フェイク
暗闇が一転、白光の下に晒された。床に寝転んだ少女は一人、それに気付いたようで耳からヘッドフォンを外さないまま、口だけで彼にお帰り、を伝えた。
「……ただいま」
彼は無表情のままそう返して、またいつものように電気ぐらいつけろよ、と彼女に注意する。音漏れがしているヘッドフォンを耳に当てたままの彼女にその言葉は辿りつくこともなく、ただヘッドフォンから漏れた音と一緒に受け取る相手を失くした言葉はむなしく部屋を漂って、消えた。
「ミオ」
彼が呼んでも。彼女は知らぬ顔のまま、ただ自分の世界に浸りこむかのように流れる音楽に耳を傾け続ける。彼はため息をひとつ、上着を脱ぎ捨てると手馴れた動作で彼女の耳から自分と彼女とを隔てる障害物を剥ぎ取った。彼女が不満を口にする前に、
「メシは?」
用件を伝える。これが最善の方法だということはもう既に学習済みで、彼女の不満なんか口を飛び出してきた日には自分の用件なんて彼女に明日にでもならなければ伝えられないということは百も承知、だ。
「ユウスケはもう済ませたんでしょ?」
「俺が、じゃなくて、お前は、が聞きたいの。俺は」
「まだ」
食欲ないし。彼女は付け加える。この会話は毎日繰り返されているもので、お前が食欲ある日なんてあるのかよ、といつものように彼がぼやけば、彼女はまた、いつものようにその言葉を無視した。
とにかく、なんか簡単なものでも作るから、少し待ってろ。彼がそう言って背を向ければ、彼女はまた、彼に取られたヘッドフォンを耳に宛てる。
彼女は食事を摂らない。
食欲がない。未緒はいつも、そういう。しかし、祐介が知る限り過去二年近く、その言葉以外のものを彼女から聞いたことは無い。未緒の、女性らしい凹凸のない体のラインは細いというものを通り越していて、それを見れば彼女の、「生まれつき」という言葉も信じるしかないのではないかと祐介は思う。
だが、生まれつき食欲が欠如している。そんな人間がこの世に存在するのか。もちろん、味覚がなければなにを食べても味を感じないわけだから、それは食欲もなくなるのかもしれないが、彼女の味覚は至って正常だ。「生きる」ということから切っても切り離せない、それを止めれば即、死につながる欲の一つなのに、彼女はそれがないという。それが祐介には酷く奇妙なことだった。
今日も未緒はいつものように祐介の作った食事を二口、三口口をつけただけで残した。これもまたいつものことで、彼女は自分でその食べ残しを、まるで汚物でも捨てるようにゴミ袋に棄てた。
朝目が覚めると横に祐介はいなかった。いつものことだが、未緒は寝ぼけた頭でちょっと考えて、あぁ、今日は彼女とデートとかだったな、とふと思い出す。未だぬくもりの残るベッドから出ると、テーブルの上に彼女の食事が乗っていたが、未緒はそれに口をつけるどころかラップすら外さないままゴミ袋に捨てた。
生き物は食事をしないと生きていけないんだよ。
いつか母親に連れて行かれた精神科のカウンセラーがそう言っていた。頭の禿げ上がったそいつに言われるまでもなく、そんな言葉ならとうの昔から家族なんかから耳にたこが出来るくらい言われているし、未緒自身、そんなことが分からないくらい馬鹿ではない。ただ、食べたくないものは食べたくないのだ。自分の体は他の命を必要としていない。
冷蔵庫からペットボトルに入ったお茶を取り出して、面倒なのでそのまま口につけてそれを嚥下する。食欲はなくても喉は渇くし、水分なら弊害なく受け入れられる。もう用は無くなったそれを冷蔵庫の元の位置に戻しながら、今日は何をしようか。未緒は考えた。ふと時計を見る。デジタルで表示された数字は午後四時をとうに過ぎていた。
食事の量や質と、それを摂取する人の美しさにはほとんど関係が無い。今更ながら、祐介はふとそんなことを考えた。実際、今まで裸で抱き合っていた相手を前にしてそんなことを思うのはどうかと自分でも思う。それでも、事実、眼の前にいる彼女よりも未緒のほうが数段美しいし、綺麗だと彼は思う。体の凹凸や表情は酷く乏しいけれど。ただ、なにかを食べる、健康的な未緒、となると、祐介にはどうしてもそれが想像できなかった。
眼の前の彼女は器用にパスタをフォークにまきつけて、くるくるになったそれをゆっくり口に運ぶ。それを未緒と重ね合わせてみる。どうしても一致しない。眼の前の彼女と未緒との間にどんな隔たりがあるのか、祐介には分からなかった。多分その隔たりの部分が、未緒を未緒としている要素なのだろうけれど、祐介としてはそこまで追求する気もなく、ただ何も考えずに口元にパスタを運んだ。
「ねぇ」
パスタを食し終わった彼女が、ティッシュで口元を拭きながら声かけた。
「なに」
ミオ。そう続けてしまいそうになって慌てて口を閉じる。彼女の名を呼ぶことは癖になりつつある。
「ゆうちゃんと付き合ってさ、もう直ぐ一年近くなるんだけど」
彼女の言葉を聞きながら、あぁ、もうそんなに経つのか。祐介の頭がぼんやり考える。実際祐介はそんなこと覚えてもいなかったし、彼女となぜこういう関係になったのかさえも覚えていないのだけれど。
「一回もゆうちゃんの家、行ったことないんだよね。ゆうちゃんも一人暮らしでしょ?」
まぁつまり、彼女の言いたいことは我が家に来て見たい。それだけのことなのだろう。それならそうと単刀直入にいえばいいのに。祐介は思う。こういう回りくどい言い方は嫌いだった。
「家にきたいの?」
まぁ、そうなんだけど、そんなニュアンスのことを彼女は口を濁しつつ返した。
「残念ながら一人暮らしといえども、去年から妹が一緒に住んでてね、連れ込むとうるさいんだ」
「ゆうちゃん、妹いたの?」
とっさに出た嘘だった。彼女が驚きの声を上げる。
「うん。年子でね。去年から進学して、大学も近いからってそれだけの理由で一緒に住んでるんだ」
嘘がつながる。実際祐介には一回り近く年の離れた弟がいるのみで年子の妹などいない。ただ、彼女に未緒と共に暮らしていると正直に伝えるわけにはいかないと無意識に思いついたもので、いつもより饒舌に動く舌に、よくこんなにすらすら嘘が出てくるものだと祐介自身驚くほどだった。
「似てる?」
「いや、全く。血がつながってないと言われたって納得しちゃうくらい似てない」
言いすぎだって。彼女が高い声を立てて笑う。実際妹でもなければ血もつながっていないのだから似ているわけもない。
「ってわけで、家には入れられない。ごめんね」
残念そうな顔をしながらも、彼女は渋々といった感じで頷いた。祐介は彼女に気付かれないようにそっと胸を撫で下ろす。
未緒のこと云々を抜きにしても、祐介は自分のエリアに他人が入ってくることを酷く嫌っていた。今まで付き合ってきた女を自分の部屋に入れたことはおろか、友人でさえ家を教えたことはない。彼のテリトリーに入ったことがあるのは未緒だけで、でも、なぜ未緒は平気なのか、祐介は彼女の話に適当にあわせながら考えていた。
未緒は気がついたら一緒に暮らしていた。ただそれだけだ。なぜそうなったのか祐介はやっぱりよく覚えてないし、深く考えたこともない。ただ当たり前のように気がつけば未緒はそこにいた。それだけのことだ。
未緒に関して嫌悪感を覚えたことはない。彼女と未緒の違いを考えてみる。実際のところ、祐介は彼女に恋愛感情なんてものは抱いていない。今までもそうだったように、彼女のほうから求められたからそれに応じただけだ。特に断る理由なんてなかったし、相手のことだってろくに知ってもいなかったが、まぁ付き合ってみればそのうち分かるだろうくらいの気持ちでこういう関係になっただけでしかない。
未緒とそうならないのは、未緒がそれを求めてこないからだろうと祐介は勝手に結論付けた。だからこそ未緒なのであり、実際彼女と共にいる時間よりも未緒と共に過ごす時間のほうが祐介にはしっくりとくるのだ。未緒の存在を不快に感じないのも、多分その、しっくりくるというなんとも言葉では言い表せない部分があるからなのだろう。
ゆうちゃん、聞いてる? と彼女が不満げな声を上げて、祐介は心にもない笑顔を浮かべてそれとなく謝ってみせた。波風立たない穏やかな関係。これくらいで平穏が保たれるなら、それはそれでいい。
財布を忘れた。そう思い出したのは店についてから大分経った後で、取りに戻るという選択肢より先に未緒はポケットから携帯を取り出していた。適当にアドレス帳から名前を拾いとって電話をかける。
暫くして待ち合わせ場所にしたその店に男が到着して、未緒はただ、その男がそんな顔だったかどうかをどこか投げやりに記憶の底から掘り当てようと試みた。最後に会ったのは一ヶ月くらい前だし、そもそも未緒は彼らの顔と名前すら最初から覚えようともしていない。だから途中で入れ替わっても気付かないだろうし、呼んだのと違う男が来たとしても彼女は一向に構わないのだ。
ごめんね。急に呼び出したりして。なんか急に会いたくなったの。そう潤んだ瞳で上目遣いに伝えれば、彼は心底嬉しそうに白い歯を見せた。それから彼女が手にしたものに視線が移っていくのを確認したあと、
「待ってる間にちょっと欲しいのみつけちゃって。買って来るから待っててくれない?」
男は、それくらい買ってあげるよ、と言って手を出した。もちろん、こうするために彼を呼んだのだから、悪いよ、なんて申し訳なさそうな顔を作って一回断りつつも、結局彼が来る前に適当に選んでおいた数枚のCDを彼に手渡し、精算してきてもらう。その間未緒はただぶらぶらと店内を歩き回っていた。
精算を終えた彼が未緒のもとに戻ってきて、ごめんね、なんか買ってもらっちゃって、とその腕を男の腕に絡ませながら未緒は心にもない御礼を述べる。申し訳なさそうな顔をしている未緒の心境なんか知る術もない男はただ笑って、じゃあ晩御飯でも食べに行こうか、と未緒を誘った。未緒は口角をきゅっと吊り上げ、いつもより一オクターブ高い、甘えるとき専用の声で返事を返す。
「ごめんね。食欲無くて。あと、あんま時間もなくてさ。ご飯よりも――」
夕食を済ませて家に帰れば、そこに未緒の姿は無かった。上着を脱ぎ捨ててソファーに腰掛ける。ソファーにはどこから入ってきたのか小さな蜘蛛が先客で居座っていて、彼は無言のままそれを潰さないように指で弾く。祐介は好きでも嫌いでもないのだが、未緒は蜘蛛が大嫌いだ。小さなそれは細い糸を祐介の指に絡みつかせたが、祐介はその糸さえも切って床に蜘蛛を落とした。蜘蛛はどこか見えないところに落ちていって、もう確認することも出来なかった。
別に祐介は未緒の彼氏でも保護者でもないのだから特に気にする必要はないのだけれど、大学もないのにこの時間まで帰ってきていないとなると、彼に思いつく未緒の行動は一つしかない。
蜘蛛が何処かへ行ってから、入れ違いのようにCDショップの袋を手に部屋に帰ってきた未緒の、体からは家のものとは違うボディソープの匂いが漂っていた。とりあえず、未緒に蜘蛛を見られなくてよかった。自分の予想が的中したことよりも、そっちのほうに頭がいった。
「おかえり。ミオ。メシは?」
「いらない」
当然のようにそう言って、彼女はユニットバスに姿を隠す。直ぐにシャワーの音が聞えた。またか、と祐介は一人ため息をつく。自分の考えは的中していたわけで、未緒は必ず誰かと寝た後はどこを洗っているんだと思うほど時間をかけて丹念にシャワーを浴びる。これなら未緒を待たずに先に風呂に入っておけばよかったと後悔する一方で、そんなに洗いなおしたいくらい厭ならば、やらなければいいのに。と祐介は思う。
テーブルの上に放置されたままの財布を見て、大方のことは予想できた。だからなんだというわけでもなく、祐介はソファーから腰を上げて、未緒のための夕食を作る。彼女は要らないと言ったものの、また、どうせろくに食べやしないと分かっているのだが、それでも作らずにはいられない。これは未緒とかわす日常的な言葉と一緒に習慣付いてしまったものなのだろう、と祐介は卵を割りながらぼんやり考えていた。
水音だけが耳に響いて、降り注ぐ温いシャワーは雨みたいで、未緒はバスタブで膝を抱えて、頭から降り注ぐお湯をただ全身で受け止める。もちろんホテルで風呂には入ったし、今更洗いなおすところなんてないのだけれど、それでもこうしなければ気がすまない。一種の儀式のように、未緒はそれを甘んじて受け入れていた。未緒はその行為自体に特に意味なんて感じていない。男の前で笑顔を作るように、なんとも思わなくても感じたフリして喘いで見せればいいだけ。それだけ。それだけの行為。だから相手なんてどうでもいい。だから全て洗い流してしまえばいい。意味なんてないのだから、文字通り水に流してしまえばいい。考えたって、仕方が無い。
夕食はとっくに出来上がって、湯気も立たなくなったころにようやくユニットバスのドアが開く音がした。必要最低限の家具しかない祐介の部屋の、その住居部分に姿を現した未緒は、そのまま裸のままで祐介の作った夕食に見向きもせずベッドに潜り込んだ。祐介は黙ったまま、入れ違いに未緒が使い終わったユニットバスに姿を消した。未緒の歩いた後にはカーペットに丸い染みが、彼女の、体から、髪から零れ落ちた雫で出来たそれが点々と連なって、彼女の足跡を印していた。
ベッドに潜り込んだもののそんな急に眠れるわけもなく、未緒はただ布団の中で目を見開いていた。祐介がシャワーを浴びる水音が聞える。未緒はただ布団に包まってその音を聞いていた。そんなに長い時間を経てずに水音は止み、祐介が戻ってくる音が聞えた。
彼は未緒の結局手をつけなかった夕食をラップで包んですばやく冷蔵庫に閉じ込め、ミオ、と、彼女の名を呼んだ。未緒から返事はなかった。ベッドの中で丸まった、彼女の形だけが膨らんでいる。祐介は先客のいるベッドに潜り込んだ。
「ミオは何で食欲がないの?」
背中越しに祐介が問う。未緒は無言のまま。返事の代わりに布の擦れる音がした。
「なんで食欲がないの? 今ミオが思ってる限りでいいし。なんか教えて」
こんなことを彼女に問うのは初めてだった。一緒に生活をしているうちに喧嘩をしたことも少なくはないが、彼女のその核心部分について、祐介が問うたことは今まで一度もない。返事が返ってくることはそれほど期待していなかったが、少し間を空けた後、彼女のアルトな声がベッドの中からくぐもって聞えた。
「食べるほどの存在じゃないから」
その言葉の意味を祐介は問い返す。しかし、今度は返事がなかった。それでも暫く待ってみて、それでも返事が無かったから、祐介は未緒にお休み、と小さく声をかけて電気を消した。部屋はまた真っ暗になって、何かのランプが小さく紅い光りを放って存在を主張しているのみだった。
祐介と過ごすようになって三度目の春が来ていることを、未緒は窓の外の景色で知った。蕾が色づき始めている。携帯のカレンダーを見る。もう三月の中旬だった。
カーテンを開け放った世界は青空が広がっていて、雀かなにか知らないが、それくらいの大きさの鳥が道路沿いに植えられた木の枝に大量に止まっていた。そんなに群れなくてもいいのに。未緒は思う。
木はその一本だけじゃなくて道路沿いに何本も植えられている。それなのにその鳥の群れはそのうちの一本に群がって集団で止まっている。その木とその横に立つ木にどんな違いがあるのか、未緒には知りようもなかったし、別にどうでもよかった。その木がなにか特別なオーラでも放っているのか、それともただ単に止まりやすかったのか、集団だからこそ意味があるのか。未緒には分からなかった。
網戸には蜘蛛が一匹引っ付いていて、未緒は向こうからそれを指で弾き飛ばした。蜘蛛。糸を張って獲物を待って、何も知らずに飛んできた虫とかがその蜘蛛の巣に捕まって、食われてしまう。未緒は蜘蛛が嫌いだった。弱肉強食と言ってしまえばそうなのだけれど、食べなければ死んでしまうということは分かっているのだけれど、それでも蜘蛛は嫌いだった。ついでに言えば、生きているもの全てが嫌いだった。
玄関の鍵が開く音がして、祐介が帰ってきたことを知る。だからどうだというわけもなく、未緒は一人窓の外を眺め続けていた。
祐介は昼食の準備に取り掛かる。未緒は食べてくれないと知りつつも、それでもきっちり二人分、作る。未緒はおなかがすかないという。だから食べたくないという。
空腹を訴えない彼女の体はどんな構造をしているのか祐介には知りようのないことではあるが、食欲という生きていく上では必要不可欠なものが欠如してしまっている、未緒のような存在はきっと自然界においては自然と排除されてしまう存在なのだろうと、そのように思うようになっていた。
人間だから生きていける。保護された生き物。その存在が未緒なのだと思った。だから食べないとは知りつつも食事も作る。もしかしたら彼女と共に暮らすようになったのは、無意識のうちに彼女を保護しようとしていたのかもしれない。もちろん、こんなことを言えば未緒は怒るだろうからそれは口にしないことにした。
「ミオ、メシ、出来たけど」
案の定彼女は二口三口食べただけでそれを丸々残した。
祐介は昼食の後また家を出て行って、未緒が一人取り残された。彼の用事がなんであるかを未緒は知っている。よくまぁあんなにマメに出来るものだ、と感心してしまうくらいだ。自分には無理だろう。未緒は思う。自分は、祐介みたいには出来ない。あんなにしょっちゅう逢って、あんなに一緒の時間を過ごして、それでもあんな風にいられるなんて。自分は瞬間的に、一時的にだからあんな風でいられるのに。
祐介とその彼女が二人並んで歩いているところをキャンパスで見かけたことがあった。祐介はいつも未緒には見せないような偽者な笑顔浮かべて、彼女の話に適当にあわせていた。あんなに長くいても尻尾を出さない。彼女は祐介が愛情なんて持って接していないことに気付いていない。未緒には分かる。彼女には分からない。それなのに、あの場で祐介の横で笑顔を見せるのは未緒じゃない。
取り残された未緒は特に用事なんか無くて、ただヘッドフォンで流れる音楽に耳を傾けながら祐介の買った文庫本を斜め読みする。寝転がって、近くに携帯を置いて。頭の中を文字の羅列が入って、そのままとどまることなく忙しく素通りしていく。本を読んでも頭に残るものなんてない。未緒の知りたいことを教えてくれない。誰も答えてくれないから、未緒は一人考える。ずっと一人で考えてきた。取り留めのない思考が頭の中を駆けずり回って、収まる場所を見つけられないまま音符に乗ってどこかへ消え去った。それでも、答えなんかどこにあるのか分からないけれど、だけど未緒は考える。
突然、携帯の着信音が鳴った。
てっきり未緒か誰かからだと思って受信ボックスを開けば、そこには今しがた別れてきたばかりの彼女の名前が記されていて、少し閉口した。今まで半日近く一緒にいたのにも関わらず、こうやって特に用事もないのにメールを送ってくるその心が祐介には理解しがたかった。もちろん、それは今の彼女に関してのみ言えることではないのだけれど。祐介自身、メール自体があまり好きではないのでそのまま放置することにした。気付かなかったことにして、今度謝ればいい。
玄関の鍵を開ける。部屋は真っ暗で、ただ水音のみが響いていた。
腕にはめた時計に視線を落とす。今にも日付を越えようとしている。思ったよりも長居してしまったようだ。未緒は怒っているだろうか。一瞬そんなことを考えたが、すぐにその考えは消えた。彼女はそんな女じゃない。きっと、彼女は祐介に興味なんてない。
「ミオ?」
未緒に違いないとは思いながらも声をかける。この部屋には自分と彼女しか住んではいないのだから。返事の代わりに、なにかが割れる音が部屋中に響き渡った。どうやら電気をつけようとした祐介の手がぶつかったらしい。玄関の電気の横にある食器棚からマグカップが一つ、落ちて砕けていた。慌ててそれを拾い上げようとしゃがんで手を伸ばす。破片で切ったらしく、指先に鋭い痛みが走った。思わず小さくうめく。
瞬間。ユニットバスのドアがゆっくりと開いた。背後から差し込んできた眩しい明かりに振り返った彼は思わず目を細める。
「ミオ……?」
水滴が、ぽたり、ぽたり、そのバスタオルでは隠しきれない滑らかな四肢から、極上の生糸のような細く長い髪から、床に落ちて。
光りを背後に、影を纏う。青いバスタオル。そこから伸びたすらりと長い手足。いつもの彼女らしい無表情な表情。ただいつもと違うところは、その白い頬が上気して温かい血の色をしていた。
ぽたり。ぽたり。顔を伝って水滴が床に落ちる。濡れてまとまった幾筋かの髪の束。その先から流れ落ちる水滴までもが光を含んで燦然と輝き、それらは全て彼女を祝福しているかのようにいつもは無色な彼女に彩りを添えている。未緒は動かない。ただ、祐介をじっと見ている。
祐介の目を見ているわけではないことは、すれ違って一向に合わない視線でよく理解できた。彼女がどこを見ているのか、彼には知りようもなく、彼はただ呆然と彼女を見つめ続けていた。放置された彼の指先から、一滴、血液が落ちて床に散った。
なにかを確認したように、未緒はゆっくりとそのまま祐介の方へ歩を進めた。体を隠していたバスタオルからはもう既に手を離していて、滑り落ちたバスタオルの上、未緒の裸体が鮮やかに浮かび上がる。女性らしい柔らかな丸みに乏しいが、不完全に、それでも確かに女性のそれであることを主張している体付き。
浮き出た肋骨が痛々しく、力をこめれば折れてしまいそうな細い体。真珠の肌にかかる村雨を集めたような髪。それらが複雑に影響し合い、今にも壊れそうな儚さと脆さが合わさってなにか奇妙なバランスで美しさを作り出している。蜘蛛が紡ぎだす糸のように繊細で、それでいて美しく均衡を保ち、見た目によらない勁さを持つ。
ゆっくりとした動作で未緒が祐介の前に膝をつく。それから、すっと手を伸ばして、その細い指を、祐介のそれに絡めて、持ち上げ、血の流れる指を口元に運び、ちらりとその赤い舌を出した。白磁の肌と深紅の舌のコントラストが酷く綺麗で。
「……おいしい」
ユウスケの血。小さく呟くようにそう言って、笑って、もっと食べていい? むしゃぶりつくように傷口に唇を這わせた。
蜘蛛が巣を作っているな、と、祐介はどこか弛緩した頭でそれに気付いた。明日、取り払おう。ぼんやりと、そう考える。未緒が、気付いてしまう前に。