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第一章 黒百合の氷花

 

 

 ――この手が届けばいいと、そんな風に願い始めたのは一体いつの頃からだったか。

 

 この世界は理不尽だ。欲しいと思ったものほど手に入らない。守りたいと願ったものほど、この手を離れていく。

 無論それが単なる思い込みの類のものではないかという懸念は理解している。

 どれだけ大事に思っていようが、どれだけ軽視していようが、悲劇というものは往々にして平等に訪れるものなのだ。

 軽視しているものはそもそも眼中にないから失っていることに気が付かない。

 結局のところその喪失感や精神的衝撃が、大事なものほど度外れて大きいというだけの話。そこに介在される意思などあるわけもない。

 しかしだからこそ同時に、こうも思うのだ。

 その平等こそが理不尽その(・・・・・・・・・・)ものなのではないか(・・・・・・・・・)、と。

 どんなに時間をかけて築き上げてきたものであっても失うときは一瞬だ。そこに掛けた時間や込めた想いなど、吹けば飛んで消えてしまうような紙屑程度の些事に過ぎない。

 突発的な天災が、偶発的な賊害が、そんなものを慮ってくれると一体誰が言えるのか。

 ふとした拍子に皿を割ってしまうくらいの気安さで、昨日まで隣で笑っていた大切な人が突然いなくなってしまう、なんてことも当たり前のように起こり得るのだ。

(だけど、それでも――)

 ――そう。それでも、と。人は信じずにはいられない。

 離したくない。失いたくない。何があっても守ってみせる。

 奪われる機会が平等(りふじん)だと言うのなら、与えられる機会もまた平等(りふじん)であるはずなのだから。

 手を伸ばし続けていればきっといつかは届くと、そう信じていたいから。

 だから――――いとも容易く奪われる(・・・・・・・・・・)

(ああ、俺は――)

 二度とは戻らぬ在りし日へと想いを馳せる。

 この世界は理不尽だ。どれだけ声を張り上げたところで、どれだけ手を伸ばしたところで、離れていったこの距離を殺すことなんてできはしない。

 仕方がないと、諦めることしかできはしないんだ。

 永遠に埋まらぬ彼女(きみ)との距離。その隔たりを自覚したその時から願うようになったのだ。

 ――この手が届けばいいと。

 そんな風に、決して叶わぬ愚かな夢を。強く、強く、狂おしいほどに……。

 

        ◇

 

 東雲(しののめ)覇切(はぎり)は走っていた。いや、走っていたと言うよりも疾走していたと言った方がより適切な表現であるだろう。

 文字通りの疾走。一歩で三間もの距離を飛び越え、山中という足場の悪い場所にも拘らず、なお速度を落とさず疾風の如く駆け抜ける。

 四方から突き出す枝葉が衣服から露出した肌に容赦なく爪を立てるが、まるで彼の全身は鋼でできているかのように掠り傷一つ負うことなく、逆に触れた樹枝の方が木端に粉砕されるという始末だった。

 常人では有り得ない速度。凡人では成し得ない強度。

 しかしこの程度の身体強化の芸当など、覇切たち神巫(かんなぎ)にとっては呼吸をするに等しく造作もないことであり――故に彼の追跡者もまたそうした法の下、一陣の颶風と化していた。

「……いい加減しつこい奴だな」

 枝に引っかかってズレかけた右の眼帯の位置を修正しつつ、自らの肩越しに背後を確認した覇切は、その超人的な速度を緩めることなく忌々しげに舌打ちする。

 一体何に追われているのか、ということに関しては実のところよくわかっていない。

 では何故追われているのか、ということに関してはというと、そちらも全く身に覚えがないと言わざるを得なかった。強いて言うならば成り行きだろうか。

 それはつい四半刻ほど前のことだ。

 木々の間から朝のうららかな日差しが降り注ぐ中、城下町へ向かう途中の林道をのんびり歩いていた覇切だったが、不意に背後から視線を感じた。

 振り返ってみると継続して視線は感じるのに姿を確認できない。

 何となく嫌な空気を覚え、徐々に歩く速度を上げていき……その結果がこの様だった。

 もはや本来行くはずだった道すら見失い、現在地すら正確に掴めていない森の中だ。

 これを理不尽と言わずしてなんと言う。

「……つっても、愚痴ったところで何も変わらないか」

 しかし腐るのも一瞬のことだった。覇切はすぐさま頭を切り替えると、先ほどまでの泣き言を彼方へと追いやり前を見る。

 確かに現状は理不尽と言って仕方のない状況かもしれないが、今それを嘆いたところで過去を変えることなどできないのだ。

 だったら変えられない過去をいつまでも悔やむことよりも、変えることのできる未来を紡ぐための行動を起こしたい。

 二度とは戻らぬ夜を憂うより、明日へと繋がる朝を想う。

 それが東雲覇切という人間が二十年と近い人生の中で心に定めた信条であり、何にも代え難い魂に刻まれた願いでもあるのだから。

「……」

 ひとつ、大きく息を吐く。今ここで手を伸ばすべきは過去ではなく未来。その想いを自らの体内を駆け巡る神威(かむい)に乗せ、今ここに解放する。

「――はっ!」

 迫りくる岩壁を前に、思い切り大地を蹴って一息に跳び越える。ただ跳び越えるだけではなく、なるだけ高く、なるだけ遠くへ。

 神巫は大気中を漂う不可視の元素――神威を己の身体に取り込み適合させることで、その超人的な力を発揮する技能を有する。すなわち――五行。

「――っと!」

 高さにして十間。距離にしておよそ五十間の大跳躍を何の苦も無くやってのけた覇切は、危なげなく着地すると同時、一瞬だけ背後を振り返る。

「……ま、そーくるわな」

 視線の先上空に、こちらに向かって落下してくる小さな影を見止めた。

 ほぼ予想通りの展開に小さく舌打ちしつつ、逃走劇を再開する。遅れて後方から着地音が響き、それと同時に大地を駆ける音も続く。

(力技だけでどうにかなる相手じゃないか)

 先ほど振り返ったときに、ちらと見えた影から想定される姿形を脳内に描き出す。

 何分視界の悪い森の中だ。顔までは確認できなかったが、強いて言うなら小柄だっただろうか。だとするならば女である可能性が高いが、だからどうということもない。

追手も神巫である以上、そこに男女の力の差や体格の大小による優劣など存在しない。

 どちらも超常の力を持つ者同士、要はどれだけ上手く神威を扱えるかどうかで総てが決まるのだ。その証拠に――

(……詰まってきてるな)

 他の分野がどうかはわからないが、少なくとも速力という面に関して追手の方に分があることは確からしい。

(このままだと追いつかれるのも時間の問題か……)

 正直、まだ手がないわけではない。しかしできれば覇切はその手を使いたくはなかった。

 別に出し惜しみをしているつもりはないが、いわゆる奥の手というやつだ。

 今までの経緯から、現状がお手軽に乗り切れる事態とは思っていないが、今すぐ命に関わるような切迫した状況とも思えない。

 要するに、いまいち踏ん切りがつかない。

 何とも優柔不断極まりない心中だったが、とはいえ言ったように追手との距離が縮まってきているのもまた事実。

 故にさてどうするかと、覇切が再び思案に入ろうと後ろを振り返ったその時――

「なっ!?」

 視界に映った光景に思わずぎょっと目を見開く。

 それはまるで先ほどの覇切の取った行動の再現だった。黒い人影は一際大きな踏み込みを見せると、自らの足を発条(ばね)のようにして勢いよく跳んでみせた。

 頭上を覆う木々の遥か高みを越える飛翔にも似た跳躍。一瞬前まで追う追われるの関係だった両者の位置は瞬く間に入れ替わってしまう。

「くそっ、馬鹿か俺は……!」

 悪態と共に全力で急制動を掛ける。

 考え事に意識を割き過ぎたせいで完全にしてやられる形になってしまった。長時間の逃走劇で集中力を欠いていたせいでもあるが、自分のあまりの間抜けさに頭を抱えたくなる。

「くっ……」

 舞い上がる砂埃の中、半ば諦めにも似た心境で覇切が前方に向き直ると――そこにはこちらに半身を向ける形でゆらりと佇む黒い人影があった。

「――」

 まるで幽鬼のよう……とでも言えばいいのだろうか。背中まで伸びた黒い髪に同色の小袖を身に纏い、腰には黒塗りの鞘に納まった刀を一振り帯びている。

 頭の天辺から爪先まで徹底して黒色で覆われたその姿は、この場の薄暗い風景に溶け込んでしまいそうで、どこか存在感に欠けるというのが覇切の最初に抱いた印象だった。

 かなり小柄な体格で上背は五尺そこそこ。身体の描く曲線からやはり覇切の見立て通り女性であることは確かなようだが、長い前髪に隠れたその面立ちは判然としない。

 先ほどの追いかけっこの間中、背中にびしびしと叩き付けられていた強烈な気配も今は鳴りを潜めているが、それに関してはどうにも嫌な予感しかしなかった。

 まるで嵐の前の静けさのような……どこか背筋が寒くなるような不気味さを覚える沈黙がしばらく続く。

 しかしそんな時が無限に続くはずもなく、張りつめた緊張感の中、先に沈黙を破ったのは覇切の方だった。

「いやーまいった。あんた中々やるなぁ」

 両手を広げてお手上げの仕草を取り、気安い口調で話しかける。

 先ほどまで鬼気迫る勢いで自分を追いかけていた少女が、何故今になって大人しくなったのかはわからなかったが、少なくとも今積極的に襲ってこない事実だけは確かなのだ。

 ならばここはひとつ、力づくで突破するよりも会話による交渉で現状の打開策を模索する。それが覇切の出した結論だったのだが……。

「俺も足には結構自信があったんだが、あんたには負けたよ。何か秘訣でもあるのか?」

「……」

「あー……ま、まぁそんな都合のいい秘訣なんてないか。努力の賜物だよな、うん」

「……」

「ど、努力と言えば、神巫になるのにも結構苦労したもんだよな。中には天才っていうのか、特に訓練なしで神巫として目覚める奴もいるみたいだけど、俺の場合そっち方面はからっきしだったからなぁ」

「……」

「いやだからって俺とあんたを同列みたいに言うのも失礼な話か。悪い悪い、ははは」

「……」

「はは、は……はぁ」

 静寂に満ちた空間に乾いた笑い声だけが響いていたが、とうとう心が折れた覇切が重苦しい溜息を吐く。元来喋りに関してそれほど得意ではない覇切にしては多少頑張った方だったが、何しろ今回は相手が悪かったらしい。

 少女はまるでその場だけ時が止まってしまったかのように微動だにせず、加えて顔も隠れているため表情すら読めない。

「そ、そういえばまだ自己紹介してなかったかな。俺は東雲覇切」

 それでも覇切はめげずに会話を試みる。正直もう半分以上は面倒臭くなっていたが、礼儀として名乗るだけはしておこうと完全に形だけの自己紹介を済ます。

「一応見てわかると思うが用心棒だ。そんな名の知れた奴じゃないが」

 言いながら腰の刀をくいっと軽く持ち上げてみせる。

 この神州で武装をしている人間と言えばほとんどは用心棒――すなわち自らの武芸の腕を商売道具に生計を立てる何でも屋だ。覇切もまたそうした用心棒の一人である。

 そしてそうであるからこそ、目の前の少女も用心棒である可能性が高かったが、彼女は覇切の話を聞いているのかいないのか、相変わらず沈黙を保ったままだ。

 あまりの無反応さに心なしか周囲の空気も冷たく感じる。

「えーと、まぁなんだ……その、あんたは――」

 そうしていよいよ以て話題に尽きた覇切が、とりあえず少女と話すには微妙に離れた距離感を詰めるため、何の気なしに少女の方向へと一歩踏み出したその瞬間――

「……あ?」

 顔のすぐ横を鋭い冷風(かぜ)が通り抜けた。

 一瞬、何が起きたかわからなかったが、次いで頬を流れる一筋の雫の感触を覚える。

 ぱっくりと裂かれた自らの頬を認識したその直後――目の前の気配が膨れ上がった。

「っ!」

 ことそこに至って初めて覇切は自分が嵌められたのだと気が付いた。

 口端から洩れる息は白く染まり、咄嗟に腰の刀に掛けた左手の指が小刻みに震える。

 背筋が寒くなっていたのは何も精神的なものだけが原因ではなかった。周囲に少しずつ広げられていた冷気。それがここにきて確信に至るほど濃いものと化していたのだ。

 地面に生い茂る草葉は凍りつき、周囲の木々の枝からはいつのまにか大小さまざまな氷柱が幾本も垂れ下がっている。

 そしてこの現象を引き起こしたであろう張本人。目の前の少女の細腕には先ほどまでは存在していなかったはずの、鋭く光る氷の刃が握られていた。

「なるほど……そいつがあんたの神器(じんぎ)か」

 ――神器。それは五行に属する技能の一つで身体強化とは別の神巫が有する特殊能力だ。

 自らの神威から形成される、いわば使い手の分身たる天下唯一つの武装であり、魂の現身と言い換えてもいい。

 基本的に使い手の性に合った最も使いやすい形で現れるのが特徴で、この異常な環境変化もおそらくは彼女の神器が一役買っているはずだ。神器には見た目から能力がわかるものとそうでないものの二種類が存在するが、どうやら少女のそれは前者だったらしい。

「――」

 ゆっくりと、緩慢な動きで氷剣を構える少女。

 一見して油断しているように見えるその動きも、その実一部の隙もなく、彼女の力量が達人域に達しているものであることを覇切は直感していた。

 先ほどまで鳴りを潜めていた殺気は逃走劇の最中の数倍にも達しており、もしこの気配に彼女の神威が直接作用していたならば、今頃覇切は全身氷漬けとなり物言わぬ氷像と化していたことだろう。

 できれば穏便に事を済ませたかったが、どうにもそういう段階はとうに通り過ぎてしまっていたらしい。悴む手を抑えながら覇切もまた腰の刀を抜く。

 互いに既に臨戦態勢。血流と共に神威が加速し、研ぎ澄まされていく。

(――くる)

 そう覇切が頭の中で判断したとき、すでに少女の姿はその場にいなかった。

 いや、正確には覇切には見えていなか(・・・・・・・・・・)った(・・)

 死角から放たれる弾丸のような高速の突き。それをほぼ勘だけでどうにか躱す。

「くっ!」

 肩口を掠めていく氷刃。少しでも反応が遅れていたなら心臓を一突きにされていたことだろう。しかし、安心するのはまだ早い。

「――!」

 続け様に三発。眉間に喉、再び胸と、連続で突きが放たれる。

 一撃目に勝るとも劣らない剣速だったが、今度は紙一重のところを刀でいなす。三撃目を刃でかち上げたところで少女の鳩尾に蹴りを見舞い、その反動を利用して距離を取った。

「……っぷはぁ!」

 息つく間もない攻防。その僅かな間隙の中、覇切は止めていた呼吸をようやく解放すると、同時に高速で思考を回転させる。

 まず驚いたのが少女の敏捷性の異常さだ。いくら初見とはいえ正面から突っ込んできた相手の姿を完全に見失うなんてことは通常有り得ない。繰り出される剣閃も正直防げたのが不思議なくらいの神速で、少しでも油断すれば全身穴だらけにされていたことだろう。

 おそらく速度という面に関して覇切が少女に勝てる見込みは皆無だ。

 それはこの僅か数合の斬り合いの中からでも十分すぎるほどに認識できた。

(加えてこの好戦性……)

 突き技は言うまでもなく攻撃特化の剣技だ。一撃の攻撃力は高いがその分隙が大きく、躱された場合は敵に無防備を晒すことになる。

 実際少女もその結果覇切に蹴り飛ばされ、今なお視線の先で仰向けに横たわっているわけだが、防御ということに関して彼女は全くと言っていいほど考えていないという印象を覇切は受けた。執拗なまでの突き技から見てもそれは明らかであり、自らを守ることに関して頓着していないと言い換えてもいい。

 それが彼女の基本的な戦闘姿勢なのか、それとも何か他の要因があるのか。その辺りの事情はまだ定かではないが――

「……?」

 その時、思考の途中で足元に微かな違和感を覚えた、直後。

「うぉっ!?」

 突如地面から突き出した氷の柱。丸太ほどの太さのそれを、身体を捻り何とか躱し切る。

 しかしそれだけでは終わらない。

 覇切が体勢を立て直そうとしたその絶妙な瞬間、上空から氷の礫が無数に降り注いだ。

 そのどれもが拳大の巨大な塊を形成しており、表面が荒々しく尖っている。

「つぅっ……!」

 降り注ぐ氷礫を手にした武器でできる限り捌きつつ、転がるようにして逃げ惑う。

「くそっ……殺す気かよ……!」

 今更と言えば今更な悪態を吐きつつ覇切はようやく氷雨の範囲を脱するが、一息吐く間もなく目の前に現れた光景に息を呑むことになった。

 そこにはいつの間に回復したのか、黒装束に身を包んだ少女が立ち竦んでいたが、厳密に言えば今覇切の目に映っているのは彼女ではなく、その背後。

「氷の、花……いや、蕾か?」

 それは花の蕾を模したような巨大な氷の塊だった。もっと言えば形は百合のそれに近い。

 こちらをまるで見下ろすような形の氷花は幻想的とすら思えるほど美しい造形だったが、同時に実物に比べてあまりに巨大なその姿は不気味さすら漂わせる威圧感を放っており……端的に言って不吉さしか感じない。加えて――

(――黒い)

 そう、それは黒い氷だった。正しくはまだ根元部分のみが黒く染まっているだけだったが、あといくらもしないうちに花びら全体まで、漆黒で染め上げられることになるだろう。

 状況的に、あれが少女の大技ないし切り札に類するものであることは容易に想像できた。

(……どうする?)

 どうするも何も覇切としてはあれを止めるか逃げるかしか選択肢はなかったが、逃げるにしてもどれだけの有効範囲を持つ技なのかがわからない。だとすれば――

「……つべこべ考えてる暇はないな」

 少女の神威が先にも増して研ぎ澄まされていく。間違いなく決着を着けるつもりだろう。

 先ほどの追いかけっこの最中は、命に関わるほどじゃないとか、踏ん切りがつかないとか腑抜けたことを考えていた覇切だったが、さすがに現状が自分にとって窮地だということくらいはとうにわかっていた。そして何より――

「こんなわけのわからない状況で死ぬなんて御免なんだよ」

 この世界は理不尽だ。しかしだからこそ、そんな不条理不合理を前に何一つ行動を起こせずに屈するなんて無様な真似だけは、もう二度としたくなか(・・・・・・・・・・)ったから(・・・・)

(だから、俺は――)

 どくんと、一際大きく心臓が跳ね上がる。

 解放へと向かう少女の神威。黒く染め上げられる百合の蕾が花開こうとする中、しかし覇切の体内を巡る神威はそれを上回るほどの加速を見せており、そして――

「――あ?」

 ――ピシリと、何かがひび割れる音が響いた直後、巨大な漆黒の氷花は跡形も残さず粉々に砕け散った。

 呆気に取られる覇切が、わけもわからずその場に立ち尽くしていると……どさりと、目の前の少女がその場に崩れ落ちた。

「お、おい!」

 慌てて駆け寄り、その小さな身体を抱きかかえる。だらりと力の抜けたその様子から見るに完全に意識を失っているようだが、呼吸はできているようだ。

 そのことに何故だか安堵している自分に驚いた。

 確かに見ず知らずの相手でも人が死ぬのは気持ちのいいものではないが、仮にも先ほどまで自分の命を狙っていた相手なのだ。しかも結局最後までその理由はわかっていない。

 そんな相手の生死を心配するなんてさすがにお人好しが過ぎるというものだ。

「……ったく」

 そうして自分自身に苦笑した後、覇切もまたその場にドカッと腰を下ろした。

(何だかどっと疲れた気がするな……)

 こちらの心情など知らずにぐっすりと眠りこけている少女の様子に何となく悔しくなった覇切は、ちょっとした仕返しの意味も込めて、少女の表情を隠し続けていた長い前髪をそっと横に流した。

 しかしその素顔を見た瞬間、覇切は本日何度目かの息を呑むことになる。

 端的に言って、そこにあったのは可憐という言葉がぴったり嵌まるほど容姿の整った美少女の(かんばせ)だった。

 歳は覇切よりも二つか三つ下だろう。体格だけ見ればもっと下にも見えるが、可愛らしさと美しさが混在したその容貌は、確かな成長を遂げた『女性』と言うに差し支えない。

 長い睫毛に肌理細やかな白い肌。先ほどまで前髪に隠れてよく見えなかったが、こうして間近で見ると少女の容貌の美しさがよくわかる。

 そして一度その美貌を意識してしまうと、必然別のところも気になってしまうというのが男の性というやつで、思わず下にずらしてしまった視線の先には、その小さな身体とは真逆に大きく育った、豊かな二つの膨らみが自己主張していた。

 平時であれば間違いなく目を奪われて唾の一つでも飲み込んでいたことだろう扇情的な光景だが幸か不幸か、同時に覇切にはそれ以上に気になる存在が視界に映り込んでいた。

「包帯……」

 少女の首から下の肌をまるで覆い隠すように隙間なく巻かれている包帯。

 戦闘中はそんなことを気にするほどの余裕がなかったが、今少女を目の前にして、初めて彼女の全身が真っ白な包帯で覆われていることに気がつく。

 おそらく本当に全身くまなく巻かれているのだろう。着物の裾から覗く細脚や両手の指先まで、一部の隙もなく巻かれているが、その割にはどこも怪我をしている様子はない。

「いかにも訳ありって感じだな……」

 憑き物が落ちたような穏やかな顔で眠る少女を眺めながら、ひとつ溜息を吐く。

 見捨てるという選択肢は端から頭になかった。

 今の少女の様子からも先ほどまでが異常な状態だったのは明らかだし、仮に違っていても、こんな場所に気を失った女性を置いて立ち去るなんてことは男がすることじゃない。

 ただ経緯が経緯なだけに、どこかやりきれない気持ちなのも確かなことであり――

「……どうすっかな」

 厄介な拾い物をしたなと、己に降りかかった不条理を恨めしく思いながら、重い溜息を吐いた。



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