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第9話 生きるための力

 居住スペースの静寂の中で、誠一は自身の喉が焼けるように渇いていることに気づいた。


 怪我こそ負っていないが、極限の緊張状態での戦闘が、彼の体内から水分を奪い去っていたのだ。


 彼は、先ほど魔物の亡骸から変換した『ポーション』を手に取った。


 小瓶の中の液体は、一見するとただの水のようにも見える。

 だが、これは紛れもなく、さっきまで自分を殺そうとしていた獣の成れの果てだ。


「……本当に、飲んで大丈夫なのか?」


 現代日本人としての倫理観と衛生観念が、本能的な警告を鳴らす。


 この部屋の設備にはシャワーもトイレもあり、水も出る。

 だが、それらはこの得体のしれない迷宮の製作者から提供されたものだ。いつ供給を止められるか分からないし、毒を盛られる可能性だってゼロではない。


「トイレの水は論外だ。シャワーの水だって、いつまで出るか……。それに対して、この瓶の中身は自分のスキルから生まれたものだ。不気味だが、少なくとも誰かの悪意は混じっていない……はずだ」


 誠一は、光に透かして瓶をじっと見つめ、数秒の沈黙の後――

 意を決してその液体を喉に流し込んだ。


「……。ふむ、普通の水だな」


 意外にも、味や臭いは一切なかった。


 だが、飲み干した直後、胃の底から爆発的な熱が全身へ広がった。

 冷え切っていた指先にまで血が巡り、魂のひび割れが埋まっていくような、暴力的なまでの活力の横溢おういつ


 ステータスを確認すると、削れていたHPとMPが全快していた。


「……なるほど。これがポーションの効果か。体が、軽いな」


 誠一は小さく独り言ちると、鈍い光を放つ剣を腰に差し直し、再び安全地帯の光の外へと足を踏み出した。



 ***


 迷宮の奥、先ほどと同じ広い空間に、再びシャドーラビットが姿を現した。

 今度は、奥の手である『斬撃』を使わずに戦うことを選ぶ。


 限られた魔力を温存し、自分の素の技量がどこまで通用するかを試すためだ。


(さて……鈍りまくっている中年の身体能力で、どこまでやれるか)


 剣を抜く。

 金属が擦れ合う音が反響し、冷たい鋼の感触が、汗ばんだ手のひらにしっくりと馴染む。


 魔物が地を蹴った。

 その脚力は凄まじく、鋭い爪が空気を引き裂く。


(……見える。動きが、スローモーションのように分かるぞ)


 誠一は、最小限の動きでその突進をかわし、カウンターの軌道で剣を振るった。


 ザシュッ!!


 刃が毛皮を裂き、肉の弾力を通って骨にまで届く。

 生々しく、粘り気のある抵抗感。だが、魔力で威力を底上げしていない一撃では、巨大な魔物を仕留め切るには至らない。


 誠一は即座に体をひねり、剣を引き戻す。

 刃が肉から抜ける際、返り血がスーツの袖を汚したが、今の彼にはそれを厭う余裕はなかった。


 モンスターも即座に体勢を立て直し、誠一を睨みつける。

 その紅い瞳には、痛みを凌駕するほどの剥き出しの殺意が宿っていた。


 獣の威圧感に、一瞬だけ誠一の心がすくむ。


 一メートルを超える異形、立ち昇る黒い霧のような邪気。

 平和な日本で生きてきた男にとって、それは腰を抜かして逃げ出したくなるほどの絶望的な光景だ。


(くっ、……怖いな、やっぱり)


 心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴から冷や汗が吹き出す。


 だが―― 

 その恐怖を塗り潰すように、スキル『剣術』が誠一の肉体を支配した。

 脳が「逃げろ」と叫んでも、筋肉は「敵を殺せ」という最適解を選び取る。


(落ち着け……。型は体が覚えている。大丈夫だ)


 誠一は腰を深く落とし、足の裏で地面の凹凸を捉える。

 シャドーラビットが最後の力を振り絞り、最大出力で跳躍した。


 殺意の弾丸と化した魔物が迫る。


 ドッ!

 誠一は、その突進を逆手に取るように、剣を真っ直ぐに突き出した。


 ズッ!!

 鈍く、重い衝撃が腕を伝う。

 刃は魔物の胸の中央を正確に捉え、そのまま心臓を貫通した。


 魔物の自重による加速が、誠一の腕を折らんばかりに圧迫する。


 一瞬、洞窟の時間が静止した。

 目前にある魔物の瞳から、徐々に生命の光が消えていく。やがて力なく崩れ落ちた亡骸を見て、誠一はようやく剣を引き抜いた。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 肩を上下させ、荒い息を吐き出す。

 スーツは汚れ、全身が疲労で重いが、胸の奥には確かに「生存」を掴み取った達成感があった。


 彼は、温かな亡骸に手をかざす。


「劣化交換」


 死体が青白い光に溶け、次の瞬間―― 

 無機質な岩の上に、一斤の『パン』が現れた。


 同時に、頭の中に「4ポイント獲得」という感覚が弾ける。


 巨大な魔物を、一斤のパンへと「劣化」させたことで生じた、膨大なエネルギーの差分。


 それがおつりとなって、誠一にスキルポイントをもたらしたのだ。

 この『おつり』こそが、彼がこの世界で成り上がるための、最強の資本になることを、彼はまだ完全には理解していなかった。



 ***


「そういえば、食事のことなんて考えてなかったな。ちょうどいい」


 手の中にあるパンは、温もりこそないが、香ばしい小麦の匂いがした。

 王宮から与えられる屈辱的な配給を待つ必要はない。


 自分の訴えを無視した者たちに頼らずとも、自力で生きていける。

 その事実は、誠一の折れかけていた自尊心を、静かに補強していった。


 居住スペースに戻り、テーブルにパンを置く。

 そして風呂場に行き、シャワーで手を洗う。


 誠一は椅子に座り、小さく両手を合わせた。


「いただきます」


 最後にこの言葉を言ったのは、いつだったか。


 妻がいて、娘がいて、明るい食卓があったあの日。

 すべてを失い、死を選ぼうとしていた男が、異世界の地下深くで再び「食」に向き合っている。


 パンは少しパサついていて、飲み込むには水が必要だった。

 それでも、誠一は一口ずつ、噛みしめるように味わった。

 腹が満たされるにつれ、凍りついていた心臓が、再び熱を持って脈打ち始める。


「……悪くないな」


 パンを食べ終え、ベッドに横たわると、抗いがたい眠気が襲ってきた。

 洞窟の静寂は、今や彼にとって安らぎのBGMだった。


 少しずつ、本当に一歩ずつ。

 誠一は、この異世界の暗闇の中で、再び「生きる」という重みを、その身に受け入れ始めていた。

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