第6話 試練の報酬
誠一の精神は、すでに底の抜けた虚無の器と化していた。
無実の罪を着せられ、世界中から石を投げられるような仕打ちを受けながらも、不思議と怒りは湧き上がってこない。
ただ、長年使い古された雑巾が擦り切れるように、彼の感情は摩耗し、枯れ果てていた。
彼は、湿り気を帯びた洞窟の奥へと、重い足を引きずるように進んでいた。
この先に、命を刈り取る魔物が潜んでいるという。
ならば、抗うことなくその顎に身を委ねてしまえばいい。それだけが、今の彼に残された唯一の、そして最後の目的だった。
暗い道が、どこまでも続く。
剥き出しの岩壁は絶えず汗をかいたように湿り、そこかしこに毒々しい色の苔がへばりついている。
天井は低く圧迫感があり、巨大な獣の胎内を這っているような錯覚に陥る。
土と石が混ざり合った、饐えた匂いが鼻腔を突き、一歩踏み出すたびに、小石が弾ける乾いた音が「生への未練」を嘲笑うかのように響き渡った。
やがて、その足音さえも呑み込むような、深淵の静寂が訪れる。
視界の最奥に、心臓の鼓動に似た微かな光が浮かび上がった。
***
洞窟の行き止まりは、歪な円形を成す広大な石室となっていた。
自然の浸食ではあり得ないほど滑らかに削られた壁面。
その中央に、古の祭壇を思わせる巨大な石の塊が鎮座している。周囲の床には、人の理解を拒むような複雑な幾何学文様が刻まれ、かつてここが“神聖なる試練の場”であったことを無言で主張していた。
石は淡い青白い光を放ち、脈動するたびに誠一の痩せこけた影を床に長く伸ばす。
吸い寄せられるように誠一がその表面に触れた瞬間、骨の髄まで震わせるような重々しい声が、脳内に直接響き渡った。
『――汝の願いを言うがよい』
その声は、空間全体を振動させる圧倒的な重圧を伴っていた。
誠一は、ひび割れた唇を震わせ、反射的に応じる。
「願い、か……。それなら……何者かに殺された、妻と娘を生き返らせてくれ。家族の笑顔を、もう一度……」
一瞬、凍りつくような沈黙が流れた。
だが、石の返答は、あまりにも冷徹な理に満ちていた。
『……叶えることの出来る願いは、我の力の及ぶ範疇のみ。因果を遡り、既にこの世を去った魂を呼び戻すことは叶わぬ。他の願いを言うがよい』
淡い期待は、残酷な現実によって一瞬で踏みにじられた。
見張りの兵士が嘯いた「どんな願いも」という言葉が、虚しく耳の奥で反響する。
奇跡を司る装置ですら、誠一の最愛を救い出すことはできなかった。
誠一は、力が抜けたように石から手を離そうとした。
***
「なんだ……。結局、俺には……何も、残されていないんだな」
願いなど、もうない。
絶望の先にあるのは、ただの終わりだ。
そう自分に言い聞かせ、身を翻そうとしたその時。
彼の胸の奥底に、鋭い棘のような痛みが走った。それは、彼が絶望のあまり無理やり蓋をしていた、執念という名の猛火だった。
「……待て。それなら――これならどうだ」
誠一の瞳に、冷たく昏い光が宿る。
「妻と娘を惨殺した犯人……。そして、背後で糸を引く黒幕がいるなら、その者たちも。漏れなく警察に捕まってほしい。俺がこの世界に消えた――あの日から、三日以内にだ」
自分は異世界に召喚されたらしい、だが――
元の世界では、行方不明の殺人容疑者だ。
もしこのまま真実が闇に葬られれば、警察の捜査は「逃亡した誠一」を追うことに浪費され、真犯人はのうのうと、誰の返り血も浴びなかったかのように日常を過ごすことになる。
三日以内。
それは、世間の関心が薄れ、情報の鮮度が落ちる前の限界時間だ。
数十年後に真実が判明しても意味はない。今、この瞬間に奴らの平穏を粉砕しなければならない。
誠一の剥き出しの願いに応じるように、洞窟が激しく鳴動した。
地響きと共に奥の岩壁が崩れ、奈落へと続く漆黒の階段が姿を現す。
『――その願い、理の書き換えが必要となる。対価として、地下三階層へ至り、そこに巣食う階層主を討て』
石の声が、盟約の成立を告げる。
魔物を討伐したその瞬間、因果の糸は編み直され、誠一の失踪から三日以内に真犯人が捕縛される――。
死を願っていたはずの男の足に、鉄のような重みと、確かな力が宿った。
誠一は、一歩ずつ、死地へと続く階段を踏みしめていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
この場所は、古来より「願いを叶える魔法装置」として、ある時は聖杯、ある時は悪魔の誘惑として語り継がれてきた禁断の地である。
リュゼストの初代王は、この強大すぎる力を独占するため、装置の真上に王城を築き、その存在を歴史の闇に葬った。
現在、この装置の真実を知るのは王国の最高幹部のみだ。
王ヴァルデリオ三世は、玉座に深く腰掛け、傍らに控えるセルディアと密やかに言葉を交わしていた。
「王よ。よろしかったのですか? あの男に、試練の扉を開かせて」
「案ずるな。あの男の魂には、利用しやすい“善性”が染み付いておった。典型的なお人好しだ。たとえ力を得たとしても、我らに牙を向く器ではない」
王の口角が、卑俗な愉悦に歪む。
「……あの転移者の娘が吐いた嘘など、余のスキルで見抜くのは造作もない。少女の心には泥のような邪悪さが渦巻いておったわ。だが、ちょうど良かったのだ。駒を試練に放り込む口実としてはな」
王にとって、誠一は最初から捨て駒に過ぎなかった。
無実を知りながら地下牢へ突き落としたのは、単なる実験だ。
「生き残れば忠実な猟犬として使い、死ねばそれまで――どちらに転んでも、余の掌の上よ」
王の冷ややかな笑い声が、豪華な広間に響く。
そこには、異世界に希望を抱く若者たちへの期待も、絶望した誠一への憐れみも、微塵も存在しなかった。
あるのはただ、弱者を踏み台にして盤面を動かす、支配者としての冷徹な計算だけだった。




