第三章 黒化の病
屋敷の前で涅々と別れた覇切は、表通りに戻ってきていた。
特に用事があるわけでもなかったので、そのまま涅々から聞いた屋敷の場所に向かってもよかったのだが、まだ日は高い。
適当にぶらついてから向かおうと、表通りの賑わいの中を歩いている最中のことだった。
「おっと」
「あ、すいません」
脇からすっと現れた人影にぶつかりそうになって咄嗟に身を捻る。
相手が小柄だったので気づくのが遅れたが、どうにか接触することなくすれ違えた。
「……ん?」
しかし、数歩進んだところで違和感を覚えた覇切は何となしに後ろを振り返る。
そこには今し方ぶつかりそうになったと思しき人物が寄せる人波の中、困ったようにその場で右往左往していた。長い黒髪に同じく黒色の小袖。よく見ると袖からは真っ白な包帯に巻かれた両手が顔を覗かせており――
「何やってんだ……あいつ」
忘れもしない。つい先刻別れたばかりの包帯少女がそこにはいた。
向こうはおそらくこちらには気づかなかったのだろう。
しばらく通りの端から観察してみたところ、おろおろとその場を行ったり来たりとするばかりで周りを気にかけているどころではない様子だ。
先ほどから何回も道行く人にぶつかりそうになっては、その度に頭を下げている。
「どう見てもお上りだな、あれは」
覇切も田舎の出なので偉そうなことは言えないが、少女は見ていて可哀想になるくらいの慌てぶりで、成り行き上遠巻きに眺めていた覇切は何とも言えない罪悪感に襲われた。
「こりゃ……見捨てたら後味悪いな」
思えば自分もこの城下に初めて来たときは人の多さと賑やかさに戸惑っていた。そんなことを思い出しながら近づいていく。
「また戻ってきちゃった……うぅ、人多すぎ。戻ろう……って私は今どこから……?」
近づくにつれてぶつぶつと力ない調子の声が聞こえてくる。
内容からして迷子なのは確定のようだ。
「こっち……? いや、それとも……あれ?」
「あんまりきょろきょろしてると田舎もんだってばれるぞ」
「え?」
軽く見上げるような形で振り向いた少女と目が合う。
少女はきょとんとした表情で何度かぱちぱちとその大きな目を瞬かせていたが、直後その豊かな胸を隠すように両腕を身体の前で交差させると、同時に高速で後ずさりをする。
「あ、あなたはさっきの……っ」
「よぉ。久しぶりだな」
軽く手を挙げる覇切に対し、少女の方は警戒心も露わに露骨に距離を取る。
「一体何の用ですか? まさかあとを尾けてきたんじゃ……」
「おいおい、挨拶しただけで酷い言いがかりだな。俺も城下町に用があったんだよ。偶然だ偶然」
「……本当ですかね。あと、私は田舎者じゃありません」
ぼそりと独り言のように疑念たっぷりの言葉を呟いた後、不服そうに一言付け加える。
それからしばらく、少女は警戒心の滲み出た視線を絶えず覇切に向けていたが、やがて一つ溜息を吐くとそのままくるりと背中を向ける。
「まぁいいです……私忙しいので。それでは行きます。さようなら」
実に素っ気なく、少女は事務的な言葉を残してさっさとその場を立ち去ろうとする。
「待て待て待て待て」
しかしそのまま踵を返した少女を覇切は慌てて引き止めた。
そんな彼を、鬱陶しそうにじろりと睨みつける少女。
「何なんですか本当に……声をかけただけって言っていましたよね?」
「いやまぁそりゃそうなんだが、いくらなんでも素っ気なさすぎだろ」
「そんな温かみのある関係でもないと思いますけど」
「そう言うなよ。一緒に追いかけっこした仲だろ?」
「なっ……あれは、そういうんじゃないでしょう……」
何故か頬を染めて顔を逸らされてしまった。
「お前……なんか違うこと想像してないか?」
「は、はぁ!? 何なんですか突然っ」
「いやらしい奴だな」
「いい、いやらしいのはそちらでしょう! 人の身体を散々弄んだくせにっ!」
突如大きな声を出した少女に思わずぎくりとする。
「お前……声」
「……あ」
その指摘にハッと我に返る少女。ふと周りを見ると二人は完全に注目の的になっていた。
軽く周囲に野次馬ができ、ひそひそとよからぬ噂を立てられているようだ。
「~~~~……っ! 本っ当に何なんですかあなたは……」
羞恥で耳まで真っ赤に染まってしまった少女は、眼の端に涙まで浮かべて俯いてしまう。
(やばい、やり過ぎた……)
そんなつもりもなかったのだが、ついついからかいすぎてしまった。先の自分の言動を思い出して反省するが、とはいえ、このままここに留まり続けるわけにもいかない。
一先ず目立つ場所を避けるために、少女の背をさすりつつその場を離れることにする。
「その……すまん。泣かせるつもりはなかったんだ。謝るよ」
そうして通りの端まで来たところで、覇切は少女に向かって頭を下げた。
先刻押し倒してしまった時と違い、今回は完全に自分が悪いので申し開きの言葉もない。
それを見て、少女は呆気に取られたかのように目を丸くしている。
下を向いている覇切はそんな少女の表情の変化になど気づかず、許してもらえるまでいつまででも頭を下げ続けるつもりでいたが、やがてぐしぐし何かを擦るような音がしたかと思った直後、若干裏返ったような高い声が頭上から聞こえてくる。
「ば、馬鹿にしないでくださいっ……泣いてなんていませんっ!」
その声にちらと視線を上向けてみると、少しだけ赤くなった目で少女が自分を睨みつけているのが覇切には見えた。
「だからあなたに謝られるようなことは何一つだってありませんので、そんなに頭を下げられても迷惑です。私が悪者みたいじゃないですか」
そうして少女はいつかと同じくそっぽを向きながら早口で言い切る。
(これは、許してもらえたってことでいいのか……?)
それ以上は待てど暮らせど何の言葉もやってこなかったため判断に困ったが、少女の方はと言えば、つんとした表情でいるだけでもうこれ以上話すつもりはないようだ。
「ありがとう」
「な、何故ここでお礼を言われるのかわかりません。馬鹿なんですか……もう」
ホッと胸を撫で下ろしたところで、覇切は少女と改めて向かい合う。
少女は呆れたような口調で溜息を吐いていたが、どこか恥ずかしそうに目を逸らしながら答えるその様子は率直に言って愛くるしい。
(っと……全然反省してないな、俺は)
どうにもこの少女を見ていると保護者意識、とまではいかないが、それに近い部分が刺激されるというか……なんとなく構ってあげたくなってしまう。
少女からしてみれば迷惑なことこの上ないだろうし、つい先ほどもそれが原因で泣かせてしまったばかりなのでいい加減に自戒する。
「……それで?」
と、そんな風に身勝手な葛藤を胸中で密かに繰り広げていると、ジトッとした目で少女が睨みつけてきていた。
「結局何の用だったんですか? 私に用事があったんでしょう?」
そこまで言われて覇切は少女に声をかけた当初の理由を思い出した。
「あー、なんつーか……傍から見て道に迷ってそうだったんでな。余計な世話かとも思ったんだが……さっきも言ったように顔見知りだったし、大丈夫かと思って声かけたんだ」
その言葉を聞いて少女はきょとんとした表情を浮かべる。
「道にって……誰がです?」
「いやお前以外に誰がいるんだよ」
何を言っているんだと呆れて少女を見るが、少女の方はというと何故だか酷く不機嫌そうにしかめっ面を浮かべていた。
「どうした? また何かお前の気に障るようなことでも言ったか?」
「……じゃ、ありません」
「ん?」
よく聞こえなかったのでもう一度訊き返すと、少女はより一層不愉快そうにその端正な眉根を寄せる。
「お前じゃありません。黒条百合。それが私の名前です。さっきからお前お前と……偉そうに呼ばないでもらえますか? 東雲覇切さん」
その表情の変化に、覇切は少なからず驚いた。
出会って一日と経っていない間柄で少女――百合のことを知ったつもりになっていたわけではないが、今までのやり取りから人に干渉されるのを嫌う印象を持っていたのだ。
故に呼ばれ方にこだわりを持っているとは思っていなかったし、加えて――
「名前、憶えてたんだな」
「当然です。というかあなたの方から名乗ったのだと記憶していますけど」
「はは、そうだったか」
正直なところ、自己紹介をしたのは彼女の様子が正常ではなかった時だったので、記憶には残っていないと思っていたのだが、先刻も自分で言っていたように記憶の方は問題なく、それも細かいところまでしっかりと残っているようだ。
「いや悪かったな。次からは気を付けるよ」
「次なんてないと思いますけど」
「まぁそう言うなよ。それで? 百合はどこへ行きたいんだ?」
「人の話を聞かない人ですね……しかもいきなり名前で……馴れ馴れしいですよ」
「黒条の方がよかったか?」
「いえ、百合で結構です。別に目的地があるわけじゃないですよ。しばらく住むことになる街ですから少し見て回っていただけです」
「どっちかって言うと周りが見えてない感じだったけどな」
「き、気のせいですよ……そういう覇切さんこそ何をしていたんですか?」
「俺か? 俺は義姉のところに用事があってな。今その帰りだ。知らないか? 東雲涅々。用心棒の間じゃ結構有名なんだけどな」
『荒夜叉涅々』と言えば、かつてはこの神州でその武の腕の右に出る者なしとまで言われた用心棒として有名だ。
文字通りの片手落ちとなってしまい用心棒も廃業した今では、その名を聞くこともなくなってしまったが、噂はいまだ健在でもはや伝説とまで言われている。
しかしながら覇切が今涅々の話を持ち出したのは単に義姉自慢がしたかったわけではもちろんなく――
「……ああ。あの人の……道理で何となく聞いたことのある名だと思いました」
「あの人って……まるで知り合いみたいな口ぶりだな」
「ええまぁ。実際私の親戚だそうなので。会ったのは昨日が初めてですが」
その言葉を聞いて確信に至る。どうやら涅々の言っていた東雲の遠縁とは百合のことだったらしい。半ば予想していたことだったとはいえやはり驚きを禁じ得ない。
まさか朝方命のやり取りを繰り広げた相手が、自分の親戚にあたる人物だったとは……偶然とは恐ろしいものだ。
と、そこで覇切は百合が何とも言えない微妙な表情になっていることに気付いた。
「どうした?」
「いえ、別に……ただ少し戸惑ってしまって」
「戸惑う?」
「私あの人のことあまり好きじゃないので」
きっぱりと言い切った言葉からは、わかりやすい嫌悪の念が伝わってきた。
生真面目過ぎるきらいはあるが、基本的に筋は通す義姉のことをそんな風に言われたのは初めてだったので不愉快とかそういう感情の前に、百合の言葉がただただ意外だった。
しかし百合はそんな覇切の様子を勘違いしたのか、ばつの悪そうな表情で頭を下げる。
「すいません。身内の方にする話じゃありませんでしたね。ただの私の個人的な感情ですので、気にしないでください」
「ああいや……俺は別に……」
思いの外殊勝な態度の百合に呆気に取られて、そんな間の抜けた返事しかできない。
百合も見たところ無闇やたらと他人を嫌う気質ではなさそうなので、二人の間に一体どんな軋轢があるのか少し気になりもしたのだが、その思考は次の百合の言葉に阻まれる。
「そうだ。いい機会なので覇切さんにも訊きたいことがあるんですが、よろしいですか?」
「ん? ああ、別に構わないけど」
唐突に振られた話題に反射的に頷く。一体どんな質問が飛んでくるのかと少しだけ身構えた覇切だったが、投げかけられた言葉は意外と言う外ないものだった。
「覇切さんは十種神宝、というものに心当たりはないでしょうか?」
「……なんか今日はやけにその質問をされるな」
先刻も聞かされたものと全く同じ内容の問いかけに、自分でも知れず嘆息してしまう。
すると何を勘違いしたのか、百合は目の色を変えると覇切の襟元に乱暴に掴みかかる。
「知っているんですか!?」
「うおっ」
突如ぐいっと下に引き寄せられたことで、百合と急接近する。
鼻と鼻がくっつきそうなほどの距離に軽く焦るが当の百合はというと、目を血走らせ瞬きすることもなく覇切の瞳を見つめている。
まるでその瞳の奥の真実総てを探り出そうとするかのように。どんな情報も塵一つさえ逃さないという尋常ならざる気迫の感じられる強く――狂気のような感情を覚える視線。
斬気すら感じられるその視線を至近距離で受け止めた覇切は一瞬身を切り刻まれるような錯覚に陥ったが、すぐにその想像を振り払うと百合の肩に手を置きゆっくりと押して距離を取る。
「落ち着け。この状態じゃ話すものも話せない」
「ぁ……す、すみません。取り乱しました」
覇切の言葉に我に返った百合は、仄かに頬を染めると恥じるように小さく俯いた。
表面上は落ち着き払った態度でいるが、中身は裏腹に直情的な性格なのかもしれない。
「とりあえず最初に言っておくが、俺は十種神宝に関しては何も知らない。知ってるのは、せいぜいそういう宝が出てくる御伽噺があるってことくらいだ。あとはさっきの用事で義姉さんから同じ話を持ち掛けられてな……」
そうして百合に先刻の涅々とのやり取りをざっと聞かせる。さすがに水無月家がすでに一つ神宝を所持しているなど機密に関する話や個人的な話はできなかったが、それ以外の水無月家からの依頼や皇主のお触れについては包み隠さず伝えた。
「……とまぁこんな感じなんだが、どうだ? お気に召したか?」
「そう、ですね……まぁ多少は参考になりました。ありがとうございます」
そうは言うものの百合の表情は若干の陰りを見せている。取り繕おうという努力は窺えるが、今の情報が彼女にとって有益なものだったかどうかは愚問と言う外ないだろう。
「その様子だと、お前も義姉さんから依頼でもされたか?」
「え? あ、その……」
「別に隠さなくていいさ。用心棒に声かけてるって言ってたからな。俺以外に依頼の話をされた奴がいても不思議じゃない」
むしろその方が自然だろうと言う覇切だったが、百合は首を横に振る。
「いえ違うんです。私は依頼とかではなくて……その、無理に聞き出したと言いますか」
目を逸らしつつ言う百合。
先ほどの覇切に対する剣幕から察すれば、その時の光景は想像するに難くない。
彼女が神宝に関してどんな執着を持っているかは知らないが、あんな顔を見せられたらさしもの涅々も多少は話してしまうのも納得だ。
さすがに水無月家が一つ神宝を所持しているという話はしていないようだが……。
「無理に聞き出したってことは、もしかしてお前はお前自身が十種神宝を探してるのか?」
「他に何があるっていうんですか?」
「いや、義姉さんから親戚を一人預かることになってるって聞いてたから。てっきりその関係でお前にも神宝捜索の協力要請が出てるんじゃないかと思ってな」
そう言うと百合は馬鹿馬鹿しそうに鼻を鳴らした。
「まさか。どうして他人のためにわざわざ苦労して宝を探してこなければならないんですか? 慈善活動じゃあるまいし」
それは涅々の話を聞いた時、覇切も多少なりとも気になったことではあるが、百合の言葉にはそれとは別のどこか含みがあるように聞こえる。
「まさかとは思うが……お前は信じてるのか? 神宝の力のこと……」
「当り前じゃないですか。あと、さっきから呼び方が『お前』に戻ってます」
呆れたように肯定の言葉を口にする百合に、一瞬二の句が継げなくなる。
「意外そうな顔をしていますね。じゃあ逆に訊きますけど覇切さんは信じていないんですか? 涅々さんから捜索の依頼を受けたのでしょう?」
「正確には保留にしたんだけどな。それに神宝の『存在』を信じるのと『力』を信じるのとじゃまた別問題だろ」
実際に特別な力があったかどうかは置いておくにしても、歴史上そういった価値ある宝があった可能性は否定できない。
「存在自体に関しては依頼を聞いた手前あるっていう前提で構えてるけど、力の方は半々ってとこかな。馬鹿な話だと断じるわけじゃないが、頭から信じ込んでるわけでもない」
何しろ必ず力があるという証拠も存在しないが、絶対にないという証拠も同様に存在しないのだ。現状一概にどちらとは言えないだろう。
「優柔不断ですね。男らしくないですよ」
「俺としては慎重と言ってほしいところだったんだが」
不満げに頬を膨らませる百合に対して、覇切は苦笑を浮かべる。
結局百合の満足いく答えを返してやることはできなかったが、覇切からしてみれば水無月の他にも神宝を探している者がいると実際に確認できたことは思いがけない収穫だった。
単純な安心感の問題だが、探している宝が荒唐無稽な存在である以上、独り相撲を取らされるよりも競争相手がいるとわかっていた方がやる気も出るし、場合によっては有益な情報源にもなり得る。
そういう意味では随分と参考になったと、覇切が感心していたその時だった。
「ええい、寄るな汚らわしい!」
不意に表通りに響いた怒鳴り声に会話を中断し、二人同時に視線を向ける。
「どうも臭いと思っていたら……人間に紛れて塵が歩いていたようだな」
「そんな見るに堪えない面でよく外を出歩けたものだ、くはは」
そこには男が二人、隠すことのない侮蔑の言葉を発していた。
一人は背の高い鷲鼻の男、もう一人はやや細身の猫背の男で、見たところ二人とも用心棒のようだが――
(あれは……)
男たちの目の前で蹲るようにしているのはまだ年端もいかない少女だった。
恐らく通りを歩いていたところ、男のどちらかと衝突したのだろう。少女は屈強な男二人に囲まれて、恐怖に腰を抜かしている。その姿はパッと見て普通の人間と変わりないように見えるが、よく見ると首筋から頬にかけて黒い火傷痕のような痣に覆われていた。
「あ、あの……ごめ、ごめんなさ……」
「口を開くなよ塵風情が。貴様の吐いた汚い空気でこの俺に感染したらどうしてくれる?」
鷲鼻の男の心無い言葉に少女は「ひっ」と息を呑み、慌てて両手で自らの口を塞いだ。
そんな少女の様子を、男二人はニタニタと下種な笑みを浮かべて眺めている。
「悪い、ちょっと行って――」
率直に言って見るも不快な光景を前に、覇切は仲裁に入るため百合に一声かけようと思ったのだが、隣を見てみればさっきまでそこにいたはずの彼女の姿が消えている。
一体どこに行ったのかと思っていると――
「……何のつもりだ? お嬢さん」
百合はいつの間にこの場を離れたのか、件の男たちと少女の間に割って立ち、今にも周囲を凍らせてしまいそうなほど冷たく静かな怒気を迸らせていた。
「何って。こんなに醜悪な生き物二匹が囀っているのを目の前で見せられているこちらの彼女があまりに気の毒だったもので。視界から隠してあげようと思っただけですけど」
「……貴様、もう一度言ってみろ」
自分たちに向けられたわかりやすいくらいの嘲りに男たちの眼の色が変わる。
「耳まで遠いんですか? それとも頭が鈍すぎて理解が追いつかないんですかね? 家畜ですら人の言葉を理解して従うというのに……聞こえなかったのならもう一度大声で言って差し上げましょうか?」
「この餓鬼……あまり調子に乗るなよ」
途端に、周囲の空気がピンと張りつめる。
一触即発の雰囲気の中、男の一人が腰の刀に手を掛けようとした瞬間のことだった。
「――っ!?」
男の表情が凍り付く。一瞬前まで怒気をはらんでいた男の視線の急な変化に百合は訝しげな顔を浮かべるが、よく見ると男は自分の方を見ていない。
その視線の先は百合の背後。
まるで蛇に睨まれた蛙のように男を凍り付かせた存在が何なのか、気になった百合は後ろを振り返ろうとして――
「まぁ落ち着けよ。おっさんたちも、たかだか餓鬼の戯言だ。そんな目くじら立てずに大目に見てくれよ」
「覇切、さん……?」
不意に肩に置かれた手の平にびくりと視線を上げると、そこにあったのは今朝方からすっかり見慣れてしまった青年の端正な横顔だった。
彼の右側に立つ自分からは眼帯に隠れたその表情をうまく読み取ることができないが、用心棒の男二人は額に脂汗を浮かべて顔を引き攣らせている。
「な? 頼むよ」
「貴様……」
鷲鼻の男は気圧されたように半歩たじろぎ再び得物を手にしようとしたが、そこで初めて周囲の様子に気が付いた。
辺りにはすでに軽く野次馬が集まり始めている。このままいけばすぐにでも役人が駆け付けてくることだろう。
「ち……運のいいやつらだ。おい、行くぞ」
鷲鼻の男は隣の猫背の男にそう告げると、どこか安堵したような表情の後、覇切たちの方をひと睨みしてから逃げるようにそそくさと立ち去っていってしまった。
「ふぅ……どうにか穏便に収まったか。平気だったか?」
そうして百合を振り返った覇切の表情に普段と特別な変化はないように思えた。
質問には答えずに、百合はじっと探るような目つきで覇切の顔を眺める。
「どうした? 俺の顔に何かついているか?」
「いえ……ただ、運がよかったのはどちらの方だったのか、気になっただけですよ」
「何のことだ?」
「こちらの話です。あくまで惚けるのならそれでいいですけど」
軽く肩を竦める覇切に底の知れない言葉をかける百合だったが、ふいっと視線を外すといまだ震えている少女に向かい合う。
少女は今ようやく立ち上がることができた様子で、火傷痕に覆われた顔を隠すように片手で顔を覆っていた。
「もう大丈夫ですよ。怖かったですね」
そう言って百合は少女の頭を撫でようと手を伸ばすが、その手が届く前にさっと避けられてしまう。
それは嫌がると言うよりむしろどこか遠慮のような雰囲気の感じられる行動で……。
(黒化病の罹患者か……わかっちゃいたが、中々やりきれないもんだな)
――黒化病。それは現代に流行る奇病で、この神州に蔓延る脅威の内の一つだ。
有体な言い方をすれば不治の病にして死の病。発症すると同時に身体の一部に黒い火傷痕のような痣が現れ、罹患者は近いうちに死に至る。
発症の原因は生物の死骸が土蜘蛛化する原因と同様に、黒業による人体の汚染と言われているが、実際は黒化病によって死亡した生物が汚染された身体のそのままに土蜘蛛化する場合が多いため、黒化病の罹患者はその存在を土蜘蛛と同列化されて差別的な扱いを受けることが少なくない。
伝染するという噂もその一つで、実際は黒業が人から人へと伝染する危険性はないと最近の研究によって否定されている。
そもそも本当に伝染するならば、先の男たちのように悠長に罵っている場合ではない。
しかし、昔から根付いた噂というのはそう易々とは消えることがなく、諸々の事情をわかった上で罹患者を蔑視する輩が多いのもまた事実だった。
そしてその噂に影響されるのは蔑視する側だけではなく、される側――少女からしてみてもやはり不安なのだろう。
もし万が一、本当に自分以外の誰かに感染させてしまったら……そう思うと、迂闊に差し伸べられた手を取ることすらできない。
目の前の少女はまさにそれで、百合にはそんな少女の心の内が感じ取られたのだろう。一層痛ましい眼差しで少女を見つめると――
「――仕方ないですね。これは……内緒ですよ」
穏やかな笑みを向け、すっと少女の頬にその手を触れた。
不意打ちだったのか、少女は反応できずに百合の手に触れることを許してしまい、そしてその身体に変化が起こり始める。
「これは……」
その時起きた現象を前に覇切は瞠目することになる。
百合の手が触れたその部分。少女の頬を覆い尽くしていた黒い火傷痕が見る見るうちに消滅していくのだ。まるで寄せた波が引いていくかのような光景に思わず言葉をなくす。
少女もまた何が起きているか状況がさっぱりわからず戸惑いの表情を見せるばかりだ。
「……ふぅ。はい、終わりです」
そうこうしているうちに百合は懐から手鏡を取り出すと少女に見せる。
鏡に映る自分の顔を見た瞬間、少女は驚きに目を見開いた。つい一瞬前まで自分の顔を覆っていた黒い痣は、今はもう綺麗さっぱり消えており、普通の人間と何ら変わりがない。
何が何だかわからずに鏡に映る自分と百合のことを交互に見つめる少女。
その慌てぶりを穏やかな顔で眺める百合が、そっと少女の頭に手を伸ばそうとしたその時――通りの反対側からどこか切迫したような叫び声が聞こえてきた。
その声に反応して少女はハッと顔を上げる。
「あ、あの……ありがと、ございました……!」
そうして慌てたように覇切たちにお礼を言うと、少女は一目散に飛び出して声の主である女性の元へと駆けていく。
恐らくは少女の母親だろう。察するに人混みの中、はぐれてしまって困っていた最中に先の男たちに絡まれてしまったといったところか。
見ると我が子を抱き留めて安心した母親は次いで、驚きの表情を見せていた。
「……」
その様子をぼんやりとした表情で眺めていた百合は、空中で遊ばせていた手の平をぐっと握り締めると、くるりと踵を返す。
「いいのか?」
「……何のことでしょう?」
「いや……」
百合がいいと言うのであれば自分が口に出すことではないだろう。そう判断した覇切は、少女の駆けていった方向とは反対方向に進んでいった百合の背に向かって言葉を投げる。
「よかったな」
「だから、何がですか?」
とぼけたようにそっけなく訊き返す百合だったが、見ればその耳は赤く染まっている。
「なぁ、一個訊いてもいいか?」
「……今の、現象についてですか?」
「ん? まぁ、それもあるか。そうなると二個だな」
訊こうと思っていたのは違うことだったが、そちらも気になったのは事実だ。
その答えを黙って待っていると、やがて百合の口から聞かされたのは意外な一言だった。
「あれは、呪いです」
「呪い?」
思わず首を傾げる。どちらかというと覇切には『呪い』というより、『奇跡』に見えた。
何しろ不治の病と言われる黒化病が癒えてしまったのだ。そんな光景を見たのは当然ながら初めてだったし、それだけでも凄まじいことなのだとわかるのだが……。
「呪いですよ。間違いなく。少なくとも私にとっては」
そう言う百合の言葉はやはりどこか悲痛そうに聞こえる。
百合からそれ以上の言葉はない。気にはなったが、話したくないことをこれ以上追及するのも気が引けた。
「それで? 一体何が訊きたかったんですか?」
百合の言葉に覇切は本来の問いを思い出して、少し躊躇ってから結局問うことにした。
「結局、お前が十種神宝を求める理由って何なんだ?」
「また唐突な質問ですね……」
「そうでもないだろ。元々その話をしてる最中に中断されたんだ。さっきから少し気になってたんだよ」
先ほど、百合は十種神宝があるかないかの話で『信じている』と即答した。
それは御伽噺を信じ込む子どものような混じりけのないものでなく、どこか暗い、盲信にも似た執念が感じられた。
答えてくれないのならそれでいい。それくらいの、要は興味本位から訊いてみたという程度に過ぎない言葉であり、実際覇切は八割くらいの確率で一つ目の質問のようにはぐらかされることを予想していたのだが、百合はしばし何か考え込むように沈黙し――
「覇切さんは……」
急に立ち止まった百合につられて数歩先で覇切もまた立ち止まり振り返る。
「覇切さんは、どうすることもできないことって経験ありますか?」
「どうすることも、できないこと?」
質問の意図を測り損ねて鸚鵡返しに首を傾げる。
そんな覇切から目を逸らすことなく、百合は補足するように言葉を付け加えた。
「そのままの意味ですよ。そんなに難しく考える必要はありません。人間って大抵のことは自力でどうにかできるじゃないですか。すぐには無理でも時間をかければ、努力をすれば、それでも駄目なら周りを頼って……そんな風にすれば殆どのことには対処できますけど、私が言っているのはそれ以外のことです」
つまり、自分延いてはその他の要因総て注ぎ込んでもどうすることもできないこと。
先の黒化病などがいい例だろう。
そういった理不尽や不条理に直面した経験があるのかと、百合は覇切に問うているのだ。
「あるかないかで言えば……ないこともない、かな」
「曖昧ですね」
「ま、昔の話だからな。もう終わったことだ」
一瞬だけ思い起こされるのはかつての記憶。その時のことを思うと今も右眼の奥の方に鈍い痛みを覚えるが、言ったようにすでに終わったことだ。
今更ぐじぐじと悩むのは性に合わない。どれだけ後悔したところで過去は変わらないのだから、前を向いて生きていくしか道はないのだ。
そう言い切る覇切を前に百合は半ば睨みつけるような強い視線で宣言する。
「私にはあります。何をどうしたってどうにもできないような理不尽が……だからその理不尽を壊すためにも、手に入れたいものがあるんです」
強い意志を込めた視線で覇切を射抜く百合。
どこか痛ましさすら感じられるその視線は先刻も見せたものと全く同じで……受け止めた覇切の瞳にはその研ぎ澄まされた意志が酷く危うげに映っていた。
◇
「と、ところで」
何となく別れる機会を逸してしまい、しばらく並んで当てもなく表通りを歩いていた二人だったが、不意にわざとらしく咳払いをした百合が立ち止まって覇切に向き直る。
「ちょうどいい機会ですのであなたに今朝の借りを返そうと思います」
「借り? ……ああ。そう言えば礼がどうとか言ってたな」
今朝方、森での別れ際にそのようなことを言っていたのを思い出す。別に覇切としては当然のことをしたまでだったので、気にしなくてもいいと思いもしたのだが――
「お礼ね……何でもいいのか?」
「私にできる範囲でなら」
「じゃあそうだな……って露骨に距離を取るなよ」
「い、いやらしいのはなしですよ」
完全に警戒されてしまっていた。そんな百合に苦笑しながらどうしたものかと思案する。
正直、これはいい機会だった。涅々から聞いた話と百合の話を照らし合せてみると、どうも百合は昨日から涅々の家に帰っていないようだ。
涅々に百合のことを気にかけておいてくれと言われていた手前、このままこの場ではいさようならというのも後々すっきりしないだろうし、どうにもこの百合という少女は危なっかしくて目が離せない。故に何かこの貸しとやらを利用できないかと考える。
「あ、そうだ」
「な、なんですか……?」
「そんなビビるなって。なんてことはない頼みだよ」
そう言って覇切は懐から先ほど涅々からもらった鍵を取りだす。
「実はな。俺も今日からしばらく水月に留まることになってるんだ。それで義姉さんからその間泊まる場所を与えられたんだが、一人じゃどうにも寂しくてな」
「寂しいって……そんなタマですか。っていうかまさか……」
頬を引きつらせる百合を見て、にやりと笑う。
「察しがいいな。俺の寂しさを紛らわすために一緒に住んでくれ」
「は、はぁ!?」
あまりに唐突な願いに目を丸くしてしまう百合。
「いやらしいのはなしって言ったじゃないですか!」
「別に何もしねえよ。ただ一緒にいてくれるだけでいい」
「なっ……」
覇切の言葉に真っ赤になって口をぱくぱくとさせる百合。
正直、言った後に覇切本人も今のは失敗したなと反省したが、ここは押し通す。
「それに義姉さんから聞いたけど、お前昨日は家に戻らなかったみたいじゃないか。どこで一晩明かしたんだ?」
「それは……野営です。野宿とも言いますね」
ということは、百合は昨日の夜からずっとあの森の中で過ごしていたことになる。
それを聞いた後、さすがの覇切もさすがに呆れるしかない。
「決まりだな。今のを聞いて見捨てたりなんかしたら後味悪すぎるだろ」
「ちょ、ちょっと勝手に――」
「何でも言うこと聞いてくれるんだろ? 心配すんな。いやらしいことなんてしない」
「で、でも……これ覇切さんのお願いっていうより私の……」
もごもごと何やら口籠っている百合を見て、「ふむ……」と顎に手を当て考える覇切。
「そんなに気になるんだったら、宿代に俺の引き受けた依頼を手伝ってもらうか」
「……何かそれはそれで本来の主旨から大分離れていってるような気もするんですが」
「注文の多い奴だな。とにかくもうこれは決定事項だ。ほら行くぞ」
「あ、ちょっと! 人の話を……って待ってくださいよ!」
強引に話を打ち切って、先に歩き出す覇切を百合が追いかける。
とりあえずこれで涅々からのお願いの一つは遂行したと思っていいだろう。覇切としてもこのどこか危なっかしい少女を一人にしておくのは本意ではなかったので、都合がいい。
ちらりと後ろを振り返ると百合はまだぶつくさと文句を言っていたが、しっかりと後ろをついてきている。
相変わらず変なところで律儀な百合の様子になんだかおかしくなってしまう。
前途多難になりそうだと思っていたけれど、この分ならうまくやっていけるのではないかと、覇切は密かに笑みを零した。




