第46話 災害の収束
屋根を力強く蹴り、誠一は重力に身を任せて虚空へと躍り出た。
眼下には、瓦礫と粉塵にまみれた激戦の地が、まるで地獄の縮図のように広がっている。
ヒュオオオオオッ!
耳元で風が猛烈に唸る。
普通の人間ならば足がすくみ、呼吸を忘れるほどの高度。だが、数多の死線を越えてきた誠一の心に、もはや「高さ」への恐怖は存在しなかった。
石畳の地面が、猛スピードで視界に迫る。
――ダンッ!!
重い着地音が響き渡る。
だが、誠一の足裏に痺れはない。
スキル《落下耐性》。
高所からの致命的な衝撃さえも霧散させるその力が、誠一の肉体を完璧に守護していた。彼は膝のクッションだけで着地の反動を殺すと、顔を上げることなく、弾かれたように走り出した。
目指すは、北西の防衛線。
崩落した王都の「傷口」だ。
近づくにつれ、鼻を突く悪臭が密度を増していく。
土埃の乾燥した匂い、内臓の腐臭、そして濃厚で鉄錆びた血の臭い。
「オラァッ! 押し返せ! ここを抜かれたら終わりだぞ!」
「だめだ、数が多すぎる! 右翼が崩れる、防ぎきれん……ッ!」
怒号、悲鳴、そして乾いた剣戟の音が混然一体となって鼓膜を叩く。
そこはまさに、地獄の釜の蓋が開いたような惨状だった。
崩落した城壁の隙間を埋めるように、瓦礫や家財、そして――。
無念にも命を落とした戦士たちの遺体が積み上げられ、即席のバリケードが築かれていた。
生き残った兵士たちは、泥と鮮血にまみれながら、裂け目から絶え間なく溢れ出してくる魔物の群れに、折れかけた槍を必死に突き出していた。
(よく持ちこたえている……。だが、それも限界か)
魔族によって統率された、容赦のない波状攻撃。
兵士たちの瞳には色濃い疲労が沈み、その腕はもはや鉛のように重くなっているはずだ。
「グルルァアアッ!」
一匹のオークが、最前線の兵士の盾を強引に弾き飛ばし、巨大な棍棒を振り上げた。
兵士が死を悟り、静かに目を瞑った――
その瞬間。
「――《空波斬》」
誠一は走り抜けざまに、『白兎牙』を静かに閃かせた。
ヒュンッ!
風を切り裂く微かな音と共に、不可視の刃が戦場を疾走する。
オークの首が言葉を失って宙を舞い、その背後にいたゴブリンの群れまでもが、まるで最初からそうであったかのように一斉に上下へと泣き別れた。
「え……?」
兵士が呆然と目を開ける。その視線の先で、誠一は止まることなく、機械的なまでに正確な動作で刀を振るい続けた。
シュッ、ザンッ、スパァン!
正確無比な斬撃の雨。
誠一が通った軌跡にいた魔物たちは、断末魔を上げる暇すら与えられずに絶命し、肉塊となって折り重なっていく。
わずか一分とかからなかった。
雪崩のように押し寄せていた魔物の軍勢は、一陣の風に吹き飛ばされたかのように、呆気なく沈黙した。
誠一は慣れた手つきで血振るいをし、刀を鞘に納めると、瓦礫の山――
即席バリケードの頂上へと軽やかに飛び乗った。
辺りを支配するのは、圧倒的なまでの静寂。
兵士たちは、突如として降り立ったこの「救世主」を理解できず、亡霊でも見るような目で誠一を仰ぎ見ていた。
(さて、状況は……)
誠一はバリケードの上から、城壁の外側を冷徹に見下ろした。
遠方、血の匂いを嗅ぎつけたハイエナのごとき魔物たちがこちらを目指しているのが見える。だが、先ほどまでの統制された動きではない。
(これからどう動くのが最善だ?)
都の中にはまだ散発的に魔物が残っているだろうが、そちらはマリーヌ率いる本隊が掃討戦を進めている。誠一が今さら雑魚狩りに戻るよりも、ここで「栓」をする方が戦略的価値は高い。
(俺はこの場所の守りを固める。ここで蓋をしておけば、中の掃除はマリーヌ様たちが終わらせてくれるはずだ)
魔族姉妹という最大の脅威はすでに排除した。
あとは単なる残務処理に過ぎない。
誠一が方針を固めて一息ついていると、バリケードの下から恐る恐る、掠れた声が上がった。
「あ、あの……! 助太刀、感謝いたします! 貴殿は……どこかの冒険者殿ですか?」
声をかけたのは、守備隊の指揮官らしき男だった。
片目を包帯で巻き、鎧は見る影もなくボロボロだが、その瞳には誠一への純粋な畏敬の念が宿っていた。
「そのようなものです。今は姫騎士マリーヌ様に雇われ、魔物掃討に尽力しております。……安心してください。姫様は近衛騎士を率いて、すぐそこまで来ています」
「おお……! 姫様が!」 「我々は……勝ったのか!?」
誠一の言葉は、乾いた大地に染み込む水のように、瞬く間に兵士たちの間に広がった。
絶望の淵にいた者たちの顔に、ようやく生気が戻る。
終わりの見えなかった悪夢が、今、ようやく覚めようとしていた。
***
それから間もなくして、勇壮な蹄の音が到着した。
「誠一殿! それに皆の者、よくぞ耐えてくれた。心から礼を言うぞ!」
白馬からしなやかに降り立ったマリーヌが、労いの言葉をかける。
その凛とした、それでいて慈愛に満ちた声を聞き、緊張の糸が切れたのか、屈強な男たちがその場に泣き崩れた。マリーヌの到着に合わせ、誠一は後衛にいた静とも合流を果たした。
「誠一殿、一度休息を取ってくれ。この場の守備と外壁の応急修繕は、我らが引き受ける」
マリーヌのテキパキとした指示により、工兵たちが動き出す。
魔物の死体は外へと運び出され、新たなバリケードの一部となり、王都の「傷口」が着実に塞がれていく。
(負った傷は大きい。だが、この人がいれば……)
一人一人の兵士の肩を叩き、励まして回るマリーヌの姿を見て、誠一は確信した。
この国は、必ず再び立ち上がれる。
***
城壁の傍らに、軍用テントが設営された。
即席の救護所兼、司令部だ。
中には簡素な長机と椅子が置かれ、血と泥の匂いを打ち消すように、温かなハーブティーの香りが漂っている。
「ふぅ……」
誠一は椅子に深く腰掛け、出された茶を一口啜った。
温かさが内臓に染み渡り、ようやく、戦闘モードから日常へと精神のスイッチが切り替わる感覚があった。
「誠一殿、本当に助かった。貴殿がいなければ、王都は今ごろ火の海に沈んでいただろう」
「いえ、俺で役に立てたのなら光栄です。……あ、そうだ」
誠一は思い出したように、テントの入り口付近へと視線を向けた。
そこには、兵士たちが運び込んだ魔物の死体がうずたかく積み上げられていた。焼却処分を待つ、肉の山だ。
「あの死体、俺が処理してもいいですか? 俺か神代さんが仕留めた魔物なら、直接素材に変換できるんです」
「素材、ですか? 剥ぎ取りをするには、今の我々には時間が……」
「いえ、一瞬ですよ」
誠一は席を立つと、死体の山へ無造作に手を触れた。
固有スキル《劣化交換》。
――ポンッ、ポンッ、ポンッ!
小気味よい破裂音と共に、グロテスクなオークやゴブリンの遺体が、淡い光の粒子となって弾けた。
次の瞬間、そこには清潔に瓶詰めされた青い液体――ポーションの山や、加工済みの干し肉、丁寧になめされた革が転がっていた。
「なっ……!?」
マリーヌが絶句し、茶器を取り落としそうになる。
血なまぐさい腐乱死体が、一瞬で「清潔な備蓄品」へと変貌する光景は、もはや魔法を超えて手品の域だ。
「こ、これは……ポーションか? それに食料まで……」
「はい。迷宮ではこうやって物資を現地調達してました。これなら死体の処理も要らないし、怪我人の治療薬も確保できる。一石二鳥ですよね?」
誠一は「いいことを思いついた」と言わんばかりの屈託のない笑顔で振り返る。
しかし、対照的にマリーヌの顔色は驚愕で青ざめていた。
「流石は異世界人……いや、それを通り越して規格外すぎる」
マリーヌはこめかみを指で押さえた。
疫病の元となる死体が出ない上に、ポーションが無限に生成されるなど、国家の経済バランスすら揺るがしかねない禁忌級の能力だ。
「誠一殿。……その力はあまりにも強大だ。余人に知られれば、国同士の奪い合い……戦争になりかねん。ここでの作業は内密に、このテント内だけで行ってくれ」
「あ、はい……了解です」
誠一は苦笑いで頷いた。
ひとまず、運び込まれた魔物はすべてポーションに変え、負傷兵たちへ配る手はずを整える。
テント内に、一時的な平穏が戻った。
誠一は改めて席に着き、真剣な眼差しをマリーヌへ向けた。
「誠一殿、休む間もなく働かせてしまい、申し訳ありません」
「いえ。それよりも姫様、お伺いしたいことがあります」
誠一の声のトーンが、一段落ちる。
その場の空気が、再びピンと張り詰めたものに変わった。
マリーヌも姿勢を正し、誠一を見つめ返す。
「何でも聞いてください。わたくしに答えられることならば」
誠一は、先ほど戦ったあの異形の姿を脳裏に浮かべながら、重く言葉を紡いだ。
「――『魔族』について、教えていただきたいのです」
あれは、ただの魔物ではない。
明確な悪意と知性を持ち、人であることを辞めた「元人間」たち。
この世界の真の脅威、その正体を、彼は知らなければならなかった。




