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一人きりになった書庫でロータスは、ステファーヌが読んでいた「神の王国」と題された本を手に取った。パラパラと頁を捲り小さな溜息を零すと、本を手に立ち上がり隠された書庫へその本を戻した。
「初めに言ありき」で始まるこの本は、教会の人間に読ませるべきではない。幸いステファーヌは図形の項目以外に興味はないらしく、そこだけを読んで首を捻っていたが。思い出しながらロータスは少し笑った。
初めに神が何と言ったか知らないが、初めにあったのは言葉だ。言葉があったからこそ神は何かを言ったのだ。それが「光あれ」だろうと何だろうと構わない。そして言葉は、文法とは三つの人称を持つ。それ故、三という数が彼を示す数であり人間である、とこの本の第一章に記されている。
教会の教えでは「光あれ」で始まり、神、精霊、人間であるから三である。それ故、教会は三角形を神聖な図形としてシンボルとしている。
隠し部屋から戻り机に向い帳面を広げて書き物を始めると、見送りを終えたクロードが書庫へ入ってきた。
「目を悪くなさいますよ、旦那様」
「そうだね……ねぇ、クロード」
「はい」
「彼のこと調べてくれるかい?」
「畏まりました……何か気になることでも?」
クロードが念のため確認をすると、ロータスは帳面から顔を上げて先ほどのステファーヌの行動を思い返した。恐らくステファーヌ自身は気付いていないのであろうが、神のシンボルが入ったマントを随分と粗雑にソファに放り投げていた。それが心に引っかかっているのだ。
「そうだね、少し……それと、今回殺された二人についても調べてくれるかい?」
ロータスがそれ以上何も言うつもりがないことを察したクロードは、一礼をして扉へ向かった。
「あ、手が必要ならクロヴィスを使って。それ以外に何人使っても費用も勿論、構わない」
クロードがノブに手を掛けたところでロータスは思い出したように言った。
「クロヴィス様ですか? 構わないのですね?」
「ああ。子爵にくれぐれもよろしく、と頼まれたからね」
今度こそ本当にクロードが退室をすると、当てにならないテキストを閉じて翻訳作業を再開した。
*
小さな溜息の音が静かな書庫内に吸い込まれていった。
――神の道を辿り世界の扉を開くとき、全き王国――十番目王国の封印は解かれる。
ロータスにとって、南方の古語は慣れ親しんだものであり翻訳自体には全く問題はない。しかしながら、この手の書物は勿体ぶった言い回し、分かり辛い言い回し、比喩、あるいは本当に意味のない言葉が並べ立てられているのが常だ。
この文章を鵜呑みにすることの愚かしさは十分理解している。
逆に言えば、鵜呑みにしたがために現在出回っている魔術、妖術、錬金術が謝った解釈、都合の良い解釈をされ妖しげな儀式と共に伝わっているのが現実だ。
さて、と妖しげな笑みを口の端に浮かべてロータスは本当に必要な書物を取りに隠し部屋へ向かった。
隠し部屋の奥の何の変哲もない小さな棚のを開き、中の取っ手を回した。すると、カラカラと小さな音を立てながら天井が開いて、梯子が降りてきた。隠し部屋の中の隠し部屋には、世界の深淵の書物が数冊並んでいる。
それらを全て手に取り降りて、部屋を閉じると再び書物に向きなおった。
***
「――様、旦那様」
可愛らしい声に、条件反射で顔を上げたロータスの頬に開いたままの本の頁がくっついてきた。どうやら昨夜はそのまま寝てしまったようだ。
「お風呂の準備ができていますよ」
「いま、何時?」
「先ほど八時の鐘が鳴りました」
「はちじ……」
寝起きのロータスは意味もなく言われた時間を復唱した。それから伸びをしてぼんやりしていたが突然立ち上がった。
「ああ! 急いで準備をしないと……十時に救貧院へ訪問する予定なのに!」
慌ただしい口調なのに、どこか優雅で貴族らしい動作のロータスに呆気にとられた後、クロヴィスは満面の笑みを浮かべた。
「大丈夫です、まだ七時ですから」
「え?」
「クロードさんに、そう言って起こしなさいと言われたのです」
悪びれもせずに言うクロヴィスに脱力しながらもホッとした。それからやはり優雅な動きで書庫を後にすると、クロヴィスを伴い私室へ戻って行った。
入浴を済ませて朝食を取り着替えを済ませると丁度出発の時刻になり、馬車の準備も終わっている。侯爵家の蓮の紋章が付いた二頭立て馬車に乗ると、カラカラと車輪の音を立てながら馬車は出発した。
貴族の屋敷が並ぶヴィジュ広場前は聖都のほぼ中央にある。この北地区には王宮もあり、王族、貴族御用達の商店が立ち並ぶ。レーヌ川を挟んだ南地区は中央教会の大聖堂がある。聖都は約四千ヘクタール、三十万人の人口を有する巨大な都市で九地区に分かれている。
ロータスが向っているのは北部のベル地区――あまり裕福ではない層が住む救貧院。彼はそこの援助をしており、月に一度は視察を兼ねて訪問をしている。
馬車に揺られ窓の外の街並みを見るともなしに見つめていると、あと十数メートルのところで馬車が停まった。
「どうしたんだい?」
「救貧院の前に人だかりができているのですが……」
御者は困ったような顔をしている。ロータスは馬車から降りて一人で歩いてそこへ近付いた。救貧院の前に人が大勢群がり、中には審問官や警吏の人間も見られる。
「ステファーヌさん!」
見知った顔を目敏く見つけたロータスは声を上げて手を振った。貴族らしからぬ動作に何人かギョッとしているがロータスはお構いなしだ。
呼ばれたステファーヌはあからさまに迷惑そうな顔をしているが、それでもロータスの傍へ寄ってきた。左手には丸められた紙のような物を持っている。
「侯爵か? このようなところで何をしている?」
「こちらへ援助しているもので、今日は視察を兼ねて訪問に来たのですよ」
「ああ、そうか……卿がここへ援助を……そうか……」
ステファーヌは何か唸りながら口の中で何かを言っていたが、ロータスの腕を掴み敷地内へ引っ張って行った。野次馬たちはそれを好奇心に満ちた目で見つめている。
「ど、どうしたのですか?」
「いや、あまり市井に聞かせる話ではないからな」
「何かあったのですか?」
ステファーヌは用心深く辺りを見回してから、低い声を更に低くして告げた。
「ここの院長が殺された。三人目だ……」
告げながら左手に持っている三枚目の絵を広げた。