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ディーラーの最初の作業は、チップの準備。双方に、一〇〇〇$のチップを配分した。
あえて「$」という単位を使用する。もちろん、遊戯用のチップに刻印された架空の値であり、リアルマネーではないので、ご了解いただきたい。
以前の説明では、ブラインド支払いから始まるゲームの流れに合わせ、「ビッグブラインド=BB」を金銭単位のように用いた。今回は、その表現は都合が悪い。相手のチップをゼロにするまで戦う勝ち抜き戦では、ブラインド額が時間経過により上昇するからだ。最初のブラインドはスモールブラインド=一$/ビッグブラインド=二$。三〇分経過したら、二$/四$に上がる、というふうに。
上昇は青天井で、最終的には、ブラインドによる強制支払の負担だけで、何もできずにチップをすべて失うような事態もありうる。とはいえ、今回は一対一の勝負。双方がオールインして、一気に決まる結果になるだろう。
カードをシャッフルして、ブラインドを支払わせ、二枚ずつカードを配る。双方のアクションを確認しつつ、共通札を並べていく───プリフロップ、フロップ、ターン、リバー。どちらかが下りるか、あるいはショーダウンするまでを見届ける。勝敗を判定し、ポットを勝者へと押しやる。その繰り返し。ふたりの戦いを、ディーラーという立場で、僕は見守った。
最初の数ハンドは動きはなかった―――プリフロップの駆け引きだけで、どちらかがフォールドして勝負が決まった。一度だけ、飛鳥さんのレイズに探偵がコール、フロップが開かれたが、飛鳥さんのベットを見て探偵がフォールドし、ショーダウンには至らなかった。静かなスタートだった。
だが―――一〇ハンドほど重ねたところだったろうか?
飛鳥さんすなわち魔王オズブムがディーラーポジションのハンド。探偵が先に行動する場面だ。
探偵は六$にレイズした。
間髪を入れず、
「オールイン」
魔王オズブムが、念動力ですべてのチップをポットに放り込んだ。つまり、わずか六$に対して、全額一〇〇〇$でもって反攻した。
ありえない選択だ。
ヘッズアップでは、自分の賭けた額が、奪い奪われる額に直結する。勝負は始まったばかり、チップがまだイーブンの現状でオールインして、もし相手が応じたなら、手持ちの一〇〇〇$をすべて奪うか奪われるか、いずれにせよ勝負が決まってしまう。
もし飛鳥さんが今、強力な手札を得ているのなら、より多くのチップを引き出すため、相手がコールしても良いと思える低額にレイズするのがセオリーだ。いきなりオールインするのは、高額に怯んで相手がフォールドするだろう、と決めつけたアクションだ。しかし思い通りになったとしても、一〇〇〇$賭けて得られるリターンは六$、あまりに少ない。素人じみたアクションと言って差し支えない。
だが、―――そのとき、探偵の手が止まり、小さく震え出した。彼はそのとき初めて、自らの置かれた立場を悟ったようだった。彼は震える手で、フォールドした。
探偵にとっても同じなのだ。ここでオールインに応じたら、その瞬間に勝負は決まる。探偵にとっては、―――負けたら命が終わる。愛すべき世界が終わる。万が一にも、負けられない。
ヘッズアップにおける各手札の勝率は、厳密に数学的に判明している。相手の手札を推定し、それに対して勝率が五〇%以上と判断できれば、無条件にコールして勝負に出る局面だ。―――命を取られることのない、普通の勝負なら、だ。
最強の手札であるエースのペアなら、勝率は八割を超える。だが、「万が一にも負けられない」と思いすましたとき、残りの二割ですら、くびきとなって締めつけるのだ。
―――後から、飛鳥さんの述懐して曰く。
「なぁ友納。ギャンブルの必勝法って、この世にあると思うかい。もちろん、イカサマ以外で」
「あるわけないよ。あったらみんなやるから、賭けにならない」
「それがあるんだよ。一〇〇パーセントとは言わないが、極めて高い確率でギャンブルに勝つ方法」
「そうなの?」
「正確には、一〇〇パーセント勝つ方法じゃない。これをやったらほぼ一〇〇パーセント負けるギャンブル、ってのがあるんだ。だから、一対一の賭けで相手をその状況に追い込めれば、必ず勝てるって寸法だ」
「一〇〇パーセント負けるギャンブル? どんなの、聞いていい話?」
「命を賭ける」飛鳥さんの説明は、さらりとしたものだった。
「え?」
「命とか、人生のすべてとか、取り返しのつかないものをベットして挑むギャンブルは必ず負ける。強い思いが世界を変える、なんてフレーズがあるけど、ことギャンブルに限っては当てはまらない。正確には、逆の意味で当てはまる。つまり、強い思いを相手に悟られたが最後、それは敗北に直結するんだ」
ギャンブルは、最終的に、トータルで勝てれば良いのである。だが、絶対に負けられないと思い入れると、あって当たり前の個々の負けが、必要以上に重荷になる。負ける可能性を怖れて、リスクの高いベットができなくなる。ましてその重荷を相手が知ったなら───相手は、もうバクチを打つ必要がない。その重荷をより重くする行動を採ればよい。重圧に負け平常心を失って、勝手に自滅するのを待てば良い……。
「奴はさ、ポーカーなら運さえあれば勝てると思ったんだ。殴り合いよりは勝ち目がある、とな。でも間違いだ。もしもあいつに勝ち目があったとしたら、ピストルでただちにイザベルを撃ち抜く、それだけだった。それなら少なくとも、あたし……魔王オズブムが新たな依代を見つける時間は稼げたんだよ」




