王子様と口なしの洗濯女
(まずったな)
「それ」を見た瞬間、そう思った。
見てはいけない物を見てしまった感が物凄くする。何も見なかったフリをして通り過ぎたかったが、目撃してしまった「それ」とバッチリ目が合ってしまったのだから、しかたない。
心の中でひとつため息をつき、「それ」に向かってそろそろと近寄る。
服のポケットに手を突っ込み、中からまっ白なハンカチを出す。それを目の前の、一回り小さな「それ」に突き出した。警戒心を抱かせない様、出来るだけ優しい笑顔を顔に貼付けるのも忘れない。
「それ」はとても綺麗な顔をしていた。空色の大きく透き通った瞳に、艶やかな黒髪。この顔を知っている。全国民の憧れを一身に受ける、繊細で優美な顔の造形…そう、彼はこの国の王子のひとりだった。いつもは大人顔負けの堂々とした態度と笑顔を貼付けているその顔は、今は年相応に感情を出している。大きく瞳を見開き、固まっている。その瞳の端からは、涙の痕がいくえにも流れていた。
最初は呆気にとられていたその顔が、みるみると羞恥に赤く染まっていく。私が差し出したハンカチは、奪う様にしてとられた。悔しそうに顔を顰め、クソ、と小声で囁くのが聞こえた。自己嫌悪に陥っているらしい。
「…このことは、誰にも言うなよ」
特に異存はないので、私はこくりと頷いておく。
さあ、もうここに用は無い。なんだかとんでもないことに首を突っ込んでしまった気がするので、さっさとトンズラしてしまおう。
私はひとまわり小さな王子様にかるく会釈し、彼が隠れる様にして泣いていた茂みを出た。
「おい」
そのまま立ち去ろうとした瞬間、呼び止められる。振り返ると、恥じらった様に顔を背けた王子様が、流し目でこちらを見ていた。流し目+身長差による上目使い。これはすごい兵器だな。仕事仲間のキャリーが見たら鼻血吹いてぶっ倒れそうである。
「…ありがとう。…お前、名前は?」
聞かれて、困ってしまった。私は咄嗟に周囲を見回し、何か無いか探る。足下に木の枝が転がっていたが、これを使うのもどうなんだろう。不敬にならないだろうか。
しかたない。私は彼に向かってにっこりと笑い、もう一度軽く会釈し、その場を立ち去った。
私は王宮の片隅で働く、しがない洗濯女である。
ある男爵家のメイドの一人娘として生まれ、そのままその家のメイドとして働いていたが、いろいろあって王宮に就職した。
洗濯は好きだ。汚れた物をまっ白に生まれ変わらせるのは、一種の快感である。ありふれていて、地味な上に手は荒れるし、肉体労働だから辛い事もあるが、それでも好きだと言える。それに、私の能力に見合っていると思う。
今日も今日とて、上機嫌に仕事していると、同僚のキャリーが慌てた様にこちらに向かって走ってきた。
「ラズ!…大変!王子様が、あんたを呼んでる。あんた、何したの!?」
嫌な予感、である。
「お前、口がきけなかったんだな」
呼び出され、連れてこられたいつかの茂みの中。到着するなり、彼は私に問いかけた。…「あの」王子様である。
彼の言う通りなので、私は素直に頷いておく。すると、今までじっとこちらを見ていた彼は何故か、ばつの悪そうな顔で視線をそらした。
「…そうか、あの時、名乗らなかったんじゃない。名乗れなかったのか」
彼が落ち込む様に地面を見つめたので、私はふむ、と考え込む。
そしてあの時は使わなかった、足下に転がった木の枝を拾い上げる。すこし考えてから、その枝で地面にゴリゴリと字を書き始めた。
“名乗る事は、出来たんです。こうやって、地面に文字で書けば。でも、あの時はこれが不敬になるのかどうか、わからなくて”
ゴリゴリと地面に文字を綴る私に、王子は大きく目を見開く。そして、私の書いた字を、食い入る様に見つめた。
「お前、字が書けたのか。しかも、無駄に綺麗だな」
王子の驚きは予想できていたので、私は軽く頷く。なんの身分も持たない、ただの洗濯女は普通、文字など書けないものである(自分の名前くらいは別だが)。…しかし、無駄に綺麗とは失礼な。まあ、王子様だからいいか。
“お世話になっていた男爵家の方に教えて頂いたのです。私は口がきけないから、覚えておいて損は無いだろう、と”
それを見た彼は、満足そうに頷いた。
「そうか。…いい家にいたんだな」
はい、そうですね。私にとって、男爵家の人々はかけがえのない、大切な人達である。その大切な人達を褒められた私は、気を良くして上機嫌に笑う。
「…そんなに良い家にいたのに、何故この城に来たんだ?」
何気なく彼が聞いてくるので、私は素直に答える。
“興味があったからです”
私が完結に書いた答えを見て、彼が固まった。首をひねって眉をひそめている。…どうやら、彼には理解しにくい理由で合ったようだ。
「興味があったから?…王宮に?なら、もううんざりしただろう。皆が思っている程、ここは良いところではない。…それどころか、陰謀と血にまみれた、恐ろしいところだ」
そういった彼の空色の瞳には、年齢にそぐわない、ほの暗い闇が垣間みれた。口元はあざ笑うかの様に歪んでいる。
彼は、この王宮という場所を、恨んでいるのだろうか。
誰もが敬い、光り輝く地位にいながらも、満たされないものはあるのかもしれない。
お金があるから、地位があるから、権力があるから。持っていた方がいいかもしれないけれど、持っているからと言って幸せだとは限らない。
逆に、持っていなかったからと言って、不幸だとは限らない。幸せとは、人それぞれだ。それを私は、今まで生きてきた人生の中で実感してきた。
“この城が、美しいだけじゃないことはわかっています。それでも、仕事は楽しいです。仲の良い友人も出来ました。だから私は、この城で働けて幸せです”
私がこの文章を書き終わった瞬間、明らかに王子の顔つきが変わった。
「…幸せ?口がきけないのに?辛くないわけがないだろう。皆が当たり前のように持っているものすら持っていないのに」
その瞬間、私は理解した。彼が私に会いに来た、その意味を。
王子は、自分が不幸だと思っている。だから、口がきけなくて不幸であるはずの私の元へ来たのだ。不幸なのは、自分だけではないのだと、確認する為にここに来た。だから、幸せだと言った私の存在に苛立ちを露にする。
(…悪いわね)
いくら望まれたところで、私が不幸になってやる義理などない。
それでも。
私は改めて王子を見つめる。
彼は、まだこんなにも幼い。
私の身長より、頭一つ分小さな身体。…まだこんなにも小さいのに反して、口にする言葉には熱が無く、どこか諦めが宿っていた。人の行動や態度には、必ず経緯と意味がある。なら、彼をこんなにしてしまう程の、何があったというのだろう。
(…しかたない。少しだけ、おせっかいするか)
私は一度目を伏せ、次いでこう書いた。
“王子、貴方は今、不幸ですか?”
「……っ!?」
王子はこちらを見つめたまま、大きな瞳を更に見開き、瞳を揺らせるばかり。目がキラキラと光って、とても綺麗だと思った。その光がこぼれ落ちる寸前、彼は俯いた。
私は、何も聞かない。聞きたくもない。
“王子、私は幸せです。私には、私なりの幸せがあります”
それでも、小さく震える身体をみて、思う事がある。
“だから、王子は王子なりの、幸せを掴めばいいのです”
「…俺の事など、なにも知らないくせに」
ええ、そうですね。
「……本当に、俺が、掴める日が来ると思うか?……俺は、幸せになっていいのか?」
この子に、何があったのかなんて、全然知らない。知ろうとも思わない。
だけどこんな私にも、一つだけ、自信をもって言える事がある。
だから私は笑った。できるうる限りの、満面の笑みで。
“ええ、もちろん。私たちは、幸せになる為に生まれてきたのですから!”
———少なくとも、私はそう考えている。
誰がなんと言おうと、これは私の、確固たる持論である。
***
ふと目が覚めると、膝に重みを感じた。
その重みの原因を見下ろせば、私のジンジンと痺れる太ももの上に頭を乗っけて、スヤスヤと気持ち良さそうに寝息を立てる王子がいた。
(本当に、気持ち良さそうに寝るな…)
普段はあんなに偉そうなくせに、寝顔だけは年相応にあどけない。それが微笑ましくて、私は柔らかくて肌触りの良い彼の黒髪を、優しく撫でた。撫でたついでに、自分の手に目が止まる。思えば、この手も王子に出会ってから、大分マシなものになった。王子が、仕事で荒れた私の手を気遣って、クリームをくれたせいだ。
ここは、彼と出会ったあの茂みの近くにある湖のほとりにある、小さなベンチの上である。ある日突然王子が設置したこの小さなベンチは、いつの間にか、私たちがまったりと過ごす場所になっている。
目を閉じると、心地よい森の音がする。膝の上には、王子がいて。
ああ、幸せだなあ、と思った。いつのまにか、王子といる時間が、幸せの一部になっている。
『お前といる時間が、俺の幸せだ』
彼が、そう穏やかに笑った事を覚えている。
ええ、そうですね、王子。私も、あなたといる時間が、こんなにも幸せ。
いつか終わりがくることは、わかりきっている。
だから……いつかくるその日まで、貴方が望む限りは、側にいる。
「う…」
王子が、膝の上でモゾモゾと動きだす。瞼がゆっくりと開き、空色の瞳に私を映し出す。そして、眩しい物でも見る様に、微かに瞳が細められた。
「…おはよう、ラズ」
貴方といる時間。これが今の私の———私なり、の幸せ。