1
目の前で、親友の葵が笑っている。
いや、「かつては親友だった」、が正しい。彼女はかつてないほどのだらしない表情で、へらへらと笑い続けている。
「放課後たまたま二人きりになってさあ、先週の金曜日。クラブが終わって帰ろうと思ったら、佐々木君もいてさあ」
こらえきれない様子で、葵は両手を口に当て、ぐふふと気持ちの悪い声を漏らした。
「今から帰るの? って聞かれて、そうだよーとか答えて、でね、よかったら送っていこうか? って言ってくれたわけ! だってほら、暗いでしょって。すごくない? それでさあ、ホントに恥ずかしかったんだけど、じゃあお願いってね。そしたら、自分でも思ってみなかった声が出たの。ちょっと可愛い感じでさあ!」
くねくねと身をよじらせ、元・親友は目を閉じ、小さくひそませた声で、でも、ハッキリと言った。
「それでね、帰り道に思い切って、告白したんだ……!」
私はものすごく不愉快な気分だった。
多分これまでの十四年の人生で、これ程までに腹立たしかった日はなかったと思う。
この世のあらゆるすべての不愉快な出来事にしょっちゅう腹を立ててはいるけれど。
友人から裏切りは、心にとってものすごく大きな痛手になる。
全然勉強してないと言いながら、試験でいい点を取っているとか。
一緒に走ろうと約束しておいて、マラソンで先に行ってしまうとか。
約束を破るなんて、最低だと思う。
いや、約束したわけじゃない。でも葵とは一緒になって散々話してきたはずだった。
彼氏なんていらないよねって。
そんなの、全部嘘だったってわけだ。
人気のタレントやモデル、流行りの服、靴、ピアス、いい感じに「盛れた」プリクラの見せあいっこ。
クラスの大勢が普段話しているすべてを、くだらないねって話していたのに。
私たちがしていたのは、もっと高尚な話だった。
好きな歌の詞をどう解釈すべきか考えたり、みんなが面倒くさがって読まない文学作品について話し合ったりしてきた。
私たちは「違う」はずだったのに。
世間の大人たちが「こうだろう」って思っている「女子中学生像」から外れて、もっと高いところを見ながら生きてきたはずなのに。
昨日までの葵はもういない。ずっと好きだった「佐々木君」とやらが「彼氏」になって浮かれる「普通」の女子中学生になってしまった。
平凡な、個性も深みもない、中学二年生の「女の子」になった。
仲間だと思ってたのに。
いや、なんのことはない。私はやっぱり一人きりで、その辺の「女の子」たちとは相容れない「変てこ」な人間だっただけ。寂しくはない。がっかりしたけれど、それもほんの少しだけだ。
アンニュイな気持ちの中に耳まで浸かって、ため息をつく。
窓の外から入ってくる春の光は明るい。鮮やかな緑の葉が風で揺れて、ざわめいている。
教室の中は騒がしい。授業中であっても、話はやまない。こそこそと話したり、メッセージを送りあったりしている。どこの誰だか知らない相手とむやみに繋がって、友達がたくさんいるような錯覚の中で溺れるのに夢中だ。
本当にくだらない。
世界の全てがもともとくだらないものだったけれど、今日、一人の「友人」を失ってまた、更に少しくだらなさは増してしまった。
私はそれが悲しいような気がしたけれど、すぐに、大したことじゃないと気がついていた。
むしろ、世界は「らしさ」を増したんだ。
みみかきに乗る程度の尊さを孕んだこの世界はくすんだねずみ色をしていて、今にも崩れ落ちそうなものだから。だから、葵に彼氏ができて、私は「理解者」だと思っていた人を失ったのは、そもそも話題にする価値すらないんだと悟った。
「いいじゃないか、彼氏が出来たって。普通だろ」
放課後、部室で向かい合っている相手は虹川暁樹。去年同じクラスで、同じ委員をやって、更に部員の少ない天文部でも一緒なので仲良くしている。
「虹川も彼女が欲しいとか、そんなこと考える?」
「うん?」
彼は曖昧な笑顔を浮かべて、肩をすくめた。
彼氏作ればいいじゃない、ってみんな言う。
彼氏ができればわかるようになるよって、みんなは笑う。
誰も彼も、判を押したように同じ。自分が一人だからってひがんでいるとか、そんな風にしか人を見られない。
全員が全員つがいになりたがっているなんて、どうしてそんな風に思えるんだろう。
「恋だの愛だの、みんな夢中過ぎだよ」
大体、中学二年生で彼氏なんて必要ない。
来年になったら受験だし、学校だって別々になる。どう考えたって高校で新しい出会いがあって、そっちの方が気の合う人間が多いに決まってる。
感性、学力の近い人間が色んなところから集まってくるんだから。
それにどう考えたって早すぎる。
中学生同士の幼稚な恋が続くわけがない。
将来どんな仕事に就くのか、そもそもちゃんと働くのかどうかもわからないし。
そんな相手とキスしたり、その先に進む理由ってなんだろう。
ただの好奇心で体を傷つけて、後悔しない自信があるのかな。
みんな自分たちがすっかり大人にでもなったような気分で、あんなことをしただの、こんなことをしたいだの、いやらしい顔で話しているけど。
「そんな奴ばっかりじゃないだろ」
虹川は呆れたような声をあげて、顔をくしゃくしゃに歪めた。
「そんな奴、ばっかりだよ」
昨日見たテレビとか、雑誌で見たタレントにきゃあきゃあ叫んで、カッコいい素敵って言っておきながら、それに比べたら全然かっこよくないブッサイクな「彼氏」と手を繋いで帰るとか。
似合わない化粧で一生懸命顔をケバくしたりとか。
寄せて上げた胸が見えるようにシャツをわざと大きく開けたりとか。
「くだらない」
最後の最後までふくれっ面で呟いた私の姿に、虹川は小さく、苦笑をしていた。
◇
鏡を見るのは好きじゃない。
自分の顔を見るのがまず、嫌いだから。
たいした特徴のないつまらない顔。父親に似ているような、似ていないような。可愛げのないふくれっ面はもう見飽きた。せいぜい、どこか汚れている箇所がないか、髪の毛におかしな癖がついていないか確認する程度で、じっくりと見つめたことはここしばらくなかったように思う。
風呂上がりに久しぶりに、鏡の前に立つ。
相変わらずの、つまらなさそうな表情。見るのはやっぱり嫌だった。だけどこれが私。私の顔だ。私を知らない人はまず、この顔からどんな人間か想像するんだろう。
雨野瑠歌。
マンガみたいなこの名前も、正直重たい。可愛くて溌剌とした、綺麗な歌声の女の子になら似合うんだろうけど、残念ながら私はそうじゃない。
可愛い女の子になんてなれない。私は、可愛い女の子じゃないし、可愛い女の子になりたいと思わない。たとえば顔だけは、化粧でなんとかなるものなのかもしれないけれど、それは一時的なものに過ぎないわけで。
まるで詐欺みたいに別人になれると知ってはいるけど、顔を変えたところでどうなるっていうんだろう。
ため息を吐いたら、鏡は薄く曇った。
毎日毎日、ため息、憂鬱、眉間には皺。
楽しげなクラスの「みんな」と私は、本当に同じ世界に生きている人間なんだろうか?
私の心の空にはいつも、暗い雲が立ち込めている。
瑠歌って名前は私には似合わないけど、雨野の方はぴったりだと思う。
いつだって雨。私の心はじっとりと重たくて、水たまりだらけ。
地面はぬかるんでいて、学校指定の革靴はもうすっかり浸水している。