第41話 姫騎士の登場
誠一と静は、近衛騎士の先導で城の上層階へと足を進めていた。
かつては眩いばかりに磨き上げられていたであろう大理石の廊下。
だが今、そこに手入れをする者の姿はなく、ただ静寂と埃が支配している。
窓の外から轟く断続的な爆発音と、遠くで尾を引く悲鳴。それらが、この荘厳な城がすでに「死」の軍勢に包囲されているという事実を、残酷に告げていた。
「……マリーヌ様が斃れれば、リュゼスト王国は名実ともに瓦解します。なにとぞ、彼女の盾となっていただきたい」
前を行く近衛騎士が、背中を向けたまま搾り出すように懇願した。
その声は、隠しきれない絶望に震えている。
誠一を召喚した第三十七代国王から数えて、直近の王まで。彼らは皆、民を守るための戦線で魔物の牙にかかり、命を落としてきたという。
残された希望の灯火は、今やたった一人。
「確かにその通りですが……王都に暮らす人々がすべて魔物に殺されてしまえば、それは同じことではありませんか?」
誠一の冷静すぎる指摘に、騎士の肩がビクリと跳ねた。
カツ、カツ、と三人の足音だけが、虚無的なまでに広く高い天井に反響する。
「それは……その通りですが……」
正論は、今の彼らにとって毒に近い。
王を守るか、民を守るか。
そんな究極の二択を迫られるほど、この国の状況は末期の様相を呈していた。
***
城の最奥、玉座の間。
重厚な意匠が施された両開きの扉の前まで来ると、中から張り詰めた怒声と、凛としていながらも鈴を転がすような清廉な声が漏れ聞こえてきた。
「止めても無駄です! わたくしが軍の先頭に立ち、打って出ます!」
「なりませぬ、王女殿下! 王家の血を絶やすわけにはいかないのです!」
近衛騎士は意を決したように、重い扉を両手で押し開いた。
「失礼いたします! 強力な援軍を連れてまいりました!」
その大声が、室内に渦巻いていた喧騒をピタリと止める。
広大な玉座の間。
そこに集った重臣や騎士たちが、疲弊しきった顔を向け、一斉に誠一たちを射抜くような視線で注視した。
「援軍だと……?」「たった二人か?」「その者たちは一体何者だ」
絶望と猜疑心が綯い交ぜになった、不躾なざわめき。
近衛騎士は一歩進み出ると、声を張り上げた。
「こちらにいらっしゃる誠一殿は、異世界よりの転移者です! 下層にて押し寄せる魔物の群れを、瞬時に討伐してくださいました。姫様の護衛に相応しき武人と判断し、お連れした次第です!」
だが、その紹介に対する反応は、期待よりもむしろ深く重い沈黙だった。
「転移者か……」「確かに個の武勇は優れているのだろうが……」「この国が呼び出した『勇者』たちは、すでに全員戦死した。今更、二人増えたところで、この傾いた天秤が戻るとは思えん」
諦観に満ちた嘆息が漏れる。
だが、その澱んだ空気を切り裂くように、玉座の前に立つ少女が顔を上げた。
「誠一殿、とおっしゃるのですね」
燃えるような真紅のマント。
その下には、戦いの装束である白銀の軽鎧。腰には細身の刺突剣を佩き、煌びやかなドレスの裾を翻す姿。
可憐さと勇猛さが奇跡的なバランスで同居するその少女こそが、この国の最後の希望だった。
「わたくしはリュゼスト王国の姫騎士、マリーヌと申します。……貴殿にお願いしたい。ぜひわたくしと共に、この国を守るために戦ってはいただけませんか」
その瞳は、絶望の淵にあっても決して折れない、強靭な意志の光を宿していた。
誠一は彼女の目を真っ直ぐに見つめ返し、迷いなく頷いた。
「わかりました。……お手伝いしましょう」
彼の行動原理は至ってシンプルだ。
目の前で困っている人を、見捨てはしない。
それに、「姫騎士」という存在。この世界において最も高貴な戦士が自ら前線に立つというのなら、それはこれ以上ない逆転の旗印になり得る。
「それとマリーヌ様。私の連れであるこちらの少女も同行します。よろしいでしょうか?」
「うむ。そなたが認めた連れであれば、相応の実力者なのであろう。問題ない。……時間は惜しい、早速魔物どもを蹴散らしに行くぞ!」
マリーヌは力強く宣言し、剣の柄に細い指をかけた。
その勇姿に、周囲の騎士たちもわずかに士気を取り戻しかけた、その時だった。
(――ッ!?)
誠一の肌が、泡立つような悪寒に襲われた。
二十六年以上、死の淵で魔物と切り結んできた経験が、脳よりも速く警鐘を鳴らす。思考が介在するよりも早く、その肉体は最適解を選んで動き出していた。
***
マリーヌの足元、背後に伸びる影。
そこから「音もなく」どす黒い何かが湧き出した。
「死ね」
冷酷な囁きと共に、虚空から放たれた凶悪なダガーが空を切り裂く。
狙いはマリーヌの無防備な背中。確実に心臓を貫く、暗殺の一点。
誰も反応できていない。
姫自身さえも、自らの首元に死神の鎌がかけられたことに気づいていない。
誠一は『白兎牙』を抜き放つと同時に、スキル《瞬足》を爆発させた。
世界がコマ送りのように鈍化する。
爆ぜるような踏み込みで、対象との距離をゼロにする。
ガキィイイイイイイインッ!!
鼓膜を劈く甲高い金属音が、広い玉座の間に反響した。
激しく飛び散る火花。
「――え?」
マリーヌが呆気にとられたように振り返る。その目の前、鼻先数センチの距離で、誠一の白刃が暗殺者のダガーを完璧に受け止めていた。
「……これを止めるとは、やるじゃねえか。なあ、おっさんよ!」
そこには、口元を歪に歪めた男が立っていた。
人ではない。
かといって、単なる魔物でもない。
全身からどす黒い瘴気を立ち昇らせる、禍々しい異形の気配。
「お下がりください、マリーヌ様!」
誠一はマリーヌを背後へ庇い、鍔迫り合いの反動を利用して男を力強く弾き飛ばした。タタッ、と軽やかな身のこなしで距離を取る暗殺者。
ようやく事態を飲み込んだ騎士たちが、騒然となる。
『き、貴様! 侵入者か!?』『いつの間に……どこから現れた!』『おのれ魔族か、汚らわしい……!』
怒号が飛び交う中、誠一の額に冷や汗が一つ伝った。
(気づくのがあと一秒でも遅れていたら、今ごろマリーヌ様の命はなかった……)
それにしても、と誠一は目の前の男を睨み据える。
モンスターとは一線を画す、明確な知性と、人間を嘲笑うような剥き出しの悪意。
そして何より、纏っているオーラの「質」が決定的に異なっていた。
――魔族。
かつて、誠一がこの世界に召喚されるより少し前。
この地に『煉獄王』と呼ばれる災厄の化身、魔王配下の巨大魔獣『ドレイル=マルバス』が顕現した。
魔族とは、その邪悪な権能に触れ、心に深い闇を抱えた人間が変異した成れの果て。
王を殺し、国を喰らい尽くそうとする「純粋な悪意」が、今、誠一の前にその姿を現した。




