「ああ、これですか? 別に大したものじゃないですよ。昔からある痣のようなものです。今更気にしてません……って、包帯巻いて隠してる身では説得力ないですね」

 自嘲するように笑う百合に覇切はと言えば何も言えなかった。

 周知の通り黒化病の治療法はいまだ確立されていない。加えて自然治癒も期待できない死の病だ。それだけでも百合の心身の負担は推し量れようものなのだが……。

「昔からっていうのは……」

「言葉通りの意味ですよ。生まれた時からって言った方がわかりやすかったですか?」

 その言葉を聞いて正直覇切は驚きを隠せなかった。

 黒化病罹患者は病の発症から死に至るまでの期間はまちまちだと聞いていたが、さすがに生まれた時から病に侵されていて、しかも十年以上も生き永らえているなどという話は今まで聞いたことがなかったからだ。

「お前の言っていた呪いっていうのは……それのことなのか?」

 だから直感的にそう思った。

 黒化病が生まれた時から十年以上も続いているなんてはっきり言って異常だ。それこそ呪いだと言ってもおかしくはないだろう。

 しかし半ば確信を持った覇切の言葉に百合は曖昧な笑みを浮かべると、

「……半分、当たりです」

 その言葉の後、覇切の背後で衣擦れの音が響いた。

「覇切さん、もうこちらを向いていいですよ」

 そう言われた覇切はてっきり百合がはだけた衣服を直し終わったのだと思い、振り向いたのだが――

「……っ!?」

 そこには一糸まとわぬ姿で、自らの裸体を惜しげもなく晒す百合の姿があった。

 思わずその立ち姿に息を呑む。

 窓から差し込む月明かりに晒された肢体は美しい曲線を描き、芸術品と言って差し支えない程の造形を見せていたが、覇切の視線を奪ってやまないその身体は、また別の意味でもその視線を繋ぎ止めていた。

「これが私の……呪いです」

 言葉と共に、百合は儚げな微笑みを見せる。

 最初に首元の黒業を見てしまった時、覇切は漠然と百合は鎖骨から胸元にかけての一部のみを黒業に侵されているのだと思っていた。そうでなくともその延長線上にある脇下辺りまでだと勝手に想像していたのだが、しかしそれは大きな勘違いだった。

「こ、れは……」

 百合の身体はそのおよそ半分以上が黒業に覆われていた。

 両腕はすでに余すところなく漆黒に侵蝕され、無事なのはせいぜい左手の指先と右肩付近の一部だけ。さらに上半身は鎖骨から胸元を通り左の脇に向かって黒業に蝕まれており、下半身は腰から左大腿部を経由して踝まで螺旋状に黒い火傷痕が這い回っていた。

「どうですか? 醜いでしょう? 私の身体は」

 自嘲するような笑みを浮かべる百合に何か言わなくてはと思うものの、言葉を失ったまま口が上手く動かせない。

「初めからこうだったわけじゃないんですよ? 生まれた時から病に侵されていたのは事実ですけど、最初の内はこの痣も本当に身体の一部のみだったみたいです。もっとも、生まれた時のことなんて覚えていないので死んだ母親から聞いた程度の情報ですけど」

 母親。その言葉自体も百合から聞かされたのは初めてで、思わず覇切は意外そうな表情を浮かべてしまったのだろう。

 それを見た百合が補足するように付け加えた。

「母親は私が幼い頃に自害しました。父親はいません。当時はまだ黒化病が伝染しないという事実でさえ周知されていませんでしたから……今でもたまに見かけますけど、外を歩いているとよく石を投げつけられたものです。母はもう耐えられなかったそうですよ」

 無感動に。無感情に。百合は事実だけを言葉の羅列として口にする。

 当時はどうだったのかわからないが、今の百合の瞳には怒りも悲しみも悔しさも何も感じることができなかった。

「母は私を置いて先に逝ってしまいましたけど、私は後を追う気にはなれませんでした。死んだら楽になったのかもしれないけど、それでも私は生きていたかったから……その辺りはやっぱり当事者と巻き込まれた人間との違いなんでしょうね」

 敷布で身体を包むように纏い直してから、百合は改めて覇切と向き直る。

「まぁ、これだけならただの不幸な黒化病罹患者の一人ということで、それで終わりなんですけど……独りになって生活にも慣れ始めてきた矢先、ある時身体の痣が大幅に広がったんです。覇切さんには何でなのか、もうおわかりなんじゃないですか?」

 百合の言葉で頭の中に思い浮かぶのは先ほどの地獄絵図。土蜘蛛の死骸をずるりと身体の表面から取り込む見るも悍ましい光景だった。

「その時のことはまったく記憶には残ってないんですけどね。おそらく街道を歩いていたら偶然土蜘蛛に遭遇してしまったんでしょう。当時十一歳だった私は、あの時初めて土蜘蛛を殺しました。神巫として目覚めたのもその時ですね。武器なんて持ってなかったのに、気づいたら刀を握っていましたから」

 それは抑えきれない衝動のようなものなのだろう。

 土蜘蛛を前にすると、我を忘れて『食欲』が何よりも最優先されてしまうんだと、百合は吐き捨てるように言った。

 土蜘蛛を殺し、その内に蔓延した黒業を吸収する度に彼女の痣は増えていったのだ。

 痣がこれほど広がるなんて普通は考えられない。まるで自ら望んで黒業を受け入れているかのような百合の身体。

 ここに至るまでに一体彼女は今まで何体の土蜘蛛を殺してきたのだろうか。

 恐らく土蜘蛛を殺した数だけで言うなら、覇切よりもずっと多いはずだ。

「それじゃあもしかして、あの時女の子の黒化病を治したのは……」

「この体質の応用のようなものですね。私も善人じゃありませんから、普段はあんなことはしないんですけどね……」

 恐らくはあの時の少女の境遇が昔の自分と重なってしまったのだろう。

 自らの痣の侵蝕が広がるのがわかっていながら咄嗟に助けてしまった自分を、百合は自嘲気味に笑ってみせた。

「今まで私はずっと独りで生きてきました。というより、独りで生きていかざるを得なかったんです。何せこんな体質ですから、黒化病なだけならまだしも、黒業を食べたくなるなんて意味の分からない食欲……これじゃあ人間じゃなくて最早化物ですよ」

 その時初めて百合は悲しそうに顔を歪めた。

 ――化物。

 ふと、先ほど森の中で百合に追いついた時、『人間の所業ではない』と思ってしまったことを思い出し、心の中がずきりと痛んだ。

「だから、私は十種神宝に望むんです」

 歯を食いしばって百合は零れ落ちそうなる涙を堪える。

「この呪いを消してほしいって。誰の目も憚らず、こんな包帯なんかで身体を覆うことなく素肌を晒して普通に生きていける身体がほしいって」

 瞳に涙を湛える百合に覇切は言葉を失う。

 百合が何を望んでいるのか、ずっと気にはなっていた。壊したい理不尽とは何なのか。彼女を蝕む不条理とは何なのか。

 ――叶えたい望みとは、何なのか。

 ずっとずっと気になっていた。だけど何ということだろう。蓋を開けてみればなんてことはない。

 彼女はこんなにも――普通の少女だった。

「世界を支配するとか、誰にも負けない力がほしいとか、不老不死になりたいだとか……普通だったらもっと夢のある大きなことを願うんだと思います」

 何でも願いが叶う。そんなものが実際にあれば誰であろうと自分の身には『有り得ないこと』を願うのが普通だ。

 十種神宝なんてとんでもない宝のことを聞いたら誰しも、想像するような絶大な願望。

「だけどそんなもの、私には分不相応です。そんな有り得ないような理不尽なんかを願うよりも、誰にだって当たり前に与えられる幸福を望みたいって、そう思うんです」

 それはすなわちその『当たり前』が百合にはないということ。

 生まれついての異常体質のせいで失ってきた数々の『当たり前』。だからこそ彼女は己にとって有り得ない当たり前(・・・・・・・・・)、それを切に願うのだ。

 どこにでもいる普通の少女として笑い、泣き、怒ることができる人生を歩みたいと、そう思うのだと百合は言う。

 そんな彼女に対して、覇切は何も言うことができなかった。

 瞳の中に映る彼女の表情は酷く悲しげで、儚くて……何を言ったとしても総てが同情のように思えてしまうから。

 だからせめて傍に居ようと思った。

 彼女をこのままにしておくわけにはいかないと、様々な理屈を飛び越えて心の底からそう思ったから。

 涅々に頼まれたからでもなく、彼女が八恵に似ているからでもなく、自分の意思でそう思い伸ばしたその腕は、しかし――

「――だめですよ。覇切さん」

 いつものように百合の頭へと伸ばした手の平はするりと躱されてしまう。

「だめ、なんです……今優しくされたら、私……勘違いしてしまいます」

 敷布を頭まで被せてしまった百合の表情は見えなかったが、その声は震えているように聞こえた。

「だけど、お前……」

「いいんです……私は平気ですから。勝手に長々と話した身で言えたことじゃないですけど……今は、一人に、してください」

 それきり百合はその場に蹲ってしまう。

 時々しゃくり上げるような声が聞こえて、やはり心配が募るが、こうまで拒絶されてしまっては覇切としても一旦は引くしかない。

 汚れた手巾と空になった杯を片付け、百合の部屋を後にする。

 縁側から見上げる夜空は薄く雲がかかり始めていて、先ほどまで見えていた月はその姿を隠してしまっていた。

 長く、重い夜が、更けていく。朝日が昇るのはまだ当分先のようだった。



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