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屋敷の西翼の書庫の前室へ到着するとロータスは入室の署名用の台帳を開いた。出入りする人間は、例え教皇猊下であろうと例外なく監視対象になる。ステファーヌは綺麗な文字で名前を記しながら以前に入室している者の署名へ目を走らせている。だが、頁を捲ってもそこにはロータスの名前以外は見当たらない。
「念のため以前の入室者の記録を見せて頂けるか」
「どうぞ」
ステファーヌの言わんとするところを察したロータスは気恥ずかしそうに、以前の台帳を鍵付きの棚から取り出してテーブルに載せた。それを確認したステファーヌは少々呆れた顔でロータスを見た。
「卿の名前以外見当たらないな」
「ええ……年に四、五人訪れる程度ですので……」
そもそも侯爵家の書庫の閲覧許可は、直接猊下から得なければならないため一般の人間ではなかなか許可が得られない。おまけに、そこまでして閲覧しようと思う人間は稀である。
ステファーヌが頷きながら更にページを捲ると、三か月ほど前のマリニー伯爵の署名がやっと見つかった。最近、薬学に関する論文を発表した人物だ。
「では、マントをお預かりいたします」
ステファーヌは頷くと黙ってロータスに外したマントを差し出した。
「重い……!」
マントを受け取ったロータスはその重さに驚いて取り落しそうになって慌てふためいている。何の素材か分からないが重いマント、更に鎧を装備するとなるとどれだけの重さになるのか。ロータスはそんなことを考えながら引き攣った笑いを浮かべた。
ステファーヌは笑いながらマントを取り上げるとソファに無造作に掛けた。
「申し訳ありません。どうぞ、お入りください」
気を取り直したロータスの後に続いて書庫内に入ると、ステファーヌは薄暗い室内で目を凝らした。壁の高い位置にある窓は掌を広げた程度と随分小さい。
「随分と暗いな」
「ええ。日光に晒されると紙が傷みますし、これだけ小さな窓から侵入できるものはいないでしょうから」
小さな窓へ視線を移すステファーヌは、ああ、と小さく頷いた。それから机に広げられたままの本に手を伸ばした。デフォルメされた挿絵が描かれている童話が数冊。彼が子供の頃に聞かせられた、天使がドラゴンの頭を踏み潰す逸話を思い出させる。彼の幼い頃は――今もだが――聖人の逸話、教え、天の使いの話で満ちていた。他愛無い童話の類でさえ堕落を誘う、と忌避するようになったのはいくつの頃か。
「奥にご所望の類の書物があります」
我に帰ったステファーヌは燭台を持ったロータスに続き書庫の奥へ向かった。奥は更に暗く壁一面が本で埋め尽くされている。そこでロータスは立ち止まり、本棚の隙間の壁の窪みにろうそくの立っていない燭台を置いた。すると、ギギギ、と軋んだ音がして書棚の一部が全面にせり出してきた。
「歯車で動く仕掛けになっているのですよ」
様々な歯数、大きさの沢山の歯車を組み合わせることにより、燭台程度の重さで隠し部屋の入り口が開く仕掛けになっている。ロータスは苦々しい顔のステファーヌに簡単に説明をしながら隠し部屋へと入って行った。
「あっさりと部外者に教えても良いのか?」
「そう仰る方であれば大丈夫でしょう」
事もなげにいうロータスの言葉が、教会の人間ではなくステファーヌ自身を信頼しているように聞こえる。ステファーヌは暗い部屋より尚暗い目で、灯をともすロータスの姿を見つめた。
「こちらにあると思いますが……」
「……ああ」
ステファーヌは簡単に相槌を打ちながら適当に本を取り上げ、表紙を見つめた。表紙だけでも十分冒涜的で禍々しい物に感じられるが、古めかしく威厳のある装丁に自然に扱いは慎重になってしまう。そっと表紙を開いたステファーヌは重要なことに気付き、それを口にするべきかどうか逡巡した。
「……すまん」
「何でしょう?」
「ここにある書物は外国の物であろう?」
ロータスは微笑みながら頷いてから合点が行ったようだ。
隠し部屋の本は翻訳されていない物が多く、学者でなければ読めないものがほとんどだ。ロータスでも読めないだろう。だが、外国の見たこともない記号のような文字を読める必要はない。
「そうですね。原文のままですが、とりあえずはあの絵柄と同じ絵が描かれている本を探せば……」
とりあえず本を見付けてから翻訳すれば良い。
「そうだな……」
遠回しの尤もな意見にそっけなく返事をすると、部屋には静かに頁を捲る音以外はなくなった。
*
「ロレンさんの焼き菓子は美味しいですね!」
「クロヴィス様、食べすぎないようになさってください。クロード様に叱られてしまうんで」
「はい!」
そして、その頃クロヴィスは満面の笑みでロレンの焼き菓子を頬張っていた。
***
「ありましたよ」
二人が探し始めて半刻過ぎたころ、ようやく目当ての本が一冊見つけられた。ロータスが言いながら持ってきた本は現在使われている文字によく似た文字で書かれている。
「教会語で書かれているみたいですね」
「そうだな……これは我が翻訳しよう」
教会語は現在使っている言葉の原型で、神の言語とも呼ばれ教会の人間が使用している言葉――即ちステファーヌが普段使っている言葉なので翻訳も何もない。ロータスは肩を竦めながらそれを彼に預けると再び書棚を漁り始めた。
「まだあるのか?」
「そうですね、少なくとももう一冊はあると思います」
教会語で書かれた本は装丁が綺麗で比較的新しいことが分かる。恐らく翻訳されたものか新たに書かれた物の可能性がある。この手の本には翻訳の間違いや謝った解釈が多く、内容の信憑性に欠けることをロータスは経験で知っている。
錬金術というものによって魔術と呼ばれるものが世迷いごとで覆い隠され、それらが世の中に広まっていった。その中から真実を選り分けて探すのは難しい。
「ああ……! ありましたよ」
程なくしてロータスはもう一冊見つけた。記号のような文字は今は使われていない遥か南方の国の古い文字で、それに関するテキストも所蔵されている。
「翻訳作業に手間取りそうだな……」
「とりあえず、この二冊で十分ですね」
何が目的の犯行か分からないが、あまり時間を掛けていられない。それにはロータスも同意した。
ステファーヌが二冊を重ねて持ち、ロータスは燭台を手に隠し部屋を出た。それから、仕掛けの燭台を外すと書棚は元に戻り何事もなかったかのように隠し部屋は閉ざされた。
机に広げたままの本を片付け、それぞれ挿絵の描かれている頁を広げて教会語の本を載せて貰い、もう一冊は書見台に載せた。