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第二章 十種神宝

 

 

 ゆらゆらと、自分の身体が規則的に揺られる感覚を、少女は半覚醒気味の意識のどこか遠くの方で覚えていた。

 時折、がくんとした強い揺れに見舞われるが不快感はまるでなく、それというのも彼女の身体をその不快感よりももっと大きな安心感が包み込んでいるからだった。

 そのおかげで先ほどから何度も覚醒の機会を逃しているのだが、触れる温もりの気持ちよさを思うとそんな些細なことなどどうでもよく思えてくる。

(温かい……)

 じんわりと心の奥底まで染み込んでくるような、優しさに満ちた温かさ。その温度をいつまでも手放したくなくて、知れずその手にぎゅっと力を込める。

 同時に、今まで正体不明だったこの温もりが何なのか判明した。

 これは、背中だ。逞しくも心地よい、頼りがいのある大きな背中。

(……一体、誰の?)

 湧き上がってくる疑問は当然と言えば当然のもので、平時の彼女であれば条件反射で飛び起きてしまう程警戒して然るべき状況のはずだが、何故だかその気すら微塵も起きない。

(何故……?)

 本当に謎だ。包み込む安心感も。それを当然のように受け入れる自分も。そして――

(なんだかとても……懐かしい……)

 そんな経験あるはずもないのに。そんな人は知らないはずなのに。

 何故だかどうしようもなく、この背中を懐かしく思ってしまう。

 会いたくて会いたくて、千年の時さえ越えてやっと巡り会えた……そんな風に、思わず涙が溢れてしまいそうになる程の幸福を覚えてしまったから――

(――っ)

 ――だからこそ自らの記憶と感情の齟齬に、脳が激しく警鐘を鳴らす。

 知らない。わからない。身に覚えがないし記憶にない。

(だって、私には――)

 ――そんな幸せだった日の(・・・・・・・・・・)記憶など(・・・・)あるはずがないのだか(・・・・・・・・・・)()

 氷解しかけた少女の(こころ)が再び、氷のうちへと閉ざされていく。一度は覚えた幸せの残滓まで、残さず消し飛ばそうと徹底的に凍てつかせる。

 お前には為すべきことがあるのだと。こんなわけのわからない感情に振り回されている暇などないのだと。そう、自分自身に言い聞かせながら。

 最後に少しだけ――本当にほんの少しだけ、先の温もりを名残惜しく思いながらも、冷静さを取り戻した少女の自我はその意識を急速に覚醒へと向かわせた。

 彼女が唯一願った望みを叶える。ただそれだけのために――

 

        ◇

 

「――ん、ぅ……?」

「お。ようやくお目覚めか?」

 耳朶をくすぐる悩ましげな声と吐息に、覇切は背に負った少女の覚醒を感じ取る。

 たった今眠りから覚めたばかりの少女の目はとろんと夢見心地で、そこにはつい半刻ほど前まで鎬を削り合っていた強敵の姿はなく、年相応の無防備な表情が晒されていた。

「ここ、は……?」

「水無月領の北端にある神威の森だ。今はちょうどそこを貫く街道沿いを歩いてるところだよ。あとどれくらいもしないうちに城下町――水月(すいげつ)に到着するはずだ」

「みな、づき……じょーか」

 覇切の言葉を理解しているのかいないのか。少女はふわふわとした表情のままゆっくりと視線を巡らす。

 眼前には覇切が言ったように、荷馬車二台が楽にすれ違える程度に舗装された道が緩やかな曲線を描きながら延びており、周囲には見渡す限り鬱蒼と木々が生い茂っている。

 ところどころ葉の合間からは幾筋もの木漏れ日が差し込んでいて、幹の間を縫うように揺蕩う帯状の霧のようなものが、きらきらと光を乱反射している。

「きれい……」

 しばしの間、二人してその光景に目を奪われる。

 神威の森とも呼ばれるこの場所は空気中を漂う神威濃度が非常に濃く、通常は不可視であるはずのそれらもこのような無数の光の帯として視認することができる。

 こうした高濃度の神威が発生している場所は神州にいくつか存在するが、そういった場所特有の幻想的な雰囲気を覇切は個人的に気に入っていた。

「どうだ? 今度こそ目が覚めたか?」

 十二分に景色を堪能したところで、改めて背の少女に問いかける。

「ん……」

 覇切の言葉に対し、小さな手で目元を擦りながら可愛らしい欠伸をする少女。

 その仕草はまるで小動物のようで愛らしいの一言に尽きるが、やがてその視線は覇切、周囲、そして自分と順々に動いていき、徐々にその瞳へと正気の光が戻っていく。

 そうして最後にもう一度、後ろを振り向いた覇切とぱちりと目が合った。瞬間――

「ぇ……あ、わわっ!?」

 まるで今初めて覇切の存在を認識したかのように驚愕の表情を浮かべた少女は、慌てた様子で思い切り後方に仰け反った。

「ちょ……おまっ」

 そして必然それに引っ張られるような形になる覇切。

 予想だにしなかった引力に抗えるわけもなく、せめて手をつこうと無理やり身体を反転させた覇切はそのまま少女へと覆い被さるように倒れていき――結果的に、少女を押し倒すような形で倒れてしまった。

「ぁ、の……っ」

 互いに息がかかるほどの至近距離で見つめ合う。

 少女の頬は熟れた林檎のように真っ赤に染まり、その吐息は火傷しそうになるほど熱い。

 美少女だとは思っていたがこうして間近で見ると、その端正な顔立ちがよくわかった。

 長い睫毛に、見ているこちらが吸い込まれそうになるほど深い漆黒の瞳。

 桜色の唇の間からは言葉にならない掠れたような声が漏れ出ており、それがどことなく扇情的に聞こえた覇切は気まずさに思わず目を逸らしてしまう。

「いやその……すまん。これは事故で――」

 状況的にどちらが悪いとも言えないが、先に目を逸らした手前、何となく自分の方が悪いことをした気になった覇切はすぐさま謝罪を含めた言い訳の言葉を口にしようとする。

 が、同時にすぐに起き上がろうとその手に思い切り力を込めてしまったのがまずかった。

「あ」

「……え?」

 もにゅんと、手の平いっぱいに広がる柔らかい感触。

 今の今まで気が付かなかったが、この瞬間覇切は初めて自分の手がついている場所が地面ではないということに気が付いた。

 もっとも『地面ではない』などと遠回しな言い方をしなくても、その手に収まりきれていないものが何なのかという質問は愚問と言う外ないだろう。

 要するに胸。おっぱい。

 少女の豊かすぎる二つの膨らみを、覇切は思い切り鷲掴みにしていた。

「いやそのすまんこれは事故で――」

 先ほどと全く同じ台詞を早口で繰り返す覇切に対し、少女の方はというと真っ赤な顔をさらに赤く染めながら口をぱくぱくとさせ、その場に硬直する。

「~~~~ッ……!?」

 そうして一瞬の後に、声にならない悲鳴を上げる。

 羞恥や怒り、戸惑いが内側で混ぜこぜになっているのだろう。

 しばらくの間、あたふたと何かを言葉にしようと口の開閉を繰り返していた少女だったが、やがて一つ大きく深呼吸をするとその桜色の唇をぎゅっと固く結び、覇切に向かってキッとひと睨みする。

「い、いつまでそうしてるつもりですか! 謝罪はいいからさっさとどいてくださいっ!」

「お、おぉ……悪い」

 諸々の感情を押し殺したような少女の言葉に反射的に従う覇切。

 実のところ少女の声をまともに聞いたのはこの時が初めてだったのだが、状況が状況なだけにその鈴を鳴らしたような可憐に透き通った声を堪能する暇もない。

 慌てて立ち上がった覇切に続き、少女もまたその場にゆっくり立ち上がると乱れてしまった着物の裾を直して埃を払う。

 表情や仕草からは平静を取り戻しているように見えるが、いまだ耳まで赤く染まっているところを見るに、どうやら取り繕っているだけらしい。

「な、何でしょうか……?」

「いや……」

 ついじっと観察していたら、むすっとした表情で軽く睨まれてしまった。

 正直、不機嫌そうに眉根を寄せている顔も全く怖くなく、むしろ中々懐いてくれない野良猫のような印象を受けたが、その表情の原因は自分なので間違っても口には出せない。

 互いの間にもやもやと漂う気まずい空気。それを先に破ったのは少女の方だった。

「その……ありがとうございました」

 視線を逸らし、ほんのりと頬を桜色に染めながら少女はお礼の言葉を告げる。

「…………お、おう。そうか」

 予想の斜め上をいくその言葉に、視線を逸らし若干引き気味に答えてしまった。

 そんな覇切の態度が不満だったのか、少女は再びムッとした表情で睨みつけてくる。

「ちょっと、何ですかその間は。それと人がせっかくお礼を言っているのに何故そんなに微妙な顔をしているんですか?」

「いやだってなぁ……」

 本当にわかっていないのか明らかに苛々した様子の少女に対して、言おうかどうか迷った覇切だったが、最終的におずおずと気まずそうにその口を開く。

「俺が言うのもなんだけどな。事故とはいえ、まさか押し倒した相手にお礼を言われるなんて思わないだろ普通。いやほんとこちらこそ、ありがとうございます」

 最後にきりっとした顔を作り真剣に礼を告げる覇切を少女は数瞬の間、怪訝そうに眺めていたが、やがて合点がいったのか、またしてもその顔が一瞬にして真っ赤に染まる。

「な、なんでそうなるんですか! 馬鹿なんですかっ! 死にたいんですかっ!?」

「え。押し倒されて嬉しかったんじゃないのか?」

「そんなわけないじゃないですか! 一体どういう神経してるんですかっ」

 ひとしきり叫んだ後、ぜぇぜぇと荒く肩で息をする少女。やがて乱れた呼吸を整えると、自らを落ち着かせるように小さく一つ咳払いをする。

「私はただ、あなたには色々とご迷惑をおかけしてしまったようなので……そのお礼をと思っただけです。決して、先ほどの破廉恥行為に対してどうこう言っていたわけではあ り ま せ ん か ら」

 強調するように語尾を強め、少女は先ほどよりも一層ジトッとした目で睨みつけてくる。

 そんな彼女に対し、覇切は軽く肩を竦めてみせた。

「そうは言うがな。さっきの状況でまさかその件の礼を言われるとは思わないだろ普通」

「常識的に考えてください常識的に。どこの世界に見ず知らずの男性に押し倒されて礼を言う女性がいますか」

「いやだから痴女なのかなと……すまん、冗談だ」

 一瞬にして喉元に突き付けられた氷刃に両手を挙げて降参の意を示す。

 流石の速度に舌を巻くしかなかったが、先ほどの戦闘の記憶が呼び起こされ肝が冷える。

 どうやら少し冗談が過ぎたらしい。

「まったく……」

 少女の方も本気で覇切を斬りつけるつもりはなかったのか、嘆息しつつもあっさりと刀の冷気を解き腰の鞘へと納める。

「少し取り乱しました。例えあなたが白昼堂々女性を押し倒してあまつさえ胸を弄ってくるようなどうしようもない変態だったとしても助けて頂いたという事実は確かなのですから先ほどの態度は少々無礼でしたね。申し訳ありませんでした」

「そんな明後日の方向向きながら棒読みに謝れても」

 欠片も申し訳なさの込もっていない謝罪を聞きながら、「あと押し倒したのは大体お前の自業自得なんだが」と覇切が軽く付け加えるも少女は聞く耳持たず、つーんとそっぽを向いたまま口を開かない。

 結局覇切の方が一方的に暴言を吐かれる形となってしまったが、それでもこの少女にそれほど腹が立たないのは、先の覇切の指摘に一瞬だけばつの悪そうな表情を浮かべたのが見えてしまったからだろう。何となく引くに引けずにいる様子が伝わってきた。

 そう考えるとなんだかおかしさが込み上げてきて、思わず笑みが零れてしまう。

「む……何を人の顔を見てニヤニヤしてるんですか、いやらしい」

「おっと、悪い」

「まったく……こんなに失礼な人だとは思いませんでした。助けてくれたみたいだからいい人なのかなって思ってたのに……」

 ぶつくさと何やら文句を漏らしているようだが、さすがにその言葉は心外だった。

「そりゃ悪かった。けどまぁそっちも最初と随分印象が違うな。さっきまでの様子だと、俺はもっと狂犬みたいな女だと思ってたよ」

「う……」

 少しだけ険の込められた覇切の言葉に口籠ってしまう少女。

(ちょっと今の言い方は意地が悪かったかな)

『さっき』というのは無論森の中での追いかけっこなど諸々のことだ。

 少女が起きてから今までの発言で彼女が暴走状態――仮にそう名付けるとして――の時の記憶を保っていることは察することができていた。

 記憶がなければ『色々とご迷惑をおかけしてしまった……』なんて言葉は出てこないはずだし、直前の指摘に対する反応を見ても間違いないだろう。

「別にお前の豹変ぶりについて根掘り葉掘り訊くつもりはないさ。誰にだって言いたくないことはあるだろうしな」

 言葉の後、少女が一瞬覇切の眼帯に視線を向けたのがわかったが気にせず言葉を続ける。

「ただ俺が言いたいのは、自分が狙われた理由くらいは知っときたいってことだ。一応被害者ってことになるわけだしな。そのくらいの権利はあるだろ? まぁ全く知らないうちにお前の恨みを買ってたっていうのなら話は別だけどな」

 もしそうなのだとしたら腹を切って詫びる……とまではいかないが、土下座でも何でもしようと密かに覚悟を決めていた覇切だったが、少女の様子を見ているとどうやらその覚悟も無駄に終わりそうだった。

 少女は先ほどまでの威勢はどこへ行ってしまったのか。しょんぼりと肩を落とし、視線も落ち着かずに右往左往と虚空を彷徨わせる。

 そうして待つことしばらく、少女の重い口から絞り出された言葉は予想外のものだった。

「その……わかりません」

「……は?」

 一瞬、ぽかんと呆気に取られる覇切。

「あー……よく聞こえなかったんだが……もう一回」

 聞き間違えかともう一度回答を促すと、少女の方も自棄になったように若干早口に捲し立て始める。

「だから、わからないんです。確かにあなたを追いかけていたことは憶えています。その後問答無用で斬りかかったことも気絶する寸前まで記憶しています。だけどそれを何故と言われると……理由が思い出せない、というか思い当たらない、というか……」

 どうにも要領を得ない少女の言葉に怪訝な表情を浮かべる覇切。

 つまりどういうことだろうか。

 今の内容を要約すると、理由はわからないけれどついつい覇切を追いかけてしまい、あまつさえ襲い掛かってしまったと言っているようにも聞こえる。

 言葉だけ聞けば何とも男冥利に尽きる話だったが、如何せん実際の内容が血生臭過ぎた。

 殺したいほど愛しているとはよく言ったものだが、そういうことではないのだろう。

「本当にどうしてあなたを……私だって混乱してるんです。あなた一体何者なんですか?」

「おいおい……」

 それを訊きたいのは自分の方なのだが。

 半ば逆ギレの状態で質問を返す少女にほとほと困り果ててしまう。

 するとそんな覇切の表情に気付いたのか、少女はハッと我に返ると気まずそうに目を逸らし、一瞬前の自分の醜態を恥じるようにその唇をキュッと結んでしまう。

(どうしたもんか……)

 そんな少女の様子を眺めながら、所在なさげに後ろ頭を掻く覇切。

 言ったように彼女も混乱しているのだろう。

 自分の行いは憶えているのにそこに至った理由が思い出せないなんてことは日常生活でもよくあることだが、今回の件に関してはそんな事例とは比較にならない。

 何しろ下手をすればどちらかは今この場に立っていなかったのかもしれないのだ。

 もっとも、それも彼女が本当のことを言っていればの話だったが、先ほどから見ている分には少なくとも嘘を言っているようには見えない。

「……ふぅ」

 相変わらず明後日の方向を向いている少女に一歩近づく。

 それに気づいて、反射的にビクッと震える様子に思わず苦笑してしまう。

 これではまるでこちらが彼女をいじめているみたいだ。

 叱られる前の子どものように緊張して震える少女。彼女に覇切はそっと手を伸ばし――

「――まったく、仕方のない奴だ」

 まるで弟や妹の失敗を許容する兄のような言葉とともに、その頭を撫でた。

「……ぁ」

 驚いたように視線を上向ける少女。

 ぽんぽんと優しく頭を叩かれる感触に戸惑いの表情を浮かべる。

「あの……怒らない、んですか……?」

 恐る恐るといった風に問いかける少女の言葉に肩を竦めてみせる。

「ああ。記憶にないってことをこれ以上問い質すのも意味がないし、そもそも最初からそんなに怒ってない」

「怪我までさせてしまったのに……?」

「大したことねぇよ。掠り傷程度だし、もう治ってる」

 申し訳なさそうに覇切の頬を見る少女に固まりかけていた血液を指で拭ってみせると、なるほど頬の傷も身体に刻まれた細かな裂傷も、言葉通りすでに傷口は塞がっている。

 神巫は身体能力だけではなく、自己治癒能力も一般人とは比べ物にならない。覇切が言ったように掠り傷程度であれば、湯を沸かす時間よりも早く完治させることができる。

 それ自体は同じ神巫である少女も既知の範疇であるはずだが、理屈ではないのだろう。

 少女は覇切に『怪我をさせてしまった』という事実と、その理由も覚えていない自分自身を恥じ、覇切に対して申し訳なく思って今なおその愛らしい顔を悲痛に歪めている。

 こうした表情も計算ずくなら大したものだが、見たところそんなに器用な性分でもなさそうだ。やはりこの少女が先の襲撃を己の意思で望んで行ったとはどうしても思えない。

「ぁ、の……その、本当にごめんなさ――わぷっ」

 謝罪の言葉を口にしようとした少女に先んじて、彼女の頭を撫でる手に少々力を込める。

「な、ちょ……何するんですかっ」

「謝る必要はないって。さっき言ったろ? 最初から怒ってない」

「そ、そうですけど……でもっ」

 なおも食い下がろうとする少女の言葉を制するようにぽんと優しく頭を叩く。

「ならもういいだろ? 上からになっちまうけどよ。悪いとは思ってるんだろ?」

「それはもちろん。申し訳ないと思っています」

 真剣な表情で即答する少女の言葉に優しく微笑み、頷く覇切。

 正直なところ全く気にならないと言えば嘘になるが、そもそも言ったように怒りや疑念は最初からほとんど持っていなかったし、これ以上追及するのも可哀想だ。

「次からは気を付けろよ。約束だ」

 ぽんぽんぽんと、言葉に乗せて三度頭を優しく叩く。

 ふと、この光景に懐かしさを覚えた。

 まだ幼少の時分。思えばあの頃もこんな風に小さな『彼女』の頭を撫でていた。

 その記憶に手を引かれるように、緩やかに回想へと浸り始めていた覇切だったが――

「――~~っ!」

 視線を下に向けると、今にも沸騰しそうなほど顔を赤くした少女が目を白黒させていた。

 と、不意にバッと覇切の手を振り払った少女は凄まじい勢いで後退して距離をとる。

「そそ、そのっ! この度は本当にご迷惑をおかけいたしました! このお礼はいずれ必ず! それではっ」

 そして少女は早口で謝罪とお礼を述べると、脱兎の勢いで駆け出していってしまう。

「あ、おいっ!」

 叫ぶ覇切だったが、さすがと言うべきか、少女は先の追いかけっこ以上の速度でその場を走り去っていき、すでにその背中は見えなくなっていた。

 あとに残された覇切はただ茫然と立ち尽くすのみだ。

「……こりゃまずったかな」

 少女の雰囲気がかつての『彼女』と重なってしまって、馴れ馴れしい態度を取ってしまったかもしれない。

「普通に考えて初対面の女の子の頭を撫でるってのは無しだよな」

 もしかしたら変質者と思われたかもしれない。

 どうせもう会うこともないのだから、それは大した問題でもないのだが……つい一瞬前まで少女の頭の上に置かれていた自分の左手を眺める。

 そこでふと、そう言えば彼女の名前も聞いていなかったなと今更ながら思うが――

「……ま、いいか」

 そう呟くと、覇切もまた城下町へと向かって歩き始める。

 その左手にはまだ少女の柔らかな髪の感触が残っていた。

 

        ◇

 

 豊葦原中国。またの名を神州。東の最果てに位置する四方を海に囲まれた島国である。

 遡ればその歴史は古く、千年以上も前から続いていると言われるが、それはあくまで伝承上の話で、実際のところ確かに歴史を実証できるのは五百年ほど前から。

 当時から皇主を頂点とした君主制が続いているが、二百年前に起きた大規模な内乱から、その一枚岩で国全体を束ねることが難しくなったため、現在では皇主の直接治める土地は国内全土のごく一部に過ぎない。

 残りは臣下である十二の貴族の血筋――季華十二家(きかじゅうにけ)に『領』という形で統治権が譲渡されており完全な放任主義が貫かれているため、実際にはこの神州という国は皇主の血筋である皇家を含めた十三の国家の集合体と言って差し支えない。

「ふぅ、ようやく到着か。とんだ回り道だったな」

 そしてこの地もまた十三の仮想国家の一つであり、名を水無月。

 今覇切が立っている場所はその中心地である城下町――水月の入り口である。

 神威の森周辺こそ獰猛な動物や野盗、追剥といった危険因子と遭遇する可能性があるため、例え街道沿いであっても人通りが皆無に等しかったが、この城下町はまるで別世界だ。

 荷馬車を引く商人や様々な得物を装備した用心棒、旅人が絶え間なく出入りを繰り返し、人の波が途絶えることがない。

「こりゃ大遅刻だ……今から言い訳でも考えておくかな」

 この瞬間も待たせている人の顔を思い浮かべながら、げんなりとした気分で歩き出す。

 何しろその相手は時間にうるさい。おそらく事情を説明しさえすれば理解は示してくれるだろうが、文句を言われることは目に見えていた。

 自分にも他人にも厳格な性格で、事実彼女のそういったところを覇切は心底尊敬しているのだが、少しは融通という言葉も覚えてほしいというのが本音だった。

「にしても……ここは相変わらず賑やかだな」

 落ち込んだ気分を紛らわすために、周囲に視線を巡らしながら誰にともなく呟く。

 前後左右どこを向いても人人人。街門をくぐった先、真っ直ぐ延びる表通りは人で溢れ返っており、道の左右に立ち並ぶ蔵造の商家からはそんな客足を少しでも多く呼び込もうと、引っ切り無しに客引きの声が響いている。

 前にここを訪れたのはひと月ほど前だったが、やはりどこかこの喧騒を懐かしく思えてしまうのはそれだけこの賑やかさが別格だという証拠なのだろう。

 用心棒という職業柄危険な土地に出向くことも多く、荒事ばかりの日常だがここに戻ってくると、自分の家に戻ってきた時以上に『帰ってきた』という実感が湧く。

 そういった意味でも覇切は下町特有の猥雑さとも言える賑やかさが嫌いではなく、事実今もその安心感に自らの身が包まれているのを実感していたのだが……。

(……なんだ?)

 通りを歩いているうち、いつもと同じ光景の中に僅かな違和感を覚えた。

 賑やかなのは相変わらずのことなのだが、空気が違うと言うのだろうか。

 行き交う人々の数や客引きの声はいつもと変わりないが、心なしか皆少々浮足立っているような……そんなぴりぴりとした奇妙な空気を肌で感じ、どうにも気になった。

「――っと。ここだここ」

 そんな風に考え事をしているうちに目的地に到着する。

 軽く見上げた先の暖簾には『甘味処・花春(はなはる)』の文字。覇切も城下を訪れた際にはよく寄る老舗の茶屋だ。

 先ほどの考え事に関しては一旦胸の内に仕舞うことにして、慣れた様子で暖簾をくぐる。

 店内に入ると通りの喧騒とは全く別のゆったりとした穏やかな空気が流れていた。

 土間を挟んで左右に広がる座敷席は満席とはいかないまでもそれなりに人で埋まっており、それぞれが団子なり餡蜜なりをつつきながら思い思いの時間を過ごしている。

 相変わらず繁盛しているようだ。

 そんな風に入口で立っていると、奥からぱたぱたと従業員らしき女性がやってくる。

 朱の小袖に前掛けを纏い、短めに切り揃えられた髪とニコニコとした笑顔が特徴的な可愛らしい娘だ。

 お盆片手に覇切の前までやってきた娘は、一層の笑顔で以て笑いかける。

「いらっしゃいませ~。お一人様ですか~? お一人様ですね~? 寂しい寂しいお一人様、お席の方へご案内しま~す」

 しかしやってくるなり娘の口から聞かされた言葉は、その笑顔からは全く予想のできない不作法な言葉だった。

「おいおい……いきなり随分な歓迎のし方だな、春」

 いきなり失礼なことを言ってくれた少女に覇切は半眼で呻く。

 そんな覇切の視線を受け止めるも少女――この茶屋の主人の一人娘でもあり看板娘である春は、そのニコニコとした表情を少しも崩さず可愛らしく小首を傾げる。

「あら~? 間違ってました~? 覇切さんのことですから、春はてっきりいつものように隅っこの暗ぁ~い席を陣取って、茶の一杯でいつまでもお店に居座り続けるつもりなのかと思っていましたよ」

「あー……まぁ確かにいつもはそうかもしれないが、その辺は常連のよしみで許してくれても……」

「申し訳ありませんがご来店するたびに団子の一つも食べずに時間だけ食いつぶしていくような人を常連とは呼びませんので~」

「う……」

 事実なだけに言い返せない。言葉に詰まる覇切だったが、目の前の春の笑顔は全くと言っていいほど崩れず、困る覇切を楽しそうに見つめている。

 春はいつもニコニコとしているがその笑顔はまるで仮面だ。覇切も彼女との付き合いはそれなりに長いが、いまだにその本心を量りかねる時がままある。

 加えて少々毒舌――というより無遠慮気味な調子の喋りは、その『笑顔』と相まって余計にこちらを混乱させる。本当にそう思って言っているのか、からかっているのか、あるいはその両方か。

 今回もその例に漏れず、どう言葉を返したものかと反応に窮していた覇切だったが、次の瞬間、目の前の春がぷっと小さく吹き出した。

「冗談ですよ~、覇切さん。相変わらずからかいがいのある人ですね~」

 そう言って張り付いたような笑顔から一転、ごく自然体の柔らかな微笑みを見せた。

「はぁ~……何だ冗談か。出禁にされるんじゃないかって冷や冷やしたぜ」

「あら? でも今言ったことは全て事実ですよ~? これからもそういうことしてると可能性はあるかもですね~」

「……気を付けるよ」

 わかりやすく肩を落とす覇切を見てくすくすと可憐な笑みを見せる春。

「そんな落ち込まないで下さいよ。出禁になんてしませんって。最近の覇切さんはお忙しいようで中々お顔を見せてくださらなかったので……春はちょっと拗ねてみせただけです」

 可愛らしく小首を傾げて、悪戯っぽく舌を出す。

 そんな仕草も心を許した相手だからこそのものだと知っているので、そういうところを自分に見せてくれるというのは素直に嬉しい。

「悪かったな。俺としては特別忙しいつもりもなかったんだが、確かに言われてみればここに寄ったのはかなり久しぶりだったかもしれない」

「ほんとです。実にひと月ぶりですよ。もう春はすっかり待ちくたびれちゃいましたよ~」

「なんか俺に用事でもあったのか?」

「いいえ~。ただ春にとっては覇切さんのお顔を見ることが一日の活力になりますから~」

 なんてことないようにさらりと恥ずかしい台詞を言ってのけた春だったが、よく見るとその頬がほんのりと赤く染まっている。

 冗談で言ったのだろうが、自分で言ってて恥ずかしくなったのだろう。どことなく捉えどころのない気質の春だが、とはいえ年下の娘を捉まえてそれを指摘するのも野暮な話だ。

「……? どうしたんですか? 急にニヤついちゃって~」

「いや、相変わらず可愛いやつだと思ってな」

「あら嬉しいこと言ってくれますね~。褒めても何も出ませんよ~」

 そう言う割には機嫌がよさそうだ。咄嗟の誤魔化しだったが、春が可愛いというのは事実だし、喜んでくれたのであれば覇切としても褒めたかいがあったというものだ。

「さて、あんまり遊んでると店長(お父さん)にどやされますしいつものお席でいいですか~?」

 言いながら奥へと案内しようとする春だったが、覇切はそれを引き留める。

「ああいや、今日は待ち合わせなんだ。春、義姉さん来てないか?」

涅々(ねね)さんですか? 涅々さんならつい先ほどまでここにいましたよ。なんだか随分と苛々している様子でしたけど」

「やっぱりか……」

 ますます胃が痛くなる。店内を軽く見回しても姿が見えないということは、待ちきれなくなって覇切を探しに行ったのか、それとも呆れて帰ってしまったのか。

 そんな風に覇切が考えていると、春がくすくすとおかしそうに笑い出す。

「ふふっ、そんな顔しなくても大丈夫ですよ~、覇切さん」

「そうなのか?」

「はい。苛々していたようなのは本当ですけど、実は先ほど表が少々騒がしくなったようでして……その様子を見に行ったってだけですから」

「そうだったのか……ならちょうど入れ違いになったのかな?」

「そう思いますよ~? どうしますか? 残ってお茶でもされていきます~?」

 春の提案にしばし考え込むが、やがて覇切はゆっくりと首を横に振る。

「いや、せっかくだけど俺も出るよ。待ち合わせに遅れといて、優遊茶でも飲んでたら何言われるかわかったもんじゃないからな」

 そのまま春に礼を告げ、覇切は踵を返そうとする。

「あ、覇切さん」

 しかし店から出ようとしたところで背後からかけられた声に振り向くと、春に羽織っていた外套を摘まれる。

「これ、いろんなところが破けちゃってますよ。また無茶したんじゃないですか~?」

「ああ……」

 確かによく見てみるとその外套はかなりボロボロになっていた。おそらくはあの激しい追いかけっこの最中に枝に引っ掛けたのだろう。

 全身の怪我は神巫の体質ですでに完治しているが、服はそうはいかない。

「直しておきますね」

「春がそんな献身的なこと言うなんて珍しいな。何か企んでるんじゃないか?」

「ふふふ。それってどういう意味ですか~?」

「おっと。藪蛇だったか」

 苦笑しながら外套を脱ぐと春に手渡す。

「悪いな。いつごろ取りに来ればいい?」

「明日で結構ですよ。秋桜(あきお)さんも寂しがってましたから、顔出してあげてくださいね」

「秋桜って……ああ、前に言ってた春のところに居候してるっていう……」

 顔は浮かんでこなかったが、記憶が正しければ覇切よりも年下の少女で用心棒だと聞き及んでいる。確か顔を合わせたことはなかったはずだが……。

「それじゃ私はお仕事に戻りますね」

「ん? ああ……」

 少しすっきりしない気分だったが、今は義姉の件が先だろう。

 お馴染みのニコニコ顔で仕事に戻る春に軽く手を振ると今度こそ覇切は店を出る。

「さて、問題はどっちに行ったかだが……」

 春の話だと騒ぎが起きたということだったので、適当に歩いていれば周囲に何かしらの変化があるだろう。

 そう当たりをつけた覇切は町の中心部に向かって歩き始めることにした。歩きがてら先ほどよりも注意深く周囲の様子を探ってみるが、やはり皆どこか落ち着きがない。

(春が言ってた『騒ぎ』と何か関係があるのか……?)

 確証はない。

 が、なんとなく嫌な予感を覚えた覇切が内堀付近に差し掛かった時のことだった。

 橋の向こうに軽く人だかりができている。もう収束に向かっているのか、野次馬の数はそれほど多くない。近づき、輪の外から軽く覗いてみる。

「――そうか……わかった。ありがとう」

 と、何やら野次馬の一人に聞き込みをしている女性に気が付いた。

 襠高の袴と臙脂の小袖に身を包んだ見目麗しい女性だ。腰には二本の長刀を帯びており一見して武人だとわかる出で立ちをしている。

 肩口まで伸びた艶やかな黒髪も、凛とした瞳もその総てが人目を惹きつけてやまない程美しく、百人に訊けば百人が美女と答えるであろう完璧な容姿の持ち主だったが、道行く人々の視線には羨望や憧れの色は見られない。

 それどころかむしろ恐れや哀れみ、あるいは侮蔑のような感情が入り混じっているようにも見えるが、その理由は至極単純なだけに残酷だ。

 「――」

 話が終わったのか、相手の男がそそくさとまるで逃げるようにしてその場を立ち去る。

 同時にちょうど男の後ろ姿で死角となっていた部分が露わになった。

 基本的に生物の身体は左右対称にできている。右があれば左が存在するのは童子ですら常識的に知っている生き物の真理だ。

 右と左は揃っていてこそ道理であり、故に異端は恐れられる。

 右腕部の欠損。かつては存在していた左腕の対となる部位が、その女性の肩からごっそりまるごと消失していた。

「……?」

 と、そこで覇切の視線に気づいたのか、顔を上げた隻腕の女性と目が合う。

 軽く手を挙げて覇切が近づいていくと、女性は先ほどまでの考え事をしている無機質な表情から一転柔和な笑みを綻ばせたが、次いでハッとしたような表情を見せると不機嫌そうに眉根を寄せる。

「覇切。来ていたのか」

「ごめん、義姉さん。遅れた」

 開口一番謝罪の言葉を口にする覇切だったが、その義姉――東雲涅々は不満げな顔のままジトッとした目を向けてくる。

「まったく……姉を待たせるとはいい度胸をしているな。昔から時間には気を遣うように口を酸っぱくして言い聞かせていたはずだが」

 ――また始まった。と、心中で呟くももちろん口に出すような愚は犯さない。

 こうなると涅々のお説教は長い。

 昔から約束事には何かとうるさい性格で、今までの経験から言い訳無用なのは身に染みていたため半ば諦めの体でいた覇切だったが、予想に反して涅々は一つだけ溜息を吐くと仕方なさそうな表情を浮かべた。

「……まぁいい。私も途中で待ち合わせ場所から離れてしまったし、お前にも探させてしまったみたいだからな。今回はお互い様ということで……って、何だ? その顔は」

「あ、いや……」

 意外にもすんなりと話が済んだことに驚きを隠せない覇切。

 そんな覇切の心中を察して涅々が苦笑する。

「大方お説教でも始まるんじゃないかと思っていたのだろう? まぁそうしたいのは山々だが……今日はそんな気分じゃないんだ」

 そう言って僅かに疲れたような笑みを見せる涅々。

 何かあったのだろうか?

「そういえばさっき騒ぎがあったって春に聞いたけど……」

「耳が早いな。それじゃあそうだな……一旦、私の家へ行こうか。呼び出した件と合わせてそこで話そう」

 そう言って先導する涅々に続く。最初からある程度の覚悟はしていたが、早くも厄介事の気配を感じた覇切は先を歩く涅々にばれないようにこっそりと溜息を吐いた。

 

        ◇

 

 覇切が通された部屋は畳二十畳ほどの客間だった。

 床の間には水無月を象徴する花である梔子が描かれた掛軸。

 縁側から見渡せる庭園にも等しき庭は紫陽花や花菖蒲など様々な花が咲き乱れ、まるでそこだけ絵画として切り取ったかのような美しさだ。

 床一面に敷き詰められた畳の井草の香りも鼻腔に優しく広がってまた心地よい。

 部屋の中心で向かい合わせに正座した二人は、しばらくの間お互いに言葉を発することなく景色なり空気なりを堪能していたが、やがて涅々の方が小さくそっと息を吐いた。

「改めて……久しぶりだな、覇切」

 そう切り出して、涅々は苦笑する。

「そんなに畏まるな。正座は苦手だろう?」

「ごめん。それじゃ遠慮なく」

 一言断ってから足を崩す。

「意外だな。お前でも緊張することがあるのか?」

「緊張っていうか……こんなに広い屋敷に来たのは初めてだからさ。勝手がわからなくて」

 事実覇切が現在の涅々の住まいを訪れたのは今日が初めてのことだった。

 かつては義姉と同じ屋根の下で同じ釜の飯を食っていたものだが、今や豪邸とも呼べるほど大きな屋敷に住む彼女はもはや別の世界の住人のようだ。

 覇切も仕事の都合上、下流貴族や商人から護衛の依頼などを受けるが、涅々の住むこの屋敷はそんな貴族たちの屋敷よりも数段上等なもののように思える。

「さすがは水無月が誇る天狼衆(てんろうしゅう)の筆頭様。庶民とは暮らしの格が違うな」

「茶化すな。そんなに大したものじゃない」

 謙遜するというよりは、その肩書きを鬱陶しく感じているように涅々は表情を歪める。

 天狼衆というのは、ここ水無月領の領主直轄の精鋭部隊の通称だ。その実力は一騎当千。構成員自体は数人しかいないそうだが、それぞれが文字通り千の兵にも相当する実力を秘めているとの噂で、中でも涅々はその筆頭を務めていると聞き及んでいる。

「この屋敷も半ば無理やり与えられたようなものだが、本当は分不相応だと断ったんだ。今でこそご大層な肩書だけは持っているが、お前も知っての通り私の実家は別に貴族でも何でもないただの寂れた道場だし……実際今も貴族としての官位をいただいているわけでもないのだから」

「なるほど。それで使用人の類が一人もいないわけか」

「当り前だ。それこそ分不相応だし、自分の家のことくらい自分一人でできる」

 そうは言ってもこの広大な屋敷を一人で管理するなど並大抵のことではない。

 一人で住んでいるのだから生活空間は限られてくるのだろうが、涅々の性格からしてまったく使用していない部屋であっても隅々まで手入れを施しているのだろう。

 事実この客間も普段は使うことも少ないだろうに埃一つ積もっていないし、ここに来るまでの長大な廊下もまるで新築のようにピカピカに磨かれていた。

「それにしても……本当に久しぶりだな。最後に顔を見たのは一体いつだったかな?」

「大体半年くらい前だったかな。久しぶりってほどでもない」

「十分久しぶりだ。表通りの方には顔を出してたんだろう?」

 ジトッとした目で問う涅々を前に、気まずくなって視線を逸らす。

 覇切が現在住まいとしている場所は城下町から三里ほど離れた山のふもとだが、あまり利便性に富んでいるとは言えない所だ。

 自給自足にも限界があるため、店の立ち並ぶ表通りや花春へはそれなりに頻繁に顔を出していた覇切だったが涅々と会ったのは言ったように半年前が最後だった。

「別に避けていたわけじゃないけど……忙しそうだったしな。邪魔するのも悪いと思って」

「邪魔だなんてことはない。お前のことを煩わしいと思ったことなんて今まで一度だってないし……まぁなんにせよ、こうして顔を見せてくれたのだからそれだけで私は満足だ」

 そう言って微笑む涅々の表情は弟を見守る優しい姉の表情そのものだったが、直後一つ咳払いをすると居住まいを正す。

「さて、流れで変な話をしてしまったな。そろそろ本題に入ろうか。まずはお礼を言おう。突然の呼び出しにも拘らず応じてくれてありがとう」

「いいさ。でもまさか義姉さんから用心棒として依頼をされるとは思ってなかったけどな」

 そう言って懐から一通の手紙を取り出してみせる。簡単に要約するとそこには、用心棒としての覇切の力を貸してほしいと言う旨の文章が書かれている。

「詳しいことは直接話したいってことだったけど……」

「ああ。内容が少し長くなりそうだったからな。順を追って話そう」

 そうしてまず涅々の口から聞かされたのは覇切には聞き慣れない言葉だった。

「十種神宝。この言葉に聞き覚えはあるか?」

「とくさ……? 初めて聞いた気もするけど……いや、ちょっと待ってくれ」

 ぱっと思い当たるわけではないが、記憶の片隅に引っかかるものがある。

 一体どこで耳にした言葉だったか……そんな風に顎に手を当て思い出そうとしている覇切の様子を見て涅々は苦笑する。

「お前はあまり興味がなさそうな話だったから覚えていなくて当然かもしれないな。今から説明するから無理に思い出そうとしなくてもいい」

「ごめん。それじゃお願いするよ」

 素直にそう答える覇切を見て涅々は頷き、ゆっくりと口を開いた。

「それじゃあそうだな……天門のことは、さすがに知っているか?」

「ああ。そっちはさすがに。都にある馬鹿でかい鳥居のことだろ?」

 ――天門。それは今や政治的力を失っている皇家直轄の領の中心地――出雲に聳え立つ巨大な鳥居のことだ。

 覇切も過去に一度だけ都を訪れた際目にした程度だが、その大きさはゆうに三十間を超える。三基の鳥居を正三角形平面上に組み合わせたかのような形の三柱鳥居で、その圧倒的な外観は荘厳かつ秀麗、用途不明の形状は奇怪さよりもむしろある種の霊妙さすら感じさせるものだったと記憶している。

 一説によるとこの神州と言う国の創立以前から存在している国宝級の代物なのだとかで、それにまつわる話は十や二十では収まらない。

「ん? 待てよ……そういえば十種神宝って……」

 そこでふと、覇切の頭の中に天門に関する数多の伝承の内の一つがよぎった。

 と、同時にそんな覇切の様子を察したのか、涅々の口からまるで歌うようにゆったりとした調子の言葉が紡がれる。

「この天御璽(あまつみしるし)瑞宝(みずだから)とは、瀛都鏡(おきつかがみ)邊都鏡(へつかがみ)八握劍(やつかのつるぎ)生玉(いくたま)足玉(たるたま)死反玉(まかるかえしのたま)道反玉(ちかえしのたま)蛇比禮(おろちのひれ)蜂比禮(はちのひれ)品物比禮(くさぐさもののひれ)()()()()()()()()(ここの)(たり)布留部(ふるべ)由良由良止(ゆらゆらと)布留部(ふるべ)

 その祝詞を聞いて、ようやく覇切もピンときた。

「天門に捧げる十種の宝……願いを叶える秘宝の御伽噺か」

 覇切の言葉を聞いて満足そうに頷く涅々。

「その通り。天門にはそれこそ数えきれないほどの伝説や噂があるが、その中でも最も人々の記憶に残っているであろう言い伝えがこの十種神宝伝承。今のは十種総ての宝を揃えて天門に捧げる際に唱える呪文のようなものだな」

 この神州に存在する十種類の宝を総て集めて天門に捧げれば、どんな願いも実現させることができる。典型的な御伽噺の類だ。

 特に珍しくもないような内容の話だが、不思議と人々の記憶からなくなることはない。

 御伽噺というのはそういうものなのだろうが、何故今この時に涅々がこんな話を持ち出したのかが覇切には気にかかった。

「まさかとは思うけど……その神宝を探して来いっていう話じゃないだろうな?」

 嫌な予感がして、恐る恐るといった風に質問を投げかける覇切。

 できることならその首が横に振られることを望んだ覇切だったが、願い虚しく、首が振られたのは横にではなく、縦にだった。

「さすがは私の弟だな。ご明察の通り。今回のお前への依頼は十種神宝の捜索及び収集だ」

 満面の笑みを浮かべてそう言い切った涅々を前に、思わず額に手を当てる覇切。

「義姉さん……それってあれだろ? 三年前の皇主からのお触れ」

「ほぅ、よく覚えていたな」

「正確には思い出した、かな。結構な騒ぎにもなってたし」

 地方の季華十二家領と中央の皇領が完全に分離している神州において、市井の民にとっての一番の権力者とは領主である季華十二家だ。故に彼らにとってのお触れと言えばそれは各領主からのものであるが、三年前のその日に限ってはそれには当てはまらなかった。

「実に百年ぶりに下された神州全土に対する皇主直々のお触れは、そのこと自体も国中を驚かせるに十分なものだったが、最も話題を集めたのがその内容だな」

 すなわち、十種神宝。この神州のどこかに存在しているという神の存在していた時代――神生(しんせい)時代の遺物を探し当て、それを献上せよとの勅令だった。

「とはいっても実際に神宝に宿る満願成就の力を信じている者は皆無だった。所詮は御伽噺に過ぎないし、実際にはそれよりもっと確かで魅力的なお宝が用意されていたからな」

「見事神宝を探し当て奉った者には皇主直々に褒美を与える……確かに普通の人間にはむしろこっちの方が満願成就に値する報酬だろうな」

 いくら政治的な力を失っているとはいえ、皇家は今でも立派な権力者だ。当然ながら統治している領があるし、その権力に見合うだけの財力もある。歴史という面だけで見れば季華十二家など足元にも及ばないくらいだ。

 故に大抵の願いなら叶うだろうし、十種神宝などという荒唐無稽なものの力よりこちらの方がよっぽど信憑性のある話である。

「でもそれも実際に神宝があればの話だ。元からないものを必死こいて探したところで報酬も何もあったものじゃないだろ? その辺はどうなんだ?」

 当然の疑問として前提条件の確認を最初に持ち出した覇切に対して、涅々は少しだけ思案気な表情を見せる。

「そうだな……その辺りの経緯も含めるとさらに長くなりそうなんだが、一つだけここではっきりさせておきたいことがある」

 そうして覇切の瞳を真っ直ぐに捉えた涅々は真剣みを帯びた声で告げる。

「十種神宝は確かに存在する。そして私たち水無月はすでに一つ。神宝を手に入れている」

 その言葉に思わず目を見開く。

 実在すると涅々が断言したことにも驚いたが、それ以上にすでに一つ手に入れている?

 そしてもう一つ気になったのは――

「私たち(・・)……? 依頼は義姉さん個人のものじゃなかったのか」

 覇切の言葉に涅々は申し訳なさそうに苦笑する。

「伝えるのが遅れてすまない。今回の依頼は私たち天狼衆の主である。水無月家当主――水無月狼心(ろうしん)様からの直々の命令なんだ」

 水無月狼心。先代の領主の早世に伴い若くして領主の座に就いた稀代の天才だ。あまり表舞台に出てこないため覇切も顔は知らないが、まだ二十代も半ばだったと記憶している。

「おおっぴらに人数を割くことができないから、今まで私たち天狼衆だけで収集に当たっていたんだが、一つ見つけ出すのに一年もかかってしまったから用心棒を雇うことも考えたんだ。人選は私に一任されていたから、まずお前に白羽の矢が立ったってわけだな」

「俺より優秀な用心棒なんて山ほどいると思うけど」

「そう言ってくれるな。確かに用心棒として優秀な人間ならお前よりももっと適役な人間がいるだろうが……覇切。私は用心棒としてじゃなくて、純粋な個人の戦力としてお前の腕を買っているんだ」

 話せることはすべて話し終えたと、涅々はじっと覇切の瞳を見つめる。

「うーん……そうだなぁ」

 正直な話、悪くないとは思う。

 何より身内である涅々の頼みだ。できることなら受けたいところでもあったが……。

「とりあえず、保留かな」

「ほぅ、それはまたどうして?」

「深い理由があるわけじゃないさ。ただ、やっぱり長期となると準備もいろいろ必要になってくるだろうし……もう少し考える時間が欲しいなと思ってさ」

 意外そうに目を丸くする涅々に対して、軽く肩を竦めてみせる。

「そうか……今すぐに返事が欲しいというわけではないからそれは別に構わないが、なるべく早く返事がほしい」

「意外とあっさり引くな。俺が言えた義理じゃないけどいいのか?」

「よくはないが、言ったようにこちらはそれほど早急でもないんだ。急ぎなのはもう一つの話の方だ」

 その言葉に覇切は屋敷に来る前に話していた『騒ぎ』の件について思い出した。

「お前もたぶん感じたことだと思うが、最近この町――水月全体の雰囲気が少し悪くてな。表面上に目立った変化はないんだが、やはり皆怖れている」

「怖れるって……一体何を?」

「――土蜘蛛(つちぐも)だ」

 その言葉を聞いた覇切は意外そうに首を傾げる。

「土蜘蛛って……あの土蜘蛛か?」

「他にどの土蜘蛛がいるのかは知らないが、たぶんその土蜘蛛であっているな」

 涅々は少しおかしそうに笑うが、覇切はと言えばますます首を捻るしかない。

 土蜘蛛とは、この神州に蔓延る代表的な脅威の一つだ。

 人の業に汚染された神威であると言われる黒業(こくごう)に蝕まれた生物のなれの果てであり、端的に言えば動く死体のようなものだ。

 もっとも、見た目は生前の姿とは似ても似つかないほど酷い有様で、気質も狂暴極まりなく、一般的な猛獣などとは比較にならないほど危険だが、覇切が驚いたのはそういうことではもちろんない。

「土蜘蛛を怖れるって、何で町の中の人間が?」

 そう、土蜘蛛は何もいつどこにでも神出鬼没に現れるわけではない。

 詳しいところは解明されていないが、普通は神威の森の深部や人の寄り付かない洞窟など、陰の気が強い場所に出没する。

 稀に街道周辺に現れることもあるが、それにしたって町から町へ移動する商人や旅人ならまだしも、普段町で暮らしている人間が土蜘蛛を怖れるというのはおかしな話だった。

「お前の疑問はもっともだと思う。だが事実ここ二週間ほどの間、この町には土蜘蛛が度々その姿を現しているんだ。すでに犠牲者が何人も出ている」

 沈鬱な表情でそう告げる涅々を前に覇切は押し黙るより他にない。

「私もできる限りこの件について捜査したいと思ってはいるんだが、天狼衆としての仕事もあるから中々思うようにいかなくてな……って、これは言い訳にはならないな」

 自嘲するように涅々は力なく笑うが、覇切にしてみればそれは仕方ないことだと思った。

 涅々が天狼衆の筆頭として多忙な日々を送っていることは知っていたし、その仕事がおいそれと投げ出せるほど些末なものではないことも知っている。

 生真面目さは義姉の数多い美点の一つだと思うが、この件に関してそこまで責任感を覚える必要はないと覇切は思っていた。何故なら――

「引き受けるよ」

 涅々がその言葉(・・・・)を告げる前に覇切は返事をした。正面に座る彼女が面食らったように目を丸くしている。

 そうだ。この件に関して彼女が気に病む必要はこれっぽっちもない。

 何故なら義姉は頼ってきてくれた。

 自分の守る町に広がる不安感だ。できれば自分の手で払拭したかったろうに、彼女は自分にそれができないことを理解した上で覇切に助けを求めてきた。

 涅々はそのことを恥ずかしく思っているようだが、覇切としてはその事実が純粋に誇らしかった。

「……まったく、お前というやつは」

 どこか仕方のなさそうな……それでいて本当に嬉しそうな笑みを見せる涅々。

 久しぶりに再会してからというもの、二人の間にはどこかぎこちない空気が流れていたが、ここにきてそれは一瞬で雲散霧消し、二人は再会して初めて気の置けない姉弟ならではのごく自然体の微笑みを交わし合った。

「ん?」

 と、ちょうどその時、縁側からふわふわと白い人型の折り紙のようなものが舞い込んできた。神巫の間でよく使用される連絡用の式神だ。

 そうして部屋の中に侵入した式神はそのまま吸い寄せられるように、涅々の膝元にふわりと舞い降りる。すぐさま手に取り、広げて中身を確認した涅々は一瞬前とは一転、眉間に皺を寄せて大きく溜息を吐いた。

「仕事か?」

「ああ、そうみたいだな」

 そう言って申し訳なさそうに涅々は頭を下げる。

「すまないな、仕事の話ばかりで。本当はもう少しゆっくりしてもらいたかったのだが」

「いいって、今更気を遣う仲でもないだろ?」

 覇切の言葉に安心したように笑う涅々。

「それなら気を遣わないついでに、もう一つ頼まれごとをしようか」

「頼まれごと?」

「ああ。これは依頼というわけではないから本当に気に留めておいてくれるだけでいいんだが……実はちょっとした事情で昨日から一人女の子をうちで預かることになっていてな。東雲の遠縁にあたる子なんだが」

「東雲の……」

 涅々から告げられた言葉は、はっきり言って意外の一言だった。

 別に親戚がいること自体は驚くことではないが、今までそういった話を全く耳にしたことがなかったのでかなり新鮮な気持ちになる。

「大人しそうな顔して中々のはねっ返りでな。言ったようにしばらくうちで預かるつもりだったんだが『必要以上にお世話になるつもりはありません』と遠慮されてしまったんだ」

「それは遠慮っていうか拒否なんじゃ……」

 肩を竦めて笑う涅々に呆れる覇切だったが、内心今の言葉にどこか既知感を覚えていた。

(まさかとは思うけど……まさか、な)

 先の涅々の言葉からとある少女の顔が頭に浮かぶが、さっさと振り払う。そんな偶然がそうそう起こるはずがない。

「また機会があれば紹介したいから、少し気にかけておいてほしい。結構危うい印象のある子だからな」

「あ、ああ……別に問題ないけど」

 何とも言えない気分ではあったが、最初の依頼の返事を先延ばしにしてしまった手前もあって大人しく涅々の言葉に首肯する。

「あと、ほら」

 そう言って涅々は手のひら弱の大きさの鍵を差し出してくる。

「これは?」

「下町の外れにある屋敷の鍵だ。神宝捜索の最中の衣食住はこちらで保障するつもりだからな。その前払いってわけじゃないが……お前のことだ。どうせいまだにろくに荷物も置いてない荒屋に住んでいるんだろう? こっちにいる間はそこを使うといい」

「おっと、依頼を断りにくくする作戦か」

「ふふ、どうかな」

 冗談めかしたように笑う涅々から鍵を受け取り、礼を言う。そうして立ち上がった覇切は一足先に部屋を出ようとする。

「覇切」

 襖に手を掛けたところで涅々に声を掛けられ振り向いた。

「今日は話せてよかった。それからありがとう。突然の呼び出しだったのに色々引き受けてもらって」

「別にいいさ。義姉さんの頼みならなるべく聞いときたいところだからな。こっちこそすぐに返事できなくて悪かったよ」

「ふふ、そうか」

「……? なんか嬉しそうだな」

「ああ、嬉しいな。可愛い弟が嬉しくなるようなことを言ってくれたからな」

 本当に嬉しそうにくすくす笑う涅々を見て、なんとなく気恥ずかしくなった覇切は視線を逸らして後ろ頭を掻く。

 結局、部屋を出て屋敷の門をくぐるまでの間、時折思い出したかのように涅々が小さく噴き出すのが繰り返されていたため、隣を歩く覇切は居心地が悪いことこの上なかった。

 しかし、いつも仕事で難しそうな顔をしていることが多い義姉がこんな風に笑うことなど滅多にないため、たまにはこういうのもいいかなと、そんな風に覇切もまた知れず笑みを浮かべてしまうのだった。



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