第8話 初戦
地下迷宮の第一階層。
そこは、静寂そのものが質量を持って押し寄せてくるような、重苦しい空間だった。
天井からは正体不明の粘液が滴り、岩肌を伝う水音が、広大な闇の奥で幾重にも反響している。
すべてを見通すことは叶わないが、暗がりの向こう側には、明らかにこの世界の住人ではない「異物」がうごめいていた。
誠一は、奥歯を噛み締めながら『遠視』のスキルを発動させた。
視界の明度が不自然に上がり、遠方の闇に潜む魔物の輪郭が、熱源をなぞるようにぼんやりと浮き上がってくる。
鋭い牙、不規則な呼吸、そして獲物を探るような狡猾な動き。
そのいくつかが、明らかに誠一の存在を察知し、ぎらついた視線をこちらへ向けていた。
「俺の姿に気づいているな。だが……あそこから先には、踏み込んでこない」
誠一は、一度だけ背後を振り返った。
岩壁に埋め込まれた光る石が、居住スペースの入り口を柔らかな琥珀色の光で守っている。その光の届く範囲は、魔物たちが本能的に忌避する「聖域」となっているようだった。
だが、それは同時に、その安寧から一歩でも踏み出せば、即座に弱肉強食の理に放り込まれることを意味していた。
誠一は、震える手で剣の柄を握り直し、死地へと続く境界線を越えた。
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居住スペースから離れるほどに、空気は重く、冷たく、獣特有の饐えた匂いが強くなっていく。
足元の小石を革靴の底が踏むたびに、パキッという乾いた音が迷宮の静寂を乱した。その音さえもが、空腹を抱えた魔物たちへの合図に聞こえてしまい、誠一の背中を嫌な汗が伝い落ちる。
(……いる。確実に、距離を詰められている)
何度も背後を振り返り、岩陰のわずかな揺らぎに怯えながら、誠一は慎重に歩を進めた。スーツの肩口が強張り、早鐘を打つ心臓の音が耳元でうるさいほどに響く。
その時、漆黒の影が地面を滑るような速度で、誠一の視界を横切った。
この階層の狩人――
シャドーラビット。
体長一メートルを超える巨大な体躯に、血の色を煮詰めたような紅い双眸。
長く尖った耳がピクリと動き、鋼のような脚力が地面を爆ぜさせた。
(うわっ……、来た!!)
誠一は、半分は悲鳴に近い声を漏らしながら剣を抜いた。
手のひらは脂汗で滑り、心臓は喉元を突き破らんばかりに跳ね上がっている。
逃げ出したい。
叫び出したい。
本能が「死」を予感して激しく警報を鳴らす。
しかし――
そのパニックとは裏腹に、身体は驚くほど静かに、そして鋭く反応した。
剣を構えた瞬間、腕の角度、足の踏み込み、重心の移動が、まるで熟練の剣士が乗り移ったかのように完璧に定まる。
頭の中が恐怖で白く塗り潰されているのに、指先の一本一本に至るまで、スキル『剣術』が誠一を「最適な戦闘機械」へと変貌させていた。
(怖い……死ぬほど怖いのに、身体が勝手に……!)
赤い眼光が肉薄する。
魔物が跳ね、その鋭い爪が誠一の喉笛を狙う。
刹那、誠一は一切の迷いなく、鋼の刃を振り下ろした。
***
刃が空気を割る鋭い風切り音が響き、次の瞬間、手に伝わったのは「生命」を断つための凄惨な手応えだった。
毛皮を裂き、柔らかな肉を両断する。
だが、その快音は途中で鈍く止まった。
刃が魔物の硬質な骨に食い込み、ずっしりとした抵抗が誠一の腕を痺れさせる。
誠一は、魂の底から絞り出したような声を上げ、力任せに剣を押し切った。
ザシュッ!!
肉が千切れ、骨が砕ける生々しい感触と共に、剣先が魔物の胴体を完全に通り抜けた。
一撃。
――文字通りの必殺。
それは、ただのサラリーマンであった誠一には、天地がひっくり返っても不可能なはずの精度と破壊力だった。
シャドーラビットは、断末魔の叫びを上げる暇もなく地面に叩きつけられた。
切断面からは暗い色の血が溢れ、大理石のような床を汚していく。
誠一は剣を構えたまま、荒い呼吸を繰り返した。
目の前の死体は、まだ微かに痙攣を繰り返し、生命の名残を振り撒いている。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
初めて命を奪った瞬間の高揚と、生理的な嫌悪感。
それらが綯い交ぜになって誠一の胸を掻き乱す。
***
これまで一度も暴力に縁のなかった男が、なぜこれほどまでに鮮やかに動けたのか。
答えは、脳の奥に焼き付けられたスキルの知識が知っていた。
『剣術』――筋肉の収縮すら制御し、最短経路で敵を殺すための技法。
『斬撃』――鋼に魔力を乗せ、威力を増強した剣撃。
この「借り物の力」が、誠一を異世界における「兵士」へと無理やり引き上げたのだ。
「……さて、これをどうするか」
足元に転がる、巨大な肉の塊。
誠一はふと、自身の内に秘められた、もう一つの「スキル」を試してみたくなった。
『劣化交換』――価値を削り、形を変える歪な等価交換。
彼は、まだ温もりを失っていない魔物の亡骸に、震える手をかざした。
「……劣化交換」
死体が淡い、不吉な光に包まれる。
次の瞬間、巨大な肉塊は霧のように消え去り、そこには一本の、小さなガラス瓶が転がっていた。
中には、怪しく澄んだ青い液体が満ちている。
「……これは、薬か?」
見た目こそ安っぽいが、それは紛れもない回復アイテム――
ポーションだった。
さらに、誠一の脳内に無機質な感触が流れ込む。
(……? 今、何かが増えたような……)
彼は気づいていなかったが、この時、彼の魂には3ポイントの「スキルポイント」が刻まれていた。
魔物の命とポーション一個では、あまりに価値が不釣り合いだった。
その「劣化の差分」が、この世界の理によって“おつり”として彼に還元されたのだ。
誠一は、その瓶を大切に拾い上げ、居住スペースへと戻った。
安全地帯の柔らかな光に包まれた瞬間、安堵感で膝が崩れ落ちる。
ステータスウィンドウを呼び出すと、そこには明確な変化が記されていた。
『剣術』と『斬撃』がレベル2に上昇し、さらに、本来なら得られるはずのないポイントが「3」加算されている。
「外に出て、戦えば……強くなれる。……本当に、ゲームみたいだな」
誠一は、血の付いた剣の柄を、じっと見つめた。
戦うたびに、人間としての何かが削れ、代わりに「武器」としての純度が上がっていく。
その事実に薄ら寒い恐怖を感じながらも、彼は自分の中に、家族の無念を晴らすための「道」が拓かれたことを、確かに確信していた。
「少しずつ……、一歩ずつだ」
誠一は、血の匂いが染み付いたスーツの袖で額の汗を拭った。
その瞳には、絶望を燃料にして燃え上がる、静かで苛烈な復讐の灯が宿り始めていた。




