表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/22

第8話 初戦

 地下迷宮の第一階層。

 そこは、静寂そのものが質量を持って押し寄せてくるような、重苦しい空間だった。


 天井からは正体不明の粘液が滴り、岩肌を伝う水音が、広大な闇の奥で幾重にも反響している。

 すべてを見通すことは叶わないが、暗がりの向こう側には、明らかにこの世界の住人ではない「異物」がうごめいていた。


 誠一は、奥歯を噛み締めながら『遠視』のスキルを発動させた。


 視界の明度が不自然に上がり、遠方の闇に潜む魔物の輪郭が、熱源をなぞるようにぼんやりと浮き上がってくる。

 鋭い牙、不規則な呼吸、そして獲物を探るような狡猾な動き。

 そのいくつかが、明らかに誠一の存在を察知し、ぎらついた視線をこちらへ向けていた。


「俺の姿に気づいているな。だが……あそこから先には、踏み込んでこない」


 誠一は、一度だけ背後を振り返った。


 岩壁に埋め込まれた光る石が、居住スペースの入り口を柔らかな琥珀色の光で守っている。その光の届く範囲は、魔物たちが本能的に忌避する「聖域」となっているようだった。


 だが、それは同時に、その安寧から一歩でも踏み出せば、即座に弱肉強食の理に放り込まれることを意味していた。

 誠一は、震える手で剣の柄を握り直し、死地へと続く境界線を越えた。



 **


 居住スペースから離れるほどに、空気は重く、冷たく、獣特有のえた匂いが強くなっていく。


 足元の小石を革靴の底が踏むたびに、パキッという乾いた音が迷宮の静寂を乱した。その音さえもが、空腹を抱えた魔物たちへの合図に聞こえてしまい、誠一の背中を嫌な汗が伝い落ちる。


(……いる。確実に、距離を詰められている)


 何度も背後を振り返り、岩陰のわずかな揺らぎに怯えながら、誠一は慎重に歩を進めた。スーツの肩口が強張り、早鐘を打つ心臓の音が耳元でうるさいほどに響く。


 その時、漆黒の影が地面を滑るような速度で、誠一の視界を横切った。


 この階層の狩人――

 シャドーラビット。


 体長一メートルを超える巨大な体躯に、血の色を煮詰めたような紅い双眸。

 長く尖った耳がピクリと動き、鋼のような脚力が地面を爆ぜさせた。


(うわっ……、来た!!)


 誠一は、半分は悲鳴に近い声を漏らしながら剣を抜いた。

 手のひらは脂汗で滑り、心臓は喉元を突き破らんばかりに跳ね上がっている。


 逃げ出したい。

 叫び出したい。


 本能が「死」を予感して激しく警報を鳴らす。


 しかし――

 そのパニックとは裏腹に、身体は驚くほど静かに、そして鋭く反応した。


 剣を構えた瞬間、腕の角度、足の踏み込み、重心の移動が、まるで熟練の剣士が乗り移ったかのように完璧に定まる。


 頭の中が恐怖で白く塗り潰されているのに、指先の一本一本に至るまで、スキル『剣術』が誠一を「最適な戦闘機械」へと変貌させていた。


(怖い……死ぬほど怖いのに、身体が勝手に……!)


 赤い眼光が肉薄する。

 魔物が跳ね、その鋭い爪が誠一の喉笛を狙う。


 刹那、誠一は一切の迷いなく、鋼の刃を振り下ろした。



 ***


 刃が空気を割る鋭い風切り音が響き、次の瞬間、手に伝わったのは「生命」を断つための凄惨な手応えだった。


 毛皮を裂き、柔らかな肉を両断する。

 だが、その快音は途中で鈍く止まった。


 刃が魔物の硬質な骨に食い込み、ずっしりとした抵抗が誠一の腕を痺れさせる。


 誠一は、魂の底から絞り出したような声を上げ、力任せに剣を押し切った。


 ザシュッ!!

 肉が千切れ、骨が砕ける生々しい感触と共に、剣先が魔物の胴体を完全に通り抜けた。


 一撃。

 ――文字通りの必殺。


 それは、ただのサラリーマンであった誠一には、天地がひっくり返っても不可能なはずの精度と破壊力だった。


 シャドーラビットは、断末魔の叫びを上げる暇もなく地面に叩きつけられた。

 切断面からは暗い色の血が溢れ、大理石のような床を汚していく。


 誠一は剣を構えたまま、荒い呼吸を繰り返した。

 目の前の死体は、まだ微かに痙攣を繰り返し、生命の名残を振り撒いている。


「はぁ、はぁ、はぁ……っ」


 初めて命を奪った瞬間の高揚と、生理的な嫌悪感。

 それらがい交ぜになって誠一の胸を掻き乱す。



 ***


 これまで一度も暴力に縁のなかった男が、なぜこれほどまでに鮮やかに動けたのか。


 答えは、脳の奥に焼き付けられたスキルの知識が知っていた。


 『剣術』――筋肉の収縮すら制御し、最短経路で敵を殺すための技法。

 『斬撃』――鋼に魔力を乗せ、威力を増強した剣撃。


 この「借り物の力」が、誠一を異世界における「兵士」へと無理やり引き上げたのだ。


「……さて、これをどうするか」


 足元に転がる、巨大な肉の塊。

 誠一はふと、自身の内に秘められた、もう一つの「スキル」を試してみたくなった。


 『劣化交換』――価値を削り、形を変える歪な等価交換。


 彼は、まだ温もりを失っていない魔物の亡骸に、震える手をかざした。


「……劣化交換」


 死体が淡い、不吉な光に包まれる。

 次の瞬間、巨大な肉塊は霧のように消え去り、そこには一本の、小さなガラス瓶が転がっていた。


 中には、怪しく澄んだ青い液体が満ちている。


「……これは、薬か?」


 見た目こそ安っぽいが、それは紛れもない回復アイテム――

 ポーションだった。


 さらに、誠一の脳内に無機質な感触が流れ込む。


(……? 今、何かが増えたような……)


 彼は気づいていなかったが、この時、彼の魂には3ポイントの「スキルポイント」が刻まれていた。


 魔物の命とポーション一個では、あまりに価値が不釣り合いだった。

 その「劣化の差分」が、この世界の理によって“おつり”として彼に還元されたのだ。


 誠一は、その瓶を大切に拾い上げ、居住スペースへと戻った。

 安全地帯の柔らかな光に包まれた瞬間、安堵感で膝が崩れ落ちる。


 ステータスウィンドウを呼び出すと、そこには明確な変化が記されていた。

 『剣術』と『斬撃』がレベル2に上昇し、さらに、本来なら得られるはずのないポイントが「3」加算されている。


「外に出て、戦えば……強くなれる。……本当に、ゲームみたいだな」


 誠一は、血の付いた剣の柄を、じっと見つめた。

 戦うたびに、人間としての何かが削れ、代わりに「武器」としての純度が上がっていく。


 その事実に薄ら寒い恐怖を感じながらも、彼は自分の中に、家族の無念を晴らすための「道」が拓かれたことを、確かに確信していた。


「少しずつ……、一歩ずつだ」


 誠一は、血の匂いが染み付いたスーツの袖で額の汗を拭った。

 その瞳には、絶望を燃料にして燃え上がる、静かで苛烈な復讐の灯が宿り始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ